007 エリュシオン
第七章 エリュシオン
「ようこそ、敗れた者たちの世界、エリュシオンへ。石田ミノルさん」
女の子はそう言って僕のことを見た。
僕はしばらくその場に立ちすくみ、ただ呆然としていた。いったい何が起きてしまったのかわからなかった。あの夢で見た女の子が今、目の前にいるのだ。ここはどこだろう。どうしてここに来てしまったんだろう。僕は辺りを見渡した。
「あなたはもう既にこの世界に来てしまって、あなたが元いた世界には戻ることは出来ないわ。残念だけど、それがこの世界の決まりだからね」
「これもまた僕の夢の中の出来事なの?」
「いいえ、今はあなたが夢を渡ってこの世界に来たのではないわ。今度は影としてではなく、あなたの身体ごとこの世界に来たのよ。そして、この世界はあなたの夢ではなく、ちゃんと実在している〝現実〟よ」と女の子は僕の目をまっすぐに見つめて言った。
僕はしばらく女の子の言った言葉の意味を黙って考えた。
「聞きたいことが沢山あるんだけど、まず、この世界って僕のいた世界とは違う場所なの?」
「そうよ。多重世界って知ってる?」
「多重世界って、確か自分の認識している世界の他にも、様々な世界が同時に並行して存在しているってことだよね」
「ええ、その通り。この世界はあなたのいた世界とは違う世界。その名をエリュシオン。その意味は死者が死後にたどり着くとされる理想郷」
「ねえ、どうして、僕はこの世界に来てしまったのかな?そして、この世界はいったいどんな場所なのかな?」と僕はその女の子に尋ねた。
「あなたがこの世界に来たわけは、この世界にやって来る人々とのそれとは違うわ。そうね、ある人物があなたをこの世界に呼び寄せたとでもいうのかしら?あたしも上手く分かってないんだけど」と女の子は答えた。
「それと、この世界っていったい何?僕は帰ることは出来るの?」
女の子は目を閉じて、うつむいて首を横に振った。
「いいえ、あなたが元いた世界に戻れる見込みはほとんどないわ。残念だけど、この世界はそういった世界なの。来ることは出来ても、戻ったり、ほかの世界に渡ることは出来ない。そのことは後々わかるようになるわ」と女の子は悔やむように言った。
「ちょっと待ってよ、急にそんなこと言われてもわからないよ。この世界って、僕が昔から夢で見てきた世界そのものだよ。鬱蒼とした森。どこまでも続く道。黄昏に染まる廃墟の公園。いったいどうなっているの?」
僕は混乱し、困惑していた。夢に出てきた奥深い森の道。そして、僕に語りかける一人の女の子。それが今、僕の目の前にある。確かにこれは夢じゃない。現実だ。そして、どうやら女の子の言っていることは本当らしい。
「あなたは確かに気の毒であると思うわ。突然、わけのわからないままにこの世界に連れてこられたりしてね。でも、この世界に来る多くの人は最初はそうよ。そのうちに慣れるわ。
それと、あなたに紹介したいしたい人がいるわ。あたしの祖父にあたる人よ」
女の子はそう言って、少し離れた場所から手招きをして、80歳くらいの老人を呼んだ。
その老人は年をとっていたが、背筋が良くかくしゃくとしていた。丸い眼鏡に整えられた白髪、グレーのズボンと白いシャツという格好だった。
「どうも、初めまして。わしの名前は梶浦作造と言います。君のことは前々から知っていたよ。しかし、君とこうやってじかに対面するのは初めてだね。どうもよろしく。いや、会えて嬉しいよ」とその老人は言った。そして、僕に右手を差し伸べた。
「はい、どうも初めまして。僕の名前は石田稔です。今、突然この世界に来てしまって混乱しているんです」
僕は少し戸惑いながらも、そう言って握手をした。
「大丈夫。それはわしも同じだから。わしも65年前ぐらいにこの世界に来たのさ。それにわしも君と同じ日本から来たしな」
「65年前に?」と僕は思わず聞き返した。
「おお、そうとも。だいぶ昔のことになるがの。戦時中の日本からこの世界にやって来た。だが、その話をすると長くなってしまうので、それはまたの機会に話すとしよう。まあ、とにかく今はこれからわしの家に案内するからついておいで」と老人は言った。
「わかりました。まだ、わからないことも多いけれど、あなた達について行きます」と僕は言った。どうしては分からないけど、この人達のことは信用をしてもいいような気がした。
「ねえ、ところであたしの名前の名前って覚えてる?」
「ええっと、確かミユって言ったっけ?」
「ええ、そうよ。あたしの名前は梶浦未祐。よろしくね」とミユはそう言って軽く微笑み、祖父である作造さんの後ろにくっついて歩いていった。僕も彼らと離れないように森の道を歩いていった。
両脇にそびえる大樹に挟まれた森の道を歩き進んでいくと、再びあの二股に分かれた道と廃墟の公園に出た。この前来た時とは違い、夕暮れの時分ではなく昼時だ。僕は立ち止まって、しばらくその景色を見ていた。
「こっちよ」とミユが言って、僕の手を引き右の道を示した。
「あなたがこの前に行った左の道は影の国へと続いているわ。あたし達の住む国はこっちよ」とミユは言った。
僕は右の道へ歩きながらも、彼らに尋ねた。
「影の国って何ですか?どうして僕がこの前に左の道を歩き進んだことを知っているんですか?」
「それはわしらが君のことを遠くからずっと見ていたからじゃ。君は〝一つの影〟に導かれて夢を渡り、森の道を通って影の国へと行った。影の国とはこれより東方にある技術の発達した国のことだ。
