吸血鬼
カスミが廊下を歩いている。
髪が揺れる。
細い腕と白い足が、独特のリズムで動く。
私はそれを目で追っていた。
特に変わったことをしているわけではない。
なのに、視線が勝手にカスミを追いかけてしまうのだ。
右足と左手。
右手と左足。
交互に動く規則性が崩れる。
広げた手のひらが、くるり。
宙を舞う蝶のように外へと向けられた。
手のひらの白さが、突然現れる。
指先でスカートを触って、ゴミを払ったのだ。
摘まむ仕草。
また元通り、細い腕が揺れる。
カスミの指は白くて長い。
ふとしたときに触れた感触を思い出す。
生き物。
人の身体の一部ではなくて、まるで独自の意思をもった生物のよう。
私の指に絡みつくように。
こすりつけるように。
名残惜しそうに。
私の皮膚の上をカスミの皮膚が動きまわって。
私はされるがままで。
カスミは何ひとつ気にしないように平然としていて。
――ああ、ほかの子にもこうしているんだな。
と思ったとき。
焦るような、締め付けられるような気持ちになって。
それがなんなのかを考えないように、私は目を反らして。
視線を戻すとカスミは廊下を歩いていた。
スカートのプリーツは、いつもおろしたてのようにきれいな折り目がついている。
生地の手触りもいつも、新品のよう。
想像の中で、私の手が、スカートを撫でる。
そのままするりと上へと向かう。
カスミの腰は、余計な肉がついていない。
その腰に手を這わせ、さらにセーラーの中へもぐり込ませる。
こちらも肉がついていなくて、細い。
抱き締めると、心地の良い硬さだ。
体温は、やけに温かい。
カスミの甘い体臭が、ふわりと立ち上ってくる。
もっと近くで感じていたい。
首筋に鼻を押しつけようとして、我に帰り、想像を振り払う。
カスミはまだ廊下を歩いていた。
つい目で追ってしまう。
つい想像してしまう。
女の子同士なのに。
そんなつもりはないのに。
甘い体臭を思い出して、頭の後ろが痺れたように感じる。
***
「んふふ、あのね」
「うん? 何?」
「私、吸血鬼なの」
「えー、何それ。いきなり」
突然のカスミの言葉に、私は首をかしげる。
吸血鬼。
カスミの肌は白いけれど、病的というほどではない。
日光を嫌がる様子もない。
なのにどういうわけか。
吸血鬼と言われると、すとんと府に落ちるような、妙な説得力があった。
カスミが私をまっすぐに見つめる。
瞳の色は真っ黒ではない。
黒に近い灰色。
光の加減で赤く見えることもある。
カスミが身体を傾ける。
髪が揺れて、私の側へ。
そこからあふれる、甘いにおい。
長い人差し指を立てて、私の頬に触れる。
ゆっくりと、頬から曲線を描き、唇の僅かに下を掠めて。
振り払おうと思えば、いつでもできた。
なのに、できない。
息を殺して、指の感触を味わう。
頭の後ろが痺れている。
「私は吸血鬼」
確かめるように、カスミが言う。
大きな瞳が目の前にある。
突拍子のない内容も、カスミが言うと説得力があった。
冗談みたいなことを、冗談みたいじゃなく言う子なのだ。
「うん」
私は頷いた。
ニコリと、カスミの笑みが顔全体に広がった。
***
カスミの仲の良い子は、定期的に変わる。
別のクラスの子だったり、学年も違ったり。
何の脈絡もない。
そしてまた、いつの間にか変わっている。
変わらないのはいつも相手は女の子だということだけ。
今回は、別のクラスの同級生。
ちょっとふっくらした、頬の赤い女の子。
白くて柔らかそうな肌をしている。
向き合って座り、カスミが女の子のショートボブの髪を弄る。
彼女はされるがまま。
カスミの人差し指に、くるくると髪が絡む。
まぶたを震わせて、女の子の頬がさらに赤くなる。
――何をしているんだろう。
ただ髪を触っているだけなのだろうけど。
そこに込められた意味が知りたくて。
カスミが何を考えているかを知りたくて。
じっと見つめてしまう。
カスミが私の視線に気づいて、両目を閉じるようなウインクをしてみせた。
女の子を放って、私へと近づいてくる。
ホッとするような。
ドキドキするような。
「どうかした?」
カスミが私に問いかける。
笑みを浮かべて。
「うんん。何をしてるのかなって」
私の疑問に対する説明はなかった。
カスミは余裕を持って、笑みを広げるだけ。
「また新しい子。仲良くなったんだね」
思いきって言ってみても、「んふふ」と笑うだけ。
***
「吸血鬼はね、人間の体液が好きなの」
