序章「寝物語」
「マコト、マコト、目を覚まして」
懐かしい声がする。これは夢だ。繰り返し見た、いつかの夢だ。
そうだ、いつしか、ずっと遠くの話だと思っていた戦火が、ぼくたちの住んでいるスラムまでもを、泣き声や悲鳴で満たすようになってしまったんだ。
これはそんな頃の、優しくて苦しい、ただの夢だ。
「かわいそうなマコト、右足が、無くなってしまったのね……」
誰かにふっと頭を撫でられたような感触がして、ぼくは顔を上げる。そこにはとても悲しげな目をしたお母さんがいて、ぼくの両肩を抱きながら見下ろしていた。
ぼくはわけもわからずに啜り泣きながら、自分の足を見下ろす。ぼくの膝から先は焦げ落ちて、何だかもよく分からない、白いものがむき出しになっていた。その瞬間、痛みが身体中に戻ってくる。
「あ、あああ!」
「大丈夫よ、この足じゃもう歩けないでしょう。もういいのよ、あなたは休んでいいの。お母さんが必ず守るわ。大丈夫よ、大丈夫……」
震えるぼくを抱きとめるお母さんの手は、ぼくと同じように震えていて、声だってか細く消え入りそうで、それなのにぼくを確かに抱きとめてくれていた。ぼくはそれを抱きしめ返したかったのに、恐怖で体が動かない。
遠くで、近くで、爆雷が響く音が何度も何度も鳴っていた。突然の地響きが襲ってきて、ぼくの意識は、そこから先は途切れている。
……さあ、きみが眠るまで少しの間、ぼくからのさいごの贈り物として、昔話をしようか。
何百年も昔、地球は文化や技術の成長とともに、異種族との交流が盛んになっていた。いつからだろうか、文化が畏怖に、技術が嫉妬に、変わってしまったのは。自分たちよりも高い潜在能力を秘めた異種族たちに怯えた人間たちの一部が、身勝手に戦争の火蓋を切って落としたのだ。その波紋が地球上に広まってしまうのは、あっという間のことだった。
気づけば、罪も無い子どもたちの屍が積み上げられ、根ざしていたはずの文化は息耐え、豊かな土地は枯れていた。いつしかここには、人の手が入らなくなった広大な荒野……そして、それぞれの種族が対外的に築き上げた砦たちを記した地図だけが、残されていた。
「地球」は、死んでしまったのだ。だからこそ、その戦争を生き残った我々は、今のこの星のことを、悲しみと郷愁とほんの少しの侮蔑を込めて、こう呼んだ。二番目のふるさと、「チキュウ」と。
これは、そんな昔々から今に至るまで、ずっとここでチキュウの暮らしを見つめてきた、とある時計屋の主人……ぼくと、そこで働く機械人形のジョシュの話だ。
ぼくの店は、王国の外れにある小さなスラムのそのまた片隅で、客なんかが来る方が珍しいようなぐらいに、もう何百年も寂れて埃を被っている。きっと、これはとても退屈で冗長なお話で、だからこそ、きみの寝物語にはちょうどいいだろう。それを聞いて、少しだけでも懐かしさを感じてもらえれば、ぼくは幸せだと思う。
悠久の時を刻む時計たちに見守られながら、ちくたくと進んでいく確かな音を聞きながら、ぼくは今、ゆっくりと記憶の引き出しに手をかけようとしている。引き出しは黴臭くて、きっと開けた瞬間に咳き込んでしまうけれど、決して失くしてはならない大切なものたちが、たくさんたくさん詰まっているのだ。
『お目覚めになりましたか』
激痛の中で響く合成音声と、錆びた油のような匂いが鼻に付く。ずっと恐ろしかった戦争の音は、窓の外から確かに鳴り響いていたけれど、なぜだか随分と遠くに聞こえた。
ぼくは、ゆっくりと目を開いた。今ではもう随分と旧型になってしまった、人体模型のようなアンドロイドが、横たわるぼくを見下ろしていたのだ。
かすみがかった意識がはっきりとしてくるにつれて、ぼくが倒れているのが寝台であり、目の前にいる異種族……その中でも戦闘能力が高いとされるアンドロイドに、ぼくは無意識のうちに恐怖を覚えた。少しでも相手を刺激せずに逃げ出すために、寝台から窓までの距離を目で測っていた。
視線だけを周囲に動かす。物が少なく雑然とした室内は、それなのに清潔感だけは、不思議と保たれている。
……部屋のどこを探しても、意識を失うまで一緒にいたはずの、お母さんがいない。
