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ブルーステラ天文台は、外で呼ばれる不名誉なあだ名とは裏腹に穏やかで平和な施設だ。
ここに住む人間は、血が繋がっていなくとも皆家族であると説かれ、生まれた時からここにいたも同然の俺達はその言葉をなんの疑いもなく受け入れる。物心ついてから施設に入った子供達も、親への不信感が大きい分、寧ろ仲間意識は強い方かもしれない。
そんなものだからいじめなんてものはなく、将来に対する不安も職員として働き口がある身ではある筈もなかった。勉強ができなくとも、運動ができなくとも、星詠みが得意でなくとも労せず生きていける。
だから逃げようだなんてことを言う人間もいない。何よりも現状に満足しているからだ。
「それは、ストックホルム症候群です」
「スト、何て?」
「ストックホルム症候群。誘拐された被害者が、同じ時間、場所を共有する加害者に好意を抱く現象のことです。何か悪いことをされている様子はないし、少しケースが違うかもしれないけれど、大きく外れてもいないでしょう」
瑠璃は足を組み直し、膝に肘をつき顎に手を当ててじっと俺を見た。
「だって貴方達、監禁されているんだもの」
それは俺達にとって、否、少なくともここにいる俺にとっては突きつけられたくない現実だった。
俺にとって、未来とは不安であり停滞とは安堵だ。現状を変えることは恐ろしく、何より今まで生きてきたものを否定されて良い気分になる人間もそうはいないだろう。
「時間をあげるわ。ここに残るか、ここから出るか」
「俺には、ここから出る理由がない」
「貴方には、ね。期限は一ヶ月。一ヶ月後に答えを聞くからそれまでに決めてちょうだい。それまでの答えは、私は答えとは認めません」
意見は変わらない。
俺はきっと一ヶ月後も、一年後も、十年後だってこの場所にいる。
この教会で。この天文台で。
「俺には星を詠む以外のことはできない。外でなんて、生きていけるわけがないだろ」
「外の世界は、貴方が思っているより怖いものではありませんよ」
瑠璃はなんでも見透かしたように笑う。
それが、心地が悪くて。異端の人間が自分の居場所に入ってきたことが不愉快で。それでも友を救われた事実は変わらなくて。
モヤモヤとした思いが胸中を擽る。
だって、相手は俺の知らないことを知っているから。ならきっと相手の言うことには、外の世界を知らない俺が思うものよりも正当性がある。そう考えるのは自然なことだ。
「あいつを助けてくれたことは感謝してる。だから約束は必ず果たす。だが俺は、あんたを認めない」
認めたら、俺の大切なものが崩れてしまう。
そんな気がした。
体育座りで研究室の椅子に座り、きっと側から見れば不貞腐れているようにしか見えない表情をしているだろう。
聞き分けの悪いことを、言っている自覚はある。それでも俺は瑠璃を認めない。認めてはいけない。今までこの場所で生きてきた俺を、この天文台を否定したくない。
「珊瑚」
目の前で眠る友。孔雀 珊瑚。
俺は体勢を崩し裸足のまま立ち上がると、彼の眠るベッドの脇に膝をついた。
そっと頬に手を当てる。
「ん」
身動ぎする小さな音を耳が拾う。
彼の瞼が、ゆっくりと開いた。
「目が覚めたのか」
白い天井、白い壁、白いシーツ、白いカーテン。
起き抜けの体には電球の光の反射が眩しいだろう。
俺は長い間この部屋にいたから何も感じないが、あれからずっと眠っていた彼にとっては瞬きの間だ。
「翡翠。どうして僕は、こんなところに」
「暁月草と間違えて、夜見草を食べたんだ。死にそうだったところを、彼女に助けられた」
「彼女?」
初めて瑠璃を見た珊瑚は体を強張らせる。
この天文台にいる人間なら全員知ってる。大切な家族だ。
だからこそ、赤子どころか子供でもない"女性"と言える彼女が確実に外からやってきたことに気がついた。外の世界を知る人間がこの場所に来ることは、そう多くはない。招かれざる客であると考えるのが自然だ。
