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学校のかわい……怖いお化け

1話あらすじ


学校にお化けが住んでいる。

そんな噂が流れた学校で、つぎつぎと異変が起こる。

それに巻き込まれた私の友人が、学校に来なくなってしまう。

友人に安心して学校に来てもらうために、私はお化けに会いに行くことを決める。

 その噂を聞くようになったのは先月の初め頃からだったと思う。


 ――私たちの学校にお化けが住んでいる。


 教室で、廊下で、メールのやり取りで。

 噂はいつのまにか広まっていた。


 それは、たいていが夜中に学校の前を通った人の話だった。


 ぎらぎらと輝く小さなヒトダマを見たとか。

 赤ん坊のような奇妙なうめき声が聞こえたとか。

 暗闇の中で何かが動いていたとか。


 よくある噂だった。

 どこかで聞いたような話だった。


 友達が実際に見たらしいんだけど、という出だしで。

 だけど実際に見た本人はいなくて。


 だから、誰も本気にしていなかった。

 そういう噂があるらしいね、と聞き流すだけだった。


 唯一不思議なのは、噂の出所がわからないということだけだった。

 これだけ噂が広がっているのに。



 ***



 そうしてしばらくは何事もない日が続いた。

 だが、いつからか、異変が起きはじめた。



 最初の異変に気づいたのは席替えのときだ。

 廊下側の壁際の席になった子が悲鳴を上げた。


「なによ……! なんなのよ、これ!」


 その子が見ていたのは教室の壁だった。

 床から30センチくらい。

 机といすに隠れて席替えのときくらいしか目に付かない場所だ。


 壁には爪で引っかいたような跡がついていた。


「なんでこんな跡が……?」


「誰かが引っかいたのかな?」


「それにしては……見てよ、ここにもある」


「これ、おかしいでしょ……」


「うわ、本当だ。気持ち悪い……」


 思わず誰かが口にした。

 ちいさな悲鳴も聞こえた。


 それもそのはずだった。


 壁に残っている爪跡。

 それは一度や二度、引っかいてできたものではなかった。


 壁のその部分だけ、ぼろぼろになっていた。

 何度も繰り返し引っかいたような跡だった。 

 塗装がめくれて、たくさんのこぶになっていた。


 そんな場所を爪で引っかく生徒がいるはずはない。

 ましてや、壁がぼろぼろになるまで続けるなんてこと。

 爪がはがれて、血まみれになってしまう。


 だが、爪跡はたしかに、壁に刻まれていた。


 ガリガリッガリ、ゴリゴリ。


 爪跡からそんな音が聞こえてくるようだった。



 異変はそれだけでは終わらなかった。


 黒板のチョークが撒き散らかされていた。

 置き忘れた教科書の隅が破かれていた。

 床に何かの染みが残っていた。


 どういうわけか私たちの教室でだけ、異変は続いていた。



 イタズラにしては目的が不明だった。

 特別、誰かを標的にした嫌がらせでもないようだった。

 怖がらせようとしているのかどうかもよくわからない。


 ただ遊んでいるだけのような、目的のない異変。


 それがかえって不気味さを際立たせていた。

 本当にお化けがいるのではないか。

 そうクラスの皆が思うようになっていた。



 ***



 それからも教室での異変は続いた。


 そして、ついに――


 私の友達、真由美が被害に遭ってしまった。



 真由美は病弱な子だった。

 肌の色がとても白くて、いつも体調の悪そうな顔色をしていた。


 体育の授業も休みがちだった。

 なにもないところで、ふらふらとよろめいてしまう子だった。

 貧血で倒れたところを保健室に連れていったこともあった。


 真由美はひどく気の弱いところもあった。

 誰かがお化けの噂話をしようとすると、


「やめてっ!」


 と青白い顔をして耳をふさいでいた。



 異変が起きてからは、噂話を聞くことは少なくなった。

 人を驚かせて、からかって。

 そうして面白がることはもうない。

 気味が悪くて、誰も口にしようとしない。