それは知っている。
たいていの創作物の中で、吸血鬼はそういうものとして描かれている。
「血じゃなくてもいいの。血を吸わない吸血鬼もいるの」
それは知らなかった。
文字通り、吸血鬼は血を吸うものだと思っていた。
血じゃなくてもいいという吸血鬼も、中にはいるということなのだろう。
確かに体液は、血だけではない。
「血を吸われた人間が吸血鬼になるっていうのは、嘘」
そうなんだ、と思う。
それならば恐れられるような存在ではないのかもしれない。
「人間は吸血鬼には、なれないの」
そうなんだろうと思う。
カスミのようには、なれない。
「でも血を吸われなくても、吸血鬼には従っちゃうの。人間は、吸血鬼には逆らえないのよ」
それは――。
頭の奥がじんわりと痺れている。
***
女の子がカスミとふたりでトイレに入っていく。
特別不思議な光景ではない。
仲のいい子とふたりでトイレに行くこともあるだろう。
何も考えないようにして、私もトイレへ向かう。
ふたりはちょうど個室に入っていくところだった。
カスミと女の子、ふたりでひとつの個室へ。
これも特別不思議なことではない。
カスミはたびたび、こんなことをしているのだ。
それを私は知っている。
中で何をしているかも、知っている。
***
「カスミさん!」
学級委員がカスミに詰め寄っていた。
人目をひかないよう、騒ぎにならないよう、抑えた口調で。
しかし責めるような態度で。
何人かの視線が集まり、しかしすぐに興味を失ったように離れていく。
離れたところに座っていた私は、こっそりと様子をうかがっていた。
学級委員は女の子。
大柄で、ポニーテール。
ちょっと目がつり上がっていて、キツそうな印象の顔だ。
だが、そこに鋭さはない。
一方、カスミはいつも笑っているのに、鋭く尖ったナイフのような雰囲気がある。
周りの人間をなんとも思っていないような。
まるで人間を見下している、人間以外の生き物のような。
「ねえ、いつもトイレで何をしてるの? 女の子とふたりで」
委員長が問い詰める。
「さあ?」
カスミは笑ってはぐらかす。
唇から小さな赤い舌が、こぼれそうだった。
「女の子同士で、そんなこと……」
カスミが瞼を閉じる。
長いまつ毛が影を作る。
そしてゆっくりと、委員長を見上げる。
「そんなことって、どんなこと?」
「どんなことって……わからないけど……」
「そう。わからないけど、気になるの?」
「私は、そういうんじゃなくて……」
「気になるんなら、確かめればいいじゃない?」
カスミは笑みを浮かべて。
委員長は戸惑ったようで。
余裕を持って。
慌てたように。
細くて小さく、鋭くて。
大きいだけで、鈍くて。
人間ではない生き物のよう。
どこにでもいる人間のよう。
ふたりは対照的だ。
ふたりの距離が近づいていく。
――確かめればいいじゃない。
カスミの言葉が頭から離れない。
じんわりと、痺れてくる。
***
あのショートボブの女の子。
わずかに顎を上に向けて立っている。
ぼんやりと、うっとりと。
カスミが顔を近づける。
女の子の肩に手をかける。
静かにゆっくりと、しかし獰猛に。
どうしたらそんなことができるのかわからない。
しかし、カスミのちいさな手は、静かに乱暴に、女の子の肩をつかんでいる。
私は目をそらすことができなかった。
声をあげることもできない。
カスミが口を開く。
噛みつくように、動かす。
啜る音が聞こえている。
――吸血鬼はね、人間の体液が好きなの。
女の子がビクンと身体を震わせる。
息づかい。
衣ずれ。
激しくなっていこうとするそれが。
突然止まって。
面白がるような表情のカスミがチラリと私を見て。
個室のドアが閉められた。
***
カスミは次第に大胆になっていった。
隠そうという努力をしなくなった。
だが誰も注意するものはいない。
委員長がカスミについていく。
休み時間になると、こうして連れだって教室を出ていく。
最近では見慣れた光景だ。
トイレだけではなくて。
ほかの場所でも。
私はどうしても気になって。
追いかけるように席を立った。
***
「吸血鬼の力が効きにくい人間もいるの。人間のくせに、吸血鬼に従わないの」
そうなんだ、と思う。
人によっては吸血鬼の力が効きにくいということもあるのかもしれない。
「そういう人間を見たら、吸血鬼はどう感じると思う?」
苛立ちだろうか。
思い通りにならないのだから。
「面白いって思うの」
面白い?
