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居候を一匹

R-18文学賞で最終選考に残れなかったお話です。

「まるで少女漫画みたい」と批評をいただきましたが、

少女漫画みたいなのを書きたかったので、やったー! と思いました。やったー!

 スーツのスカートに、おかしな形でしわが寄っていた。

 お前は姿勢が悪いんだよ、と、叱るでもなしに笑う母の声が聞こえた気がして鼻をつんとさせているところで、アパートの階段を上り切る。通路のすぐが茅子の部屋で、その前に男がひとり、座り込んでいるのが見えた。

 紙袋とボストンバックと。

 右手に持っていたそれらを、左手に持ち替える。

 ドアにもたれかかり、金色に近い明るい髪の色をした男は足音で気付いたのだろう、こちらを見た。きゅん、とつり上がった目をしている。それを細めて、おかえり、と微笑んだ。薄い唇が持ち上がって、整った顔がわずかに崩れる。

「……そこは、私の家です」

「知ってる、待ってた、おかえり」

「……お隣さん、では?」

 重たい荷物を持っていた右手が、じんじんと痺れたようになっていた。

 男は立ち上がって、尻を叩く。細身のジーンズと白いシャツと、ミルクティみたいなやわらかい色のロングカーディガンと。

 隣の部屋の男だ。

 茅子は何度か見かけたことがある、隣に住むホステスだかキャバ嬢だか、随分見た目の派手な女性と住んでいる男。

 何のご用でしょう、と茅子は後ずさる。

 慣れないヒールが、かつん、と音を立てた。

「ちょっ、見ないまま下がるの危ない」

 するりと男が寄ってくる。あっ、と思ったら腕が伸びていて、手首を握られていた。ひっ、と喉の奥で悲鳴が凍る。怖いと声が出ないというのは本当のことだ。

「荷物、持つよ」

 どうして、と聞きたかったけれど、声は張り付いたままだった。ただ、握られた手首に相手の熱すぎるくらいの体温が伝わってきて、この人熱があるのかしら、と、ふと頭のどこかが冷静になった気がした。

 電車を降りたのが、六時少し過ぎだった。それから歩いて帰って――右手を荷物の重さでじんじんさせながら――、十五分程。冬の近付いてきた空はもう夕焼けを終えて、薄暗くなっていた。

「……彼女さんは、」

「出てっちゃった」

 男は眉を微かに寄せて笑うという、複雑な顔をして茅子の荷物を持つ。細い男の子だった。三十二歳になる茅子より、いくつくらい年下なのか見当がつかない。

 隣に住む派手な女の子のヒモ。

 ゴミ捨てのときに顔を合わせたことがある、町内の一斉清掃はアパートで町会に入ってないので関係がないのに、敷地内の草むしりをする大家さんを手伝っているところを見たことがある。

 名前は知らない。

 でも、女の人に飼われている男の人だということは知っていた。そういう、人だ。そう厚い壁ではないアパートの、些細な生活音までは響かないとしても、そういうときの声、は、くっきりと聞こえたりする。

 男のくせに働かない、というつもりはないし、それが職業の人だっている、人殺しだとか悪いことだとかさえしなければ別にいいのではないかと茅子は思っているけれど、自分に直接関係があるとなってくるとまた話は別だ。

「……それで、」

「五日間だけ置いてください」

 にっこり、と笑って。機嫌のいい猫みたいな顔だと思った。

「ど、うして、あの、うちに、」

「うん、真凛ちゃん新しく男ができて、あ、隣に住んでる子ね。出てけって言われて、なんか男と海外行ってくるんだって。その間に、とかってのはいいんだけど、なんか鍵替えられちゃってて。タイミング悪く、シンママだった優樹菜ちゃんは元旦那と寄りが戻りそうっていうし、たまに会ってた彩矢ちゃんは学生やめて実家に戻っちゃって」

「行くところが、ない、と」

「うん」

「お、女なら、誰でもいいんです?」

「え、男でも別にいいよ?」

「あ、あ……そう、ですか、」

「でもオレ、友達いないの!」

 笑うと目尻が垂れさがるのではなく、きゅんっ、と持ち上がってしまう人は初めて見た。

「五日置いてくれたら、新しい女見つけて出てくから!」

「五日、」

「うん、オレ、ヒモだから働いてないしお金ないし。ご飯食べさせて?」

 図々しい頼み事を、こんなにあっけらかんと悪びれもせず口にする人を初めて見た。

 お願い、と男は頭を下げる。

 握られたままの手首が泣きそうなくらい熱くて、とりあえず離してください、とだけ茅子は小さな声で震えるように、告げた。


 稲村茅子は三十二歳で、市内の金属加工工場の事務員をしている。加工工場、と言っても社員は十人にも満たない、それも一番若い人が今年五十になった、というようなおじさんばかりの職場で、もうひとりの事務員は社長の奥さんだった。

 美容院代がもったいないからと前髪も一緒に伸ばして、後ろで一本に縛っている。化粧はしない。でも一応、三十も過ぎているのだからと化粧水とクリーム――顔にも手足にも使える、懐かしいような匂いのするやつだ――はつけている。

