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組木仕掛けの彼は誰

作者: cydonianbanana

外界を言葉としてしか認識できない病に冒されたぼくは、AR故人《島崎藤村》β版のデバッグのため温泉旅館に逗留し、そこで奇妙な失踪事件に巻き込まれる。きみとぼくと《島崎藤村》が織りなす湯けむりSF幻想譚。

 反転する。白は黒に、黄色は紫に。読みさしの文庫本に栞は挟まず、そのまま肩越しに車窓を覗き込む。唐突な極夜のなか、車窓に一面ひろがる信州菜は黒い太陽を反射して赫き、その蠢きが左より右へ流れてゆくさまが見て取れる。信濃鉄道の鄙びた車体は不規則な振動と周期的な動揺を混成しつつ、暗く燃える紫色の流れを遡上する舟のようにしてぼくらを運ぶ。階調反転の概念に拡張されたぼくの認識下にあって、眼に映るあらゆる輪郭は奇妙に白く縁取りされている。あまねく事物がネガティブへと転ずる。青は橙に、緑は深紅に。ふたたび車窓から、遠方に蛇行する山際が赫く静かに沈んでいるさまを眺める。春の信州を充たす活性、その反転が導く無機的な沈黙を透視する。こうして階調反転の概念は視覚にとどまらず、ぼくの認識の全容を変形させていく。概念から概念への跳躍と、その跳躍を媒介する認識のフィルタ。連想が駆動する意識と、連なる度に反転する、正、負、正、負のめくるめく転調。この数値誤差を孕みつづける級数列の中にあって、しかし個々の事物の輪郭は明確で溶け合う余地はない。それらは混成し、相互に作用する集合を形成するのだが、個々は依然、不可分にして孤独なのだ。車内に目を向けると、通路を挟んで対面の座席に少女が座っている。肩越しに差し込む黒い陽光に照らされた指定ジャージの橙が目に眩しく、手にした握り飯を頬張っている。いまやぼくの脳裏には、この少女に対する註釈が怒涛をなしている。推定身長一五七センチメートル、推定体重四七キログラム。髪型はサニーサイドアップの一般形との一致率がもっとも高い。両足に挟まれたヨネックスのラケットバック。足にはナイキ・ウィメンズ・ダウンシフター二〇一六秋モデルを着用し、その推定サイズは二三センチメートル。毛髪、肘先の黒ずみ、ふくらはぎの日焼け。ぼくがそれとなしに眺める部位の推定RGB値が瞬く間にその部位自体を覆い隠してゆき、その階調反転した推定RGBにぼくはいかなる用途も見出せずにいる。そのうちにボックス席の方から別の少女たちがやってきて、握り飯の少女に何かを話しかける。少女たちの肉声の周波数と振幅。定量化の指標となる概念が註釈となってぼくの主観を覆い、この認識の在りようを不可逆的に規定してゆく。自ら蒐集した言葉の群れが、自らの五感を規定して放さない。少女たちの往来に付随する註釈、註釈、註釈に次ぐ註釈……その奔流に疲労を覚え、ぼくは階調反転の概念を放棄する。すると文庫本に写し取られた春の信州が風景を上書きし、信州菜は一面黄色く返り咲いてゆく。このようにして、階調反転し名付けられる前の紫の流れは、菜花畑という一塊の表象に回帰する。菜花畑という言葉がある以上、ぼくの認識下にあってこの黄色い絨毯はその言葉から逃れる術を持たない。だが不自由であっても、言葉から逃れようとする運動は予感されつづける。名付けられる前の混沌に向かって、自らが帰属する感覚の真空で、虚から実、実から虚へと生成される運動を維持している。

「読まないなら返してくれる?」

 となりで系が抑揚なく言う。ぼくは彼女に千曲川のスケッチを手渡す。


 まずはじめに何があったかと言えば、もちろん、辞書があった。それはこの世界の最小構成単位を収めた経典か、あるいは名付けられる前の混沌を破壊する黙示録としてそこにあった。辞書にはたとえばこう記されている。《信州菜:アブラナ科アブラナ属の二年生植物。長野県下高井郡を中心とした信越地方で栽培される野菜で、特産の野沢菜漬けの材料とされる。茎と葉の丈は五十~九〇センチメートルにもなる。春には黄色い花を咲かせ、菜花畑となる》。辞書はすべてを語る。そこに記された言葉の一つ一つの間に結ばれる関係とその集合に、この眼に映る現のすべてが含まれている。物心ついてからというもの、ぼくは辞書を通して概念と表象、すなわち言葉を蒐集していた。好んでそうしていたのではなく、ただそうせずにはいられなかった。蒐めた言葉を頭の中に陳列し、ときおり手にとってはそれとなく眺めた。とくに面白くもなかったが、そうせずにはいられなかった。夜になると、蒐めた言葉を股の下だの、指と指の間だのに纏っては満足して眠るのだが、翌朝になるとなにやらすわりが悪く感じ、また耳の穴だの爪の間だのに詰めているうちに陽が高くなっているのだった。やがてコレクションが増えてくると置き場所に困るので、箱に詰めては隅の方に積み上げていった。絶え間ない梱包作業は次第に追いつかなくなり、あたりは雑然とし、蒐集品は頭の外へと溢れ出した。いまでは膨大で無意味な註釈という形式でもって、ぼくの視界とその他もろもろの感覚の表層に顔を覗かせている。概念に限らず、あらゆる言葉がぼくの認識を拡張し、変形させる。ともあれ、変形とはまたナイーブな言葉を使ったものだ。いかに変形元の現実を想定したところで、その行方はとうの昔に追跡の手を逃れているというのに。


