ワッサルー子爵領の入国管理官
「つまり,そんなものはいない,そういうことですか」
玲於奈は,畠中のオフィスで静かに問いかけた.ワッサルー子爵領でのコンタドールとの話し合いの翌日,理恵とともに一時的に帰って来ていた.入国管理官はいるのか?という玲於奈の問いかけに,「以前はいたが殺害され,今後補充の予定はない」との答えが返って来た.つまり,そんなものはいない,そういうことである.
あれだけの法整備がなされていながら,殺害されたとはどういうことかと頭が痛くなったが,それは畠中の責任はないので,声を荒げるだけエネルギの無駄だ.
「しかし,なんだってそんな事に」
「それはだね.簡単に言えば,宗教裁判だね」
「宗教裁判?この時代にですかぁ?」
隣で聞いていた理恵が間の抜けた声を上げる.それには玲於奈も同感だったが,黙っていた.ただ考えてみれば,向こうは科学が台頭して来ているとはいえ,魔法も共存する世界だ.こちらの常識で考えない方が良い.
「そうだ.彼の名前は姫野管理官.彼は,大地を創造した主神アマスの教えを疑ったとして私刑に処された.その結果,なくなったと聞いている」
曰く.彼の地には全人口の半分程度が信仰するアマス教という宗教がある.かつて主神アマスはその手で山々を払い,そこに大地を作った.神が払ったのだから,そこは平地であるはずだ,というのがアマス教の教義だという.
一方,その辺りのことを調査していなかった姫野管理官は,事もあろうにアマス教の司祭の前で重力という考え方を話してしまった.向こうでも重力の存在は知られているが,それは神との距離によって決まるもので,国ごとにその報告されている値には差がある.しかし姫野管理官の説明では,彼の地(地球というか,惑星というか)はいずれにせよ球体でないと理解できない.姫野管理官は,計測技術の未熟のせいで報告された値にばらつきぐあると説明し,学術会議で論争を呼んだ.
最初は単なる学術論争だったが,各地で技術開発が進み同一の値が報告され始めると,教義の崩壊を恐れた司祭らが宗教裁判を開き,姫野管理官を私刑にしてしまった.その結果,熱狂した信徒は彼を殺してしまった,ということのようだ.
これは昨年末の出来事であり,現在ではアマス教も重力の考え方について多角的な可能性を検討するとともに,教義・神話の解釈に修正を加えられないか,ソフト・ランディングの方法を模索しているようだ.
ただ,それ以降,日本政府が彼の地に管理官を送ることは見送りになっているとのことである.ようは,情勢が落ち着くまで民間レベルで話を進め,その後公の話をしましょう,となったわけだ.実にあんまりな話である.
「では,いまこの現状を,とりあえず私達で対応しないといけないと」
「そうなる.しかし,いまは多少荒っぽくても構わない.とにかく最優先すべきは,彼の地との間に人材の循環を生み出すことだ」
「その過程で問題となる,既存の「転生」経験者の心理的ケア,慰撫工作はどうなりますか」
「それは君の仕事だ」
流石はミスタ・生真面目氏である.全くブレることがない.
こうして,玲於奈と理恵は,人材折衝に加えて入国管理業務まで請け負わされる羽目となった.
二人は仕方なく,既存の「転生」経験者に話を聞くため,ワッサルー子爵領に戻る事にしたのである.
帰り際,畠中氏が「ほら,パスポートにスタンプ押しといたぞ」と二冊のパスポートと小袋を渡して来た.このパスポートは当然,玲於奈と理恵のものである.入社時に預けたものが返って来た形だ.小袋には,四つ葉人材派遣が発行する在職証明とそれを政府が認めたビザが入っていた.他にも,ワッサルー準男爵の名義で発行された身分証明書も入っていた.これは,学術会議の勢力圏であれば通用するようだ.いずれにせよこれで,あの応接室を出て街に出ても大丈夫,という事だろう.行動範囲が広がるのは素直に嬉しい.
加えて,入国管理用のスタンプまで入っていた.まあ,入国管理業務を行うには必須のものだが,なんとも丸投げである.
理恵と連れ立って子爵邸へ戻ると,コンタドールが待ち受けていた.
「お早いお戻りで」
「ええ,色々と必要な書類を渡されて戻って来ました.あ,身分証明書,ありがとうございます」
「いえいえ,お安いご用です.それがあれば,いつでも外へ出て大丈夫ですよ」
「助かります.そういえば,こちらの「転生」者たちと面談を設定してくださるとの事でしたが,今から出来ますか?まだ二時過ぎですし,今日のうちに少しでも進めておきたいのですが」
「申し訳ない.それが,彼奴等が渋りましてな.明日の昼からになりそうです.どうです,この街は夕方七時頃までは明るい.せっかくなのでお二人で街の中でも散策にいらしては」
どうやら早速,作ったばかりの身分証明書が役に立つようだ.




