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賢い犬の話

3話あらすじ


誰も近寄らない不気味な神社と賢い犬の話です。

 授業が終わった瞬間に始まったざわめきは、教室から離れて校舎の外へと出ていき、校門を抜けて散らばっていく。

 自分の席からそれを眺め、やり過ごしていた私は、駆け寄ってくるユカリの姿を見つけた。

 一番仲の良い友達だ。


「ねえ、聞いて聞いて?」


 とユカリは言う。

 このまま帰るつもりで、鞄に教科書を詰める途中だった私は手を止めて、「うん。なあに?」と首を傾げた。

 ユカリはワシャワシャと両手を動かして、「だから、聞いて!」とアピールを続けていた。


 私はちゃんと話を聞いている。

「なあに?」と聞き返した。

 なのに、このアピール。

 人の話を聞いていないのはユカリの方だ。

 この子はこういうところがある。


「ね、ね、うちの隣の家、大型犬を飼ってるのって知ってる?」

「ん、たぶん知ってる。遊びに行ったとき見たと思う」


 前の席に座り、身を乗り出してくるユカリに頷き返す。

 私が見たのはかなりの大型犬だった。

 小学生くらいなら、背中に乗せても平気で歩き回りそうな大きさ。

 茶色い毛並みはキラキラしていて、大人しく座っていた。

 賢そうな犬だった。


「あの、茶色で、目がくりっとしてて、耳がペタンってなってる子でしょ?」

「そうそう、その子!」

「賢そうな子だよね」

「うん、大人しいし、頭いい」

「へえ、そういう品種なのかな?」

「そうかもだけどー」


 ユカリはクルリと瞳を動かした。


「隣の家の人、あのー、昔、犬の調教師やってたんだって」

「へえ、調教師? ブリーダー?」

「そう、それっ。ブリーダー!」

「ふうん。だからちゃんと躾けられてるんだ。賢くて、おっきな犬。いいよね」

「ねー!」


 嬉しそうにパチンと両手を合わせていた。

 椅子に座っていなかったらピョンと飛び上がりそうな様子だ。

 どうやらユカリは犬派だったらしい。

 私も吠えない犬は好きだ。


「それで、隣の家の人が旅行に行くことになったの」

「旅行。あれ、そしたら犬は?」

「うん、犬はおっきくて連れていけないから、置いていかなきゃいけないの。だから私がお世話を頼まれたんだ」

「おお、責任重大だ」

「ふふ、ちゃんとご飯あげてるし、散歩にも連れて行ってるんだよ」


 得意げにユカリが笑う。

 私はユカリの腕を見つめた。

 細くはないが、筋肉は全くついていない。

 ぷにぷにだ。


 ――この腕で散歩?