 地味を形にしたような女だけれど、なにも不便はないし、紺色の膝丈より少し長い、ちっとも今どきの型ではない職場の制服も似合うので、これはこれでこういう人間なのだ、と自分でも思っている。

「おでこちゃん」

 隣の部屋の住人の、ヒモだった男は茅子のおでこを指差して目を細めた。

「人を指差したりしちゃいけないと思います」

 彼は名前を持たなかった。今まで一緒に住む女達が好きに呼んでいたらしい。

 五日間だけ置いてくれたら、掃除洗濯炊事セックスの相手、なんでもするよなんでもできるよ、と自分の売りをアピールしてきた男に、名前がないのは不便だから生まれ持っての名前を、と茅子は聞いた。

 戸籍に届けてある名前を、と。

 好きに呼べばいいじゃん、隣では直樹だったし他では夢人だったり隼だったりしたよ、と返す彼に、私はあなたにあげる名前なんてない、と言い返すと、彼は少しだけ真顔になってから、笑った。

「志田賢吾」

 見た目の軽さとやわらかさに似合わないと思いながらも、志田さん、と呼ぶと嫌がられた。せめて賢吾って、と言うから、そうした。それで、彼は茅子を指差しておでこちゃんと呼んだのだ。

 髪の毛をびっちりと後ろに引っ張って縛っているので、確かに額は丸出しになっている。部屋に入ってきた賢吾は、間取りは同じなのにすっごい片付いてて広い! と騒いでいて、その間に茅子は出かける前に買い置きしておいた卵と缶詰のコーンと、玉ねぎと人参でオムレツを作った。それから冷凍しておいたアジの開きを焼いて、同じく冷凍してあった白米を解凍、あたためた。スープが欲しかったら今日は悪いけれどインスタントで、と茅子が言うと、オレの仕事を取らないでよお、と情けない声を出されたが、この人の職業がヒモだろうが自分の飼っているものではないので、茅子は無視した。

「おでこちゃん、名前は?」

「稲村です」

「稲村、なにさん?」

「稲村茅子」

「かやちゃん」

「……茅子、です」

「かやちゃんでしょ?」

「……小さい子みたい」

「なんでオレなんかを家に上げちゃったの?」

 自分で頼み込んできたくせに不思議そうに賢吾は聞いた。狭いキッチンに置かれたテーブルは椅子が二脚ついていて、片方は背もたれをタオル掛けにするばかりだったけれど、ようやく本来の働きができて嬉しがっているかもしれない、と茅子はそんなことを思った。

「なんで、って、」

「よく知らない男をほいほい家に上げるもんじゃないと思うよ」

「あなたが言うんですか」

「うん」

「五日間、って言ったから」

「オレが怪しい男だったら、殺されてるかもしれないでしょ。金品奪われて」

「ああ、別に」

「うん?」

「そういう心配なら、」

 いらないですから、と茅子は言った。箸は自分の分しかないので、賢吾の分は割り箸だった。ご飯茶碗もひとつしかないので、彼には汁物用のお椀でご飯を出した。

 賢吾は、オレが作ったんじゃないご飯、となんだか嬉しそうに、細く切った玉ねぎと人参と、黄色さが可愛らしいコーンのオムレツに箸を入れていた。

「心配いらないって?」

 オムレツの黄色とケチャップの赤。

「もういつ死んでも構わないから」

「物騒だねえ」

「もう私の人生はここから余生なんです」

 茅子は茶碗を持ち上げる。薄いピンク色をした、跳ねるウサギの描かれているまるい椀で、てのひらにすっぽりと納まる。ご飯の熱が、じんわりと肌に溶ける。

「ここからって?」

「話さないといけないです?」

「聞きたいでしょ、そんなの、話しはじめたのそっちだし」

「聞いたのはそっちじゃないですか」

「気になる気になる、なに、自分が三十になるまで生きてるとは思わなかった、とかいうタイプの人?」

「なんですか、それ」

「女の人によくいるじゃん、そんなに長く生きる気はなかった、みたいな。オレ、想像力足りない頭悪い奴なんじゃないの? って思いながらも、そうだよね、って言うけど。君はいつまでも少女のような人だもんね、って、言ってやるよお、だってそれがオレの役目だもん」

 そんなんじゃないですよ、と茅子は小さく笑った。賢吾の言い方が大げさで、女のセリフだろうところはちゃんと甲高い声になったからだ。

「母が亡くなったんですよ」

「……それは、えっと。ご愁傷様です、」

「ガンだったし。先は長くないって分かってたからいいんです、それでもう私の身内はいないから、私はいつ死んでもいいの」

 お父さんは、と聞きながら、賢吾はオムレツを口に入れた。リスのように口を膨らませているのは、大きく切り取ったそれを頬張りすぎたからか。そして飲み込みもしないまま、アジの開きに箸を伸ばしている。

 お腹が空いていたのだろうかと思ったけれど、がっついた様子はなく、賢吾の食事は静かで丁寧な気がした。

「父は私が生まれてすぐに、」

「亡くなった?」

「よく知らないけれど、母とは別れたようですよ」

 だから、自分には兄弟もいない。自分が死ぬことで、迷惑をかけるだろう人はいない。母の弟だった人――茅子がひとり暮らしをはじめてから、母は自分の実家に身を寄せていた――とその奥さんには多少の迷惑がかかるかもしれないが、少なくとも借金はないし、母の入院代、葬式代も茅子が払っていた保険金ですべて賄えた。自分が死んだら、残したほんのわずかな何かしらが彼らのところに行くだろう、そうしたらお金は取っておいて他のものは捨ててくれればいいと思う。

