画面の向こうからこんにちは
私はベッドの上に寝転んでいた。
上体を軽く起こした、うつ伏せの姿勢だ。
枕元にはスマホが置かれている。
そこから伸びているのは、イヤホンの黒いコード。
曲がりくねった細い線が、私の耳に動画の音声を伝えている。
内容は、素人のたわいないお喋りだ。
女性がひとりでメイクをしながら、リップの色の好みや使用感を語っている。
一度見た動画だから、画面は見ていない。
音声も聞き流している。
ただ再生しているだけだ。
「ちょっと地味かなと思ったんだけど、実際に塗ってみると発色が良くて! ほら、見てください……」
しかしこうしてお気に入りの実況者の声が聞こえていると、不思議とリラックスできる。
目の前に広げられているのはファッション雑誌。
ツヤツヤのカラーページをはらりとめくりつつ、素足の裏をペタペタと打ち合わせる。
自分の部屋だからこそできる芸当だ。
ここでは誰かの目を気にする必要はない。
寝そべったまま、モデルのポーズを真似てみたりもする。
キュウン……。
「えっ?」と思って、私は雑誌から顔を上げた。
ページをめくる手が止まる。
イヤホンを外して、枕を抱える。
耳をすませてみても、もう何も聞こえない。
――今の、動画の音……じゃなかったよね。生き物の鳴き声だと思ったんだけど。
再生している動画の実況者はペットを飼っていない。
それに鳴き声はイヤホンの外から聞こえていた。
――なんか、ここから……。
ベッドの上に置かれたスマホを見つめる。
音はここから聞こえた気がする。
プラグを差し込んでいたはずの、スマホの本体から。
――もしかして、この下に何かがいたり……。ネズミとか……。
恐る恐る、手を伸ばす。
指先でスマホを持ち上げる。
わずかに持ち上げただけでは、その下に何がいるかはわからない。
ちょっと乱暴に、投げる様に移動させる。
スマホの下に隠れていた部分が、あらわになった。
そこには何もなかった。
白いシーツをピンと張ってみても、何も見つからない。
念のためにもう一度耳をすませてみる。
何も聞こえない。
何もいない。
私は肩の力を抜いた。
――なんだ。気のせいだったんだ。
安心して、私はイヤホンを耳にはめる。
聞き慣れた実況者の声が、また聞こえ始めた。
***
キュウン……。
私は目を開けて、飛び起きた。
――あの音……。あの鳴き声。
キュウンという、生き物の鳴き声。
場所は前回と同じ、ベッドの上だ。
カーテンの向こうは白く明るくなっている。
――そうだ、私、寝てたんだ。
急に起きたせいで、心臓の鼓動が速い。
じっとしているとだんだんと落ち着いて、状況も把握できてきた。
またあの鳴き声が聞こえた。
夢の中で、ではない。
起きた瞬間、聞こえていた。
――絶対に何かがいる……。どこ……?
ベッドの上で、身をよじる。
部屋の中におかしな様子はない。
ひととおり確認して、身体をもとの位置に戻して、枕元に置かれたスマホが視界に入った。
――またスマホ。やっぱりこの下に……。
つまみ上げようとする手が止まった。
画面の表面を滑るように、黒い何かが通り過ぎていった。
***
「ねえねえ、ウイルスってさ、わかる?」
「はあ? 何? ウイルス? 風邪?」
「違う、そうじゃなくてさ、パソコンとかスマホとかが感染するやつ」
私の言葉にマキは眉をひそめる。
背が高くて、制服にはいつもシワひとつなくて、眉毛がキュッと吊り上がっているマキは、女の子なのにイケメンだ。
主に女子からモテている。
言動もなんだかイケメンで、困ったことがあると頼りたくなってしまう。
だからほかの誰かに相談することなく、私はまずマキに声をかけたのだ。
「うーん? あんまりよくわからないけど」
「じゃあさ、これ」
と私は机の上に自分のスマホを置いた。
昨日見た光景が頭に浮かぶ。
見間違いではない。
黒い毛玉のようなものが、スルスルと滑るように画面を動き回っていた。
「これ。ウイルスにかかってるのかな?」
「へ? ウイルスにかかってるの?」
「わかんないから聞いてるの」
「私だってわかんないよ」
マキは唇を尖らせる。