 シッポを振りながら走る大型犬に、ユカリが勢い良く引きずり回されている姿が頭に浮かんだ。


「ねえ……ちゃんと散歩できてるの?」

「できるよ。何それ!? ちょっと馬鹿にしてるでしょー」

「いや、してない」

「そう? でね、隣のワンちゃん、ラブちゃんって言うんだけど」

「ああ、うん。ラブちゃん」

「すごく賢いから、本当はひとりでもお散歩できるんだって」

「へえ。あ、じゃあひとりで散歩させてるんだ」

「でもひとりで散歩させたら、大騒ぎになるからー、ダメなの」

「そっか。そりゃあそうだ」


 あんな大型犬が、ウロウロ歩き回っていたら、怯える人もいるだろう。

 賢くて大人しい、ということはちょっと遠くから見ただけではわからない。

 警察に通報する人も出てきそうだ。

 実際に噛みつかれたら、大人でも大怪我をしそうな大きさだし、これは仕方がない。


「だから、私が一緒に歩いてるわけ。リード持って一緒にいるだけ。でも飼い主っぽい人が一緒にいれば安心でしょ」

「うーん、まあそうだね」


 ひとりでうろつかせるよりは、たしかにマシだと思う。

 近所の人たちも、怯えずに済むだろう。

 だがもし暴れたときに、ユカリに何ができるのかというと、たぶん何もできない。


「リードを引っ張ったりしなくても、こっち行こうって言えばついてきてくれるし、楽ちん。チワワとか、小さい犬のほうが大変かも」

「あー、案外そうなのかもね」


 小さい犬は吠えるし、やたらと動き回る印象がある。

 唐突に、散歩中にチワワと鉢合わせて、吠えられ、詰め寄られるラブちゃんの姿が浮かんだ。

 たぶんラブちゃんは、そういうとき、吠え返したりせずに困った顔をするだけなのだろう。


「で、頼まれたのに適当に近くを歩き回るだけっていうのもなんかアレだし、せっかくだから、ラブちゃんに楽しんでもらおうと思って、普段行かないようなところまで行ってみたの」

