獣
聞きなれたいやらしい音。ことさら勿体ぶって一つのこだまが響き終わるのを待って、次の音を聞かせてくる。鈍い音の次は、甲高い金属音。音は、マークを時にやさしく、時に喧しくまくし立てた。
……ほれほれ、やはく逃げろ、逃げろ……大変なことになるぞ……
人さらい達のペチャぺチャと濡れた足音を聞きながら、マークはこの状況を冷静に受け止めていた。山を下りれば、起伏に富む谷間が続く、身を隠す場所は多い。それでも、うかつだった。しかも、今日は月夜。他に人影はない、皆とっくに身を隠している。いつもなら、そうしている。今日に限って山頂で長居しすぎた…。
ただ唯一の救いは足場だ。昼間でも地面を覆い尽くすゴミが、ぬかるみや窪みを隠して足をとられる。それがなぜか、“空飛ぶ銀のたまご”の行く手はしっかりとした大地を、力一杯踏み込むことができた。
銀色の輝きは、子供たちを招くようにふわふわと漂い、空を流れていく。
ニーロがにぎるぬいぐるみは汚れ、所々ほつれていた。振りまわされ、ついに胴体がちぎれてしまった。小さな手に残ったカンガルーのしっぽをみて、ニーロは手足をばたつかせる。マークは慌ててしゃがみ込んだ。
山肌を照らす月に雲がかかる。
「へっ?」
一瞬の出来事だった。子供たちがいない。
ルタは手下の後ろから、のんびり山を下りてきた。
「おい。どっちだ?」
部下は口を開けて、きょろきょろするばかり。
「おまえたち、まさか……なぁ。おい。おい」
いつもの間延びした調子につづく激情。ルタの性格をよく知り尽くしている男たちは何も返事をしない。人間を“モノ”扱いする彼らもまた、上の者からみればただの“モノ”。収穫がなければ…どうなるか、これまでの記憶が頭をもたげると、狩る者の余裕の表情は狩られるもののそれに変わっていく。
「おい。おい……!」
無言の間には、絶対的なリミットがある。冷静に考えろ、単に付近に潜んでいるだけだ、そう言い聞かせても、これまでの境遇が簡単に男たちの感覚を狂わせ、トラウマスイッチの入った彼らはうろたえ、パニックになりかけた。
「に…」
しっぽを差し出すニーロをみてマークは迷った。ぬいぐるみのお腹に入っていた外国のコインは、ニーロの母親の形見。
「しー」
指を口の前に立てマークは優しく微笑むと、少し離れた粗大ごみの隙間を指さす。マークが目配せをするとサリーはニーロの手を取り、ゆっくり屈みながら移動する。
よし、いいぞ。
子供たちは音を立てずに動くことに慣れている。彼女たちが隠れるのを見届けると、マークは影に沿ってもと来た道を辿りはじめた。
つかむものを探すように腕を前に突き出し、意識の定まらない男たちを月の光があざ笑う。暗闇を彷徨う死霊に踏みつけられ、袋からはみ出たニーロのコインが合図を送るように光っていた。物陰から鈍く輝くコインを見つめマークは待った。
陸風に流され、間隠れする月影。
固唾を飲み、時を数える…。
彼らの足元で弱々しい輪郭を残すコインが孤立するまで、あと少し。一団は離れ、振り向きもしない。
よし、今だ!