 口にすると、どこからかお化けが現れる気がするのだ。



 だが、真由美はますますおびえるようになった。


「絶対いる……。何かがいるんだよ」


 ブツブツとつぶやく。

 そして、きょろきょろと教室を見回す。

 そんなことが多くなった。

 顔色はますます悪くなっていった。





 私たちの学校では黒の手提げカバンが通学用として指定されている。


 真由美の通学カバンには、ネズミのぬいぐるみがぶらさがっていた。

 手のひらに収まるくらいのサイズだ。


 ネズミなのに人間のように服を着てポーズをとっている。

 ぬいぐるみのその姿はとてもかわいらしいものだった。


 登校時に真由美を見かけると、いつもそのネズミが揺れていた。



 ネズミのぬいぐるみは真由美のお気に入りだった。

 教室に入るとすぐにカバンから取り外していた。

 そして、ポケットに入れて、肌身離さず持ち歩いていた。


 ある日、それを教室に忘れて帰ってきてしまったらしい。


「どうしよう。明日は早く学校に行って探さなくちゃ。

 早起きしよう。私、もう寝るね」


 そんなメールをもらったことを覚えている。



 メールの次の日の朝、私もいつもより早く家を出た。


 朝の人気のない教室。


 そこで、私は座り込んでいる真由美を見つけた。

 うつむく真由美の目の前には、あのぬいぐるみが落ちていた。

 真由美のお気に入りのぬいぐるみだ。


 だがそれは、私がいままで目にしていた姿とは違っていた。


 首から上だけのネズミ。

 それは目玉が取れて、表情をなくしていた。

 バラバラになっていた。


 ――いったい誰がこんなことを。


 そう思って、教室を見回した。

 そして気づいた。


 ぬいぐるみはただバラバラになっていただけではなかった。


 頭をなくした首の穴から、中の綿が撒き散らされていた。

 胴体は原形をとどめていなかった。

 手足はちぎれて別の場所に落ちていた。

 ちぎれた部分はギザギザになっていた。


 ――ギザギザに。


 そんな風にちぎれる理由を考えて、私は息を飲んだ。


 ハサミやナイフで切ったわけではないのだ。

 人形は、喰いちぎられていたのだ。

 喰いちぎって引きずり回した。

 だから中の綿も撒き散らされた。


 それはまるで、獲物をいたぶり、遊んでいるような行動だ。


 どう考えても、ただのイタズラではなかった。

 こんなこと、普通の人間にできるわけがない。


 ――これは人間の仕業じゃない。お化けがやったんだ。


 あの光景を見れば、きっと誰もがそう思っただろう。

 真由美もそう思ったようだ。

 ガタガタ震えながら、小さな声で悲鳴を上げ続けていた。



 真由美は翌日から学校に来なくなった。



   ***



 明子も私と同じクラスの友人だった。

 いつも彼女と真由美、三人で休み時間を過ごしていた。


 三人だと会話が止まることはなかった。

 競うようにしゃべって、なんでもないことで笑いあっていた。


 放課後の教室に残ってしゃべることもあった。

 休み時間だけではとても足りなかったのだ。


 家に帰ってからはメールのやり取りもした。

 眠る直前まで、それは続いた。

 私たちはいつも一緒だった。


 それがひとり減ってしまった。


 二人になってしまった。





 私たちの会話は途切れがちになった。


 真由美が学校を休むようになってから、話は弾まない。

 話している途中で、どうしても真由美のことを思い出してしまう。


 ――真由美はいま、なにをしているんだろう。


 バラバラになってしまったぬいぐるみのことも頭に浮かぶ。


 喰いちぎられたぬいぐるみ。

 頭が外れて、手足は胴体から遠く離れたところに転がっていた。


 あの光景が脳裏に焼きついていた。



「ねえ、明子。今日も真由美、学校に来なかったね」


 昼休みの教室で、私は明子にそう話しかけていた。


「そうだね……真由美、来ないね」


 明子はその話――真由美の話はしたくない、という態度だった。


「あの人形……やっぱり、お化けのしわざなのかな?」


「ちょっと、やめてよ! そんな話」


「どうして? 