「いいね。喜んだでしょ」

「うん。ずっとシッポ振ってた。で、山の方の、おっきな道があるでしょ?」

「おっきな道?」

「うん。信号とかない道路。車もあんまり走ってなくて」

「あ、あの山沿いのずっと真っ直ぐな道?」

「そう! ずっと真っ直ぐな道!」


 私たちの住んでいる街では、何故か山の麓を立派な一本道が通っている。

 交通量が少ないのに綺麗に舗装された、謎の道だ。

 信号がなくて、一本道で、スピードが出せるから、夜中にときどき暴走族が利用している。


「そこをラブちゃんと歩いてたの」

「へー、散歩するにはいいかもね。あそこ、見晴らしがいいし」

「ねっ! でね、あの道沿いに公園があるでしょ?」

「えっ、公園?」


 私は首を傾げた。

 山の麓に公園なんて、記憶にない。

 ユカリが手をプラプラと振りながら、一生懸命に説明を続ける。


「あのー、ミカンの樹がたくさんあるところがあるでしょ。ミカン畑。ん? 畑? 果樹園? ミカン園?」

「いや、うん、そこはわかるよ」


 背が低めの、ミカンの樹が延々と並ぶ風景は、はっきりと思い浮かぶ。


「そこを通り過ぎたところ」

「うーん、公園? あったかなあ」

「まあ、あるの。で、私、そこ行ったことなかったから、ラブちゃんと入ってみたの。その、石の柱みたいなのが立ってる、入り口のゲートのところから」

「石の柱って……」


 ユカリが言っている場所がわかってしまった。

 そこは神社だ。

 公園ではない。

 誰も近寄らなくて、荒れ果ててしまった神社だ。


「公園の中に遊ぶところがあるかもしれないし。ラブちゃん勝手に入っていいか迷ってたみたいだけど、お尻を押して」


 私は息を飲んでユカリの話の続きを待った。


「中に入って真っ直ぐ奥に進んだら、川があったの」

「奥まで行ったんだ……」

「うん。あんなところに川があるなんてしらなかったでしょ? 3メートルくらい、そんなに幅はないけどすごく綺麗な川だよ。秘境って感じ。ひんやりして涼しい」


 誰も近寄らないのだから、それは綺麗だろう。

 秘境みたいなものだ。


「向こう岸の方には青色とかレンガみたいな色とか、変わった色の石が落ちてて神秘的な感じ。渡って拾おうかと思ったけど、濡れるからやめといたの」

「うん。渡らなくて正解だと思うよ」


 たぶん、そこは、渡ってはいけない川だ。

 そんな気がする。


「で、なんかやけに気になる白い石があるなあって、この白色、なんか見たことがある色だなあって思って、考えてみたの」

「うん」

「骨じゃないかって思ったの」


 私は固まってしまった。

 肌の表面を、ゆっくりと何かが滑っていく。


「で、よく見たら骨じゃなかった」

「んもう! やめてよ……」

「それで、石からふっと目をそらして気づいたんだけど、ちょうど向かい側の水のなかに、頭蓋骨が落ちてた」


 今度こそ、私は完全に固まってしまった。


「こっち見てた」

「うそ……」

「本当。頭蓋骨なんて落ちてるもんなんだねー。珍しいよねー」

「……それでどうしたの?」

「どうもしないよ? あるなー、と思って、それから川に沿って、右の方、ラブちゃんと下っていったの」


「あるなー」じゃないよ、と私は思った。

 頭蓋骨なら、動物の骨ではないだろう。

 人間のような頭の形をした野性動物なんて、この付近の山にはいない。

 だから、きっと人間の骨だ。

 あの神社なら人間の骨が落ちていてもおかしくはない。