「あのね、ウイルスにかかってるかどうかって、見ただけじゃあ、わかんないよ。たぶん。そもそも私、ウイルスとかあんまりわかんないし」
「えー、どうしたらいいのかな? ウイルスって消せる?」
「いや待って、ウイルスにかかってるの?」
「うん。いや、わかんないんだけど」
――これじゃあ話が進まないか。
私はスマホの表面をなぞった。
暗くなっていた画面が明るくなる。
「なんかほら、ここに、んー、出てこないか……」
「何? 普通に使えてない?」
マキが画面をのぞき込む。
私とマキの距離が近くなる。
「うん。でもこの画面にさ、黒い毛玉みたいなのが映るの。1センチないくらいの、ちいさいやつ」
「えー? 何も無いよ?」
「今はね。でもいるの」
私はスマホを持ち上げて、傾けてみた。
斜めから見ても、あの黒い毛玉は見つからない。
「でね、動き回って、ときどきキュウンって鳴くの」
「それって、いや、あのさ……」
とマキが私を見つめる。
ため息もついている。
「ウイルスって、生き物じゃないよ?」
***
結局マキのいる前では、黒い毛玉は現れなかった。
キュウンと鳴いたり、画面を動き回ったり。
マキが言うには、そんなのはウイルスじゃないらしい。
スマホの動作が重くなったり、勝手に何かをダウンロードしたり。
そういうことをするのがウイルスなのだという。
たしかに不便になるような、私を困らせるようなことは起きていない。
「何かのアプリ入れたの、忘れてるんじゃないの? そもそもスマホはウイルスにかからないんじゃない?」
という言葉には一定の説得力があった。
だが、アプリを開いていないのに、ホーム画面に毛玉が表示されるというのはおかしくないだろうか。
それらしいアプリも見つかっていない。
――まあウイルスじゃないっぽいのはたしかなんだけど。なんか動物っぽいし。
疑問を持ちつつも、私の不安は薄れていった。
***
それからも、黒い毛玉は画面に現れ続けた。
***
スマホをそっと枕元に置いて、見守る。
このとき焦ってはだめだ。
あまり動かさないほうがいい。
乱暴にタップするなど、もってのほかだ。
息を殺してじっとしていると、不意に画面を横切るものがある。
黒い毛玉だ。
さらに時間が過ぎるのを待つ。
すると動き回るのをやめる。
ゆっくりと移動して、画面の隅で落ち着いている。
――よし、ちょっと慣れてきたね。
毛玉はやはりちいさい。
ホーム画面に並ぶアプリのアイコンと見比べても、毛玉のほうがちいさいくらいだ。
色は完全に真っ黒。
ほかの色は混じっていない。
私が顔を近づけてじっくりと観察しても、毛玉は動かない。
しかし油断してふうと息を吐くと、驚かせてしまったのだろう、すぐに画面の外に逃げていってしまった。
――うーん、もう大丈夫だと思ったんだけどなあ。
時間が経つにつれて、毛玉の生態もつかめてきた。
こうして近くで眺めることもできるようになった。
――結局これが何なのかはわからないんだけど……。
スマホのガラスの表面に生息するタイプの生き物かもしれない。
そう思って画面を横からのぞき、隙間に何かがいないか探してみたりもした。
だが、やはりよくわからない。
一方、毛玉の好みは少しわかってきた。
毛玉は動画が好きらしい。
動画を流していると、ときどき、キュウンと鳴く。
メイク動画で鳴くことはほとんどない。
よく鳴くのはスライムを作ったり、1000度に熱した鉄球を水の中に投げ込んだりする実験動画。
液体窒素でバラを凍らせる動画が特にお気に入りらしい。
――私の趣味とはちょっと違うんだけど……。
毛玉のおかげで、何度もバラを凍らせることになってしまっていた。
いまもまた、バラが白く凍った。
キュウン、キュウン……。
やっぱり鳴いている。
――本当に好きなんだね。
再生される動画を見守るように、画面の隅で鳴いている。
心なしか震えているようにも見える。
そうしてぼんやり眺めていると、
ブウウゥン……。
突然スマホが振動して、私は飛び上がってしまった。
電話ではないようだ。
だが、振動は続いている。
――何これ?