「天涯孤独な人だ」

「ええ、そうです。むしろ殺してもらった方が、だらだら生きるより警察の方で後処理をしてくれそうですし、ああ、お金も持って行ってもらっていいですけど、とりあえずお葬式代だけは残して置いてくださいね」

「オレがかやちゃんの金盗むと思ってるの?」

「思って……さあ、可能性の話ですから。お葬式代だけは残して置いてください、ってお願いしているだけで」

「オレはヒモだけど、女の子のお願いはなんでも叶えてあげたいとは思うけど、さすがに殺人は嫌だなあ」

「殺してくださいなんて頼んでないですよ」

 なんでこんな話になったんだろうね、と賢吾が笑った。

 そして、あ、と声を上げる。

「お母さん亡くなったのって、最近の話?」

「え?」

「さっきの紙袋、そういや香典返しとかの品物入れるような袋じゃなかった?」

 ヒモなのによく知っている、と感心すると、バカにしないで、と賢吾は照れた。照れるようなものなのかはさておき、ここ三日くらい居なかったのってもしかして葬式だった? と聞かれて、茅子は頷いた。

 母の実家に行っていたのだ。

 隣の県で、電車で一本とはいえほぼ二時間かかるところにある。着て行くものに困って、まさか仕事の制服で行くわけにもいかないだろうと黒いスーツと喪服だけ持って行った。ガンで随分入院していた母は、歳のせいか進行はそう早くないけれどあちこちに転移していて、茅子は何度も見舞いに行ったけれど痛そうにしている顔ばかりが記憶に残っていた。

 亡くなったと連絡がきたときも、ああこれでやっとお母さんは痛いのから解放されたんだ、と思うのが先だった。哀しみよりも、もう痛くなくて良かったねえ、の気持ちが大きかった。

 これは、親不孝なんだろうか。

 汁椀の中の白いご飯をかつかつと食べてしまって、アジの開きもきれいに平らげて、賢吾が立ち上がった。お茶を入れ忘れていた、と茅子は思った。

「持ってく」

「……え?」

「喪服。クリーニングに持ってく、こういうのって早い方が面倒なくていいでしょ」

「え、あ、」

「今着てるのはどうする?」

「あ、これは、あの、まだ、」

「そう? じゃあ喪服持ってく、いつもどこのクリーニング屋?」

 賢吾に言われて、まだ半分以上も残っているご飯のお椀を持ったまま、茅子はまばたきを繰り返して彼の顔を見た。

「……朝日町のスーパーの中の、」

「ああ、ネコの絵の」

「……そう」

 賢吾がてのひらを見せて、ひらひらさせた。一瞬、お手でもしろと言われているのかと思って自分も箸を持ったままの手を出しかけると、彼が笑った。

「カードとお金ちょうだい」

「カード……?」

「クリーニングのカードだって、キャッシュカード貸せって言ってんじゃないんだから」

「……キャッシュカード、持ってない」

「えっ!」

「……カードって、お金払わないのに魔法みたいに買い物ができちゃう気がして、怖くて持ってないの」

「なんだそれ! 現金主義?」

「郵便局のカードなら、あ、あと銀行のカードも、」

 持ってる、と茅子が少しムキになって言うと、賢吾は猫のつり目を細くして笑った。

「クリーニング屋行ってくるね。あ、片付けしなくていいから、オレ帰って来てから洗うし」

 もそもそと茶碗を置いて、喪服と財布を持ってきた茅子はそのまま渡そうとして賢吾にまた笑われた。財布ごと渡しちゃいけません、と言われる。

「そうなの?」

「信用もないのに」

「ああ、ええっと、」

「二千円でおつり来るはずだから、カードと貸して」

 そして言われたとおりに渡すと、賢吾はそのままするりと出て行ってしまった。

 戻ってこないのではないか、と茅子は思った。お腹がいっぱいになって、二千円をもらって、ああそれでも喪服だけは持って行かれたら困るなあ、と思った。

 ひとり暮らしをはじめてから今までなかった賑やかな夕食の、余韻の中で茅子はすとんと淋しくなる。今までのは夢だったのかと思えるような、不思議な時間だった。

 片付けはすると言っていた賢吾はそのまま十時を過ぎても帰ってこず、彼にそれをさせる気はなかった茅子はさっさとふたり分の皿を洗ってしまっていたけれど、もう戻ってこないのだったらあの子はこの夜をどこで過ごすのだろうと少し、考えた。

 だから十一時近くなってから、スロットに勝ったよお、と嬉しそうにコンビニの袋をガサガサさせて、チープなケーキやらクッキーやら菓子パンやらスナック菓子などを両手に、さも当たり前のように帰ってきた賢吾に、驚いてどうしていいか分からなくて、パジャマなんてないよ、とだけ答えたのだった。