 そんな雰囲気があるとは思うが、「あるなー」で済む話ではない。


「で、歩いてたらガサガサって音がして、立ち止まったら、トカゲがブワッて出てきたの」

「トカゲ?」

「そう。10センチないくらいのちっさな、よくいるやつ。シッポが切れるやつ」

「うん」

「それが、ブワッて群れで出てきて私とラブちゃんびっくりして。トカゲって普通群れで出てきたりしないよね?」

「えっ、あ、そうかも。トカゲの群れって見たことない」

「でしょ。そのトカゲがラブちゃんの前足にパクッて噛みついたりして。ラブちゃん困って前足をプルプル振ったりして、可愛いの」

「うん……」


 可愛いだろうとは思う。

 だが頭蓋骨が気になって話が頭に入ってこない。


「トカゲが一匹リードに噛み付いてきて、うわあって思ったんだけど、手で捕まえて外そうとしたの。そしたらトカゲ、歯が生えてるんだね。ちっちゃいけどビッシリ。知らなかった」

「え、歯?」


 トカゲには歯が生えていない気がする。

 少なくともビッシリ生えているものを見た記憶はない。

 ユカリが見たものは、トカゲとは別の生き物なんじゃないだろうか。


「それよりさ、頭蓋骨は大丈夫だったの? 動いたりしなかった?」

「あはは、何それ。動かないよ。向こう岸からずっとこっち見てただけ」

「そう。それならいいんだけど……」


 ――あれ? でもおかしくない?


 移動していたユカリのことをずっと見ていたのなら、それはやっぱり動いているということにならないだろうか。

 頭に浮かんだ疑問を口にする間もなく、ユカリが続きを話しだす。


「で、トカゲいっぱいいるから先に進んで、そしたら敷地の突き当り、角のところに骨が落ちてたの」

「また骨……」

「今度はお肉についてるような骨。っていうか、お肉も落ちてた。誰かの食べ残しかもね」

「ええ……あんなところでご飯食べるひといる?」

「うーん、わかんないけど、あったの。それで、ほら食べなって、お肉あるよって言ったんだけど、ラブちゃん食べないの。さすがラブちゃん。行儀がいいし賢い」

「そんなの食べさせようとしたらダメでしょ……」

「大丈夫かなーと思ったんだけどなあ。でもそのお肉の近くに行ったら、ラブちゃん食べない理由がわかったの」

「うん。何?」

「虫が肉の周りに貼り付いてたの。もうギッシリ。テントウムシくらいの大きさの、真っ黒い虫。どんどん集まってきてた」

「うわあ……」


 ラブちゃんはそんなものを食べさせられるところだったのだ。


「で、私もうわあって思ってそこから離れたんだけど、いつの間にか虫がラブちゃんの体に登ってきてたの」

「わっわっ、大変」

「うん。慌てて離れたとこでラブちゃんの身体叩いたりして、虫を落としたんだけど、そういうのもちゃんとわかるらしくて、ラブちゃん大人しくしてた」

「いい子だー」

「ね。そのままぐるっと周って戻ってきたんだけど」


 待って、と私は思った。

 入り口から真っ直ぐ奥へ、川に突き当たって右へ、川沿いに敷地の角にたどり着いて、そのままぐるっと周る。

 ユカリは時計回りに移動してしまっている。

 あの神社の噂を知らないのだろうか。


「せっかくきたのに、ラブちゃんトカゲに噛まれたり虫が登ってきたり、遊ぶとこもなかったし、悪かったなって思って」

「災難だったよね……」

「うん。テンション下がってた感じ。だから最後くらい楽しくしようと思って、入り口のゲートの手前、段差になってるところがあったから、そこからピョンって飛び降りて、ラブちゃんもおいでって言ったんだけど――」