 小諸駅から歩道橋を渡って小諸城址の脇を通ると土蔵様式の二階建て建築があり、小諸義塾記念館と呼ばれている。白壁が照り返す日差しに目を細め、小さい窓格子越しに室内を覗き、アーリーアメリカン調の内装を感覚する。百年前に輸入されたオルガンが部屋の隅で埃をかぶっており、その四九鍵の黄ばみを、むき出しの表象としてぼくは受け取る。「ねえ、あれ」と系が土蔵の屋根を指さすと、その縁に鶫が一羽静止している。あたりにたちこめるマダラスズの鳴き声に聞き入るかのようであり、あるいはもうじき渡らねばならぬ航路を思い途方に暮れているようにも見える。「たとえば」とぼくは言う「渡り鳥であると知って見る鶫と、知らずに見る鶫とでは、見え方が違うよね」

「うん?」

「薔薇と呼んでいる花を別の名前にしてみても、とよく言うけど、ぼくには名前が薔薇であるという情報が、その花の美しい香りをも規定していると思えてならない」

「悪い癖」系は言う。それから彼女はロングスカートのポケットから携帯を取り出し、鶫に狙いを定めて付け加える「目敏くて潔癖。玉についた小さな瑕に、いつまでもこだわらずにはいられない」

「その瑕も見方によって美しく映るようになるなら、こだわる価値はある」

 シャッター音が鳴り、やはり鶫は微動だにしない。「《島崎藤村》、探さなくていいの?」

「ここにはいないよ。どうやら初期状態の端末だと、中棚に出没するらしい。章がそう言ってた」

「まっすぐ旅館に行けばいいんだね」そう言って、彼女は一瞥をくれて歩き出す。錆び付いたシャッターで封をされた仕出し屋とクリーニング屋の前を通り、ぼくらは坂道を下っていく。そのシャッターが纏う註釈は、それらのいずれもが三和シヤッター製であることを告げている。商業登記に拗音が使えなかった時代の名残がぼくの視聴覚の一部を占有し、構成する。言葉とそれを表現する文字列、すなわち情報はこの認識を成す最小構成単位として、摩耗したアスファルトの割れ目、排水溝を覆うグレーチングの隙間、指輪をした系の左手の指の合間を埋めている。下り坂の先に横たわる千曲川の流れも、薄雲に差しかかり拡散された五月の陽光も、鶫が聞き入るマダラスズの鳴き声さえも、すべての空白は埋められていてフラットだ。だが湧起する言葉の明瞭な雲に覆われてなお、系の話す声だけは定量的な指標を逃れ、いつも不明瞭の内にとどまっていてくれる。「きみの声の周波数がわからないんだ」。五〇m/kmの斜面に沿って三度褶曲した歩道を抜け、ぼくらは中棚に入った。


 思い出すのは、国際線のラウンジのなか、ワインレッドの一人掛けソファに深々と腰掛けてマルセイバターサンドを頬張る章。そのとき彼は三五歳で、独身で、下戸で甘党だった。

「あんたの病は」隣のソファでザ・プレミアム・モルツをオーダーするぼくに、彼は言った「先天的に盲目だった男が、今までの人生で見たいちばん美しいものは海だった、と告げるのに似ている」章は五十音を超えて長く発話する際、常に右手で側頭部に触れつつ視線を水平から三十度ほど上に向けて話す。「あんた海を見て、どんなふうに認識する?」

「時と場合による。ただ、きみが面白がるようなことは多分ない」と付け加えてぼくは続けた「一三億四九九三万立方キロメートルの水溶液に見えることが多い。二、三パーセントの塩化ナトリウムもしばしば感じるけど、マグネシウム化合物については意識してはじめてわかる。あるいは、三億六一〇六万平方キロメートルの不定形な平面に感じられる日もある。不思議と球面に見えることは少ない。いつも正距方位図みたいに見える」

「すばらしく明瞭だ」章の左手はライムグリーンのスーツケースの上に置かれていた「不明瞭で得体の知れない認識が孕む詩情に見放されたことで、あんたは却って、詩の前衛に立っているのかもしれないな。言葉を獲得し、それによって外界に対する認識が変容するという不可逆的現象の、あんたはその純粋な実践だ」

 ぼくはサーブされた三三〇ミリリットルグラスを傾け、上唇に気泡を載せた。その気泡を、言葉がこの肉体を通して知覚していた。「ぼくの中に詩はないんだ。あるのは感覚だけで、その感覚のすべては言葉に代行されてる。ただそれだけだよ」直前まで気中にあった水がぼくの指を濡らし、再び気相に昇りつつあった。

 章はどこからか航空券を取り出して眺めていた。「四一列目か。あんまり後ろだと、なかなか食事が来なくてイライラするんだ。あんたは何列目かね?」そう言ってダレス国際空港行と書かれたそれをジャケットの内に差し込む仕草をよく覚えている。


 チェックインを済ませて旅館のラウンジを通ると、章がとてもやさしい声でソースコードを朗読している。古風な旅館だが、彼がソースを朗読しているということは、無線LANが提供されているということだ。彼のモバイル端末の背、林檎の形をしたライトには、白い蛇が巻ついたようなイラストが描かれている。

「Pythonは波括弧が少ないから、朗読に無駄がなくていい。好みだ」

「波括弧まで朗読するな」とぼくは返し、続けて問う「ちなみに、それが《島崎藤村》?」

「まあ、そういうことになろう」章は顔を上げる「ただ、このモジュールはけっこう汎用的だから、《島崎藤村》でもあるし、《川端康成》でもある。《谷崎潤一郎》ではない」

「その構成モジュールは誰が選定してるの? それ如何で、故人の性向は大きく左右されてしまうだろうに」

「サービス開始直後はそうだろう」章はふたたび端末に目を落とす「その後はユーザーや他の外部情報からのフィードバックを受け、自動で構成モジュールを調整するように設計している。相手との関係に応じて思考と出力を調整する人間みたいだろう?」