 親友の真由美が学校を休んでるんだよ? 心配じゃないの?

 あの人形がばらばらにされたのが原因なんだよ?」


「だって……」


 明子は私から目をそらした。そして、


「次はぬいぐるみじゃないかもしれないんだよ……」


 とつぶやいた。

 私は喰いちぎられたぬいぐるみの無残な姿を思い出した。


 中の綿が飛び出ていた。

 教室の床に撒きちらかされていた。

 その光景に、人間の姿を重ねる。



 たまたまぬいぐるみが被害に遭っただけで、次は人間かもしれない。

 次に撒き散らされるのは、人間の内臓かもしれない。


 明子の言うとおり、そんな噂が流れ始めていた。



「でも、このままじゃあ真由美は学校に来れないよ」


「そんなの、だって……どうしようもないじゃない」


「そうかな? お化けがいなくなればいいんだよ」


「……どういうこと?」


「私たちで、お化けに会いにいこう。

 お化けに会って、どこかに行ってくださいって、頼もう。

 なにか心残りがあるんなら、私たちでそれを解決しようよ」


「冗談でしょ……」


「冗談じゃないよ」


 私はカバンからピンポン玉くらいの大きさの石を取り出した。


「これ、すごく力の強いパワーストーンだって。

 いとこからもらったんだ」


 私には、パワーストーンは本物のように思えた。


 手に持っているだけで、何かが感じられる。

 石が脈を打っているようだ。

 波動のようなものが、私の手のひらに流れ込んでいるのがわかった。


「これがあるから大丈夫だよ。私たちのことを守ってくれるよ。

 ほら、ね、お化けのところに行こう」


「行かない!」


「でも、このままじゃあ真由美が学校に来れないんだよ」


「そんなこと言ったって。だって……」


 明子はうつむいてしまった。


 真由美のことが心配だ。

 でも、お化けは怖い。

 その二つの感情で、揺れ動いているのだろう。


「わかった。

 急にこんなこと言ってごめんね。すぐには決められないよね」


 私は明子の瞳を見つめながら言った。


「明日まで待つからね。今日はゆっくり考えて。

 それで返事を聞かせて。明子がどうしたいか」


「……うん」


 明子は顔を伏せて、私と目をあわせようとしなかった。


 その日のメールのやり取りはなかった。

 私がメールを送り続けただけだった。



   ***



 翌日、明子の目の下には隈ができていた。


「もうわかったよ……。お化けに会いに行こう……」


「そうだよね。真由美が心配だものね」


 私は大きくうなずいた。


「でも、会いに行くって、どうするの?」


「お化けの噂、覚えてる?」


「うん……」


「お化けに会った人はいない。

 だけど、夜中の学校で何かを見たっていう話はたくさんあったよね。

 だったら、夜中の学校へ行けば会えるってことだよね」


「そういう噂もあったけど……。

 ねえ、ウソでしょ……。そんなことしないよね?」


「大丈夫。ちゃんと考えてあるから」


 私は明子を女子トイレに引っ張っていった。


「この女子トイレの窓。ここの鍵を開けておくの」


 トイレの窓は、クレセント錠だった。

 レバーを上げると金具が噛み合い、鍵が締まる。


 窓を少し開けて、金具のない場所でレバーを上げる。

 そのまま無理やり窓を閉めると、一見鍵が締まっているように見える。

 私の思ったとおりになった。


「ここなら外から入るとき、樹の影に隠れるから入りやすいでしょ。

 中からも鍵を開いてることがわかりにくいし、たぶんうまくいくと思う」


「窓を開けてどうするの……? うまくいくって?」


「夜、お化けに会いに行くんだよ。学校の中に入るの。

 私の話、きいてたでしょ?