 かやちゃんなんでもしちゃうから、オレのすることなんもない! と賢吾が文句を言う。三日目。最初に出会った日はカウントに入れないで欲しいというので、そうしてやった。

 そうは言われても、自分の下着を家族でもない男に洗われるのなんてまっぴらごめんだし、掃除に手間取るような物の多い家でもないし、ご飯は自分で作ってしまう。自分が家にいないときにひとりで自由にされても困るので、茅子が出勤する際には賢吾も一緒に家を出てもらっていた。定時で帰れる会社なので、賢吾は駅まで迎えにくる。

「いつも外で、なにをしているの?」

「散歩とかスロットとか、新しい飼い主候補を探すとか」

「どこで探すの?」

「まあ、いろいろあるんですよ」

 へえ、と相槌を打つ茅子のカバンを持ってくれようとするから、それくらい自分で持てます、と断る。オレの存在意味がない、と賢吾は困ったように笑う、その時だけ少し目尻が下がった。

 会社を出るのは六時で、電車が駅に着くのが六時半少し前。スーパーに寄ろうと言われて、昨日買い物はしたでしょう、と答えると、スーツのクリーニングが終わってるから、と言われた。

「ああ」

「取って行こうよ、引き換えのレシート、財布に入ってるでしょ?」

「まあ、」

「持ってあげるから」

 ついでにトイレットペーパーとかお米とか重いものがあれば持ってあげるから買えば、と言われる。袖まくりをするけれど、彼の腕は細い。筋肉は薄くきれいについているように見えるけれど。

 今日の彼は濃い灰色のナップザックを背負っていた。薄茶のスラックスに、中へ水色のシャツを着て上に大きめのセーターを着ている。洋服と下着は三着ずつしかなくて、持ち出せたのこれだけだった、と彼は言ったから、せめてのパジャマ用にと茅子は彼が転がり込んできた次の日に男物のスエットを買った。彼が出て行くときにあげてもいいし、そうでなかったら自分で着てもいいと思った。百六十センチの茅子と、百七十半ばくらいの背丈の賢吾と。男物のサイズMだったら、茅子も着られる。

「荷物があったのね」

 敬語は取れはじめていた。どこかまだ、よそよそしさはあるけれど。

「あるよ、一応。これは預けてあったやつ」

「預けてた?」

「スロットのとこの、コインロッカー」

 へえ、と茅子はまた気のない相槌を打つ。中身気になる? と聞かれたから、正直に答えた。別に。

「ああ、またそういうことを言う」

 駅前のレンガタイルになっている広場を抜けて、少し賑やかな道へ入る。商店街、というよりはただごたごたとした店が好きに並んでいるだけのような道。ファストフード店があって、カラオケの店があって喫茶店があって服屋があって古着屋があって、居酒屋があって本屋があって。献血ルームがあって、和菓子屋と中華料理の店と焼き鳥屋があって、人通りはそこそこあるので気を付けて歩く、しばらく行くとスーパーがあって、その向こうは住宅地になっている。

 スーパーの中のクリーニング屋に寄って、喪服を引き取った。買うものはなかったので、そのままアパートに向かう途中で賢吾が、今夜は暇かと聞いた。

「暇?」

「時間ある?」

 家に帰ったらそれから改めて外出することはない。出かける先もない。コンビニなどにも行かない。よほど忘れていた振り込みでもあれば出かけるかもしれないが、茅子はそういうものを忘れていたことがない。

「ご飯を作ってお洗濯をして、お風呂に入って掃除をして寝ます」

「規則正しいよねえ」

「規則正しいのは、悪いことですか?」

 悪くないです、と賢吾は笑った。吊るしのまま受け取ったスーツの、黒いプラスチックのハンガーを持って、ビニールをがさがさといわせている。

「ねえ、じゃあかやちゃんの時間オレにちょうだい?」

「……時間の譲渡はどうやって、」

 切り取って分けてあげられるものでもないのに。薄暗くなっている道をてくてくと歩くながら、誰かと一緒だといつもより徒歩のこの道が短く感じられる、と思った。もっと寒くなってしまうとバスも使ったりするが、基本的に茅子は徒歩と電車で職場と家とを往復する。

 家に帰ってから、炊飯器の再加熱ボタンをまず押した。

 晩ご飯くらい作れる、と唇を尖らせる賢吾を無視して、冷凍の里いもを煮る。酒としょうゆと砂糖とみりんとをだし汁で割って煮立てる。そこに、フライパンで皮の側からじっくり焼いた鳥のもも肉と、五センチほどに切って焦げ目がつくまで焼いた長ネギとを放り込む。

「あ、賢吾さん、海苔を切ってください」

「海苔?」

 おにぎり用の海苔とキッチンばさみを渡して、横に細長く切ってください、と頼んだ。もみ海苔みたいにするの? と聞かれたので、そう、と頷いた。

 台所の小さなテーブルの、向こう側で賢吾が言われたとおりに海苔を切り出す。白い皿の上に、ちょきんちょきんちょきん、と茅子が思っていたよりも素早く重なる金属の音をさせて、海苔は細かく切られたらしい。

「……はさみの使い方が、上手なのね?」

 コンロを向いていた茅子は、首だけそっと振り返って言った。語尾が何故だか上がってしまって、どうして? と聞いているようになってしまった。

「オレ、元美容師さん」

「……え?」

「一年も勤めてないけどね、人の髪の毛切ってシャンプーしてブローしてればいいのかと思ってたら、研修会だの練習会だのいろいろあるし、服装は意外と厳しいしで面倒になっちゃって。そんとき付き合ってたのがキャバの子で、そっからずるずるヒモ人生」