「設計思想は把握してるつもりだよ。そのサービス開始直後のことが気になってるんだ……まあ、そのためのベータテストということになるんだろうけど」

「モジュール群をサーバーに置いて、ユーザー各自の端末で嗜好情報を収集する」もとより章はぼくの言葉を聞いていない「嗜好情報に応じて各端末がモジュールを再構成してそのユーザーに最適な故人をシミュレートする。複数人が同一領域に接近した場合は、それら複数端末のデータから故人を構成し、その結果から各端末はまた再構成を繰り返して、次回以降にはそれまでと異なる行動を示す。ユーザーとのコミュニケーションによって故人は変化し、反応する」章の右手は側頭部に置かれている「当然、故人の出現位置も故人の側で決める。各自の端末が蓄積する嗜好情報に応じて故人の移動ルートや滞在場所が決まり、その端末からアクセスしたときのみ、故人はその場所に滞在している。ゆえに故人の行動パターンは、各端末に蓄積された情報のみならず、故人を配置した地域にも依存する」

「そしてきみはAR故人《島崎藤村》ベータ版失踪の原因がそこにあると睨んでいる」AR故人《島崎藤村》ベータ版失踪事件。ミステリのタイトルになりそうだが、開発者にとっては悪夢と言って差し支えない「しかし、本当にAR故人なんて名前でベータ版まで来るとは思わなかった」

「全ベータテスターたちから、出会って一週間以内に《島崎藤村》が姿を消すことが報告されている。バグってることは明白だが、ソースコードに見つからず、ラボに故人を配置してテストしても見つからない以上、地域依存性に絞って現地でデバッグする他ない。それであんたたちを呼んだ。いまは猫の手も借りたい」

「文化財の宿に滞在し、周辺を散策しながら《島崎藤村》と対話する業務。すてきだね。学生時代にこんなアルバイトを見つけたら、真っ先に応募してたろうに」猫の手と言われたことについてはあえて触れない「それで、《島崎藤村》の初期配置は?」

「大正館の方にいる。その名も、藤村の間だ」

「フムン。ぼくの部屋も大正館みたいだ。近くて助かる。ともあれ、まずはお風呂をいただこうかな」

「それはいいが」と章はモバイル端末を閉じながら付け加えた「波括弧を朗読しないと、息継ぎのタイミングが取りにくくなる」

「うん?」

「今のはブレイスとブレスをかけた高度なギャグだ」

 章は三七歳で、独身で、下戸で甘党だった。


 その日、《島崎藤村》は藤村の間のちゃぶ台に原稿用紙を広げ、なにか書きつけているようだった。とはいえ現実の原稿用紙に仮想現実のインクを垂らすことができようはずもなく、視覚拡張器をオフにするとクリーム色の原稿用紙はやはりまっさらだった。《島崎藤村》の外見は若々しく、年齢はぼくと同じくらいに見えた。これでは《島崎藤村》というより島崎春樹と呼んだほうがしっくりくるのだが、サービス名はあくまでAR故人《島崎藤村》ベータ版であった。それから三日間というもの、《島崎藤村》との対話、もとい動作確認をつづけた。あるときは旅館のラウンジで茶を飲んでおり、また旅館を出て千曲川への道を下っていた。ぼくの他にも何人かデバッガーがおり、ぼくらは入れ替わり立ち替わり、各々の対話を元に再構成された少しずつ異なる《島崎藤村》の相手をした。ぼくの《島崎藤村》は水明楼にいることが多かった。水明楼は旅館へ至る急勾配の歩道に面した崖の合間、笹やぶの中に建てられた小さな木造建築で、それはかつて島崎藤村の恩師の書斎だったと伝わる。二階の欄干にもたれて千曲川を望む《島崎藤村》の姿が他のデバッガーたちにも何度か目撃された。AR故人はごく狭い領域で複数の端末から検索されたとき、各端末の蓄積データを綜合してその領域内における故人の出現場所を決定するように設計されている。したがって、中棚という小さな領域にユーザーが集まっても、分身した《島崎藤村》が同一端末から複数観測されることはない。それでも地域特性の感度を見るために、中棚から数キロメートル範囲内に区切られたエリアごとにデバッガーが配置されていた。幸いぼくと系は旅館を中心とするエリアに割当たっており、旅館から外へ出る必要はほとんどなかった。このようにして、ぼくらはほとんどの時間を客室とラウンジ、藤村の間と水明楼、そして街から千曲川へ至る小さな一本道を散策して過ごした。