「人間のくせに、思い通りにならない。なんてかわいらしい、暇潰しの道具なんだろうって」
それは強者の理屈だ。
その気になれば、いつでもどうとでもできる。
圧倒的に優位な立場にいるから、暇潰しだと弄べる。
「力が効かないなら、ほかの方法を使えばいいの」
カスミは嬉しそうに続ける。
「いうことを聞かせる方法なんて、いくらでもあるわ。信頼させて、弱味につけこんで、夢中にさせて」
うっとりとした表情を浮かべて、
「時間がかかるけど、その分楽しみが増えるのよ」
赤い舌で、唇をぺろりと湿らせていた。
***
何をしているのかを知っていて。
自分がどうしたいのかも知っていて。
なのにカスミは私にだけは声をかけてくれなくて。
焦りのような。
苛立ちのような。
頭の奥が熱を帯びてしびれたようになる。
じんわりと、しかし煮えたぎるように胸の奥に広がる感情に、耐えられなくなる。
私は個室のドアを開けた。
個室にはカスミとあのショートボブの女の子、委員長がいた。
三人でーー。
ショートボブの女の子と委員長は壁に寄りかかって、ぼんやりと宙を見つめている。
それならひとり増えたってーー。
カスミは私を見ると目を細めて、
「あら、もう我慢できなくなったの?」
唇を湿らせた。
***
「ねえ、私も……」
「わかってるわ」
静かに獰猛に、カスミが私の肩へ手を伸ばす。
そして、舌を首筋に。
触れるか触れないか。
微かな感触が、ゆっくりと、下から上へ。
私の汗をすくいとる。
「吸血鬼が好きなのは、血だけじゃないの」
「……ん」
カスミの息が肌に触れる。
頭がさらにぼんやりとしてくる。
やけに熱い体温。
どうしてなのだろう。
「人間の体液なら、なんだっていいの」
満足げに。
ため息をつくようにつぶやく。
カスミは私を抱き寄せる。
「おいしいわ……ふふ」
声を出せば、塞き止めていた何かが溢れてしまう。
そんな気がして、私は身体を硬くして。
「ふふふ、本当にかわいいわね」
時間が過ぎるのを待った。
***
吸血鬼なんているはずがない。
そんなことはわかっていた。
否定しないのは、そのほうが都合がいいからだ。
吸血鬼だから、こんなことをしても許される。
吸血鬼だから、逆らえなかった。
言い訳の言葉に、私は身を任せる。
***
カスミが私から身体を離す。
「あなたがいるんなら、この子たちはもう要らないわね」
ぼんやりと立ったままの、二人に目を向ける。
「私は吸血鬼」
――吸血鬼なんているわけがない。
「人間の体液が好きなの」
――そう。それも都合のいいいいわけで。
カスミがショートボブの女の子の口に指を差し込んだ。
どんどんと奥へ。
手の甲まで入れてしまう。
「なかでも好きなのが、これ」
口の中で手のひらを上向きにしたようだ。
ショートボブの女の子が大きく口を開いたまま、震える。
そしてブチンと何かを突き破ったような音がした。
ショートボブの女の子が一瞬反応して、すぐに表情をなくした。
「これ、わかる?」
カスミの人差し指に、血の混じった透明な液体がついている。
ゆっくりとほおばって、味わっている。
目を閉じて、うっとりとした表情だ。
「髄液っていうの。美味しいわよ」
――吸血鬼なんているはずが……。
「でも、少ししか採れないし、これをやると壊れちゃうのよね」
ショートボブの女の子が、規則的に身体を揺らしている。
自分の意志で動かしているようではない。
ゆっくりとした、痙攣のようだ。
「でもまあ、あなたがいるんだし、いいわよね。またどこかに捨てれば」
――カスミの仲の良い女の子は定期的に変わる。そしてそれまで仲の良かった女の子は……。
「あなたも、もう要らない」
委員長に向かって、カスミが言う。
カスミの言葉を聞いているはずなのに、目の前で起きたことも見ているはずなのに、委員長は反応をしない。
ぼんやりと立っているだけだ。
――吸血鬼には逆らえない。
「あなたはすぐには壊さないからね」
カスミが私の顔を覗き込んで言う。
光の角度で色の変わる瞳。
見つめていると頭の奥がじんわりとしびれていくようで。
――カスミの言葉が聞こえているのに、私は疑問を持つことも抵抗することもできない。ただ言葉に身を任せるだけだ。
「じっくりと楽しみましょうね」
赤い舌をチラリとのぞかせながら、カスミが嗤った。