「待って待って、鳥居から出なかったの!? 横から出ちゃったの?」

「え? トリィ? 何の話?」

「神社だよ。そこ、公園じゃなくて、神社。噂も聞いたことあるでしょ?」

「噂?」


 ユカリがきょとんとした顔で首を傾げる。

 本当に知らないのだろうか。

 誰でも知っていると思っていた。

 有名な噂だ。


「その神社、鳥居から入ったら、鳥居から出てこないといけないの。じゃないとちゃんと帰ってこれなくて、おかしくなっちゃうって。時計回りに歩くのもダメだって。絶対に時計の逆に回らないといけないって、聞いたことあるでしょ?」

「ないよ?」

「うそ……。でも不気味だったでしょ? みんなあんなところ近づかないよ」

「そう? 静かな公園だなと思ったけど、何にもなかったよ」


 あったのだ。

 頭蓋骨も普通じゃないトカゲも黒い虫も、あったのだ。

 ユカリが気づいてないだけだ。


「何ともないの?」

「うん。それで、そう、ラブちゃんおいでって言ったんだけど、どうしてもきてくれなくて、ビタッと止まって動かないの。引っ張っても飛び降りてこなくて、リードが手から離れちゃったら、スタスタ歩いて入り口から出てきた」

「ほら、ラブちゃんは、ちゃんと鳥居から出てきてるじゃん」

「あー、まあそうなるねー。でも飛び降りたくなかったんじゃないの」


 ユカリの呑気な様子に、こちらがハラハラしてしまう。

 あの神社に入って、噂をことごとく破ってきてしまったのだ。


「それで、出てきたラブちゃんが急に唸りだしたの。そんな吠えたり唸ったりする子じゃないんだけど」

「うん」

「私の手を見てずっと唸ってて、どうしたんだろって見てたら、ガブッて噛みつかれた」

「えっ、嘘!?」


 慌ててユカリの腕を確認する。

 怪我をした様子はない。

 ヒラヒラと、大丈夫だよというように、ユカリは手のひらを振った。


「なんか私が怪我しないように、加減してくれてたみたい。でもしっかり噛みついてて。噛んだまま唸ってて、首を振ったりしてるの。怖かった」

「うん。そうだよね」

「でね、急にパッと噛みつくのやめて、それからしばらく上のほうを見上げてワンワン吠えてたの」

「それって……」


「何か」がついてきていたんじゃないだろうか。

 ラブちゃんはそれに気づいて、追い払ってくれてたのだろう。

 きっとラブちゃんがいなければ、大変なことになっていたはずだ。

 そんな私の思いをよそに、ユカリは「ワンワンかなあ? ウワンワン。ウォンウォン?」とラブちゃんの鳴き真似を繰り返していた。


「ねえ、ヤバいとこだったんだよ。わかる?」

「えっ、ヤバい?」

「うん。あそこの神社、もう絶対近づいちゃだめだからね」

「えっえっ、なんでなんで!」


 ユカリが焦った顔をする。


「なんともなかったじゃん。大丈夫だよって話をしてたのに」

「大丈夫じゃないよ。近づいたらダメだからね」

「なんで! 一緒に行こうって誘うつもりだったのに!」


 それこそ「なんで」という話だ。


「ね、ね、一緒に行こうよ!」

「やだよ」

「一緒に行って! 来てくれないと困るよー」

「なんでよー」


 クルリとユカリが瞳を動かす。

 これはユカリの癖だ。

 いままでに、何度も見たことがある。

 いつもよりもゆっくりと、大きな動きで、瞳がグルリと動いていた。


「なんでって……行けばわかるよ」

「何言ってるのよ」

「私頼まれてるから。もうひとり連れてこないといけないから」

「えっ、誰に?」

「行けばわかるから」


 ユカリが手を伸ばして私の腕をつかむ。

 反射的に振り払おうとして、できなかった。

 ビクともしない。

 ユカリはこんなに力が強かったのだろうか。

 石の中に塗り固められたようだ。

 握っている手に、徐々に力が込められていく。


「痛い……よ」


 ユカリに言おうとして、その顔を見て、私はなんだかヘナヘナと力が抜けてしまった。

 顔色は真っ白で、眼球がビクビクと動いている。

 表情が変わるだけで、人間はこんなにも、別人のようになってしまえるのだろうか。

 私の目の前にいるのは、ユカリではない「何か」だった。

 ひと目でそれがわかった。

 あまりの不気味さに、抵抗しようという気持ちが、へし折られてしまう。


「行くよ」


 ユカリだったものが立ち上がり、私の腕を引く。

 抵抗しようという気持ちもない。

 抵抗できるような力もない。

 私はただその後を、慌ててついていくことしかできなかった。

 鞄を持ってくることもできなかった。

 そんなことでモタモタしていたら、ユカリだったものは私の腕をへし折って、そのままズルズルと引きずって神社へと向かったのだろう。


 ラブちゃんが噛んだユカリの左手だけは、ユカリだったものを止めようとするかのように、アタフタと、不規則に揺れていた。

 ユカリだったものはそれを気にすることもなく、ズンズンと進んでいった。


***


 靴を履く時間は与えられた。

 だからいま、私は学校指定のローファーを履いて歩いている。

 腕をしっかりつかまれていて、身動きはとれない。


 神社へ着くまでに、誰かに助けを求めればいい。

 そう考えていたのに、何故か人の姿を見かけない。

 学校でも、外へ出てからも。


 逃げる隙をうかがってみても、うまくいかない。

 ユカリだったものはときおり私に抵抗するつもりがないか、確認している。

 ギョロリとした瞳を向けられるだけで、ヘナヘナと力が抜けていく。


