瀬田理恵という博士
瀬田理恵視点です.
「つかれたぁ」
思わず,私は大きなため息をつく.自分の上司となった畠中氏(どうやら,彼は建築学でドクタを持っているらしい)から,同僚となった野々井さんと買い物に行って来いと送り出されたのだ.
畠中氏も大概謎の多い人間のようだが,野々井さんはもっとよくわからない.第一印象は,正直なところ,よくはない.面接の場でお昼ご飯を食べている(それもいい年をした)男性というのは,決して恋愛対象にはなり得ない.いくら研究漬けの日々を送って来た私であっても,それくらいはわかる.
では,同僚としてはどうか.これはなかなかにいい質問だと思う.ふつう,彼もこの業界での経験は無いのだから,頼りになるもなにも無いのだが,彼の場合は違う.既に,素晴らしい交渉術で私の初任給をぐっと引き上げてくれたのだから.
「野々井さんってぇ,どこであんな交渉術,身につけたんですか?」
「アメリカとか,あの辺で契約するなら最低限いるからね.僕は必要だったから覚えた.あれ,瀬田さんも調査で北米行ってたんだよね?勉強しなかったの?」
「アラスカでしたし・・・」
「あ、そう」
話が続かない.仕方ないじゃない,アラスカの海は酸素濃度が比較的高いから海洋生物が大きくて調べ甲斐があるのだから.それに,あの辺りの人,そんなに現金を重要視していないし.交渉なんて,イカとかカニとかの交換レート(しかも物々交換!)くらいしか経験は無いのだから.
嫌なことを思い出してしまった.話を戻しましょう.私の今年の収入(予定)は六百八十万円。ちょっと細かいのは計算上のことらしいが,去年まで学術振興会の奨励金二百四十万円で食いつないでいた身からすれば大出世だ。
あの場では,流れの中でどんどんと話が進んでしまったので,後々になって畠中氏に聞いてみたことがある.あそこで,野々井さんが口を挟まなければ私の給料はどれくらいだったのかと.
「四百八十万円か,それ以下を提示しましたね」
聞かなきゃよかった.次の契約更改は五年後だから,既に私は最低で一千万得したことになる.もはや既に,野々井さんには頭が上がらない気がする.
でも,その分会社は損をしたわけで.
「野々井さんのせいではありますが.一千万円分は働いてもらいますよ」
そう言って私と野々井さんに,着任二日目にして異世界行きを通達して来たあたり,畠中氏も本気のようだ.
そんなことで,今の私の目標は,明日の赴任までに,この口数が少なく,つかみ所のない野々井さんとのコミュニケーションを成立させることなのだ.
この人,理系の学生や大学の先生(まあ,まさになんだけど)にありがちな,話の噛み合わなさがあるのだ.
「そ,そんなわけで.畠中さん,ひどいんですよう」
「畠中さん?ああ,べっ甲係長ね」
「ふふっ,だれですか,それ」
あれ,なんだろう.もしかしたら野々井さんって,そんなに難しく考えない方がいいのかも.
次は畠中視点で,やっと異世界へ行きます.




