ワッサルー子爵領の二人(食事編1)
注文しただけになってしまった.
「いらっしゃいませ」
微笑むウェイトレスに先導され,店へと入る.なかなかに凝った作りであるように見え,野々井さんに尋ねてみた.野々井さんはこの店の設計に興味がるのか,席に着くまでに色々と話をした.
このレストランは役所の地下という広い空間をくり抜き,最低限の部分は石やレンガで補強されているが,大部分は土壁に石膏を吹いて仕上げている.温かみのあるキャンドルには,薄く香りが混ぜられているようだ.キャンドルの火が一定の方向になびくということは,地下にあって換気・排気も確保した設計になっているということ.
わたしは,このレストランをすでに気に入っていた.席の配置が他の席と近すぎないのもいい.所々に開けた部分は,洞窟のイメージだろうか?洞窟内には,四人がけのテーブルがいくつか,多くても三つ程度が置かれている.人数に合わせて違う洞窟空間に通すという趣向なのだろう.
しげしげと周囲を見渡すと,ウェイトレスがメニュを持ってきた.開いてみると,「英語」で書かれている.
「あの,すみません.このメニュの言葉なんですけど」
「ええ,そちらでしたら,領主邸の学者様,石原様が,いずれいらっしゃる外交官様向けにと用意されたものです.お客様の祖国の言葉なのですね」
「え,ええ.祖国というか,馴染みはあります」
「それはよろしゅうございます.石原様もお喜びになると思います.今度お見えになったら伝えておきますね」
そこで,あれ,と思う.このウェイトレスは石原さんに詳しそうだ.「転生」者の中でこれだけ受け入れられている存在がいること自体がかなり驚きだが,すこし事情を聞いた方がいいかもしれない.そう思ったのは,わたしだけではないようで.
「あの.僕たち,確かに石原さんとは同郷なんです.彼,こっちではどんな感じですか」
「あら,石原様とお知り合いですか?」
その問いに,「いや,僕が一方的に知っているだけで,彼は知らないと思いますよ」などとはにかんだように答えている.まるで,何かの拍子に同じ場にいたことがあるのような言い方だ.
でもわたしは知っている.野々井さんは石原さんのことなど,データベースで見ただけだ.思い返せば,同郷という言い方もずるい.こっちの人が聞けば,同じ村とか領の出身とかだと受け取るだろう.でも,彼は同じ国出身くらいの意味で使っているのだ.この人,学者じゃなくて詐欺師か何かなんじゃないか.
でも案の定,ウェイトレスは気を許したようで,すこしずつ石原氏の話をしてくれる.なんでも,「転生」したばかりで行き倒れていた石原氏を介抱し,言葉をはじめとした常識を教えたのはこのウェイトレスらしい.
このウェイトレス(エルザというらしい)は女の私から見ても綺麗な人だ.整った目鼻立ちに,濃いブランド.今は髪を結っているが,解いてセットしたら,ハリウッド女優顔負けだろう.しかも驚くことに,彼女は今二十六歳で五歳の娘がいるという.数年前にご主人が事故で亡くなり,今はシングルで育てている.
「石原様に文字を教えて差し上げた時,練習にと言ってここのメニュを書かれたんです.正確に翻訳するんだと意気込んで,全部の料理を食べてから,祖国の料理を説明に用いて翻訳したとおっしゃっていました.だから,完成までに半年かかりましたでしょうか」
石原さんのことを話すエルザはとても嬉しそうで,時折くすくすと笑いながら物語る.あれ,これ惚れてんじゃないの?と邪推したくなるくらいだ.というか,石原さんは地位のある学者になった今もまだエルザの家に住んでいるというから,いい関係を築いているのは間違いないだろう.
なんだか,石原さんが神にでも愛された存在なのかと疑いたくなって来る.知らない土地に飛ばされてきて,こんなに全力で充実した人生を送れる人はそうはいないだろう.
そういう意味でいうと,この目の前にいる野々井さんもそうだ.日本にいるときには何を考えているのかわからないと思っていたが,こちらに来てから,なかなかにフランクな人だと思えるようになって来た.最初は朴念仁かと思ったが,今回のように女性と食事に行く場では,私の椅子を引いてくれたり,今だってエルザのような美人が出て来ても,常にこちらに気を配っている.これらを自然にできるあたり,野々井さんもかなり適応力が高い方だろう.
私は,学生の頃に調査で行った北限の海に住む海洋生物たちを思う.あの辺りの海は,通常より酸素濃度が高く,生き物は総じて大きく育つ.きっとこの世界は,石原さんや野々井さんにとって,酸素が濃い場所なのだろう.
「色々聞かせてくれてありがとう.あんまり注文しないと悪い客だと思われてしまう.お任せでコースを二人分,ワインは,冷えた白があればまずそれを.食前に合うカクテルでもいいですね」
「いいんですよ.かしこまりました.お料理は季節のものをご用意しておりますが,できるだけこの地方の伝統的なディナ・コースがよろしいでしょうか?」
「ええ,大変結構ですね.それでお願いします.エルザさんがサーブしてくれるのかな?」
「はい,私が担当いたします.それでは,食前酒をお持ちしますので,少々お待ちください」
そういってエルザは厨房の方に引っ込んでいった.ただそのやりとりを見て,私は野々井さんが楽しんでいるなあという感想を強くする.なんというか,色んなことにソツがない人なのだ.まあ,北米・欧州に年単位で住んでいたのだから,その時に洗練されたのかもしれないが.
私が思うに,学者になるような人には二種類の人間がいる.ひとつは,他の何を犠牲にしても研究に打ち込むタイプ.このタイプは,研究最優先なので他のことには時間を使わない.私もこのタイプだったが,私はどちらかというと能力が足りずに犠牲を払わざるを得なかった,ということなのだが.
もうひとつは,なんでもできるがゆえに研究をしているタイプ.このタイプの人間は,能力の総量が半端ではなく多い.一般的な人間が若い頃に楽しむほとんどすべての娯楽を楽しんだとしても,上述のタイプが出す成果と同等の成果を,余力を残して達成できる.そしてその余力分で,彼らは趣味の上積みをする.自己投資・自己研鑽といっても良い.語学だったり,マナー講座,芸術・文化など,いわゆる教養を完備した人間へと昇華する.野々井さんは完全にこのタイプだ.
日本で見た野々井がある程度大学人としてありがちな非常識さを発揮し,偏った人間だという印象を見せていたのは,おそらく意図してのこと.色々経験してある程度自分の中で蓄積した結果として,大学人に不要なアンテナをしまっていったのだ.
だから,いまの野々井は本来の状態に近いのだろう.新しい世界に来た自分の振る舞いを決めるため,様々な知識を貪欲に吸収し,過去の経験と統合してスクラップ・アンド・ビルドを絶えず行なっているのだ.一見異様にテンションが高いのも,社交的な面が表に出て来ているのも,すべてこれまで仕舞われていた指向性のアンテナが総動員されているからに他ならない.
そんな野々井さんを見ていると,石原さんに惹かれたエルザの気持ちも,わからなくはない.
「ずっとその状態でいたらいいのに」
すくなくとも,そう思う程度には,このアンテナ全開の野々井の方が普段の彼より魅力的だと思う.
次こそご飯食べたい