よく見ると、スマホの振動は、毛玉の震えとリンクしている。
毛玉がスマホを振動させているのだ。
――そういうこと……。もう、驚かせないでよ……。
ツンと画面を突くと、抗議するように、ブウウゥンとスマホが振動した。
***
毛玉は画面に現れて、キュウンと鳴いて、ときどきスマホを振動させるくらいで、ほかに特別何かをするわけではない。
アプリだとしたら、面白みのないアプリだ。
そのはずだ。
にもかかわらず、毛玉を眺めるのは、私の毎日の楽しみになっていった。
用がなくてもスマホを取り出して、毛玉を探してしまう。
警戒心が強いせいか、毛玉が学校で現れることは、ほとんどなかった。
マキにも見せられないままだ。
登下校の間も、やはり現れることはなかった。
落ち着いた場所でないと、ダメなようだった。
***
学校が終わり、いつもの帰り道を歩いていると、ブウウゥンとスマホが震えた。
――ん? 電話じゃない?
何の通知もきていない。
気のせいだったかとスマホをしまおうとしたとき、キュウンとあの鳴き声が聞こえた。
画面を確認すると、毛玉が震えている。
先程の振動も毛玉のものだったようだ。
――あれ? 珍しい。
歩いているときに画面に現れたことは、これまでなかった。
毛玉は何かをうったえるように、懸命にスマホを震わせ、鳴き続けている。
どうしたんだろうと考えて、ふと顔を上げる。
ちょうど目の前の家の庭に、バラが咲いていた。
白にほんの少しだけ、薄いピンクの混じった花びら。
ちいさくてうつむいていて、触ったらポロポロと花びらを落として、すぐに散ってしまいそうな雰囲気だ。
だからこその美しさも感じられる。
――もしかして、これ? バラが好きなんだ。
実験動画の中でも、毛玉はバラを凍らせる動画が一番のお気に入りだった。
――でも……どうしようか。
毛玉がバラに反応していることはわかったものの、どうすればいいのかわからない。
勝手に摘んで持って帰るわけにもいかないだろう。
花とはいえ、窃盗になってしまう。
それに摘もうとするだけで、この花なら散ってしまうかもしれない。
――あっ、そうだ。
私はスマホをバラに向ける。
カシャッとシャッター音が聞こえた。
画面を確認すると、うまく撮れたようだ。
――これなら好きなだけバラを見られるでしょ?
そういう思いを込めてツンツンと突くと、キュウンと満足げな鳴き声と共に、毛玉は画面の外へ逃げていってしまった。
***
私は自分の写真を撮るのが苦手だ。
写真を撮って、エフェクトをかけて、加工して、スタンプを入れて。
そうした作業をしているうちに、こんな言葉が思い浮かぶ。
――誰が喜ぶの? この写真。
指先が止まる。
画面に近づけられなくなる。
――可愛くもないくせに、わざわざ写真なんか撮って。
誰に言われたわけでもない言葉が浮かんできて、撮った写真をすぐに消してしまいたくなる。
必死に心を落ち着かせて、消すのを堪えて、平気な顔をして友達と写真を交換しあう。
キャッキャと笑っていても、心の中に楽しい気持ちはない。
――なんのために写真を撮っているの? あんたなんかの写真を。
自分の写真を見れば浮かんでくる言葉。
ひどくみじめな気分になってしまう。
だから、自分の写真を撮るのが嫌いだ。
***
「やーだ」
マキがパッと手を広げて、顔を隠す。
ちいさな顔が、すっぽりと手のひらに納まっている。
こういう仕草もイケメンだ。
私は「んふふ」と笑って、マキに向けていたスマホを膝の上に降ろした。
写真を撮るのを断られてしまったのだ。
マキも写真を撮られるのは苦手らしい。
――カッコいいのになあ。私がマキみたいな見た目だったら、いくらでも写真を撮らせるのに……。
そう思いながらも、無理強いはしない。
マキにも何か理由があるのだろう。
私とは違うだろうけれど。
「ねえ、そういえば、まだ毛玉でるの?」
「あ、うん、ほら」
頷いて、スマホを見せるが毛玉は画面の外だった。
マキが笑いながら首を振る。
また見せられなかった。
「うーん、家だと出てくるんだけどね」
