なくても良い幕間: エルザ
エルザは,二十六歳にして娘を一人で育てている.数年前に夫を亡くしてから,途方に暮れもしたが,とにかく働かなくては生きていけないと今まで以上に仕事に打ち込み,三年ほど前に現在の給仕長の職を得た.
それまではシェフとしてこの店で働いていたが,娘との時間を確保するためにシフト制の給仕長にスライドしたのだ.この店,レストラン・クレブラットの主人はエルザの現状に同情し,常に助けようとしてくれる.この厨房から給仕長への移動も主人の差配であり,勤務時間が短くなっても実入りが減らぬようにという配慮だった.
そこで任されたのが,看板メニュである「季節のディナ・コース」の刷新であった.これまで,地域の伝統に沿ったメニュだけを提供していたが,マンネリ化は新規顧客を獲得できず,先細りを呼ぶ.すでにその予兆が見え始めていたことも大きい.とはいえ,主人は当初,数年かけて緩やかに変えていくつもりであった.
しかし,もともと厨房で副料理長を任され,短い期間ながら給仕長としてテーブルの様子見えていたエルザは,玲於奈が看破した仕掛けを次々に実装していった.
スープを冷やすなど,これまで伝統たる毒味に縛られマイナスとなっていた部分をプラスに転じる仕掛けは比較的早く受け入れられたが,一方でパンの質を落とし薄くスライスするなど,一見見かけを損ねるような仕掛けは反対の声も多かった.もちろん,氷室の整備など金銭面の制約から難航した部分もある.
しかし,ともあれ,エルザの考えたディナ・コースが看板メニュとして登場して二年.概ね好評であり,コースの予約は増えて収益の伸びも大きくなっている.
「二人目,なんでしょうかね」
このコースは,エルザが培ってきた全てを賭けたものだ.成立に際して,仕掛けの理由や,試す価値など,細かいところでは内縁の夫である石原に話して見て,彼が理解できたら試す,というようにして洗練させてきた.
このコースの仕掛けを知らずに食べて気づいた人はこれまでたった一人,コンタドール準男爵だけである.最も彼は,このコースの考案者を料理長だと思ったらしく,彼をいたく褒めて帰っていったが.
そうしてみると,仕掛けの意図に気づき,おそらくその仕掛け人がエルザであることにまでたどり着いたのは野々井が初めてである.しかも,コンタドール準男爵は,全てのコースを食べ終えて,彼の兄である子爵と感想を言い合う中でたどり着いたのだ.前菜だけでそこに行き着いた野々井とは比べものにならない.
「とうとう,その時なのかしら」
そう思うと,エルザは顔が緩むのを感じる.でも,仕方がない.料理人を志した時からの夢なのだから.
エルザの夢は,この地を食文化の最先端の土地にすること.最初は,平民の料理見習いの小さな夢でしかなかった.
しかし,彼女は石原に出会ってしまった.なんの後ろ盾もなく放り出され,それでも自分の武器である頭脳に賭けたひと.その賭けに勝ったばかりか,その後数年で,今や彼の分野である応用数学において,ワッサルー子爵領は共和国いち,もしかしたら大陸一かもしれないと言われるほどの地位を占めるようになった.
そんな彼の姿を見て,エルザも夢を追った.夫を亡くしふさぎこんでいた心に,火が灯った.思えば,亡き夫への気持ちに蓋をして,石原とのことを真剣に考えるようになったのも,そのあたりからかもしれない.そこからの毎日は激動だったけれど,念願であった,自分の全てを賭けたディナ・コースを完成させる機会にも恵まれた.
そして,今日.ついにこの仕掛けに気づく人が現れた.それは,この地に教養と豊かさを知る人が現れた証拠.これから,野々井を中心にこのコースが体現しようとする理想を理解する人が増え始め,ワッサルー子爵領の料理文化が一段上の成長を遂げるようになるだろう.
なぜだか,そんな確信があった.今日野々井に会えたことは,エルザにとってとてつもなく幸福なことであった.
なにはともあれ,ついにこの時が来たことを料理人たちに伝えなければならない.私の夢を聞き,同じ夢を見つつも,このコースを理解する人間が現れようとは予想していなかった料理人たち.このことを伝えたら,彼らはどんな顔をするだろうか?
きっと彼らが作るこの後のコースは,これまでで最も素晴らしい出来栄えになるに違いない.
エルザは,同時に野々井に供する氷を用意しつつ,石原のことを思う.彼の旅が順調なら,今夜あたり帰ってくるはずだ.
そうしたら話そう.今日のこの素晴らしい出会いのことを.
そして伝えよう.
「あなたの国から,あなたの次に素敵な人がみえたのよ」
と.