 鍵が開いていれば、夜中に学校の中に入れるよ」


「そんなの、やっぱりやめようよ……」


 明子が腕をひっぱり、トイレから離れようとする。


 私は明子の顔を覗き込んだ。


「真由美が心配じゃないの?」


「それは……心配だけど」


「じゃあ、やろう。今日の夜、この女子トイレの外で待ち合わせね」


「えっ……今日……」


「待ってるからね、明子。一緒に来てくれるよね?」


 私が肩をつかんで揺さぶると、明子は黙って、コクリとうなずいた。



   ***




 夜の学校は静かだった。

 ゴオォーという風の音だけが聞こえていた。


 通り過ぎる風の感触が心地よかった。

 何かに優しく肌を撫でられているようだった。 


「ごめん……待った?」


 暗がりから明子が顔を覗かせた。


「待ったよ。来ないかと思った」


「来たくなかったよ……。

 でも、そうなったらうちまで迎えに来るだろうし……」


 明子の手元でカチッという音がした。

 光の柱が浮かびあがる。

 懐中電灯だ。


「用意がいいね。明子」


「暗いの嫌だから……。

 私が持ってこなければ真っ暗なまま入るつもりだったでしょ……」


「そうだね」


 と私はうなずいた。


「じゃあ入ろうか」


 トイレの窓の鍵は、開いていた。

 施錠のチェックをする教師も、ここの鍵は見落としたらしい。

 私の予想通りだった。


「開いてるんだ……」


 背後で明子がつぶやいていた。


 順番にトイレの窓を乗り越えたとき、奇妙な音がした。


 ジャリッ。


 小さな石がこすれたような音だった。

 そんな音がする心当たりはない。

 トイレの中もおかしな様子はない。


 ――気のせいだったかな。


 私たちは足音を立てないようにしながら、トイレを後にした。


「教室に、行くんだよね……」


「そうだよ。私たちの教室。たぶん、お化けがいる場所」


 私たちは長い廊下を教室へ向かって歩いた。


 誰もいない夜の学校は、とても静かだ。

 足音がやけに大きく聞こえて、自然と忍び足になる。


「あれ、なんだろう……」


 明子が言った。

 指差す先は、ちょうど私たちの教室の前の廊下だった。


 そこにガラス玉のようなものが光っていた。

 空中に二つ、並んでいる。

 光の玉が浮いているのだ。


 私たちが見ていると、それはふわっと動いて、教室の中に入っていった。


「見た、よね……」


「見たよ」


 私は答えた。


「あれって……」


「お化けだろうね」


 私はうなずいた。


「たぶんお化けの目だよ。横に二つ並んでたでしょ。

 教室に入っていったから、いまは教室の中にいるってことだね」


「いや、私、もう……」


「帰るの? 帰るならひとりで帰ってよね。

 せっかくお化けを見つけたんだし、私は会ってくるよ」


「ひとりでって……無理だよ……」


「あと、もし帰ったら一分おきにメールを送信し続けるからね」


「それ、本当にやるでしょ……行くよ……」


 明子は覚悟を決めたようだった。

 だが、私の背中に隠れるようにしている。

 首筋に明子の暖かな息がかかっていた。


「じゃあ、入るよ」


 暗い教室の中には、生き物の気配がしていた。

 こちらの様子をうかがっているようだった。


「どこ?」


 踏み出した足をいすにぶつけて、ガタッと音をたててしまった。


「ひぃぃ……」


 明子が声を上げる。


「大丈夫だよ。私が足をぶつけただけ」


 明子を安心させるためにそう言った。


 ――でも、警戒されたかもしれない。


 暗闇の中で、何かが私を見つめていた。

 その気配を感じて、もう動くことができなかった。



 ふいに、教室へ光が差し込んできた。

 月の明かりだ。


 教室の中をぼんやりと、照らしていく。

 わずかな明かりでも、暗闇に慣れた目には十分だった。

 私たちを見つめるものの正体も浮かび上がった。


 それは猫だった。


 黒と茶色の、サビ柄の、猫のお化けだった。


 頭を低くして、ゆっくりと私たちに近づいてくる。

 足音はしない。

 お化けだから。



 明子が静かに腰を落ろした。

 私もそれに続いた。


 ――相手が猫のお化けなら、たぶんそうしたほうがいい。


 目線を低くして、動かない。