「そっかー」
とふたりで画面を見つめる。
もちろん待っていても毛玉は出てこない。
「結局ウイルスじゃなくて、何かのアプリだったんだろうね」
「うん。たぶんアプリ」
「そういえば、アプリじゃないけど、昔そういうゲームが流行ったらしいよ」
「ゲーム?」
「よくわからない生き物を育てるゲーム」
「ふーん?」
「毎日エサをあげたり水浴びをさせたりして、成長させるゲーム。すごい流行ったらしいよ」
「へー。でも毛玉は水浴びしないよ」
「うん。スマホが水没しちゃうからね」
「んふふ」
しかしそういうゲームが流行るのはわかる。
毎日毛玉を眺めるのは、なぜか楽しい。
「ふあーあ。授業の準備しないとー」
マキが大きなあくびをして、両手を上げて伸びをする。
無防備なその姿に、思わずスマホを向けて、シャッターを押してしまった。
カシャッ。
「や、いま撮った?」
「ん、うんん!」
首を振って、スマホを背中に隠す。
「なんか音がした気がするけどー?」
「んーん!」
「はあ……。ならいいけど、写真撮らないでよね」
「うん。もう撮らないから。大丈夫」
「いま、『もう』って言った?」
マキに優しくほっぺたをつねられて、私は「えへへ」と笑った。
***
フォルダの中を見てみると、うまく撮れていたようだ。
無防備なマキの姿が写っている。
――やっぱりカッコいいなあ。
伸びをしているだけなのに、ポーズをとったモデルのように、決まっている。
ちょうど日差しがスポットライトのように当たっていた。
――うん。これは保存しておこう。
この写真を持っているのは私だけなのだという満足感とともに、そう決意した。
人に見せるつもりはない。
私だけのものだ。
ふと、フォルダの中のほかの写真が目に入って、私は首を傾げた。
黒く塗りつぶされた写真だ。
――何これ?
塗りつぶされているのは一部だけ。
周りの景色からすると、どこかの庭のようだ。
――庭……あ、このあいだのバラの写真。
あの白いバラの写真だ。
それがなぜか塗りつぶされている。
バラがあった部分だけが黒くなっている。
――うーん? なんでだろう? こんな加工した?
写真を塗りつぶしているのは、毛玉と同じ、混じりけのない黒だった。
***
帰り道、ふと思いついて、あのバラの家へ向かう。
もう一度見てみたくなったのだ。
薄いピンクのバラを。
たどり着いた庭に広がっていたのは、このあいだ見た景色と同じ……ではなかった。
バラが、ない。
――綺麗に咲いてたのに。
地面から、咲いていたバラの名残の茎がつき出していた。
もう緑色しか残っていない。
花の部分だけ、なくなっていた。
切り取られたように。
――生け花にでもしたのかな?
だからといって根こそぎ切ってしまう必要はないと思う。
――ちょっとくらい残してくれててもいいのになあ。
不満を感じながらも用のなくなったバラの家を後にする。
するとすぐに私の足が止まった。
――あっ、あそこにも。
さほど離れていない家の庭に、またバラを見つけたのだ。
今度は真っ白なバラ。
薄ピンクのバラと違って、こちらは花びらが肉厚で、どっしりとした印象だった。
キュウンとスマホから鳴き声が聞こえる。
振動もしている。
――ふふふ、今度は私が先に見つけたねー。
パシャリと写真を撮って、確認する。
うまく撮れていた。
ふと、何かを思いつきそうになる。
このバラは何かに似ている。
――このバラ。綺麗で、堂々としていて。
甘いにおい。
花びらは白くて。
やわらかそうで。
思わず触ってみたくなるほどで。
太陽の光でキラキラしていて。
――ああ、マキみたいなんだ。
そう思って、私は写真をもう一枚撮った。
***
「うーん? ちょっと大きくなってない?」
画面の隅の毛玉に、私は問いかけた。
アイコンと見比べると、同じくらいの大きさ。
以前はアイコンよりも小さかったはずだ。
「やっぱり大きくなったよねー?」
と尋ねても、毛玉の返事はない。
突いてみても、特に何の反応もなかった。
寝ているのかもしれない。
――毛玉も成長するのかな?
