ユキノテ
12話あらすじ
ある雪の日、私は友人の恵利から、ユキノテの話を聞いてしまう。
「ねえねえ、ユキノテって知ってる?」
「ユキノテ? 知らない」
恵利の問いに、私は窓の外を見つめたまま、首を振る。
外では雪が降っていて、景色は至るところに白色を乗せていた。
太陽の光を反射した冷たい輝きが、少し眩しいくらいだ。
外界から遮断された教室の中は、もちろん暖かい。
だが登校中の寒さを思い出し、窓からその寒さがじわじわと冷気と共に伝わる想像をすると、本当に足の先が冷たくなってくる。
ブルッと身体を震わせて、ブランケットを膝にかけ直した。
雪が積もる天気とはいえ、私は女子高生。
こんな日でもスカートから素足をのぞかせなければならないのが女子高生の辛いところだ。
世の厳しさを嘆きながら、鞄からチョコレートを取り出し、ひとつ口に放り込む。
「あー、また持ってきてる。没収されるよ?」
「されないよ?」
チョコレートの箱をブランケットの下に隠す。
これで担任の男性教師は手も足も出なくなる。
「さ、確認してください。チョコレートなんてどこにあるんですか?」と私が言い張れば、諦めるしかない。
ブランケットの下に手を差し込むなんて、男性教師にはできるはずがないのだ。
こういうちょっとした生活の知恵を、私は高校生活で学んだ。
「んー、でもこないだ没収されてたじゃん」
「あれは油断しただけ。今度は大丈夫」
「女子高生の食べかけのお菓子がそんなに欲しいんですかー? そういう趣味なんですかー?」と粘ってみたが、相手は平然としていた。
学校の教師をやっていれば、あれくらいの揺さぶりには慣れてしまうのだろう。
なかなかの強敵だ。
「ところでユキノテって?」
「ああ、あのね、雪が積もること、あるでしょ?」
「うん」
と私はまた、外の景色を確認した。
まだ雪は降っている。
冬の間、いつもこうして雪が降るわけではないが、それでも積もるときは積もる。
「歩いてて、いままで普通に歩けてたのに、急に雪の中にズボッと足が入ること、ない?」
「えっ、あるよ?」
足が沈んだときの驚きと冷たさを思い出し、頷く。
「それが、ユキノテ」
「はあ?」
と私は首をかしげた。
***
ズンと足が沈んだ。
あっと大声を出しそうになり、ギリギリで飲み込み、姿勢を立て直す。
驚きのすぐ後には、寒さが襲ってくる。
足が冷たい。
締めつけるような雪の圧力が、さらに冷たさを感じさせている。
身体の内側から侵食してくるような冷たさだ。
慌てて足を引き上げようとしても、なかなかうまくいかない。
雪の中にスッポリと埋まったままだ。
動かない。
まるで何かに足を掴まれているように。
散々苦戦して、ようやく足を抜くことはできた。
足元には穴ができている。
私の足の形の穴だ。
――危なかったー。転けるかと思ったよ。
ふう、とため息をつくと、白い空気が広がる。
――これから学校なのに、濡れたら最悪だよね。
レインブーツを履いているから、足は濡れていない。
だが転んで手をついたりしたら、手袋が湿ってしまう。
スカートに雪がかかるのも嫌だ。
少し湿るだけで、途端に服は冷たく、私の気分を落ち込ませるものになってしまう。
――ただでさえ、スカートで寒い思いをしてるのに……。
ふと、足元の穴を見下ろした。
恵利との会話が頭に浮かぶ。
――って、どんな話をしたんだったっけ? 急に足が雪の中に沈むっていう話をして……。
話の内容がどんなものだったかを考えながら、穴をのぞきこむ。
穴の中は暗い。
そのせいで、何かがあったとしても、私にはわからない。
***
「急に足が沈む理由って何だと思う?」
「雪が柔らかいからでしょ」
「それもあるかもだけど、それだと急には沈まないでしょ?」
「へ? なんで?」
「んー、もう!」
恵利の話によると、雪が柔らかいなら、歩くたびにズボズボ足が沈むはずらしい。
――まあ、それはそうかも。
と私は頷く。
「だから、普通に歩けてたのに、急に足が沈む場所があるときは、特別な理由があるってこと!」
「えーと、雪に固いところと柔らかいところがあって、それで沈むんでしょ」
「だから、それなら、なんで固いところと柔らかいところがあるのかってことよ!」
「えー、何それ? わかんないよ」
私は首を振った。
いままで深く考えてこなかったが、たしかに急に足が沈むようになる場所があるのは不思議だ。
ある程度均一に、同じような固さに降り積もるのが普通に思える。
だからといって、足が沈む理由はわからない。
「あのね、雪の固さは、関係ないの」
「うん? どういうこと?」