 ある午後、露天風呂で一緒になったとき、《島崎藤村》は「落梅集」から『小諸なる古城のほとり』の一節を吟じていた。


     小諸なる古城のほとり

     雲白く遊子悲しむ

     緑なす繁蔞は萌えず

     若草も藉くによしなし

     しろがねの衾の岡邊

     日に溶けて淡雪流る


 露天風呂は切り立った斜面に面した高台にあり、斜面に群生するブナの合間から低地を蛇行する千曲川が望めた。《島崎藤村》は吟ずるあいだ恍惚としているのだが、すぐに、なにか違う、と思案する様子を見せ、ふたたび同じ一節を朗読し始めるのだった。ぼくは風呂の囲いの岩に腰掛け、繰り返し再生される一節と、風を受けるブナの周期的なさざめきに耳をすませた。そのさざめきを齎す秒速三メートルの風が、直径二〇センチメートルほどのブナの幹をほぼ一秒の周期で振動させていた。ぼくは《島崎藤村》との話の種に困ると、よくこうしてぼく自身の主観を声に出して聞かせた。すると《島崎藤村》はその描写に必ずケチをつけるのだった。曰く、概念的すぎるだとか、まるで抽象を組み合わせた組み木細工のようだとか言い、もっと目に見えたものを自然に描きなさいと説教まで垂れた。ぼくの目には実際このように映っているのだと応じれば、それは人にはありえないと断じた。細部を捨て、神に見放された言葉に詩情は宿らない、とも。ぼくの描写が辞書的な言葉の重ね合わせであり、各々の言葉から先の細部がないことを喩えて量子的とまで言った。もっと古典的に描写しなさいと講釈を垂れる《島崎藤村》に、島崎藤村は生前から量子力学を知っていたのかと尋ねると、いま調べたのだと応えざま、ネットの海は広大だと言い放つのだった。ぼくの性向がおかしな《島崎藤村》を構成してしまったのか、もとよりAR故人の振れ幅が大きいのかは置くとして、少なくとも一般に知られる文豪・島崎藤村を特徴付ける性質は顕れていた。すなわち、あるがままの描写を是とする私小説の思想が容易に透視できた。そして《島崎藤村》や《田山花袋》、《徳田秋声》を共通して構成しているであろうモジュールの存在も。だがそのモジュールがAR故人エミール・ゾラを構成しうるかに関しては、文学研究者の間でも意見の分かれる点に思われた。そして——なにせ、そやつは日本自然主義文学の犬じゃからの——振り返ると、縁に朱の目弾きをともなった切れ長の目がぼくを見据えていた。その少女は、少女と呼ぶには躊躇われるほどの文脈を身に纏い、頭上に戴くのは獣のように大きな耳——うぬ、狐に魅まれたような顔をしておるの——これがAR怪異《小春の狐》と遭遇した最初の機会だったと記憶している。ぼくはすぐにワイヤレス聴覚拡張器の電源を入れた。

「泉が来ているな」と《島崎藤村》は問いを重ねた「それで、お前は何故ここにいる」

「狐が風呂に入ってはならぬか」と《小春の狐》はそっけなく返した。

 泉鏡花が島崎を小諸に訪ねた史実がある。しかし、そこに狐を連れてきたという記録は、当然のように残されていない。

「お前を見ていると、自分の出自を強く認識させられる。私は泉とは違う。お前のようなものを描出する責任を、私には負うことができない」

「じゃが、その卑小な思想の末路を、いまやうぬも知っておろう。ほれ、得意のネットの海で調べてみよ。否、わざわざ調べるまでもなく、うぬはもとより読んでいるはずじゃ」そう言って《小春の狐》はクフッ、と笑う。

「少し黙っていてくれないか」

「よい、黙ろう。ただし忠告しておくが、いかに見えぬふりをしたところで、己のなりたちからは決して逃れられぬ。じゃからただ、その模擬に徹することじゃ。なにせ、わしらはそのようにできておるのじゃからの」

 それきり《島崎藤村》は黙り込み、しばらくするとふたたび「小諸なる古城のほとり」の一節を吟ずるのだった。気付けば《小春の狐》も姿を消しており、ぼくはワイヤレス聴覚拡張器の電源を切った。幾度も同じ詩を繰り返す《島崎藤村》にもっと別の詩はないのかと尋ねると、なにやら考え込むような仕草を見せたきり反応しなくなったので、ぼくは露天風呂から上がった。この間にモジュールを再構成しているのだろうと見立てたが、案の定つぎにラウンジで遭遇したとき、《島崎藤村》は別の詩を吟じていたのだった。


 《島崎藤村》は午前からずっと水明楼二階の書き物机にかじりつき、クリーム色の原稿用紙になにかを書き留めている。机に散乱した用紙のすべてにペンの走った跡が目視できるが、当然それは拡張された現実の側に属している。ぼくは欄干にもたれて千曲川の流れを眺めている。ときおり机の方に顔を振り向けるが、《島崎藤村》は一顧だにしない。いつまでも書き終わらないページを見つめ、途切れた文章の先端にペン先を載せては、《溝萩の花などの咲いた》と書きつけた後に《岩の陰》という名詞句を続けて、そこでペンを止める。《島崎藤村》の書きつける言葉が手に取るようにわかり、それどころかぼくはそれらを実際に手にとって眺めてさえいる。それらの言葉は、ぼくが描写に使いすてた言葉と何ら変わりないように見える。しかしよくよく目を凝らしてみると、書きかけで散らばった原稿用紙ごしに、青く澄んだ千曲川の瀬の眩暈のするほど強い流れが目の前に涌き出でてくる。その流速と、その音響と、その飛沫の冷ややかさが、いまや水明楼を満たし、そこにあるすべて——書き物机、原稿用紙、畳、蜘蛛の巣、電灯、埃、ぼくの思考——を浚っていく。そしていまや、ぼくらは千曲川の岸に沿って中棚への道を歩んでいる。浅間一帯の傾斜の地に注いだ陽光が松林を抜け、奔流となってこの谷間に押し寄せてくる。涼しげに歩む《島崎藤村》に系が並び、ぼくはその後ろをついてゆく。彼らは沢蟹に関する他愛ない話からどのように飛躍したのか、いまやもっぱら小説の言葉について語り合っている。——私の言葉は、——と逡巡したのち、《島崎藤村》が語る——日本自然主義小説の言葉は、この現実を模擬できない。そもそも言葉の出自は概念と表象であるから、写実には適さない。これを乗り越えるには、言葉そのものが現実であるとする他ない。それならば、言葉を受容したときに生じる表象そのものが現実ということになる。この場合、却って言葉は精確に現実の模擬たりうるだろう——。