昔流行ったというゲームを意識したアプリなのだったら、成長する機能もあるのかもしれない。
――エサとかあげてないんだけどなあ。
もっとよく見ようと姿勢を変えたとき、スマホに手の甲が当たった。
驚いた毛玉が画面を動き回る。
――あっ、なんか速くなってる……。すごい……。
ブウウゥンと震えて、勢いよく画面の外に去ってしまった。
振動も、いつもよりも大きなものだ。
――あはは。でもあんまり振動が大きくなっちゃうと、びっくりするから良くないかも……。
そんなことを考えながら、なんとなく、写真のフォルダを開いてみる。
一番新しい写真は白いバラの写真だ。
その写真は、黒く塗りつぶされていた。
***
それからもう一度、別の家の庭で、バラの写真を撮った。
濃い色の赤いバラだ。
少しして確認すると、写真はやはり塗りつぶされていた。
***
「へー、これが毛玉なんだ」
マキが画面をのぞきこむ。
「うん。毛玉」
画面には黒い毛玉が表示されている。
キュウンという、鳴き声も聞こえた。
「あはは、鳴いたね。思ってたよりも大きいなー」
「そう。なんか最近、大っきくなってきたみたい」
今の毛玉の大きさは2センチほど。
アイコンよりも明らかに大きくなっていた。
それにつれて、警戒心も薄れてきた。
おかげでこうして学校でマキに見せることもできるようになったというわけだ。
「へえ、大きくなるんだ?」
「うん。なんか、なってる。なんでかわかんないけど」
「ふーん?」
とマキが指を画面に当てる。
毛玉はサッと指から逃れて、マキの指の周りをクルリと回った。
「あはは、じゃれてるみたい」
「本当だ」
これまで、毛玉が私に対してこんな行動をしたことはない。
マキが指を戻そうとすると、毛玉も近づいてくる。
しっかり引きつけてから、指をパッと毛玉へ伸ばすと、慌てたように逃げていった。
「逃げちゃった」
マキが嬉しそうに言う。
「案外人懐っこいね」
「うーん……」
妙にマキに懐いているようなのが、私には不満だった。
ブウウゥン……。
スマホが振動した。
見ると毛玉が画面に戻ってきている。
キュウン、キュウンと鳴いて、パシャリと音がした。
「えっ、いまの写真撮ってない?」
「うそっ!? 写真撮れるの?」
毛玉が自分で写真を撮れるなんて思わなかった。
のぞきこむが、実際に写真を撮ったのかどうかはわからない。
音がしただけかもしれない。
毛玉はしきりに鳴いて、何かをうったえかけていた。
「なんだろう。何かしてほしいのかな?」
スマホを持ち上げるとさらに鳴く。
マキの方へ向けたとき、鳴き声がひときわ大きくなった。
「うーん、写真……? あっ、マキの写真がほしいの?」
キュウン! と鳴いて、ブウウゥン! とスマホが震える。
おそらく肯定の意思表示だろう。
「あはは、私の写真が欲しいんだ? いいよ。撮ってあげて」
マキに言われて、私はちょっと唇を尖らせながら、シャッターを押した。
***
――なんか、かわいくないというか……。
大きくなってきた毛玉に、私は次第に不満を感じるようになっていた。
ブウウゥン……。
こうして歩いているときも、頻繁に画面に現れるようになった。
――態度が横柄というか……。
毛玉が喋ったりすることはないのだが、遠慮がなくなっている気がする。
ちょっとした動きに、そういうものが出るのだ。
――なに考えてるのかよくわからないところもあるし……。
たとえばバラの写真だ。
バラの写真を塗りつぶした犯人は、毛玉だろうと思う。
毛玉が現れるようになってから、起きた現象だ。
塗りつぶしている色も、毛玉と同じ黒。
――バラは毛玉の好きな花だし……。
なぜ塗りつぶすのかはよくわからないが。
黒一色に塗られてしまっているから、写真を切り取ったようにも見える。
――とにかくなんか、この子……。
不満でお腹の下のほうがモヤモヤする。
この毛玉はいつまで私のスマホにいるんだろうと思う。
そもそも勝手に私のスマホを住処にしているのだ。
――あれっ?