「引っ張ってるの。誰かが」
恵利が私に向かって手を伸ばし、空中をグッと握って掴む真似をする。
恵利の指は細い。
血が通っていないんじゃないかと思うくらい、白い。
掴みかかろうとする仕草は、妙に迫力がある。
「え? え? どういうこと?」
「だから、雪の中から誰かがバッと手を伸ばして、グイッと引っ張ってるの。それで急に足が沈むの」
予想外の話に私は混乱した。
恵利の言葉に合わせて、私の頭に、ある光景が浮かぶ。
雪の中から白い腕が突き出し、足を掴む。
掴まれた足は、雪の中に引きずり込まれてしまう。
引きずり込まれたのは、私の足だ。
「ユキノテが足を引っ張ってるの」
***
私は穴を見下ろして、混乱していた。
「嘘、嘘、嘘でしょ」
周りの雪が崩れて、暗かったはずの穴に、ちょうど光が差すようになっていた。
穴の底が見える。
白い手が、地面から突き出されていた。
何かを掴もうとするかのように、細い指を伸ばしている。
「人っ? ええっ?」
ペタリと座り込んで、私は震えた。
寒さにではない。
寒さも、雪で濡れてしまうことも、頭の中にはない。
あるのは今見てしまった光景だけ。
「あっあっ」
何度も口を開き、渇いた喉から言葉にならない声を出す。
――そうだ、誰か呼ばないと。あれは人の手だ。もしも人が埋まっているのだとしたら大変だ。
「誰か! 誰か来てください!」
叫びながら見回しても、誰もいない。
白い景色はどこまでも続いていて、周囲には民家もない。
通り過ぎる車もない。
穴の底にあった白い手。
固まったように動かなかった。
だが、人間の手だ。
死んでいるのかもしれない。
「嫌っ! 誰か!」
何度叫んでも、誰も来ない。
私はもう穴には近づきたくない。
私は見たくない。
私には何もできない。
誰も来ないから、そこには私と白い手しかいない。
***
「でね、その腕がなかなか離してくれないから、足が抜けないの」
「うーん、ズボッてなることはあるし、なかなか抜けないこともあるけど……」
「でしょ? もしかしたらユキノテに捕まってたのかもよ?」
「何なのそれ? 聞いたことないよ」
そう言いながら、寒さが足から背中へ伝ってきているのを感じた。
雪の中から手が出てくるなんて、想像したこともなかった。
「何かに引っ張られたのかなあって、穴の中を確認したこと、ないでしょ?」
「……ないよ」
「みんなそう。だから、ユキノテのことは知られてないの」
「ん……。この話、止めよ」
と、だんだん気味が悪くなってきた私が言う。
喋るのに合わせて恵利がグッと掴むジェスチャーをするのも、気持ちが悪い。
「うん。でもね、大事なことがあるの」
「……何?」
「もしもユキノテを見つけちゃったら、その場から離れちゃだめなんだって」
「え、なんで……? 気持ち悪いから逃げるよ?」
「だめだめ。逃げたらだめなんだって。そういう決まりなの」
***
スマホの電池が切れそうで、充電したまま、家を出てしまっていた。
だからいま、私はスマホを持っていない。
「どうしよう……」
声に出しても、誰も何も言ってくれない。
いくら待っても誰も通りかからない。
穴にはあれから近づいていない。
どうしても、中を見たくない。
考えるのも、嫌だ。
人かもしれない。
人が雪の下にいるのかもしれない。
人ではない何かがいるのかもしれない。
「嫌だよ……。誰か助けてよ……。私には無理だよお……」
涙が溢れてきそうになる。
子供のように泣くのをなんとか堪えて、しかしどうすればいいのかわからない。
私にできることなど何もない。
雪をかき分けて、あの手の先に、埋まっているはずの何かを掘り返す。
そんなこと、できるはずがない。
近づいただけで、また掴まれるかもしれないのだ。
ハー、フー、と大きく息を吐いて、なんとか気持ちを落ち着ける。
あそこに誰かが埋まっているとしたら、やはり掘り返さなければならない。
――死体が埋まっているとしたら……。
考えて、寒さが身体を駆け上がってくる。
ガチガチと歯を鳴らしながら、私は首を振った。
嫌だ。
なんで私が。
やりたくない。
なんでこんなことに。
私の頭の中を様々な言葉が駆け巡る。
もしも生きている人が埋まっているとしたら、という可能性だけが、かろうじてここに私を留まらせている。
モコッと雪が膨らみ、すぐに崩れた。
崩れた場所に、穴ができた。
最初の穴のすぐ近く。
最初の穴が右手だとしたら、ちょうど左手にあたる位置だ。
張り詰めていたものが、限界を超えて、破裂してしまった。
「嫌あああー!」
私は声を出して、ボロボロと涙を流した。