実際には影帝国という名前であるが、わしらは影の国を呼んでいる。〝一つの影〟が影帝として統べる国だ。君も実際に行って目にしただろう?」と作造さんは言った。
「はい。二股に分かれた左の道を進んで、橋を渡り、川を越えて門を通って行きました。確かに都市が広がりビルが林立していて、とても発展しているように見えました」と僕は言った。
「でも、それで国民が幸せであるとは限らない」とミユが言った。
「そうだ。その影の国とは元々は霧の国と言って、東方の小国であった。霧の国は年中霧に覆われており、作物が実らなかったが、水産業と海運によって支えられていた小さな国であった。
しかし、200年程前にその国に〝一つの影〟がやって来た。〝一つの影〟は彼らに文明の知識と技術を与えた。やがて、霧の国は〝一つの影〟を帝王とする影帝国と名を変えた。影帝国は〝一つの影〟を唯一の皇帝とし、完全な独裁を続けている。近年は近隣の国々と貿易を行い、富と財力を蓄えている。また、それと共に軍事力も高めている。発展と共に何を企んでいるのか分からない国だ。
そして、そんな中で〝一つの影〟に次ぐ〝もう一つの影〟として石田ミノル君、君がやって来た」と作造さんは言った。
「僕?何で僕なんですか?〝もう一つの影〟って何のことですか?」と僕は言った。
「君は元々、夢を通してあの森に惹かれていたのだ。君は小さい頃から何度も夢を渡ってあの森に来たことがあっただろう?影としてね。〝一つの影〟はそんな同じ存在である君に対して興味をいだいたわけだ。そして、〝もう一つの影〟とはこの世界での君の通称のことだ。〝一つの影〟と同じ、影としての存在。しかし、君は〝一つの影〟とは違って普通の人間のようであるから、本当の意味では〝一つの影〟とは違っているがの」と作造さんは言った。
「……その、〝一つの影〟と言うものについて詳しく教えてもらえませんか?」
「〝一つの影〟は先に話した通り、200年前に霧の国にやって来た人物だ。彼はこの世界にはない知識と技術を持っており、それを元に帝国を造り上げた。霧の国が影帝国として生まれ変わって以降、皇帝として影帝国を支配している。影の国の建国以来、皇帝に君臨しており、いわば影の国を支配する一つの観念とも言うべきか」
「それで、僕はその〝一つの影〟に招かれて、森の道を通り、影の国に行ったということですね」
「そうだ。君は影の国にだけではなく、この世界そのものに招かれたんだ。〝一つの影〟によってね。そうして、誰かに招かれてこの世界に来た人物はおそらく君だけだろうな。わしの知る限りでは」と作造さんが言った。
「それでは、ほかの人々はどうやってこの世界に来たのですか?」と僕は作造さんの言葉に驚いた後に言った。
「わしはさっきも言った通り、65年前に戦時中の日本からこの世界に来た。本来ならそこで死ぬ筈だったけれどな。ほかの人にも聞いてみたが、どうやら死ぬ間際に気を失い、この世界にやって来たらしい」
「では、この世界にいる人々は皆、元いた世界からやって来た人々なのですか?」
「そう、元の世界から来た人々とその子孫によってこの世界は成り立っている。そして、どうやら、この世界に来た人々は元の世界では完全に死ぬ運命にあった者らしい。また、この世界に来た人々は元いた世界には戻ることは出来ない」と作造さんは言った。
「そんな!じゃあ、やっぱり本当に僕のいた世界には帰ることはできないんですか!?」
僕は歩みを止め、その場に立ちすくんだ。
「そうだ、残念なことだと思うよ。君にとっては残酷なことだと思う。しかし、それはわしやこの世界に来たほかの人々もそうだ。まあ、わしらは元いた世界では死ぬ運命にあったから諦めが付かないわけでもない。確かに君は本来であればこの世界には来る筈のない人物であるから理不尽な事だと思う」と作造さんも歩みを止め、悲しむように言った。
「そんな、これから元の世界にも家族や友達にも会うことが出来ないなんて」
そう言って僕は途方に暮れた。
「でも、だからこそあなたは逆に元いた世界に戻れるかもしれない」とミユが言った。
「ん、どういうこと?」と僕は訊いた。
「あなたがこの世界に来た理由はほかの人のそれとは違っているわ。この世界に来た人々というのは元いた世界では死ぬ運命にあった人々よ。ということは元いた世界の中ではその人は死人であり、運命に沿って生きるならばその人は死ななければならなかった筈よ。その人々がこの世界に来て生きていける。
この世界は元いた世界で死んでしまう運命にあった人々を救うためにあるんじゃないんかしら」とミユは僕に言った。
「そうだ。まだ分からない。君はこの世界に来たほかの人々とは違う。それに、なぜ人々は死ぬ間際にこの世界に来るのかも分からない。誰が、いったい何の意図でそうしているのかもね。この世界の謎を解き明かすことで、君が元の世界に帰れるかも知れん」
「…わかりました。この世界のことについて、いろいろと教えて下さりありがとうございます。それで、僕はこれからどうやってこの世界で暮らしていけばいいんでしょうか?」
「それについては心配しなくてもいい。今日はわしの家に泊まって、明日から君の暮らす場所を決めればいい。それについては、わしの息子にも話をつけておくよ」と作蔵さんは言った。
「ありがとうございます。今日はお世話になります」と僕は言った。
「うむ。それでは行こうか」
僕達はまた再び歩き進め、トンネルのような暗い森を抜け、空の広い明るい村に辿り着いた。小高い丘からは、やわらかな日差しに照らされた、緑の広がる村が見渡せた。