目に飛び込んできた光景に、考えていたことが吹き飛んでしまった。
私の視線の先には、丁寧に花が敷き詰められた庭。
以前バラの写真を撮った場所だ。
色とりどりの花が咲き誇って、しかしそこにはあのときのバラが咲いていない。
――あの赤いバラ。なくなってる。
そういえば前にもこういうことがあったっけ、と私は首をひねった。
***
私は机の上に置いたスマホを見つめて、ため息をついた。
人さし指を伸ばして、近づける。
ツンツンと突いて追いやろうとするが、毛玉は動かない。
画面の真ん中に陣取ったままだ。
「あっ、毛玉だね」
「うん……」
「また大きくなってる?」
「そう? うーん、どうだろ?」
マキの声に、毛玉が反応する。
なんとなく、これ以上毛玉に関わってほしくない気分になって、私は手を伸ばして、スマホをマキから遠ざけた。
「ん? どうしたの?」
「うんん……」
説明できなくて、スマホをもとの位置に戻した。
マキが画面をのぞきこんで笑顔を見せている。
ふと、
――食べたんじゃないだろうか。
と思いついた。
バラの写真。
塗りつぶされていたのではなくて、何もなくなった部分が黒く表示されていたのだとしたら。
食べたのだとしたら。
毛玉はバラを食べるのだとしたら。
だから、毛玉は大きくなった。
だから、バラにやたらと反応していた。
だから、バラの写真だけが黒くなった。
だから、庭からバラが……切り取られたように、根こそぎなくなってしまった。
食べられてしまったから。
――なんて、そんなわけないか。
そんな妄想をしてしまうくらい、私は毛玉のことが嫌になってきていた。
***
薄れていた記憶をなんとか掘りおこして、私は道を歩いていく。
――たしかこっちだったはず。最初に写真を撮った家を通り過ぎて……。
向かう先は、2番目にバラの写真を撮った、あの庭だ。
――白くてキラキラして、堂々と咲いていて、マキみたいなバラ……。
あのバラの姿は、頭の中にはっきりと残っている。
あのバラがすぐに散ってしまうなんて、あり得ない。
きっとまだ咲いているはずだ。
ひとつ目とみっつ目のバラは、たまたま枯れてしまったのだ。
――道順は合ってると思うんだけど……違ったかな?
私の足が止まった。
記憶は正しかった。
あの庭だ。
そこにあったのは、茎だけのバラだった。
***
ドキドキと心臓が音をたてている。
――そんなことってあるかな……。
だが写真を撮ったバラは、すべて茎だけになってしまっている。
――気持ち悪い……。
毛玉のことをそう思って、しかし私にはどうしても納得できなかった。
毛玉がスマホの中の写真を食べたとして、それで現実に咲いているバラまでどこかへ消えてしまうというのは、やはり腑に落ちない。
そんなことが起きるとは思えない。
――うーん、もう一回試してみたら……。
スマホを握りしめて、私はそんなことを考えていた。
視線の先には、やはりバラ。
アーチ状の支柱にバラを這わせて、ゲートのようになっている、素敵な庭だ。
ゲートの飾りつけをするように、小ぶりのバラがチラホラと咲いているのが、センスの良さを感じさせている。
考えながらあてもなく歩き回っているうちに、この庭を見つけたのだ。
――これでまたバラがなくなってたら、もう偶然じゃないよね。
ゲート全体を納めるようにして、シャッターをきる。
偶然なんだろうな、とも思っていた。
写真を確認すると、庭に繋がれた犬も写り込んでいた。
コリーだろうか。
毛の長い中型犬だ。
――この庭にこの犬って、なんかすごい……。
本当に雰囲気のいい庭だ。
雑誌の中のちょっとした特集に出てきてもおかしくない。
できすぎていると感じてしまうくらいだ。
――将来こんな庭のお家に住めたらいいなあ……。
そんなことを考えながら、その場を後にする。
10メートルほど歩いたところで、音が聞こえた。
ゴキュッ。
いままで聞いたことがない音だった。
だが、それが普通の音ではないことだけは、はっきりとわかった。
何かを潰したような。
何かを無理やり千切ったような。
理不尽な力が働いたことを思わせる。
生き物が、命のあるものから、ただの物に変わる瞬間。
そのときの。
音。
私はそっと、振り返った。
なぜか息を殺して、静かに。
背後のあの庭を。
女性が立っていた。
悲鳴をあげていた。
赤い何かが見えた。
それ以上、見ていられなかった。
一瞬で私の喉はカラカラになっていた。