「嫌だあああ。誰か、誰かー!」
みっともないなどという考えは、もう頭の中にはない。
この大声に、誰かが気づけばいい。
気づいた誰かが助けてくれればいい。
私はひたすらに、声を出して泣いた。
***
スゥーと自動ドアが開く。
――こんなところにコンビニがあったんだ。
外とは違う暖かい空気と、ようやく人がいる場所にたどり着いたという安堵で、また涙が溢れてくる。
コンビニの中に、客はいない。
私だけだ。
カウンターの店員が、私を無表情に見つめている。
「助けて……。雪の中に手が……」
なんとか口を開くが、店員は無反応だ。
一歩カウンターに近づいて、もう一度言う。
「あの……あっちで、手が……」
うまく説明できない。
また涙が溢れそうになる。
不意に店員が私の手を掴んだ。
店員の手は、冷たい。
「えっ、なん……で……?」
店員の手は白い。
店員の手は細い。
どこかで見たことがある手だ。
振り払おうとしても、振りほどけない。
私の手を掴んだまま、固まったように動かない。
「ユキノテを見つけちゃったら、その場から離れたらだめなんだって」
恵利の言葉が脳裏に浮かぶ。
店員は無表情のままだ。
冷たい手が私を少しずつ、引っ張っている。
***
「うっ、うっ。嫌だあ」
私は涙を流して、いつまでも動けなかった。
「ユキノテを見つけちゃったら、その場から離れたらだめなんだって」
恵利の言葉が浮かんで、余計に動けなくなる。
「じゃあどうすればいいのよう……」
恵利の話には続きがあったはずだ。
「ユキノテから逃げちゃだめなの」
「なんでよう。そんなの無理だよ」
「いいから。で、逃げないでどうするのかっていうと」
「うん」
「掘り起こせばいいの」
「え……?」
「ユキノテを見つけちゃったら、その場に残って、ユキノテを掘り起こすの」
真剣な表情で恵利がそう言ったことを思い出す。
そろそろと、私は穴に近づいた。
穴の中をのぞきこむ。
あった。
白い手が、雪の中から突き出している。
息を殺して観察する。
手は動かないままだ。
静かにしゃがみこみ、地面の雪をすくってみる。
柔らかいのは表面だけだ。
手のひらいっぱいにすることもできない。
遅れて冷たさが、指を痺れさせる。
「無理だよお……。掘れないよ……」
私がつぶやいた瞬間、穴の周りの雪が崩れた。
悲鳴をあげて、飛び上がる。
チラリと見えた穴の中の指先が、微かに動いていた気がした。
どこかで見たような指先。
いまにも私に掴みかかってきそうな、白い指先。
私はその場にしゃがみこんだ。
もう何もしたくない。
動物の鳴き声のような嗚咽を漏らした。
***
――そうだ。そうすればいいんだ。
突如として訪れた閃きに、私は立ち上がる。
大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
頬の涙も拭う。
――簡単なことだ。そうすれば良かったんだ。
ゆっくりと穴に近づく。
まだ何の反応もない。
――穴ができるのは雪が柔らかかったからなんだ。
手前で立ち止まり、地面の雪をすくう。
一度では足りない。
何度も繰り返して、雪を集める。
――こうすれば、すぐに済むことだった。
集めた雪を抱きかかえるようにして、穴へ放った。
穴が雪に埋まり、見えなくなる。
私の息が荒くなる。
――これだけじゃだめだ。
さらに雪を集めて、穴があった場所に乗せる。
同時に、雪を上から叩いて、固く押しつぶす。
一心不乱に繰り返す。
私の息がさらに荒くなる。
気がつくと、地面が平らになっていた。
しっかりと雪が積もった、固い地面だ。
穴の痕跡は、どこにもない。
もちろん、雪の中から突き出す手など、見当たらない。
――最初から、何もなかったんだ。
何もなかったから、怖がる必要も、私が何かをする必要もない。
荒い息のまま、私は何もない地面に背を向け、学校へと歩きだす。
カサッ。
背後で音が聞こえたような気がする。
……り……てよ……。
微かな声も聞こえたような気がして、私は地面を勢いよく踏みつける。
私のたてた足音が、背後の音をかき消してくれる。
しばらく歩いても、まだ何かが聞こえているような気がした。
振り払うように、私はひたすらに、歩き続けた。
***
ねえ、絶対だよ? 真面目に聞いてる?
うん。聞いてる。
大事なことなんだからね。
うん……うん。
ユキノテを見つけたら、ちゃんと掘り返して欲しいの。
もう、わかったからあ。大丈夫だって。
ちゃんと掘り返してよ?
うんうん、掘り返すから。
約束だからね。そうじゃないと、……私が困るんだからね。