 ――このまま神社へ連れて行かれるのだろうか。


 そうしたら、私はどうなってしまうのだろう。

 泣きたい気分になってしまう。


 山の麓の大きなずっと真っ直ぐの道路。

 そこへ繋がる長い登り坂で、それは現れた。


 バイクくらいはありそうな、巨大な身体。

 その勢いもバイクのようだ。

 坂の上からキラキラと茶色の毛並みをなびかせて、私たちへ向かって駆け下りてくる。


 垂れ下がった耳。

 黒く光る賢そうな瞳。

 ラブちゃんだ。


「ワンワン!」


 大きな声で、吠える。

 それは責め立てるようなものではなく、必死に止めようとする、ラブちゃんの叫びのように聞こえた。


 ユカリだったものの足に身体を寄せて、ラブちゃんはグイグイと押し返そうとする。

 これでは前に進めない。

 大型犬の力と拮抗できる方がおかしいのだ。


 ユカリだったものが、苛立ちの表情を見せる。

 舌打ちとともに、私は突き飛ばされた。

 舗装の向こうの草むらに着地する。


 からだを起こすと、私を突き飛ばして自由になった右腕を、ユカリだったものが振り上げているところだった。

「やめて!」という思いを言葉にする間もなく、それは振り下ろされた。

 振りほどこうとしてもビクともしなかった、あの異常な力が、ラブちゃんの身体に。


 ドスンと鈍い音がした。

 私のところまで、振動が伝わってくる。

 ラブちゃんの鳴き声が、止まる。


 だがそれだけだった。

 ラブちゃんはグイグイと、押し続けている。

 何度腕を振り下ろされても、一生懸命身体をぶつけている。


 道の端に追い詰められ、ユカリだったものは、草の上に倒れ込んだ。

 それを押さえつけるように、ラブちゃんが覆い被さる。

 次第に抵抗がなくなっていく。

 動かなくなる。


 そうしてしばらくして、ラブちゃんが空を見上げた。

 坂の上、神社がある方角だ。


「ワンワン!」


 何かを追い払おうとするような、鋭い鳴き声だ。

 ひとしきり吠えたあと、ラブちゃんはシッポを振って、倒れたままのユカリの顔をペロリと舐めた。

 そこでようやく私も、そろりそろりと近づくことができた。


***


 目を覚ましたユカリは記憶が曖昧だった。


 変なものに取り憑かれたようだったこと。

 ラブちゃんに助けてもらったこと。

 一つひとつ、ユカリに説明する。


「わかったようー。ごめんなさい……」


 私の剣幕に、ユカリはしょんぼりしていた。


「もう絶対にあの神社に行ったらダメだからね!」

「うん。もう行かない……。わかったから怒らないでよう……」


 本当にこの子はわかっているのだろうかという不安は若干あったけれど、今日のところはこれで切り上げることにした。

 なんにせよ、ふたりとも無事だったのだ。


 坂を下り、歩きだす。

 こんなことがあったから、家まで送るつもりだ。

 学校に置いてきてしまった鞄はもうそのままでいい。


 ユカリの左側は私、右側はラブちゃんで、しっかりと挟んでいた。

 ユカリはしょんぼりしているが、ラブちゃんはホッとしているようだった。

 舌をダラリと出して、シッポはブンブン振っている。

 私はユカリの手をギュッと握って、その体温と柔らかさを感じて、「ああ、ユカリが帰ってきたんだ」と思った。


***


 数日後、私はユカリの家を訪ねた。

 この日の目的はユカリに会うことではない。

 ラブちゃんだ。


 紙袋を持って、ラブちゃんのもとへ向かう。

 私のことはちゃんとわかるらしく、シッポを振って歓迎してくれた。


「今日はお礼をしにきました!」

「ウォウ?」


 ラブちゃんが首を傾げた。

 妙に人間のような反応で、笑ってしまう。


 ラブちゃんのおかげでふたりとも無事だったので、お礼はしたい。

 だが、エサはいつもと違うものをあげたり、多すぎたりしても良くないだろう。

 何をあげるか迷っているうちに数日が過ぎてしまった。


「じゃーん。これです!」


 紙袋から骨のオモチャを取り出すと、ラブちゃんの黒い目が輝いた。

 見ただけでテンションが上がってしまうものらしい。

 ハァハァと息づかいを荒くしながら、私へ迫ってくる。


「あはは、喜んでもらえたみたいで良かった。じゃあいくよ。それー」


 と骨のオモチャを放り投げるフリをする。

 ラブちゃんは勢いよく走りだして、しかし骨が見当たらず、「あれっ?」という仕草とともに、立ち止まる。

 そこで私が、ラブちゃんとは別の方向へ、骨を放り投げる。

 するとすぐに反応して、骨に駆け寄り、咥えたままダッシュで戻ってくる。

 キラキラした瞳と止まらないシッポが、「次はまだですか?」と語っている。

 普通の犬のように、喜んでくれている。


「ふふ、今日はお礼だからね。気の済むまで遊んであげるよ」


 ラブちゃんとじゃれ合っていると、着替えていたユカリも家から出てきた。


「あー、自分だけ先にラブちゃんと遊んで、ズルいー」


 と唇を尖らせる。


「ユカリとも遊んであげるから。ほら、骨だよ」

「うん?」

「匂い覚えた?」

「なにそれー。私は拾ってこないよ。私も投げるの!」


 ふたりで顔を見合わせ、笑い合う。

 普段通りのユカリの様子になんだかホッとして、あらためて「ラブちゃんありがとう」と私は心の中でつぶやいたのだった。

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