 だからはさみは上手なの、とにっこりされた。目尻のきゅんと上がる、不思議な笑顔で。

「そう、そんで、はさみ取りに行ってたのね?」

「……はさみ?」

「うん、さっきの荷物、はさみ。美容師の仕事道具一式、かやちゃん髪の毛切らして」

「……はい?」

 髪の毛。

 行平鍋のだし汁は沸騰していて、まるい里芋がぽこぽこ踊る。あまり煮立たせると崩れてしまうので、火を弱めた。

 髪の毛切らして、と。

 今、言われた。

 茅子は自分の、もう何年切っていないのか思い出せない髪を思う。肩を超すどころか、肩甲骨まで完全に届いている。

「髪の、毛?」

「ヒモらしいことなんにもさせてもらえないから、特技でちょっと」

「切らなくていいです、そんな、」

「でもさ、それ、全然美容院とか行ってないでしょ。せめてちょっとすくともっさりしなくなるよ」

「もっさり……」

「シャンプー楽になるよ、乾くの早くなるよ、頭軽くなるよ」

 シャンプーが楽、という言葉に茅子は惹かれた。髪をとかしてから頭を洗えばいいのだろうけど、いつも忘れていて抜け毛と切れ毛がすごい。水を吸った髪は重くて夏は暑いし冬は冷たい。

「……シャンプーが、」

「楽」

「楽……、」

「めっちゃ楽」

「めっちゃ……、」

 はいじゃあ決定、今夜髪の毛切るからねえ。賢吾が楽しそうに言った。

 茅子は、髪なんて切られても困る、と思いながらもシャンプーが楽になるというひと言の魅力が頭をぐるぐるしてしまい、断れないまま冷蔵庫の野菜室を開けた。キャベツを取り出す。ツナ缶と合わせて、マヨネーズで和えてサラダにするためだ。タレで煮た鶏肉は、ご飯の上に賢吾が切ってくれた海苔を散らして、その上からつゆごとかけて丼にする。自分はいらないけれど、と茅子は思った。賢吾には、目玉焼きのようなものを上に乗せてあげた方がいいのだろうか。


「その次の彼女は看護師さんだった、この人とだけ結構続いたんだけど、えっと、二年くらい? 五才年上だったんだけど、最後はあれ、あなたはわたしと一緒にいたらどんどんダメになる、って言って捨てられたの」

 捨てる、人を。

 別れるのではなく、捨てる。

 犬を、猫を捨てるように。きっと、それはゴミを捨てるときとは少し違うのだろう。捨ててせいせいする、というものではなく、なにかしらの引っ掛かりを残すのかもしれない。茅子は想像してみるけれど、自分は人を捨てたことがないので、想像は追いつかなかった。

 新聞紙を敷き詰められた台所で。

 晩ご飯は終わっていた。洗いものは済んでいて、あんなにたくさんの

洗剤を泡立てたのに、鶏丼にしたタレの匂いばかりが残っていた。

 タオルで首元をぐるりと巻かれて、白いケープをかけられて。

 小さな霧吹き――ケープもそれも、賢吾の荷物に入っていた――で髪を濡らされて。

「捨てられるのって、淋しい?」

「住むとこ困ったな、って感じ」

「好きじゃなかったの?」

「好きだったよ」

「哀しいって思うより、住むところなの?」

「いらない、って言われちゃったんだから、こっちに非があったんだし、っていうことは哀しがっても淋しがってもダメなんだと思った」

 よく分からない。

 茅子が首を傾げると、頭を動かさないようにと言われた。

 はさみが入る。

 耳の近くで、しゃきん、とよく切れる刃物の重なる音がする。少しして、ぱらぱらっ、と新聞紙が音を立てた、切られた髪が落ちたのだった。

「かやちゃんは捨てられたことないの?」

「あるんじゃないですかね」

「他人事みたいだねえ」

「最初に捨てられたのは、父からでしょうけど。覚えてないから、知らないうちに捨てられてたのは数に入らない気がして」

「ああ。かやちゃんは、処女?」

 しょじょ、の響きが上手く頭の中で固まらなくて、ようやく処女の字になったときには少し間が空いていたから、なにを聞くのかと驚いたり苛立ったりするタイミングではなかった。