恐怖と困惑と焦燥が一度に押し寄せて、ぼくの頭の中はいっぱいいっぱいだった。そんなぼくの心境を知ってか知らずなのか、寝台の側に看護師のように控えるアンドロイドは、何事も無かったかのような抑揚のない声でぼくに呼びかける。
『患者ナンバー56、マコトさま。血圧と体温の上昇を感知、呼吸数と脈拍にも乱れあり。患者は極度の緊張状態にあると思われます』
患者ナンバー?という言葉に少し引っかかりはしたものの、そもそもこの緊張は誰のせいだと思っているんだ、という憤りが恐怖に打ち勝ってしまって、逃げるのをやめたぼくはそのアンドロイドに向き合った。
「ねえ、あんたは誰なの、ここはどこなの、お母さんはどこ」
ぼくの矢継ぎ早な質問を受けたアンドロイドは、しばらく何かを思案……否、照合するかのように電子音を発しながら立ち止まる。そして、その後ゆっくりと、一度だけ首を横に振った。おそらくしばらくは油を注されていないのであろう、旧型の配線がむき出しになった首関節が軋んで音を立てる。それは、なんだか悲しげな人の呻き声にも聞こえた。
『ここは、診療所であり、研究所です。そして、ワタシは先生の助手で、個体識別名はありません。……あなたのお母さまは、先生があなたを連れて帰ってきた時から一度も……そう、一度も、お見かけしていません』
「診療、所?先生だかジョシュだか知らないけど、冗談じゃないよ。ぼくはお母さんを探しにいくからな」
戦争孤児のぼくにとっては、母はたった一人の家族だ。お母さんが行方不明のままなのに、自分だけが休んでいられるわけがない。
そう思ったぼくは寝台から降りようとしたものの、身体の激痛で思うように起き上がれず、結局は悶えるような形で寝台からずり落ちてしまった。アンドロイドはそのことをも予期していたのか、ぼくが床に落ちる寸前に、ぼくの身体を抱きとめた。ぎり、とアンドロイドの腕が軋む音がする。そして、その音に共鳴するように、ぼくの右足の痛みが、ずきんと大きく脈打った。
ぼくが右足に目を移すと、意識を失う前にお母さんが言っていた通り、ぼくの右足はそこには無かった……わけではなかった。自分のものではないバネのような義足が、関節部分から神経と接続するように埋め込まれ、固定されているのだ。
さあっと血の気が引いていくのを感じたぼくは、着せられていた寝巻きの前ボタンを、慌てて引き千切るようにして、自分の身体を冷たい空気にさらけ出した。
どくん、と高鳴るはずの胸が、動悸するはずの心臓が、ぼくのそこには「無かった」。ぼくの左胸に代わりに埋め込まれていたのは、人工的な白い光を発する、何かの機械だ。その機械から、胸元の肌に浮き出して、ぼく自身の血管なのか機械の管なのかすらも判然としないものが、身体中へと何本も伸びているのが見える。
あまりの衝撃に、頭が、くらり、とする。ぼくは素直にアンドロイドに体重を預けたまま、もう一度寝台にぐったりと倒れ込んだ。意識しても意識しても、息がうまく吸えない。酸素が入ってこない。
「これ、足も、心臓も、一体、何が起きてるの、ぼくは、どうして、ねえ、なんでぼくはここに」
『混乱するのも無理はありません。先生は、この足ならばいずれ歩ける、と仰っていました』
その瞬間、じくじくと広がるような頭痛が始まった。この足じゃもう歩けないでしょう、と言った母の、優しい声が頭の中でわんわんと反響している。
……ああ、これが悪夢なら早く覚めてくれ。だけど出来ることならば、あの甘い言葉に身を委ねて、全てを放り出して、眠りについてしまいたかった。
ぼくはこれから先、この自分の考えを、死ねなくても死にたいぐらいに、後悔することになる。しかし、何も知らないこの時のぼくは、ただただごっちゃになったままの感情に任せて、寝台に横たわったまま手を伸ばして、アンドロイドの腕を掴んで揺さぶったのだった。
「どうして!どうして、ぼくを助けたりなんかしたんだ、先生とかいう人も、あんたも!」
『ワタシはマスターの……先生のオーダーに従ったまでです。先生が、あなたを助けると仰いました。だからワタシはそれを手伝いました。その結果として、あなたは、今、ここで生きているのです』