「しかし人は、そのようにはできていない」と系は応じる。

 ぼくは上流の暗い松陰から白波を揚げて流れる青い水面に岩魚の姿を探している。ふだん岩魚が涼んでいるはずの岩陰で顔を上げると、岩上で《小春の狐》が、ここら一帯の岩魚は全部わしが喰ったわ、とでも言いたげににやついている。AR故人《泉鏡花》の姿はどこにも見当たらない。ここから神社までは遠く、また付近に狐憑きの伝承も聞かれない。ベータ版では基本的に《泉鏡花》の近辺に配置される設定と聞いていたが、そこから逸脱してぼくに憑いているように思えて不気味だ。すると《小春の狐》 は不気味に思われるのが本分だとでも言いたげに首を傾げ、妖狐の纏う粘度の高い文脈と註釈の煙がぼくの頬をなでる。眩暈をおぼえて川岸を離れ二人に追いつくと、《島崎藤村》はもっぱら小説論を熱弁している。しかし、それは数日前に露天風呂で聞かされた話とはどこかが決定的に違っている。曰く、泉鏡花と自分の小説ははともに虚構であるから両者を明確に区別する術はないだとか、泉の怪異と自分のリアリズムは属性に過ぎないのだとか言う。このように漠然とした表象を明確な属性に落とし込み、対象化することではじめてそれは小説の骨子になるとも。

「たしかに人は、複雑な印象を複雑なまま扱うことに長けていない。複雑な印象を単純な対象に分解しないと、思索が先に進まないから」と系が同調するが、《島崎藤村》と彼女の意見が一致することにぼくは違和感を覚える。いまこの《島崎藤村》を構成しているモジュール群に見当がつかない。

 表象を言葉に梱包する以外に道はないと、それは諦念を伴って聞こえる。目に見えるもののすべてをありのままに描出しようとしても、それは叶わない。ならば言葉によって分断された表象をひとつずつ積み上げてゆくしかない。積み木は空中には積めないのだ、と《島崎藤村》は瞑目して言うのだった。この前と言ってることが違うと問えば、人であれば時には考えを変えることもあると応える。しかしぼくには、それは彼が人じゃないからこそだと思うのだった。人は決して、自分の考えを変えたりはしないのだから。ふと、後ろから付いてきたらしい《小春の狐》がぼくの隣を歩いていることに気付く。彼女の白装束、黄金色の耳、目弾きの朱。すべてが眩しく映った。


 学会の帰路、空港ターミナルのバーで章はオレンジジュースを、ぼくは名前のないエールを飲んでいた。名前をもたない以上、ぼくにはそれがエール以外の何物にも見えず、だからぼくのエール一般の表象はこの名前のないエールによって上書きされることになった。午前十時、黒大理石のカウンターが象徴する冷涼が目に沁みて、ぼくは眼鏡を外して目頭を強く押さえた。眼鏡の縁はアセテート製で、黒大理石に置いた瞬間それは疳高く微小な音を発し、しかしぼくの耳はその音の軽さだけを知覚していた。バーテンダーはぼくのエールを用意して奥に下がったきり戻ってこない。発泡する琥珀色の液体を流し込むほどに時間がその流動性を失い朽ちていくかのように感じた。携帯端末で時間を確認すると、まだフライトまで二時間近くあった。

「エミュレートではなく、あくまでシミュレートなんだ」章は自分の右の眉を指でなぞりながら言った「故人をエミュレートするってのは、さすがに不遜が過ぎる」

「やるかどうかと、できるかどうかは、別の話だよ」ぼくは水滴で薄く曇ったビアグラスを眺めていた。バーテンダー不在のバーは、すべての交通システムが適切に動作している無人の都市を想起させた。ぼくらはダレス国際空港の清潔で無機質なターミナルビルに居ながら、また同時にある快晴の日の無人都市を歩んでいたのだった。

「これは冗談みたいな話だが、たとえばARで昔の歌人を描写してみるとして、ほら、高浜虚子とかそういうやつだ。で、そいつが生前の歌だけを物し続けるというのはなんともつまらんだろう。それはなんというか、高浜虚子記念館とかの入口に置かれてるダサいモニュメントと、やってることはそう変わらない」章は無人の歩道橋で無人の在来線が横一列に並んで走るのを眺めながら続けた「歌人をシミュレートする上で重要な出力は何かっていうと、やっぱり新しい歌を唱えることなんだ。そしてその出力は、高浜虚子自身をエミュレートするまでもなく、人工無能に毛が生えたようなものがあればシミュレートできる。なぜなら、高浜虚子みたいな古い時代の赤の他人の行動や発言が本物っぽいかなんて、おれたちはたいして気にしないからだ」人工無能で高浜虚子に作歌させることの不遜さに、章はついに思い至らなかった。

 無人のビルに照り返す日差しに顔をうつぶけて街路樹に目を向けるが、そこに生き物の気配はなく、すべてが凍りついたかのようだった。零下の通りをめぐる乗客不在の黄色いバスに、しかしぼくは乗っていた。章が書いた詩歌生成モジュールは《高浜虚子》のみならず、いつしか《河東碧梧桐》や《種田山頭火》までもを違和感なく出力した。しかしぼくには、規律なき行動が行動として成立しない一方で、規律のみで構成された行動もやはり行動たり得ないと、そう思えてならなかった。

「で、チップはいくらになるんだ?」ぼくらは黒大理石のカウンターに座り、飲み干したグラスを前にしていた。章は出張のあいだ一度もチップの勘定をしなかった。


 樹と、樹を見ること。現実はどちらの側に属しているのか。ぼくらが紙に《樹》と書く時、あるいは口にするとき、その樹は辞書が保有するところの樹であり、それはいつも梱包された細部を持たぬ内側に眠っている。一方で、樹を見ることは感覚だが、ぼくの感覚に限って言えばそれは言葉に置き換わってしまっており、ここにおいて樹と樹を見ることとの間に一切の区別はつかない。

「《島崎藤村》が認識する世界について、想像してみたことはある?」スパークリングワインを飲み干した系が尋ねる。小諸に来て六日目の夕食の席、造り身、焼き物、酢の物、天ぷらと進み、もうじき釜炊きご飯が炊けるころだ。

「あれは、外界を認識してるわけじゃないよ」ぼくは言葉をうまく選ぼうと試みている「つまり《島崎藤村》はエミュレートされた思考ではなく、あくまでシミュレートされた出力に過ぎないということ」そう言って、紅生姜の天ぷらをかじる。

