人形姫さまの受難とその後
私は多分、何かが欠けているのだと思う。
特に、悪いことでもないとは思う。ただ、普通とは違う。
驚かない。泣かない。笑わない。怒らない。…おおよそ人の子として、感情の波が穏やか過ぎた。
それでも、家族は私を愛した。私も家族を愛してる。だから迷惑をかけないように、きちんと微笑みというものを習得した。これで大抵、普通の子…ちょっと大人しくて、穏やかなだけの子に見えるはず。
微笑む私に、心配そうだった家族は心底ホッとしたようだ。悲しみや怒りを感じる場面では、微笑むのをやめるだけで良い。驚かないのは、さすがにどうしようもないけど。喜怒哀楽のついた私を、家族はさらに愛するようになる。
「マルタ。これから婚約者となってくださる王太子殿下だ。ご挨拶を」
「…お初にお目にかかります、王太子殿下。マルタと申します。これからよろしくお願いします」
「驚いた。本当にお人形さんのように、美しい子だね」
「…王太子殿下は鏡をご覧になったことがないの?」
「あはは。いやまあ、僕も容姿は整っている方なんだろうけれど。君は、僕以上だよ」
家族は私を王太子殿下の婚約者にゴリ押ししてしまった。王太子殿下は十八歳。私はまだ八歳。その差一回りである。それほどまでに家族は私を愛し、そして期待したのだ。
「これからよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
お美しい王太子殿下の目はどこまでも優しくて、初めて感情の波が少し大きくなった気がした。
時は流れて、私は十八歳になった。もうすぐ、王太子殿下と結婚する。そんな私は基本的に物事に好き嫌いはあまりない。食べ物も、遊びも、勉強も。人付き合いも、得意ではないけど人嫌いはしない。だから、自然と色々と身についた。気付いたらすごく優秀で貞淑な女性なんて誤解されるようになった。
自然と人形姫なんて言われるようにもなった。最初は表情筋が死んでたかと焦ったけど、人形のように美しいとの褒め言葉らしい。紛らわしい。
そんな私はしかし、王太子殿下にはすごく惹かれてしまった。いつも優しい王太子殿下に、いつからかドキドキと胸が高鳴るようになった。
…けど。
私なんかが愛されるはず、なかった。
「王太子殿下ー!」
「サラ!」
王太子殿下が愛したのは、平民出身の女の子。特に特別な力があるわけでもなく、見た目も…とても可愛いとは思うけれど、王太子殿下の隣に立つとやっぱり平凡といえば平凡。
でもその分、明るくて素直な人。表情もコロコロ変わるし、基本的には人に優しい。
王太子殿下はそんな子が好きなんだなぁと、どこか他人事のように感じる辺り私は鈍くて良かったんだろう。
サラさんは王太子殿下の愛人として、常に側に侍る。王太子殿下に忠告する人はいたけれど、王太子殿下は聞いているようで聞いていない。
それが恋の熱、というものなのだろう。
「王太子殿下も、あの娘のどこがいいのか…」
「人形姫さまの方がよほど…」
漏れ聞こえてくる不満。けれど私は聞かないフリをした。そこまでフォローしてあげるほどお人好しじゃない。
王太子殿下はきっと、恋に夢中でそんな声には気付いていらっしゃらない。本来なら私がフォローすべきだとは思う。
けれど、私には無理だった。
「ふふ、人形姫さま!」
「はい」
「王太子殿下に昨日、ドレスを買ってもらったんです!似合いますか?」
「そうですね」
優しく微笑む。幸か不幸か、私は煽られてもあまり感情の波は揺れない。…無邪気な笑顔で報告されて、煽られたと感じる程度には揺れたけれど。
「人形姫さまが王太子殿下の婚約者で良かった!とっても理解があって、優しくて、大好きです!」
「それは良かった」
微笑みながら、感情の揺れを俯瞰する。大好きと言われて、一瞬荒れた。けれど、次の瞬間には落ち着いたけど。
「これから先、結婚したら正妃と寵妃としてよろしくお願いしますね!」
「…ふふ」
「えへへ!」
一瞬迷った。平民のあなたでは、寵妃になることはできない。公妾という立場は与えられるだろうけれど、妃にはなれないのだと教えてやるべきか。
…でも、私はなにも言わずに微笑みを深めた。彼女は勝手に勘違いして、人に愛される笑顔を向けてくる。
実際、可愛い人だとは思うのだ。裏表はないし、純粋無垢、無邪気、天真爛漫…人懐っこいし、そう。悪い人ではない。人の婚約者に手を出した人だけど、それは王太子殿下にも非はある。
だいたい、次期国王たるもの子孫繁栄は必要。私以外に女性を作ることは悪いことじゃない。相手も王太子殿下も、悪くない。…相手が〝平民〟なのが、唯一の間違い。
…これから先、結婚してからが大変だと少し億劫になるけれど、そう。サラさんのことも王太子殿下のことも、多少のザワザワした感情はあれど嫌いではなかった。
けれど、いつもいつでも平民の女を侍らせていれば嫉妬する人間も出てくるものだ。
ある日。サラさんに嫉妬した侯爵家のご令嬢が、サラさんをナイフで襲った。
