11
走る。
走る。
走る。
誰よりも速く。
誰よりも遠くへ。
俺の世界の端には、未だ遠い。
「裏切るのか!翡翠!」
記憶に深い声が聞こえる。
何年も、何十年も聞いてきた声だ。
共に手習いをした級友かもしれない。算盤の先生かもしれない。医務室の女医かもしれない。
もしかしたら、親友かもしれない。
声にただ一人がいないことを願って、翡翠と瑠璃はただ走り続けた。
そして、光が見えた。
「翡翠さん!」
瑠璃は重厚な扉を開いて、追いかけてきた彼等が外の光に目を瞬かせている間に翡翠を抱き寄せるとその扉を閉じた。
なんてことはない。作戦なんてものがなくても、扉を開けてしまえば追手は来ないのだからこっちのものだ。
言葉を使って心を留めることができると信じて疑わない柘榴は、扉に鍵をかけていない。だからたとえ見つかっても、走って逃げ切れれば勝てる。
翡翠と瑠璃の共通の認識だった。
逃げることは容易で、作戦が簡単だからこそ穴はない筈だった。
ただ一つの誤算を除いて。
「翡翠」
いつもの穏やかで優しい声が強張っている。
翡翠は悪いことをして叱られた子供のように肩を震わせた。
「ごめん、翡翠」
痛めつけられた体。倍近くまで膨れ上がった頬。鞭で打たれたのだろう。みみず腫れが痛々しい。
そんな珊瑚は、後ろ手を縄で縛られている。
縄の先を掴むのは、右斜め後ろに立つ柘榴だった。
「俺が気取られたんだ。お前は、お前達は完璧だったのに。俺が」
「逃げたのは俺だ。瑠璃を匿ったのも、そう決めたのも俺だ。何も悪くないのにどうして自分のせいだと思うんだ。お前は被害者だろ」
望んだわけでもないのに恩を押し付けられて、閉じ込めていた物を無理矢理開けられた。
悩みながら、それでもこの天文台で生きることを選んだ珊瑚は。今回のことさえなければ、もっと穏やかに過ごせていた筈なのに。
翡翠が瑠璃を選び、珊瑚を助けたことで。助けた筈の珊瑚はこうやって苦しんでいる。
「被害者じゃないよ、翡翠。悩んで、君を送り出したのは珊瑚なんだから」
「だから、こんな扱いをしても許されると?」
「心が痛まないなんてことはない。大事な家族だから。でも、逃げるのはダメなんだ。それを守ることで、守らせることで私達はこの天文台を紡いできたから」
「閉じ込めることで紡ぐものなんて壊してしまえば良い。俺達は確かに先代に助けられたが、それは決して俺達を閉じ込めないとできないことなんかじゃなかった」
そう言って俺が睨みつけるのは、柘榴様ではなく。
その後ろにいるご隠居だ。
「蛇紋 天青さん、ですね。この天文台を作った」
そう切り出したのは瑠璃だった。
一歩踏み出して、俺よりも前に出る。
着物を着た如何にもな風貌のご隠居は、お目にかかった当時の幼かった俺にとってはとても怖くて。
俺は咄嗟に動けなかった。
「貴方はどうしてこの天文台を作り、子供を閉じ込めたのですか」
「随分と、人聞きの悪いことを仰いますな。捨てられた子供を拾い、面倒を見ることの何が悪いと?」
「外に出ることはここでは罪となるのでしょう?それを外の世界では洗脳と言います。未だ何も知らない子供から外に出る選択肢を奪うことが、悪いことではないと本気で思っているわけではないでしょう?」
貴方は知っていて子供達を閉じ込めた。
そう伝える瑠璃はしゃんと背筋を伸ばしていたが、その手は少しだけ震えていた。走っていた時からずっと手を握っていた翡翠だけがそれに気がついていた。
人を洗脳し、監禁していた主犯のような男が目の前にいるのだから当然だろう。
「小娘が知った口を」
「小娘、と仰いますけれど。私、貴方より年上でしてよ」
そう言って瑠璃は、好戦的に笑った。
「魔女か」
「眉唾物だと否定なさらないのね。もしかして、以前どこかで同胞とお話ししたことでも?」
「もう随分と前のことです。小娘と言ったことは訂正しましょう。だが、月長 翡翠を連れて行くことは許さない」
「彼はそれを望んでいるのに、貴方のエゴで縛り付けるの?」
「貴方は魔女であろうと部外者です。外での法律がどうであれ、この場所は治外法権。人が定めた法に天の声を聞く我々が従う理由はありません。何を考えてここに来たのかは存じ上げませんが、天文台の者を拐かさないでいただきたい」
「拐かしているのは貴方でしょう。未だ年端もいかない子供を洗脳し、自ら作り上げた箱庭に閉じ込める」
瑠璃は力強い瞳で、じっとご隠居を見つめながら言う。
ご隠居の表情は読めなかったが、その目は少しだけ揺れ動いているように見えた。
「彼は、貴方とは違います。考えることを知ったのよ」
瑠璃は俺を庇うように肩を抱き寄せる。
「私達が間違っていないことを証明します。何回でも、何十回でも、何百回でも。絶対に月長 翡翠は渡さない。彼に外の世界を見せると約束したから」
「約束?」
「貴方は覚えていないかもしれないけれど。私達、何回も会ってるのよ。ずっと思い出すのを待ってた」
そう上手くはいかないわね。
そう言いたげな瑠璃の困ったような横顔を見て、俺は、腹の奥の方に靄がかかったような気持ち悪さを感じた。
「時渡りか」
柘榴様が言う。
どこかの文献で見た、時を渡る一族の話。それはきっと、遠い昔に人間が瑠璃のような魔女の存在を知ってしまったために残された事実だったのだろう。
「その魔法の名前は、死に戻り」
胸元に仕込まれたナイフ。
刃を突き立てられた首元。
「今度こそ」
迷いのない目が銀色に映り込む。
ボヤけた瑠璃色は、少し燻んで見えた。