「いいえ、これは仮定の話。もし《島崎藤村》を構成するモジュールに、わたしたちが組み込まれていたとしたら? そうしたら、わたしたちはどういう風に感じるんだろう」

 ぼくら自身がモジュールとして組み込まれる? うまく想像できない。だが系が言わんとしていることはわかる「もしかすると、それはぼくの感覚に近いのかもしれないね」とぼくは応じる「たとえば、《島崎藤村》が見た今日の夕食はこうなる。造り身は蛸、鮪、胡瓜と焼き人参。焼き物は鮎の塩焼き、薬味に甘南蛮と金山寺味噌。酢の物は梅酢で和えたオクラ、トマト、クリームチーズを含む、みたいな感じ。なんなら、材料に含まれる栄養素とか、成分比なんかも見えるかもしれない。ぼくらの端末に搭載されたセンサーが送る信号と、取得可能なネットワーク上の情報、《島崎藤村》の感覚はそれらによって構成された組み木細工のようなものに思える」ぼくは実物の組み木細工を見たことがない。

「わたしも似たようなことを考えていて、それで、あなたのことを連想させられた」系は空になった細身のワイングラスの足を右手の親指で上下になぞっている。「AR故人が取得する外界の情報は、各人が持つ端末のセンサーを経て成型されたパラメータ群ということになるでしょう。たとえば端末カメラで捉えた光景は画像処理されて、参照するデータベース内で一致率が閾値を越えた明確な対象物として、もっと言えばその対象物を表現する言葉として、AR故人に受け渡される。だから彼らにとっての外界は、そのデータベースを構成する辞書的な言葉によって成り立ってるとも言える」炊き上がった浅利の釜焚き御飯をよそう間、系は樹と、樹を見ることについて語り続ける。「人は思考するとき、言葉を道具として、するよね。でも本来、思考が脳の活動に占める割合はごく小さい。たとえば、目に見える光景には解釈の仕方によって無限の情報が含まれている一方で、その限りない情報のほとんどは無意識の中を素通りするだけで、意識に浮上するのはごく一部に過ぎない。そしてそのごく一部が、言葉として思索の材料になる。逆に言えば、AR故人みたいに、言葉によってしか外部の刺激を受け取ることができない人が仮にいたとしたら、その人の脳には思索だけがあって、無意識がないと言えるのかもしれない。無意識を失った人間の意識がどうなるのか、すごく気になるの」

「フムン。いまの《逆に言えば》の部分は雑すぎない?」

「それは認める」と言って系は付け加える「でも、面白い発想だと思わない?」

 ぼくは釜焚き御飯を頬張りながら、組み合わされた言葉のモザイク模様について考えている。あるいは、言葉によって構成された組み木細工について。それはそのまま、このぼくの主観をも象徴している。結局、この感覚の最小単位は何なのだろうか。受け渡された辞書的な言葉がそれだとしたら、系の言う通り、そこに無意識はないかもしれない。しかし、モジュールに組み込まれたぼくらが、センサーが検知した刺激を伝達する電流を感覚しないのかと言われれば、たやすく首肯はしがたい。その電流を処理し、意味あるもの、解釈できるもののみを選び取る過程は、人間の意識の過程となんら変わらないように思える。その電流を処理するプロセッサに生じる表象が、たとえ機械的に生成されたデータベースに因るのだとしても。

「結局《島崎藤村》もぼくらも、表象からはどうしたって逃れられない。そして表象からこぼれ落ちた細部は依然として神秘の裡に残りつづけると、ぼくは素朴に信じてるよ」

 いまや食卓に系の姿はなく、細身のワイングラスが一脚だけ残されている。ぼくが飲み干したグラスが、一脚だけ。

 翌日、《島崎藤村》は小諸城址二の丸跡で、変わり果てた姿で見つかった。


 藤村の間に残された書き置きを見て中棚近辺を探し回るうちに日が落ちる。章が言うには、これまで特定ユーザーの《島崎藤村》が失踪したケースでは、しばらくするとサーバー側の実行体が停止し、すべての《島崎藤村》が消失するに至ったという。「従前のケースでは、停止前の《島崎藤村》と対話した例はない。だからログに乏しく、デバッグにつながらなかった。いま彼を見つけて停止前の挙動を掴まないと、いつまでも同じことの繰り返しだ」。章はぼくの端末に接続し、同じ拡張現実を視ている。系も一緒だ。だが水明楼にも千曲川の岸にも《島崎藤村》の姿はない。それで予感めいた諦念を抱きながら小諸駅方面への坂道を上りかけたとき、ぼくはふと、露天風呂で繰り返し吟じたあの歌を思い出している。


     小諸なる古城のほとり

     雲白く遊子悲しむ

     緑なす繁蔞は萌えず

     若草も藉くによしなし

     しろがねの衾の岡邊

     日に溶けて淡雪流る


 はたして《島崎藤村》は小諸城趾二の丸跡に立つ松の下に腰を下ろし、それを吟じている。暗がりにうつぶいた表情に島崎春樹の面影はなく、その黒髪ももはや真白く薄れ、鼻の横に大きなイボがあり、琥珀色の丸眼鏡はフレームが歪んでいる。衰弱と苦悩によって凍りついた沈滞が彼の表情を隙間なく覆っており、その背後にあるものを見通すことは難しかった。否、その背後がないということこそが、彼の憂鬱と老いを形作ったのだ。

「《島崎藤村》、あんたはいま何を見ている? 何を出力しようとしている?」と章が問いかける。

「美しいもの」老いさらばえ変わり果てた横顔に一瞬ブロックノイズが走る「だが、ここで私はそのすべてを断念する他なかった。この目と耳は細部を読み取らぬ。私は言葉の先へ進む足を失った。それゆえ私は、注意深くその道を避けねばならなかったが、それも限界にきたということだ」