 猫に警戒されないための自然な行動だ。


 だがこのときの明子の様子に、私はかすかな違和感を覚えた。



 近づいてくる猫に、明子がそっと指を伸ばした。

 猫が一瞬顔をこすり付けるような動作をする。

 そして――。


 かぷっ。


 猫が明子の指を咥えていた。


「明子!」


「大丈夫……甘がみだから……」


 明子が猫を見つめながら言った。

 慌てる様子はない。

 指を振りほどこうとする様子もない。


「明子?」


「この子、おなかが空いているのかもしれない……」


 自分の体が冷たくなっていくようだった。

 このとき私が感じたのは恐怖だった。


 ――おなかが空いているのだとしたら、いったい何を食べるのだろう。


 この場には猫のお化けと私たちしかいない。

 だとすると、食べられるのは――。


 落ち着いて、冷静に、と自分に言い聞かせる。


 猫は指を咥えたまま明子を見つめていた。

 そして突然、指を離した。


 私は猫のお化けを刺激しないよう、静かに声をかけた。


「明子……いまだよ、逃げて」 


「逃げる? どうして?」


「おなかが減ってるんだよ。食べられるかもしれないんだよ。

 私が気を引いておくから、その隙に逃げて」


「ダメだよ」


 明子の声は、妙に落ち着いていた。

 怖がっている様子はなかった。

 さきほどまでとはまるで別人だった。


「おなかが減ってる子を置いていけないよ」


「なにを……言ってるの? 明子?」


「ねえ、私、何でかわからないけど持ってきてるんだ」


「どういうこと……? 持ってきてる?」


 明子はスカートのポケットから小さな包みを取り出した。


「カリカリ、ポケットに入ってたの」


 透明なビニール袋。

 そのなかにキャットフードの茶色い小さな粒がびっしり納まっていた。

 明子の手のひらで、その包みはジャリッという音をたてていた。


 それを見た私はなぜか自分のポケットを確認していた。

 ポケットの中に入っているはずだ。

 いとこからもらったパワーストーン。


 だが私を守ってくれるはずのそれは、どこにもなかった。

 スカートを押さえた手のひらには何の感触もなかった。


「ほら、食べていいよ」


 明子の動きに合わせて、カリカリが包みからこぼれた。

 猫はにおいをかいで、ほんの少し躊躇してから、それを食べ始めた。


 ごりっごりっ。


 かたいものを噛み砕く音が教室に響いた。


「……それじゃあ、もう帰ろう」


 目的は果たしたのだから、と私は言った。

 カリカリを食べたことで、猫のお化けは満足したはずだ。


 ――たぶん、これでいなくなってくれるのだろう。


 そううまくはいかないかもしれない。

 それでも、この場所を早く離れたかった。


 カリカリを噛み砕く音はまだ続いていた。


「待ってよ。この子だけじゃないんだよ」


 明子が言った。


 視線の先を追うと、黒い影が見えた。

 それは猫だった。

 普通のサイズではない。

 私と同じくらいの大きさ。

 教室の窓辺に、巨大な猫がうずくまっているのだった。


 つやつやとした毛並み。

 夜の暗さとは違う、美しい黒。


 毛皮を通して浮かぶ曲線は、いかにも力強そうだった。

 しなやかな筋肉が、緊張感をもって力を蓄えているのがわかった。 


 瞳は大きく開かれている。

 こちらをじっと見ている。


 ――どうして今まで気づかなかったのだろう。


 もはやここが自分たちが普段使っている教室だとは思えなかった。

 まったく別の場所に感じられた。


 ――この場所は、この黒猫の縄張りだ。


 ほんのわずかでも動いたら、飛び掛ってくる。

 あの大きな腕で、抵抗するまもなく押さえつけられる。

 喰いちぎられる。


 そんな光景が浮かんだ。

 心臓だけがいつもより早く脈を打っていた。



 そろり、と明子が動き出した。

 腰を落としたままの姿勢だ。

 巨大な黒猫に向かって近づいている。


 明子が教室の半分くらいまで行くと、黒猫が上体を起こした。

 警戒しているようだった。


「大丈夫だよ……大丈夫だよ……」


 ゆらり、ゆらり。


 明子のささやきに合わせるように、しっぽが揺れている。


 しばらくして、黒猫が明子に近寄った。

 においをかぐような動作をしている。


