脱出
その道の両脇には、『安い』が売りの飲み屋が並んでいる。
『アリス刑事!』
アリスは立ち止まる。
聞き覚えがあるような、ないような……
絶対に知っているはずの声が、どこかから聞こえる。
ただ、分かるのは、声の主とは、こんな飲み屋街で出会うことがないということだけ。
すると、一軒の居酒屋からテレビのニュースが流れてくる。
『選挙戦は大詰めを迎えており、N県N市にも元首相であるX氏の応援演説が……』
またこのニュースだ……
『アリス刑事!』
何かある。
ぐるぐると同じことを繰り返してきた世界の中で、変化が現れたのだ。
アリスは恐る恐る、その居酒屋へ近づいていく。
『街頭演説に対しテロが予告されており、警視庁からも多数の応援が入り街は……』
天井近くに置いてあるテレビがニュースを続けている。
……が、その時、カウンター端にある『まねき猫』から声が聞こえる。
『こっち!』
アリスは気持ちを研ぎ澄まして『まねき猫』を見つめる。
目が抜けていて奥から誰かが見ている。
「麗子ちゃん?」
アリスは『まねき猫』と話を続けた。
どうやら、アリスが時のループを抜け出せないのは、陰鬼が時を戻しているからではない。そう言いたいらしい。陰鬼が持つ力は、人の心、特に暗い気持ちや思い出を読み取り、思い出させたりすることのようだ。
「わかった。心を落ち着けて、冷静に判断する」
そう言ったものの、それが出来ていればこんなに何度も時をループしていない。アリスは考え続ける。陰鬼が時を戻したということでなければ、時を戻しているのは自分自身だということになる。
私が避けなければならない思い出など、あるだろうか。
どれだけ暗い過去を思い出させたとしても、私がそれを繰り返そうと時を戻すことはないだろう。
陰鬼が何を読み取ったというのだろう。
陰鬼は、この先にいる。上下の背後に。
奴が自らの愛人に降霊し、ここへ連れて来たのだ。
上下の影を追いながら、アリスは通りを進む。
そこだ、その物陰。
アリスはゆっくりと近づき、上下の肩を掴んだ。
「上下十二、あなたを悪質降霊取締法違反で……」
言いかけた時、見えている全ての景色が小さく歪曲していく。
来た。と、アリスは思った。
今、そこにいる『陰鬼』に心の中を触られている。
「ありがとう」
そう言うとアリスは、ワンピースの裾を右手と左手でつまんで少し持ち上げ、頭を下げていた。
この挨拶をすると、大人たちが喜ぶからだ。
「さあ、アリス行きましょう」
声を聞いて見上げると、そこには母の顔があった。
母? 母は小さい頃亡くなっている。それに見上げている? アリスは、ふと思った。母がいること、その母を見上げるような目線。つまり、私は子供に戻ってしまっている。
ただ記憶の中なのか、本当に時を戻ったのかは、はっきりしない。
自分にとってみれば同じことだ。
なぜ、この状態になっているのか……
私は、大人だったはずなのに。
母と手を繋いで、家についた。
「さあ、パパが帰ってくるまでにご飯の支度をしなくちゃ」
パパ? 母が亡くなって、しばらく永江所長のもとで暮らした後、私は毎年変わるお手伝いさんと暮らし、中学になった頃からはお手伝いさんも来なくなり一人で食事や洗濯をして暮らすようになっていた。
ということは、今は小学校に入る前だ。
それはつまり母が新興宗教にハマる前。
門についているボタンが押され、部屋のインターホンが鳴った。
「ほら、パパ帰って来たわよ」
私は廊下を走って玄関で待つ。
母が鍵を開けると、父が入ってくる。
「ただいま」
父は母を抱きしめ、そして私を抱き上げた。
「ただいま、アリス」
アリスは子供の頃の自分が、笑っていて、幸せだ、と感じているを知った。
これが『陰鬼』の仕業なら、『暗い思い出』ではなく『幸せなこと』を思い出させていることになる。
『違う!』
心の中の、別のアリスがそう言う。
確かに、父の思い出は、この記憶以降、ほぼない。顔を合わせることも、会話をすることも、なかったからだ。
父のいない、暗い過去を思い出させようというのか?
アリスの心は、再び上下の肩を掴んでいる状況に戻ってきた。
「?」
上下の後ろにいる女性が、首を傾げている。こいつが『陰鬼』なのだ。
「そうか!? 『陰鬼』を除霊すれば」
「そうはいくか!」
取り憑かれた女性が、そう言った。
「ほら、アリスにお土産があるんだよ」
父がカバンから小さな袋を取り出す。
中には、シャープペンが入っていた。
どこかの地方に行った時のお土産で、絵柄には父が行った先の『ゆるキャラ』が描かれている。
「パパ、ありがとう!」
そうだ、思い出した。家族で旅行した時に一つ買ってから、私はずっと集めていたのだ。
「これ、ラッキョウのゆるキャラ『ウキョウちゃん』だ!」
「アリスは、よく覚えているな」
「よかったわね」
なぜ父のいる思い出ばかりに辿り着くのか。
アリスは理由がわからなかった。
上下の愛人、つまり『陰鬼』が言う。
「思い出せ、お前の父のことだ!」
アリスは考える。
現時点で、時をループしていない。
悪い記憶に触れていない、ということだ。
「俺の策に気づいたというのか!?」
なぜ『陰鬼』は父のことを思い出させる。
父が何か……
だめだ、考えてはいけない。
私の『父』がキーワードなのだ。
父のことを考え始めると、状況が一変した。
アリスの見えている、全ての景色が小さく歪曲していく。
胸に手を当て、冷静に対処するように、心を落ち着けようとする。
もう一人のアリスが言う。
『そこに触れないで……』
そうか。
ようやく時をループしていた原因に気付いた。
女性の姿をした『陰鬼』は、逃げ出そうと背を向ける。
アリスは女性の背中に、手を伸ばし、触れる。
すると女性の体は膝をついて、倒れる姿とそのまま走り続ける姿に分離した。
アリスは、裾を捲って銃を取り出すと走り続ける側の女性、つまり『陰鬼』に狙いをつけた。
「これでお終い」
静かに引き金を絞ると、銀の弾が飛び出した。
銀の弾丸は、逃げていく『陰鬼』の霊体を捉えた。
虹色の光に変わりながら、浄化していく『陰鬼』。
全ての景色が、幻のように、泡のように、小さく分解され、立ち上り、消えていく。
アリスは受け入れるように目を閉じた。