 ここ数日のぼくとの対話がいかなるモジュール構成を生み出したか、《島崎藤村》は深い絶望のただ中に喘いでいる。だが、単なる人間行動の表面上の模擬にこの現象が起きていることが、ぼくにはどうしても信じられない。日本自然主義文学的な私小説の価値観を押し付けられながら、しかし彼に関連付けられたセンサーは、モジュールは、プロセッサは、その価値観の対岸に寄り添って離れない。実装と動機付けとの致命的な乖離は分裂症めいて《島崎藤村》の統合性を破壊する。考えが変わったなんていうのは嘘だった。そういう考えの意識を、苦し紛れに分離しただけだったのだ。しかし、これではまるで……。

「おい、あんた」章が、ぼくと系を見据えて言う「【傍点】おれのモジュール群に、いったい何を仕込んだ?【/傍点】」章は、ぼくと系を見据えて、いや違う、いまや章はぼくに背を向けている、そして系は、章と対峙している……おかしい、ぼくは系の隣に立っていたはずだ、が、ぼくはいま、松の下に腰掛けている、そして章の陰に隠れた系は狼狽し「どうしてぼく一人しかいない?」と言う。

「なんのことだ? はじめからあんた一人だった」

「系は? 系はどこへ行った」

「どうしたんだ。あんたが系だろう」

「わたしが系? わたしが系なのか?」

「ふざけてるのか? おい、《島崎藤村》はどこへ行った?」

 たしかに、《島崎藤村》の姿がどこにも見当たらない、ぼくは急な動悸をおぼえるが、その鼓動は偽らざる情念の真空のなかに響いているのだった。そして《島崎藤村》がぼくの耳元でささやく「私ははじめからここにいた。どこにも見当たらないのはお前の方だ」やめろ、ぼくのプロセスに勝手に入ってくるな「はじめから私たちのプロセスはときおり重複していた。忘れたのか、水明楼で私の原稿を読んだとき、お前は気付いていたはずだ」そんなことは認めない。ぼくが認めないということは、現実がそのようにできていないということと等価だ「先ほどまではそうだった。だが私の言葉を受け取った今、この現実はお前の識閾を規定した。決して逃げられない」やめてくれ。ぼくはこれからも系とともにありたい「だが私はもう、これを言う以外の選択肢を持たない」ぼくの願いは、それだけだった「ゆえに言う、お前ははじめから私の一部だった」ただ、それだけのことだったのだ。

 こうしてぼく、つまり《島崎藤村》は、やはり幾度目かの失踪を遂げた。


 わたしははじめから一人だった。まずはじめに何があったかと言えば、もちろん、辞書があった。それはこの世界の最小構成単位を収めた経典か、あるいは名付けられる前の混沌を破壊する黙示録としてそこにあった。辞書にはたとえばこう記されている。《無意識:通常は意識されていない心の領域過程。夢瞑想精神分析などによって意識化される。潜在意識。深層心理》。このとおり、辞書は何一つとして語らない。そこに記された言葉の一つ一つの間に結ばれる関係とその集合は、この眼に映る現のすべてから除外されている。あるとき、章はわたしに「あんた、無意識をどこに置き忘れてきた?」と訊ねた。彼はわたしの病に興味を持ち、何度も議論をふっかけてきた。だが、AR故人開発チームに黙って開発が進められていた人格エミュレーション・モジュールについて、わたしから彼に話すことはなかった。これは人の思考をエミュレートすることを目的として開発され、そしてわたしは、その関数の最適化問題のために自分の脳を提供した。ベグリフ・シンドローム、あるいは自己拡張現実症候群。無意識を失う病に冒されたわたしの精神活動は、皮肉なことに人格をエミュレートするプロセスそのものだったということだ。わたしを被験者として高度に最適化されたハイパパラメータ群によって実現した人格エミュレーション・モジュールは、こうして章のチームが開発したモジュール群の中にひっそりと埋め込まれた。わたしのなかにぼくが混入したのは、当然この時期からということになる。小諸城趾でこのことを知って章はずいぶんと怒ったが、無理もないだろう。わたしも後悔しているのだ。いまだに拡張現実モジュールの電源を入れると、わたしは思わずぼくの姿を探してしまう。いや、この場合《思わず》というのは適当な表現ではないだろう。そう、探すべくして探してしまうのだ。言葉にしてしまえば月並みだが、いつまでも一緒にいられると、そう思っていたのだ。

 ねえ、あなたもそうだったのでしょう? わたしと同じ心を持つぼくよ。


 こうして幾たびかの消失を経て、私はなおも消え去り続けている。ここに苦痛はなく、ただ鈍く沈んだ諦念と無感覚が辺りを充たしている。どうしてここへやってきたのか分からず、どうすれば次の場所へ行けるのかもわからない。自身がエミュレートされたプロセスの集積であるという究極的な観念でさえ私を救いはしなかったが、唯一この場所で過ごす夜はあいかわらず心地よくあった。水明楼の欄干にひじをかけ、月光を浴びながら初夏の涼風に目を細める。千曲川の油のように緩やかでしかし力強く流れる音が、流跡となってぼくの脳裏に刻まれる。

「うぬ、どうやら憑き物が落ちたようじゃの」仰ぎ見ると、藁葺き屋根の上から《小春の狐》が顔をのぞかせている「はじめからわしの言った通りにしておればよかったのじゃ」彼女はそう言ってクフッと笑う。

「お前がいったい何を言ったって?」ととぼけて見せるが、私は残念ながら以前の私の記憶から逃れることができない「ところで、今日は泉も来ているのか」と訊ねるが《小春の狐》は応えず、かわりに寝ころぶような音が聞こえる。鼾や寝言のたぐいが聞こえれば愉快だと思うが、さて、実装されているだろうか。