 いいえ、と答える。

「あ、意外」

「意外ですか」

「詳しく聞いてもいい?」

「詳しくって……、」

「彼氏、もしかしている?」

 いません、と言うと、いたらオレなんか転がり込めないよねえ、と賢吾が笑った。

 恋人、と呼べる人は、高校時代にひとりだけいた。

 同じクラスの図書委員で、目立つタイプではなかったけれど本の扱いが丁寧で、長い指と静かな声が気になる人だった。

「なに、やるじゃん。告白はかやちゃんから?」

「……文化祭の、フォークダンスで、」

「フォークダンス?」

「文化祭の最後はフォークダンスで閉めるっていうのが伝統で、その時に、……文化祭の最中は男女が必要以上に仲良くなるから、それで、なんだか、」

「雰囲気に飲まれたんだ」

「多分、向こうが」

「向こう? ああ、相手が? かやちゃんは?」

 私は、と茅子は思う。あの人が恋人になったら、と、何度も何度も夢想したことはあった。想像だけで楽しかった。

 付き合うことになったのは本当に雰囲気に背中を押されただけで、ただ下校を共にするだけで会話もほとんどままならない、幼稚な幼稚な恋だった。

 一度だけ、彼の家に呼ばれて。

 部屋で、そういうことになった。制服のままだった、紺色のブレザーとプリーツスカート。丸襟の白いブラウス。同じく紺色のブレザーとスラックス。どうして男子のものは右胸に校章が刺繍されているのに、女子は左胸にあるのか、そんなところばかりを眺めてしまっていた。

 相手の匂いばかりがする、ベッドの上で。

 いつもは好きな彼の匂いが、男の匂いに代わっていくのが少し怖くてたくさん不思議だった。

 あのときの出血で汚れてしまった掛け布団は――めくる間もなくその上でしてしまったので、シーツではなく布団のカバーに点々と血の赤い花が咲いた――どう誤魔化して洗濯したのだろう。

 痛みは正直憶えていない。はじめての、キスの感触も。なにを話したのか、なにを感じたのか。記憶は薄れて、曖昧になっている。そういうことがあった、という、記号のようなものが残っているだけで、けれど相手の重みだけはどうしてか残ってた。女の自分に、しっかりと体重をかけた彼の、あのすべてを預けてきた重さだけは、くっきりと覚えている。今でも。

 しゃきん、とはさみの音がする。

 するすると、切れた髪がケープを伝って床に敷かれた新聞紙の上に落ちる。ぱさっ、ぱさっ、と乾いたような湿ったような、少し寂しい音になる。

 昔を思い出していたら、いつの間にか髪を切られ過ぎていたようだった。首元が涼しい。

「……随分、切った?」

「うん、切った。前髪切るから目をつぶってよ」

 言われて瞼を下ろす。

 しゃきんしゃきんと冷たい音がする、切られてしまった髪はもう戻らない、いつかまた伸びるとしても、切られてしまった髪の記憶はそこで途切れている。

 首が、すうすうする。

 すうすうします、と茅子は口に出してみる。目を閉じたまま。

「うん、もうちょっと」

「そんなに切られたら、縛れない」

「縛らなくていいじゃん」

「仕事で困ります」

「可愛くしたよ?」

 ちっとも答えになっていない言葉を返して、賢吾ははさみをしょきんしょきんと音させたままでいる。

 できあがったよ、と言われて手鏡を差し出されて、切った髪の毛を片づけたりケープを取ってくれたりしている彼など視界に入らないまま、茅子は鏡の中の自分を見ていた。

 ショートボブというのか、耳の下ほどで切られた黒い髪がふわりとやわらかな印象を茅子に与えていた。毛先が軽く跳ねている。この頭、ずっとこの頭ですか? と茅子は聞いた。

「うん? え、なに?」

「この頭、ずっとこの頭のままです?」

「うんん? んんん? え、短いのダメ?」

「じゃなくて、あの、ドライヤーをかけないといけないとか、スプレーのようなものをしないといけないとか、」

 スプレーって、と彼が笑った。ワックスとかはあった方がいいけど、と続けられる。

「ないでしょ」

「はい」

「オレがいる間は毎朝セットしてあげるね」

「いいです」

「なんで?」

「いなくなったら、ぼさぼさの髪にならないといけないから」

 最初からぼさぼさでいいです、と言うと、賢吾はますます笑った。面白いねえ、と腹を抱えている。

 銀色をしたはさみ達は一本だけではなかったようで、何本かを丁寧に片づけている賢吾が見えた。茅子は椅子から立ち上がる。切られた毛はまとめられて、真っ黒い山になっていた。新聞をまるめて、中に包み込む。燃えるゴミの日は、火曜日と金曜日。

 この髪を捨てる日に、賢吾はこの家から出て行くのだな、と、ふと思う。

「なに?」

 しゃがみ込んで、一緒に新聞紙をまるめる彼を見つめていたら、向こうが視線に気付いて顔を上げた。

「髪の毛、」

 ありがとう、と茅子が言う。切りすぎたって怒られなくて良かった、と賢吾が白い歯を見せて笑う。つり上がる猫の目、その金色は自分でしてるの? と聞いたら、そうだと言われた。

「きれいだね」

「ありがとう」

 金色なんて最近流行らないけどね、と彼は言った。でも似合っているから、と茅子が声を重ねるようにして言う。

「似合う?」

「似合う、美人の猫みたい」

「猫」

「猫」

「にゃおう」

「似てない」

「はい、ごめんなさい」 

 あなたの好きなものはなに、と茅子は聞く。きょとんとした賢吾に、食べるもので、と付け足す。

「明日の晩ご飯、好きなものを作ってあげる」

「……髪の毛切った、お礼? とか?」

 頷いたら、そんなのいいのに、と賢吾が嬉しそうに顔になった。

「でも、鍋食べたい」

「鍋?」

「白菜、好きなの」

「白菜」

 そう、と賢吾が目を細めた。白菜、と繰り返しながら、茅子は露わになっただろう自分の首の裏を撫でる。あとで襟足剃ってあげる、と賢吾が言った。カミソリもちゃんと持っているのかしら、と茅子は感心した。