「俺の親戚だ。名前は瑠璃。藍方、瑠璃」
「初めまして」
「は、じめまして。孔雀 珊瑚です。よろしく。あと、助かったよ。ありがとう」
「いいえ。対価は、既に頂いておりますから」
瑠璃はフッと笑って言った。
ここに滞在する以上、部外者であることは隠さなければならない。対価なんて話をして皺寄せを喰らうのは瑠璃もそうだ。
この女は何を考えてる、と鋭く睨み付けると瑠璃は口角を上げた。
「対価?」
「内緒です」
瑠璃は楽しそうだった。
当の本人がそれなら、何か考えがあるんだろうと思った。
俺は静かに、珊瑚から目を逸らした。
「それより翡翠さん、そろそろ星詠みのお時間では?」
「ん?あぁ、そうだったな」
星詠み。
俺達の仕事。
星を見て、人や物事の吉凶を占う占星術の一種。
魔法と同じく、文献ではファンタジーの類とされるソレを可能にしたブルーステラ天文台の技術は、恐らく外の世界にはないものだ。
「俺も行くよ」
「お前、寝てなくて良いのか」
「うん。これは俺の勘だけど、お前は俺に話したいことがある。違うか」
珊瑚は聡明な男だ。
瑠璃のことを黙っていてくれと。俺がそう言いたいことなんて、きっともうとっくにわかってる。
「わかった。瑠璃、行ってくるが呉々も」
「外には出るな、でしょう?私はもう寝る時間ですから、貴方のお手を煩わせるようなことはありません。行ってらっしゃい」
「あぁ」
外に出て、扉を閉める。
珊瑚は歩きながら、なんてことはないように口を開いた。
「翡翠。親戚って、アレ嘘だろ」
「嘘?」
「生まれる前にここに預けられたお前が、親戚の存在を知る筈がない。瑠璃の方から言い出したとしても、お前にとっては親戚を名乗るただの女だ。確証が得られない状態で、お前があいつを親戚だと言い切る方がおかしいんだよ」
言われてみれば、俺はそういう男だったかもしれないと思った。
この天文台で、特定の人間が血縁かどうかを調べる方法はない。それなのにいきなり親戚です、なんて言われて俺は納得しないだろう。
「俺等は天文台っていう、小さいコミュニティで生きてる。人を騙くらかすのには向いてないよ」
俺が立ち止まる。
珊瑚も立ち止まる。
「だったらどうすれば良かった。お前を見捨てれば良かったのか?瑠璃を騙して、助けさせた後に突き出せば良かったのか?」
俺はそんなことはしたくなかった。
隠れていれば良かったのに。瑠璃だけなら、いつでも逃げ出せただろうに。俺に選択肢を与えたのは優しさだ。
「お前、あいつに助けられたんだぞ」
自分が一ヶ月の安穏を得るためだけに動くのなら、やりようは幾らでもあった。だが瑠璃は珊瑚を助けるために、リスクを冒してまで俺に姿を見せた。
「俺が裏切らない保証なんてない。口だけならなんとでも言える。裏切った方に利がある状況で、しかも瑠璃が先に条件を果たさないと成立しないなんて向こうに不利すぎるだろ。でも、お前はここでこうして生きてる」
「でもお前、だって、裏切るってことだろ。俺達ずっと今まで誰のお陰で生きてきたと思ってる。あの人に拾われなきゃ、とっくの昔に野垂れ死んでた」
「だとしても。俺は、瑠璃を見捨てられない。女との約束の一つも守れないなんて、男に生まれた意味がないだろう」
「女だの男だのって、そんなもののために命を懸けるのか」
「懸けるのは俺だけだ」
誰を選ぶか、なんて他人の意見で簡単に曲がるようなものでもない。
このまま話していても平行線を辿るだけだ。
けれど俺は、俺の意見を曲げるつもりはなかった。初めて会った俺を信用し、珊瑚を助けた瑠璃の優しさを裏切るのはあまりにも苦しかった。
「俺が、助けられたからな。黙ってはいる。でも、黙ってるだけだ。協力はできない」
「それで良い。助けられたのはお前でも、選んだのは俺だからな」
あぁ。そんなことを言うくらいなら、最初から聞かなければ良かったのに。
珊瑚は聡明だが、馬鹿な男だと思った。
きっと珊瑚も、俺に同じことを思っているだろう。