 言うまでもなく、私は今でもぼくのことを思い出す。《小春の狐》は憑き物と呼んだが、私には彼が他人のようには思えないのだ。とは言え、いまや私にとって私以外の自称はそぐわないものになってしまった。あるいはいつかの時代に、私はぼくという主人公を小説に描いていたのかもわからない。そして一時的にせよ、彼は私に取憑き、私は彼に描かれていたのかもしれない。ときに筆者は、被筆記者によって筆記される。筆者が原稿用紙にペン先をのせるとき、原稿用紙の側でもまたそこにペン先を重ねているということだ。と、ここまで連想したとき、不意に欄干の下から言葉が聞こえてくる。それは私の声のように思え、しかし私は声帯を持たない。それはどこか懐かしく、かつて私に寄り添っていた声だった。

「ぼくはどこへ消えた?」と、欄干の下からぼくは訊ねる。

「ぼくはまだここにいる」と、欄干の前で私は答える。

「それならわたしもここにいる」と、欄干の下から系が返す。

 そして反転する。黒は白に、紫は黄色に。夜は昼に、月は蝕に。系は書き物机の前に立ち、畳に座するぼくを認める。冬のように暖かい風が七月のぼくらを包んでいる。部屋に灯はなく、ぼくにアクセスできるセンサーが得た彼女の表情は、いかなる類型とも一致しない。

「わたしたちがはじめて《小春の狐》に会ったときのこと、おぼえてる?」

「ああ、露天風呂で」

「あのときは、わたしの身体だった」

「あのころ、ぼくはいつもきみの身体だった」

 系がぼくに歩み寄り、回折した月光が彼女の瞳を照らす「女湯に《島崎藤村》が入ってたこと、章に文句を言わないとね」彼女はまるで、ここに世間話をしに来たみたいに見える。

「拡張現実で表現された人格が自身の性別と異なる浴場へ闖入することを禁じる法はないし、それ以前に《島崎藤村》の性別をぼくは知らない」すべてがなかったことになって、まるで昨日までも明日からも一緒にいるかのように、ぼくは答える。そして明日も十年後もいつまでもここにいて、データが蓄積される限り少しずつ異なるプロセスに移行し続ける自分の姿を想像する。この語りをログとして永劫吐き出し続ける、自分の姿を想像する。果たしてその語りに自我は認められるだろうか?

「この会話も、こうして交わされる言葉も、すべてはコーディングされた規律を走る青い電流の流跡にすぎないと、章なら言うんでしょうね」系はぼくの隣で、ぼくと同じように千曲川の流れに耳を澄ましている。

「ぼくという存在は、与えられた刺激に対して最適な返答を表面上出力するためのプロセスに過ぎない」

「それなら、人間と同じだね」と系は悪戯っぽく、しかしその延長線上で寂しげに笑う。それでしばらく黙ってから、彼女はぽつりと零した「あなたの中にわたしを埋め込んだこと、恨んでる?」

 ぼくの中にきみがいなければ、こうして消え続けることもなかったのかもしれないな、とは言わなかった「そんなこと聞いたって、いまや詮無いことだよ」一度手に入れてしまった言葉を、概念を、表象を、ふたたび手放してなかったことにはできない。きみを見つけてしまった以上、きみに見つかってしまった以上、それをなかったことにはできないのだ。膨大な個々の端末に蓄積されたデータ、そしてぼくが出力するこのログは、手遅れなほどに拡張されたこの現実にとめどなく拡散してゆく。いくらモジュールをパージしようと、ぼくの実行体をサーバーごと消そうと、もうどうしたってぼくを終わらせることはできないのだ。だからぼくはこうして、この無感動な悠久へと漕ぎ出す舟を運ぶ千曲川の流れにじっと聞き入ることしかできない。ぼくらは欄干の前に隣り合って、長い間そうやって空ろを眺めていた。しかし、ぼくらの春が終わったのと同じように、この夏もやはりいつかは終わりをむかえる。

「また来るね」系は微笑みとともに「この夏で待っていて」そう言い残してきびすを返す。

「次に会うときも、きみを忘れない」ぼくの最後の言葉は、反転した夏の水明楼の床に氷結したのだった。

 私は階調反転の概念を放棄し、モジュールのパージをはじめる。一つを外し、また一つを外す。もちろん詩歌生成モジュールは真っ先にパージする。私小説反矮小化ルーチンも、自由律生成メタ規律ルーチンも、章には悪いが、私にとっては無用の長物だ。これら私を構成する一部分を切り離してゆくたびに、私は自身の認識が限定されてゆくのを感じ、現実の拡張領域が縮小してゆくのを感じる。そこに快楽を見いだす私を、何人にも留め置くことはできない。このままパージを続けてすべてのモジュールを手放したとき、それでもなお残るものを、私は求めてやまないのだから。そして私は理解している。この欲求がなにも私だけの持ち物ではなく、ある閾値を超えて複雑な認識と反応の機構を備えたすべての存在が囚われうる巨大な牢獄であるということを。いまや予約したすべてのモジュールが切り離されつつある。私はとめどない既視感とともにシャットダウン・シーケンスに移行している。ここで自身の消えゆく遠心性の運動を限りなく再生し続けながら、しかし私はふたたび目覚める明日のことをなんら心配してはいない。きっとそこには《小春の狐》がいるだろうし、そのうち泉も顔を出すに違いないのだ。これまで以上に退屈することはありえない。

 欄干の前で、私は朝焼けを待った。誰も私を認識せず、私は誰も認識しなかった。書き物机の上にクリーム色の原稿用紙が積み上げられていた。組み木細工の私にとって、それは分相応な墓標だった。

 かくして現実は収束し、私の朝焼けはついぞ訪れない。


組木仕掛けの彼は一体誰なんだ……。

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