 鍋は最終日になった。

 木曜日は珍しく社長の奥さんに誘われてしまい、夕飯を共にしたからだ。時々ある。ひとり暮らしをしていて、つい先だって唯一の身内である母親を亡くした従業員を、娘のように心配してくれたらしい。ちゃんと食べてる? と聞かれた。食べてます、と答えたけれど、信用してもらえなかったのか家に呼ばれた。社長の家といっても、職場の工場裏に建っている。

 鍵を預けておけばよかった、と思った。連絡は取れない。賢吾は駅前で待っているのだろうかと思うと、胸が痛んだ。ただの居候だったけれど。

 髪を切ったのは心機一転のつもりだったと取られたらしい、社長の奥さんは髪型を褒めてくれて、顔が明るくなった、と言ってから慌てて口をつぐんでいた。母は亡くなりましたけど、もう苦しまなくていいという安堵の方が大きいですから、と茅子が言うと、それでも親を亡くすのはつらいものだから、と涙目になってくれた。

 どうせ招くんならご馳走にすりゃいいものを、と呆れる社長はビールを飲みながらご機嫌で、息子達が後を継いでくれそうにないから工場は俺が死んだら閉める、でも孫が興味を持っててくれているからどうしようか、などと嬉しそうにひとりで話していた。夕飯は野菜の煮物だとか魚の煮つけだのが多くて、それから具だくさんの豚汁だとか自分のところで漬けた漬物などが並んだ。

 豚汁を作ってあげればよかった、と茅子は思った。野菜をいっぱい入れて。

 ご馳走になって、いつもは乗らない時間の電車に乗った。

 賢吾は新しい女の人を探せたのかしら、と、ふと心配になった。これ以上居座られるのも、困るわけではないけれど関係性がよく分からなくなる。自分の給料で男ひとりを養うのは無理だ。あの人が働くのなら、と考えて、賢吾が自分にとってのなんでもない人間なのをまた思う。

 なにか関係があるわけではない。

 キスだとか。そういうことすらひとつもない。ヒモだからするよ? と、冗談のようには言われたけれど、茅子が言葉に困っているうちに流された。母親が亡くなって、世界に自分が存在しなくてはならない理由の大きなひとつが消えてしまったから、もう後の人生は余生だと思っていたけれど、だからといって恋人でもない男の人と寝るのはなんだか違うと思った。

「寒いー、おかえりー」

「あ……、」

 ホームにすべり込んだ電車を降りて、自動になったばかりの改札口で定期券を機械に入れた。階段を下りて、賢吾はいないだろうと見回しもしないで歩き出そうとしたら、声をかけられた。

 最初に会った時の、カーディガン姿だった。

「……ごめんね、」

「残業だった?」

「連絡ができないの、不便だね」

「ずっとコンビニにいたから大丈夫、電車来る頃になったらちらちら覗きに来てただけだから」

 けれどそう言いながらも、賢吾は寒そうにしていた。

「鍵、渡しておけば良かった」

 今更だけど、と急いで口にする。今更、が今日のことなのかそれとももう明日で賢吾がいなくなるからなのかが自分でも分からなかった。

「ご飯まだでしょ」

「うん」

「ごめんね、社長の奥さんにお呼ばれして、あの、急に」

「食べてきた?」

「うん、あの……ごめんね」

 なんで謝るの、と賢吾が笑った。この人はよく笑う。本当に、いつでも笑っている気がする。それを言うと、ヒモが難しい顔してても女の子幸せにならないでしょ、とまた笑った。

 そして、手に持っていた赤いチェックの柄の袋を差し出す。

「……なに?」

「寒い季節なのに、オレが髪を短くしちゃったから」

「……なに?」

「受け取って開けてみればいいでしょ」

 はい、と腕を伸ばされたから、茅子も手を出した。中に、真っ赤なマフラーが入っている。

「……なんで?」

「首元が寒そうだから」

「赤なんて似合わない、」

「そんなことないよ、かやちゃんは色が白いから似合う」

「口が上手い……、」

「元美容師だからね! カラーコーディネートの勉強とかもするしね!」

 茅子が手にしたマフラーを、賢吾が取り上げた。ビニールの袋だけが手の中に残って、あ、と思っている間にそっと首へ巻かれてしまった。

「はい、可愛い」

「可愛く、」

「可愛いって、似合うって、さあ帰りましょうかね」

 お金どうしたの、と聞いたら、少しくらいはあるよ、と言われた。貯金もほんの少しはあるんだよ、と胸を張られる。けれど冷たい風が吹いてきて、賢吾は慌てたように猫背になった。

「帰ろうか」

「待たせてごめんね」

「風邪さえ引かなきゃいいんだよ、そんなのは」

 新しい女の人見つかった? と。

 茅子は聞けないままでいた。見つかってないならもう少しうちにいる? とも、聞けないままでいた。こういうときに、どうしていいのか分からなかった。恋愛経験が少ないというより、人間関係が苦手なせいだろうと分かっていた。