王太子殿下にはもちろん護衛が付いている。けれど騎士たちは、平民であるサラさんは護衛の対象外と認識していた。
幸い王太子殿下が止めに入った段階でさすがに騎士たちも動いたが、サラさんは下腹を刺された。
結果としてサラさんは、命は助かったが子供を望めない体になった。それが公妾となるサラさんにとって、良いか悪いかなんて私にはわからない。
…ただ、あれだけ無邪気な笑顔を振りまいていたサラさんはちょっとしたことで怯えるようになり、もう天真爛漫な性格は消えてしまった。
「…サラ。愛してる。今度こそ僕が守るから」
「王太子殿下…」
けれど二人の絆は深まったらしい。…もとい、共依存。でも、それもいいだろう。好きにさせてあげればいい。だって彼女にはもう、王太子殿下しかいないのだから。
けれどもやはり、世界というのはいつだって残酷だ。
戦争が起きた。隣国との戦争に、国王陛下はこともあろうに王太子殿下を前線に出した。
…わかっている。それはつまり、あわよくば王太子殿下に名誉ある死を与えたいのだと。誰だって、わかることだ。
王太子殿下は平民の女に夢中。それならばいっそ、同じくらい優秀な第二王子殿下を後釜に据えたいのは当たり前といえば当たり前。第二王子殿下は婚約者との仲も良く、女性関係はしっかりとセーブしていたし。
そして。
戦争は我が国が勝った。隣国を取り込むことも出来て、経済的にもむしろ潤う結果になった。
王太子殿下の命を犠牲にして。
「…こんな時には、さすがに涙が出るのね」
涙が止まらない。けれど、なにも感じない。これはどういうことだろう。キャパオーバー、というやつなのだろうか。
みんな、どこかほっとした顔をしていた。みんなの思惑通り、第二王子殿下が王太子となった。第一王子殿下も、名誉な死だと手厚く埋葬された。
残された〝私達〟の気持ちなんて、誰も考えない。
「お父様、お母様、お兄様」
「今回のことは残念だったな、マルタ」
「そのことでご相談があります」
「うん?」
「出家させてください」
家族はみんな凍りついた。
「ま、マルタ…」
「お願いです。涙が止まらなくて、食事も喉を通りません。涙が落ち着いて食欲が出ても、他の誰かに嫁ぐことはきっともう考えられません。穏やかな余生をください」
「…わかった。マルタ、お兄様が許す」
「な、何を言うの!」
「誰もマルタの気持ちに寄り添ってくれないなんて、可哀想です。父上、母上、私が家を盛り立てますからマルタは好きにさせてやってください」
兄の言葉に、母はハッとした顔をして涙を流す。
「…たまに、会いに行ってもいいかしら」
「はい、お母様」
「お兄様も必ず会いに行くよ」
「はい、お兄様」
「マルタ」
お父様が、少し寂しそうな笑顔を向けた。
「寂しくなるな…」
「お父様…ごめんなさい」
「お前の幸せになれる道がそれだと言うのなら、私は止めたりしないさ」
こうして、私は出家することになった。
「サラさん」
「人形姫さま…」
「マルタと呼んでください」
「…マルタさまも、ずっと泣いてらしたんですね。目が赤いです」
「…ええ。今日は、ご相談があってきました」
あれから、彼の墓の前から一歩も動いていないという彼女。そんな彼女に手を差し伸べる。
「一緒に、うちの領地の修道院に出家しませんか」
「え…でも…」
「本来ならある程度の身分や寄付金は必要ですが、寄付金は私が私費で負担します。彼の愛人であった貴女なら、大丈夫でしょう」
私がそう言えば、彼女はまた泣き出した。
「でも…彼がいないと私は…!」
「そういうワケありの人も迎えてくれるのが修道院です。…サラさんは彼の愛する人。見捨てたら、私が怒られてしまいます」
「マルタさま…!」
ぼろぼろの彼女は、私の手を取った。しばらく屋敷に泊めて、一緒にどうにか無理矢理ご飯を食べて励ましあって、そして修道院に共に出家することになった。
「シスター、シスター!お腹空いたー!」
「はいはい、待っていてくださいね」
修道院での生活は穏やかだ。
併設された孤児院の子供たちの面倒も見ながら、自分のことは自分でする生活。
それはとても充実していて、けれど貴族出身の私にはまだ少し大変。
「マルタさま!食事の用意できました!」
「じゃあ、一緒に運びましょう」
「はい!」
サラさんは元々平民で、自分のことは自分でできるので慣れるのも早かった。私の分までキビキビ働いてくれていて、けれどそれを威張る様子もない。
「ふふ、最近笑顔が増えましたね」
「えへへ!天国の彼に会った時、恥ずかしくないようにしないと!」
「そうですか」
「…マルタさま、本当にありがとうございます。マルタさまが大好きです!」
「私も感謝しています。同じ悲しみを共有できる人がいなければ、私は立ち直れなかった。…サラさん、大好きです」
私達は、少しずつ前に進んでいる。いつか、彼に天国で会える日を夢見て。
穏やかな日々が、きっとこれからも続いていくだろう。
彼にいつか、長い長いお土産話をしてあげられればいいな。そう思った。