はやくその場所から遠ざかろうと、私はひたすらに足を動かした。
***
自分の部屋に戻って、ようやく少しだけ、落ち着きを取り戻した。
――あの赤色って……。
スマホの、写真のフォルダを確認する。
ついさっき撮った写真。
素敵なアーチの庭の写真は、やはり黒く塗りつぶされたようになっていた。
バラがあった部分は真っ黒。
そして、その後ろに写り込んでいた、犬も。
首から上が黒く塗りつぶされている。
胴体だけが、写真に残っている。
――やっぱりあの赤いのって、血だったんじゃあ……。
胴体だけの犬。
それを見て悲鳴をあげる女性。
そんな風に見えた。
毛玉が画面に現れて、ブウウゥンと震える。
満足げな様子で。
ひとまわり大きくなって。
――なんなの、この毛玉……。
気味が悪くて、どうしたらいいのかわからない。
ふと、思いつく。
――写真……マキの写真。
毛玉はマキの写真を欲しがっていた。
私は写真を撮ってしまった。
頭が真っ白になる。
息が止まりそうになる。
スマホに手を伸ばす。
思い切り、指で毛玉を押さえつけた。
「あんた、どういうつもりなの!」
思わず叫んでいた。
「マキを、マキの写真をどうするつもり!」
抵抗するようにブウウゥンと、毛玉が震える。
――アンインストール……。
できるかはわからない。
だがこんなものを、私のスマホの中においておくわけにはいかない。
――押さえたまま、画面の外までずらせば……。
アプリをアンインストールするときの動作を再現しようとする。
――あっ……。
汗で濡れた指先が、つるりと滑る。
スマホの画面が一瞬真っ黒になる。
すぐに白くなって、電源ボタンがチカチカと瞬く。
そして元通りのホーム画面に戻った。
まばたきも忘れて、私は画面に目を凝らした。
毛玉がいなくなった。
しばらくそのまま待っても、何も起きない。
――写真、写真!
急いでフォルダを開く。
何枚かあるマキの写真におかしな様子はない。
黒く塗りつぶされたのはバラの写真だけ。
――はやく、いなくなってるうちに!
マキの写真を削除する。
削除しますか?
はい。
削除しますか?
はい。
削除しますか?
はい。
続けてほかの写真も、全部削除する。
フォルダが空っぽになった。
――これでひとまず大丈夫なはず……。
肩で息をしながら、スマホをにらみつける。
いつまで待っても、画面に変化はなかった。
***
それから毛玉が私のスマホに現れることはなかった。
***
「あっ、元気でてきた?」
「ん? なにそれ?」
「だってなんか、最近元気なかったじゃん」
「あはは、そんなことないよー」
「そっか、まあそれなら良かった」
マキに心配されるくらい、不安な日々を過ごして、それでも毛玉は現れなくて、きっと削除できたんだと、私はそう思うようになっていった。
***
学校の正門から職員室へ向かう道は、両側が花壇になっていて、どこかよそ行きの、生徒が過ごす空間とは違った雰囲気の場所になっている。
その一画で私は立ち尽くしていた。
たまたま職員室に用事があって、そして見つけてしまったのだ。
植物の茎だけが並んだ花壇。
たしかここには、バラが植えられていたはずだった。
花だけが、残らずなくなってしまっている。
***
そうだ、アンインストールしたのなら、確認のチェックボックスが現れるはずだ。
写真を削除したときのように。
あのとき指を滑らせたのは、アプリのアイコンの上でなかったか。
それがメールのアプリだとしたら。
毛玉がメールのアプリに潜り込み、メールを伝って逃げたのだとしたら。
学校の誰かのスマホに入っているのだとしたら。
あの大きさで、毛玉は犬を食べてしまった。
だとしたら、あれから時間がたったいまなら。
花壇のバラを食べてしまったいまなら。
今度こそ――。
***
頭の中を様々な想像が駆けめぐる。
少しの間うわの空になっていたようだ。
ブウウゥン……。
何かが震えるような、どこかで聞いたような音が聞こえた。
私は背後をふり返る。
そこには女の子が立っていた。
たぶん同じ学年の生徒だ。
名前はわからない。
手に、スマホを持っている。
「あっ、この人でいいんだ?」
画面に向かってつぶやいている。
返事をするように、ブウウゥンと、また振動音が聞こえた。
「やっと見つけた」
女の子はちょっと笑って、スマホを私の方へ向ける。
「じゃあ、写真を撮りますね」
私が答える前に、パシャリというシャッターの音が聞こえた。