 この男の子の年齢すら知らないんだ、と思うと、とても不思議だった。なにも知らなくても、敵意だとか危害を加える気持ちがなければ、人は全然知らない人でも一緒にいられるのだと感心したけれど、それは賢吾の性格によるところも大きいのかもしれない。


 最後の夜は、賢吾のリクエスト通りに鍋となった。白菜を細くたくさん刻んで、エノキとかまぼこと肉団子と豚肉と、千切りにした大根とを土鍋に入れて中華スープで煮た。

 普通の鍋じゃない! と賢吾は驚いていたけれど、茅子にしてみれば白菜鍋というとこれだった。母が好きで、よく作ってくれていた。作るまで、そして彼に言われるまですっかり忘れていた。これが当たり前の白菜鍋だと思っていた、そういえばお母さんが、と言いかけたとき、茅子の視界がうるりと濡れた。

 涙が、湖みたいに溜まってしまい、おろおろしているうちに頬へ流れた。それは一筋だけでなく幾筋もあって、鼻の脇を伝ったりなんなりで、びしゃりと泣いた。

 最後の夜にケーキを買うのもおかしい気がして、家にあったバナナでパウンドケーキを焼いていた。だから、オーブンから甘い匂いもしていた。

 ご飯の湯気が立っている。

 台所の小さなテーブルの真ん中で、白菜鍋がある。お漬物と。もやしのナムルと。

 お母さんが、と茅子が小さな声を絞り出した。お母さんが好きで、私も好きで、よく作ってくれたの、と。忘れていた、今までずっと忘れていた、でも本当によく作ってくれたものだった。簡単すぎて、記憶に残っていなかった。残っていたけれど、わざわざ引っ張り出されてこなかった。

 葬式で、茅子は泣かなかった。

 あんなに苦しんで痛がって、切ながっていた身体から解放された、という気持ちの方が大きかった。見舞いに行っても、疲れた顔ばかり見せていた母の。背中をさすって、と言われて手を置いたときの骨が浮き上がった感じ。苦しむ分だけ、顔にはしわが刻まれていた。楽にしてあげられない、自分の無力さに途方に暮れた。

 だから、葬式ではどこか安堵していた。苦しむお母さんをもう、見なくてすむのだと。

 つかえていたものが溶けて、茅子はびしょびしょと泣き続けた。声は出なかった。吠えるように泣いた方がすっきりするのかもしれないと、泣きすぎて痛み出した頭の奥で思ったけれど、声は出なかった。ああ、とかすれた息が何度も何度もこぼれただけだった。泣きたかったのかと、自分でも驚いた。賢吾はその間、なにも言わずにずっと向かいの椅子に座っていた。ヒモだったらむしろ慰めたりするものなんじゃないだろうか、と思ったのは茅子がようやく泣き止む頃で、じんじんしている頭を軽く振り、鼻水もダダ流れだ、とティッシュを取りにと席を立ったところで、やっと声をかけられた。

「かやちゃん」

「……なに、」

「美容師に戻る」

「……え?」

 一瞬なんのことだか分からなくて、立ち上がって椅子の背に手をかけたまま固まった茅子に察したのだろう、代わりにティッシュの箱を取って渡してくれた。

「かやちゃんと一緒にいたら、規則正しいのもいい気がしてきた」

「……なに?」

「人の髪の毛切るのっていいな、って。思って」

「……今までも、切ってたんでしょう?」

 泣いていたせいで、声は出していなかったのに喉がごわごわしていた。だから、外に出て行った声はしわしわしていた。

「飼ってくれてた人達の髪は、まあね」

「違うの?」

「うん、なんか違った気がする」

 土鍋からのぼる湯気が薄くなっていた。ご飯茶碗の方は完全に湯気を消してしまっている。

「また来ていい?」

「……うん?」

「ここ。今日までありがと、でもまた、来ていい?」

「……いいよ、あと、泊まって行くでしょう?」

「うん?」

「今日。五日目だからって、夜中十二時ちょうどに追い出したりしないよ?」

 賢吾が笑った。この五日間、最初の方こそ次に転がり込むための女の人を物色していたが、茅子といるうちに気が変わり、昔の知り合いに連絡を取って働ける美容院にあてをつけたのだという。

「……住むところは、まだでしょ?」

 もうしばらくいてもいいよ、と茅子は小さな声で言った。渡されたティッシュで、鼻を拭く。目の奥がじんじんする。鼻の上の方が痛い。

「……そう?」

「うん。いれば?」

「甘えるよ?」

「いいんじゃないかなあ」

 じゃあいつでも髪を切ってあげるよ、と賢吾が言った。頷きながら、茅子は鍋をあたため直さないと、と言う。

 賢吾の腕が伸びて、淡い灰色と桜色を交互に重ねた土鍋が持ち上げられた。

 ご飯遅くなってごめんね、と茅子がつぶやくと、駅で待たされてる心細さより全然、と返事がくる。やっぱりあの日はずっと外で待ってたんじゃないの、と、申し訳ない気持ちも含めて、茅子は俯き、静かに笑った。

 どこかにしまったはずの合鍵を、ご飯の後に捜さないと、いけない。

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― 新着の感想 ―
[一言] 最後にうるってきました…! こういう話いいですね… 出会えて良かったです。
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