君の声が聞きたくて
お盆になると、ふっと思い出したかのように実家へと帰省する。
片道一時間一本という怠けっぷりを見せる電車に揺られ、青年が降りた最寄駅。
そこから歩く道のりは、ぼんやりとした記憶を辿っているようなもので、一つ、また一つと目に入るたびに少しずつ鮮明になってくる。
人の手が加わっていない小さなジャングルを思わせる雑草まみれの林。近所を駆ける子どもたちはいつだって無邪気で元気。名も知らぬ蝉たちは、朝早くから夕方までずっと合唱コンクールを開いている。
それらは、全部が全部知っていること。川のせせらぎも、照りつける太陽も。
いつの時代も、何なら自分が子供の時だって、同じ光景が繰り返されてきたのだ。大学に入るまでずっとこの町で過ごして来た自分にとって、夏休みとはそういうもので、外界から隔離されたようなこの町はとりわけその要素が強い。
下宿しているアパートの近くでは、近所のおばあちゃんが野菜をおすそ分けに来てくれることなどまずないし、夜に牛蛙の声で起こされることもない。せいぜい、酔っ払いや走り屋が寝る直前に騒ぎ出すくらいだ。
年がら年中人の光で溢れ、誰もが忙しなく、時を止めることなく動いている。
————だからこそ、この場所に、『彼女』に会うために戻って来ているのだろう。
「ただいま」
それからしばらく歩いた先の、小さな一軒家。去年とさほど変わらぬ日に焼けたこげ茶の戸を開けて、青年——八幡朔人はやや声音を高くして帰ってきたことを告げる。
すると、数秒の間をおいて聞き慣れた母の声が、次いで妹、弟、祖父母と来て、最後におまけで甲高い犬の鳴き声。
それぞれが決して同じではない、けれど歓迎という意味では共通した言葉で、朔人を迎え入れた。
お土産袋は弟たちが一番に奪っていき、抱えていたリュックは母が、残ったキャリーバッグは祖父母たちが後に続く形で自室へと運んでしまい、すぐ手持ち無沙汰になる程度には、丁寧に。
そのあまりに見事な手際に、これではどちらが老人なのだか分からない、などと感想を抱きつつ、
「……そうだ」
玄関に置かれた小鏡でさりげなく身だしなみを整える。
帰って来る前に短く切った黒髪はしおれることなくツンツンとしているし、やや目つきの悪い茶色の瞳はやっぱり目つきが悪い。けれど、夏らしく白のパリッとしたシャツ、薄青の細めのジーンズという服装はバイト代を奮発して買ったこともあり、なかなか爽やかで清潔な雰囲気を出している……気がする。
爽やかついでにどうにかこの目つきも緩和されないだろうか、などと鏡の前で自分の顔と格闘をしていたところで、
「……あ、オフクロ。今日の夜、ちょっと出かけて来るよ」
戻って来た母に声をかけ、何度か言葉を交わす。
夜ご飯がいらないことと、帰るのが遅くなること。
それから、一緒に出かける相手が『彼女』だということを。
今日は、一年に一度の夏祭りの日なのだから。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
今年で八十にもなる爺さんが店主を務める駄菓子屋を通り過ぎ、民家を二つ、電柱を四本越えて角を曲がって、そのまま一直線に進んだ先に見える赤い橋の手前、カーブミラーの下。
そこはいつも『彼女』と待ち合わせしていた場所だ。
——いや、正しくは待ち合わせしていたかのように、自然とそこで会っていた、というべきか。
「————」
だからこそ、『彼女』がそこにいるのは不思議ではなかった。
まず目に入ったのは、鮮やかな蜜柑色の百合の花が描かれた浴衣。次いで、その容姿。
パッチリとした黒目に花のように可憐な顔立ちで、毎年面倒面倒と散々口にしているというのに化粧をし、長く、絹糸を思わせる艶やかで白みがかった茶髪をお団子にしてまとめた女性。
ひぐらしが鳴き始めた、オレンジ色の空の下。
滝本さゆりは、今年もそこにいた。
一年ぶりの再会、その事実にたまらずにやけてしまいそうになるが、
「よっ、元気?」
だからこそ、朔人は感情を必死に飲み込んで、いつもと同じように声をかける。
電柱を背に、空をぼんやりと見つめるさゆりにこっそりと忍び寄って、突如正面に出る形で。