「怖くないよ……」


 明子がそう言って、黒猫の鼻筋をなぞった。

 黒猫は大きな瞳をゆっくりと細めた。

 もう警戒していないようだった。


 黒猫が甘えるように、明子の前で体を横にした。

 おなかを向けている。


「もう大丈夫だよ」


 そう言って、明子が私を振り返って、にたりと笑った。



 ようやく――私は気づいた。

 明子の様子がおかしい。

 お化けを怖がっていないだけではない。


 それとはまるで逆。

 お化けに魅入られているようだった。



「明子……」


 私が声をかけても答えはなかった。

 黒猫に夢中になっている。


「ほら、ご飯だよ」


 明子はカリカリを手のひらに乗せていた。

 黒猫が舌をこすりつけるようにして、カリカリをすくいとっている。


「ふふ、くすぐったいよ」


「明子、なにしてるの……?」


「なにってご飯をあげてるだけだよ」


「明子……!」


 私は明子に近づいて、カリカリの袋を取り上げた。


「なにするの?」


「なにって……明子こそなにしてるの。

 わざわざ手からあげなくても、こうすればいいでしょ」


 私はそう言って、カリカリの袋をひっくり返した。


 こぼれたカリカリが床に広がる。

 袋がすぐに空になった。


 黒猫が自然な動きで床に顔を近づける。

 サビ柄の猫も駆け寄ってくる。


 明子はそれをじっと見ていた。


 二匹は夢中になって、カリカリを食べていた。


「こうすれば、すぐに済むことでしょ」


「……そうだね」


「さあ、明子、帰ろう」


 私は明子の手を引いて、教室をあとにした。

 二匹がカリカリを噛み砕く音が、ずっと聞こえていた。



「ねえ、これだけで大丈夫なのかな」


 明子がぽつりと言った。


「どういうこと?」


 ――これだけでは満足してくれないのだろうか。


 カリカリはあげた。

 あとはなにができるだろう、と私は思った。


 明子は教室を振り返りながら首を振って、


「ううん。大丈夫なのかなって思っただけ」


 と答えた。



 明子の足取りはなぜか重くて、まるで帰りたくないようだった。



   ***



 それ以来、教室での異変はぱたりと起きなくなった。

 真由美も学校に来るようになった。



 そう、異変は起きなくなった。

 でも以前と様子が変わったことがある。


 明子が目の下に隈を作るようになった。

 授業中、居眠りをしているのを見かけるようになった。

 私が見るたびに、こくりと首をかたむけている。


 ――明子はどうして眠そうにしているのだろう。


 私は不安になった。


 夜、あまり寝ていないのかもしれない。

 だから教室で眠そうにしている。

 だとしたら――。


 ――夜中、眠らずに、なにをしているのだろう。


 それを聞くのは怖かった。

 想像してしまったから。

 明子がなにをしているのか、どこに行っているのかを。



 それからも明子は毎日眠そうにしていた。

 あるとき、私はさりげなく尋ねてみた。


「ねえ、明子。最近いつも眠そうにしてるよね。

 もしかして……」


「ん? なあに?」


 明子が不思議そうな顔をする。

 その表情が、あの黒猫に重なった。

 目を細めた姿が、そっくりに見えた。


 それ以上質問を続けることはできなかった。


 ――明子はとりつかれてしまったのだろうか。


 私はそう思った。



   ***



 あれから明子の様子が気になって仕方がなかった。

 自然と、私はあの夜のことを思い出すことになった。


 何度も、繰り返し。


 あの鳴き声。

 あの毛皮。

 あの瞳。


 思い出すたびに、頭から離れなくなってくる。

 耳元で、猫の鳴き声が聞こえるようだった。


 あの夜見た、二匹の猫。


 ――もう一度見てみたい。


 そんな気持ちが湧き上がって、たまらなくなる。


 ――どうしてしまったんだろう。あれはお化けなのに。


 あれはお化けなのだ。

 怖いと思うのが普通だ。

 二度と会いたくないと思うのが普通だ。


 ――だけど、あれはかわい……いや、こわいお化けだ。


 自分の気持ちを押し殺すことに、私は必死になった。



   ***



 学校からの帰り道、電信柱の影で何かが動いていた。


 ――なんだろう?