ぼくがどんなに詰め寄っても顔色ひとつ変えない、変えることのできないアンドロイドは、ただ淡々と事実を述べた。だからこそ、それが真実なのだと、もはや無いはずの心臓が痛むくらいに、伝わってきてしまった。
ぼくは、今、ここで生きている。
「……そうか。怒鳴ってごめんよ」
『いいえ。意識が混濁している患者様には、稀に見られる症状です。お気になさらずに』
悲しそうでも悔しそうでもないアンドロイドの、金属の光沢のある顔を、その平べったいレンズのような目を、見つめてみる。当然のことながら、そこからはやはり何の感情も読み取れない。
アンドロイドという種族は、人に造られ、人以上の能力を持ってしまったが、それでも人によって生かされている。だからこそ、アンドロイドとその所有者の主従関係は、何があろうとも絶対なのだ。
その「先生」とやらがこのアンドロイドのマスターならば、アンドロイドは本当に、その指示に従ってぼくを助けただけのことなのだろう。それならば、もうこれ以上このアンドロイドを責めても仕方がない。ぼくがこうして生きていることも、母の行方も、真偽の程は、先生本人に確かめなくてはならない。
「なあ、あんた……いや、きみ。ええと、名前はないんだな、ジョシュでいいや」
『はい、何かご用ですか?』
「その先生とやらは、いつ戻ってくるんだ?」
『わかりません。ワタシにも何も言わず、37564日前に、ふらっとお出かけになりましたから』
「は?」
37564日。あまりにも途方も無い数字に、思考が一瞬停止した。
ぼくが硬直している理由が分からないらしいアンドロイドは、ただただ不思議そうに首を傾げる。その関節が、またぎりりと、頑なに錆びついた嫌な音を立てた。
……ああ、そうか、だからこのアンドロイドの身体だって、こんなにも。
『先生の最後の患者はあなたでした。手術を終えてから、あなたが今日お目覚めになるまで、37564日間の間、先生は一度もお戻りになられていません』
ぼくが黙っていたのが自分の説明不足ゆえだと思ったのか、不器用なアンドロイド……ジョシュは、改めてぼくに事実を告げてきた。ぼくはまた、返答に詰まる。
ジョシュは、自分が捨てられたとは、思っていないのだろうか。悲しみがこもらないことがこんなにも悲しいことだったなんて、ぼくはこれまで知らずに生きてきた。
そして、ぼくは、今、ここで生きているのだ。
「ねえ、ジョシュがこれまで手入れしてもらうのに使ってた機械用油って、どこにあるの」
気づいたら、そんなことを言っていた。自分だって容態が意味不明な患者なのに、どうしてこんな時に他人……人ですらないものの世話を焼かなきゃいけないんだろう、とは自分でも思っていた。それでも、自分でもよく分からないうちに、ごく自然に僕の口からはその言葉が出ていたのだ。
『それは別室の戸棚ですが……しかし、人間のあなたの治療には、不必要な物でしょう』
「うるさい!いいから道具もろとも取ってきてよ、これは患者様からの頼みなんだからね!」
悩むそぶりを見せていたジョシュは、ぼくの怒鳴り声を聞いて、ようやく諦めたように頷くと、部屋を後にした。ごめん。本当は怒鳴りたかったわけじゃないのに。ごめん。
その背中が扉の向こうに見えなくなるまで、ぼくは何も言えずに、ただ寝台の上で、理由のわからない涙を堪えるのに必死だった。
「ぼくだって、スラムにいた頃はいろいろな仕事をしてきたんだ、その中ではがらくたの修理だってしたさ……」
がらくた、という言葉を発した瞬間、確かにぼくの心臓は、いや心は、ちくりと痛んだ。その痛みを誤魔化すように、ぼくは昔スラムにいた頃の経験を、壊れた時計を修理するためにいろいろな歯車にせっせと油を塗っていたことを、必死に思い出していた。
まずは首だ。そして次は腕だ。あの耳障りな音を立てるジョシュの身体を、今度はぼくが、なおすんだ。
自然と熱くなってくる目頭をごしごしと乱暴に拭っていると、ドアがゴンゴンと硬い音でノックされた。涙がじわりと、腕に流れた。
『マコトさま、お待たせしました。道具一式をお持ちしました』
……おや、いつのまにか、眠ってしまっていたようだね。今日の寝物語は、ここまでにしよう。