……当然ながら彼女は驚き、それまで纏っていたどこか儚い雰囲気が崩れるほどに慌てふためくのだが、それも毎年恒例のものである。
付け加えると、むっとした表情で拗ねる彼女に「ごめんごめん」と謝った上で、後でりんご飴をおごると約束することも。
最後には仕方ないとでも言うかのように笑って、手を繋いで歩き出すことも。
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変わらない光景。
「あ、おっちゃん。あんたの息子、しょっちゅう彼女連れ回してるんだけど、あれどうにかならないのかよ?」
人で溢れて、賑やかな道。
たくさん取ってやる、と意気込んで挑んだ金魚すくいを一匹も取れずに落ち込んで、おまけの一匹をもらう兄弟。
型抜きがあと少しで成功する、というところで油断して阿鼻叫喚する子ども。
好きな子と二人きりで祭りに来たところを同じクラスの生徒に見つかり、茶化される中学生。
そのどれもに見覚えがあった。
「そうそう。しかもちょうど俺が外出た時に会うわけ。隣の部屋だからっておかしいだろ、確率が」
けれど目の前のりんご飴の屋台の店主に語るのは、こことは違う場所のこと。
さゆりのいない場所のことだ。
「心中複雑だよ、本当さ。それにこの前なんて——って、そんなこと話してる場合じゃなかった」
隣人の恋愛事情を赤裸々に公開したいところではあるが、朔人は店主に世間話をしに来たわけではない。頰をかき、斜め上に視線を逸らして、
「りんご飴、二つ。……彼女に頼まれてるからさ」
一瞬の間を挟み、茶化す声が返ってくるが、まともに相手をしていてはますます店主の思うツボだろう。そう自分に言い聞かせて、お金を渡しそそくさとその場を去る。
そして人の波をかき分け、向かうのは、長いこと待たせていたためふくれっ面になったさゆりのところ。
「……今日、怒らせてばっかりだな」
りんご飴を手渡しつつ、自省の意味も込めてそう呟く。
当の本人はというと、そんな朔人の心境などいざ知らず、怒りを忘れてりんご飴に夢中になっているようだが。
「まあ、気にしてないならそっちの方が気が楽だけどさ」
せっかく一年ぶりに再会したのに、ずっと怒らせてばかりでは申し訳ないやら何やらなのだから、と。
——だがそれは、彼女の興味をりんご飴に奪われて良い理由にはならない。
こうなったら気がつくまでずっと彼女の顔を見てやろう、そう思い至って、
「————」
すぐに朔人は、声を失った。
小さな舌先で赤の球体に触れ、時折その味を確かめるように瞳を伏せて、笑顔をこぼす。自分たちの時を生きている通行人にも、隣にいる朔人にも気を留めず。
彼女との間はたった数センチ、けれどその距離が果てしなく遠い。同じ場所にいるのに、同じ時を生きていない。同じ時の中にいるはずなのに、彼女だけが違う場所にいる。
「…………なあ」
朔人は堪えきれず、人の光で明るくなった夜空を見上げて、
「好きだよ、さゆり」
一言だけそう呟き、再び視線を彼女へと戻す。
さゆりは朔人の言葉にぽっかりと口を開けて驚いていたが、やがて我に返ったように困ったような表情を浮かべ、最後にはこちらを見つめて、
「————」
音にならない声。
それはやっぱり、今年も聞き取れない。ここまでの道中、一度だって。
けれど、唇の動きと表情で、全て分かってしまう。決まって彼女はこう言うのだから。
『——私もだよ。だから、ごめんね』
彼女の笑顔に、涙をこぼした。
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お盆になると、ふっと思い出したかのように実家へと帰省する。
今はなき、温もりを求めて。
あるはずのない、人影を探しに。
「今日の夜、ちょっと出かけてくるよ」
——お盆になると、ふっと思い出したかのように『彼女』が帰ってくるから。
お読みいただきありがとうございました。
活動報告の方で、少しではありますが解説をさせていただいていますので、もしよろしければお読みください。
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