 私が思った瞬間に、それは飛び出してきた。


 茶色と黒。

 サビ柄の猫だった。


 ――あっ、あのときの猫だ。


 駆け寄っても逃げる様子はない。

 私の足に体をこすり付けていた。


 私が触ろうとする。

 猫は手のひらをじっと見つめて距離をとってしまう。


 手を伸ばす。

 するとぎりぎりのところですり抜けていく。


 けれど、遠くに逃げようとはしない。

 また私の足に近づいてくる。


 ――遊んでいるつもりなの?


 少し、楽しい気分になる。

 ちいさく笑みがこぼれてしまう。


 猫がくるりと体の向きを変えたとき、私は気づいた。


 尻尾の長さがちがった。

 あの夜、学校で見た猫よりも尻尾が長い。

 毛皮の色が似ているだけの、別の猫だった。


 ――なんだ、ちがう猫だったんだ。


 そう思ったあと、私は気づいた。


 私は猫を見つけて駆け寄ってしまった。

 触ろうとしてしまった。

 楽しい気分になっていた。


 どうして怖がらなかったのだろうか。

 あの夜の猫だと思っていたはずなのに。

 お化けだと思っていたはずなのに。


 

   ***



 あの夜の記憶の中の猫の姿が頭に浮かぶ。

 学校からの帰り道。

 あのサビ柄の猫を見たことで、さらに頭から離れなくなってしまった。


 姿ははっきり覚えているはずだ。

 なのに、細部を思い出そうとするとぼやけてしまう。


 どんな表情だっただろう。

 どんな模様だっただろう。


 耳の形や、ひげの動き、毛皮の感触。


 想像が膨らんでいく。

 だが、想像は想像でしかない。

 あの夜見たものとはどこかちがうような気がしてくる。


 それが気になって――。


 たしかめたくなる。


 ――帰り道に会ったのは本当に違う猫だっただろうか。


 私に会いに来たのかもしれない。


 そんなことも考えるようになった。


 ――たしかめに行ってみようか。一度だけ。


 そうすればスッキリするのかもしれない。


 考えるほど、それはすばらしいアイデアのように感じられた。

 どうしても、実行しなければならない気がした。



   ***



 学校に近づくにつれて、焦りのような気持ちが私をせきたてていた。


 私はカリカリの小袋を握り締めた。


 ジャリッ。


 自然と早足になる。

 夜の闇の中でなければ、走り出していたところだった。


 校門には見慣れた人影がいた。


「やっと来たんだね」


 明子が私を見て、笑っていた。

 手にはやはり、カリカリを持っていた。


「私は……」 


「かわいいよね……あの猫」


 熱に浮かされているようなぼうっとした表情で、明子がささやく。

 私はそれに返事をすることができない。

 一刻も早く会いたいと、気持ちが焦るばかりだ。


「窓は、開いてるよ」


 明子が言った。

 私はうなずいて、二人で女子トイレに向かった。


 窓の鍵は明子が開けておいたのかもしれない。

 あの猫たちが開けてくれたのかもしれない。


 鍵は、内側からなら簡単に開くはずだから。


「もうすぐ会えるよ」


 首筋に明子の息がかかっている。

 息も言葉も、熱を帯びていた。


「ねえ、会いたかった?」


 明子の言葉に、私は――。


「待っててくれてるよ」


 私は――。



「今度、真由美も呼ぼうよ」


 明子が言った。


 私はうなずいていた。

 もう、明子の言葉を否定することはできなかった。


「そうだね……。きっと喜ぶよ」



 夜の暗闇のどこかで猫が鳴く声がした。

 甘えているような声。

 それは私たちを呼んでいるようだった。


「はやく行ってあげないとね」


 そう言って笑ったのは誰だっただろう。

 私だったかもしれない。

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