マークの指先がぬいぐるみをつかみ、ゆっくり、ゆっくり引き寄せる。
ほつれた糸は細くマークには見えなかった。引っかかていた瓦礫を引きずり、その瓦礫がまた別の欠片を倒し、ドミノ倒しのように次々にガレ場の微妙なバランスを奪っていった。
地響きに似た唸りが糸を揺らし始めた時には、ごみ山の斜面はごっそりマークに向かってズレた。
ぬいぐるみを握るとダッシュし、マークが男たちの一団を追い抜く。
脇を通り過ぎる少年に向けた顔をそのままひねりつづけ、男たちはみた。
「ごみ崩れだぁー!!」
ごみ崩れはただの土砂崩れではない、鋭利な瓦礫が回転しているのだ。肉体は裂かれ、跡形もなく新たな瓦礫の一部になる。
マークと男たちは肩を並べて走った。前方に転がる小型、中型のゴミを、足を前に投げ出し飛び越える。長短、男の足が横一直線に綺麗にそろう。
視界の隅、物陰から目を丸くして、障害物競争を覗き込むサリーとニーロがみえた。
「マぁーーク!!」
サリーが叫ぶ。
マークは身をひるがえし、横にジャンプ。
前のめりに宙返りし、二人が佇む大型ごみの隙間に滑り込む。
間一髪、瓦礫の裁断機はマークのかかとの後ろ、数ミリを残し通り過ぎていった。
残された男たちは、脚力を振り絞り、ラスト一発、渾身のヘッドスライディングに賭けた。
ごおぉぉぉぉぉ……ド、ドッ・グォオぉオオーン‼
大音響が谷間を埋め尽くす。
「が、は……ッ」
泥まみれになり、息を切らせ、手足が欠けていないことを確かめている。
「ぺっ」
泥を吐き出し、ルタは腕を上げ、手をひらひらさせて、部下たちに指図した。
“探せ‼”
マークは再び銀色の光を星の中に探した。
“あっ”。
まだ、そう遠くに行っていない。まるで、待ってくれたみたいだ。
マークは光の方向を確認すると、すぐに追いかけた。この先が正解かどうか…わからない。だけどためらいもない。心の疼きが、この道こそ、つづく道だと言っている。
しっかりと両手にぬいぐるみを持ってニーロはほっとしているが、その表情とは裏腹にこの混乱もたいした距離を稼げはしない。子供と大人ではどうすることもできない力の差がある。やせっぽちのニーロでも10キロ以上はあるだろう。脇に抱えることはやめにして、マークはニーロをおんぶした。
そして…、絶対放したくない右の手。 “最後まで一緒だ”
マークの予想通り、あっという間に獣臭が子供たちの鼻を突く。薄気味悪く変色したヘドロの匂い、あいつらだ。
憤怒の混ざる息づかいが聞こえる。
けたたましく荒々しい靴音。
“つかまる!”
爪垢の黒ずんだ指先がマークにとどく寸前、そいつはのけぞり転がった。
「うぅお……ッ!」
カマラ渾身の体当たりを受け、ルタは大きく体勢を崩し、勢いそのままに続く者たちの足元に巻き付いた。
みごと全員、転倒。
地面が体を激しくたたき、固いブロックの角に頭を打ち付け、強烈な痛みが彼らの意識を独占している間、子供たちは男たちの間を全力で駆け抜ける。
「っう…いッー」
身悶え動転する手下にルタの罵声が飛ぶ。
「いけどれ‼」
べっとりと張り付く赤いぬめりを拭いながら、ルタが足に当たった塊を拾い上げると、ストライクをとったカマラはにやりと満面の笑みをみせた。
「さっきのボロじゃねぇかぁ~」
懐かしい親しみを込めた表情はすぐに剥げ落ち、力一杯放り投げると、落ちてきたカマラを思いっきり蹴り飛ばした。
◇
ここは人身売買業者たちの職場である。彼らの狩り場でどんなに逃げようとも、すぐれた猟犬のように獲物を捕える。
太く毛深い手足を交互に突き出して、猿真似をしているのか、彼らは子どもたちの脇を通り過ぎ、しばらく進んで止まった。背後の男たちも、立ち止まって動こうとしない。
マークたちを取り囲み、ただただ、虚ろな視線を浴びせかけ、何もせず立ち尽くす。
時が重くマークの胃に流れ込んできた。
闇に鎮まり、永く止まった時間は、甲高い耳をつんざく叫びにも、むせび泣く嗚咽にも聞こえる響きで動き始める。
「ふぁあぁっ。あーハァっ、ヒー、、、」
固まったその猫背がさらに丸まり、肩の震えが押し殺していた笑い声を吐き出す。
「ひゃあー‼ はっはっはー!」
お互いの顔を突き合わせ、腹をかかえて叫ぶ。勝ち誇る、吠えたける狂気が、けたたましく谷底に溢れた。
興奮を隠せない崩れたおぞましい笑み、口元からは粘液がとめどもなく垂れている。
サリーは思わず顔をそむけた。圧倒的な立場をみせつけ、生け捕りを楽しんでいる。サリーはマークにしがみつき、その胸に顔をうずめた。彼は小刻みに震える彼女の体をしっかりと支えた。あどけない顔を傾け、目を丸くしたニーロの瞳に色がない。こうした状況から意識を隔離してしまう癖を、この歳で身につけてしまっている。
耳を押さえたくなるような狂った叫びがおさまると、その沈黙がマークの顔をこわばらせたが、マークは両手をひろげ、二人を包むようにかがみこんだ。
マークの腕の中で小さくなったサリーとニーロが見上げると、穏やかに微笑んでいる。かくれんぼをして、みつけた時にみせる笑顔。二人を安心させようと、凍てつく頭で思いついたマークの精一杯。
屍たちが満面の笑みを浮かべて突進し、よだれをぬぐいだ汚い手がマークの髪の毛をむしり取る。 マークが身を固めた次の瞬間、、、。