神体育成倶楽部2 <北棟女子トイレの怪談?>
物語はおまけです。
小難しいことを言っている部分が本文です。
本文のはずだったのですが、最近は「物語」を書くほうが楽しくなってきて、個人的には失敗しつつありますww
「小難しい話」を飛ばしたい方は、本文「17」から読み始めてください。
と、突然。
ピアノの音がとまった。
今し方まで、ピアノの椅子に座って演奏をしていた先輩の姿も消えていた。
しばらく後に。
といってもそれはほんの10秒ほどだったかもしれないが、しばらく後に、小平が口を開いた。
「さすがですねぇ、佐々木さん」
いつもの口調だった。
「一時はどうなる事かと思いましたが、やはり佐々木さんは、私の予想のはるかに上回りますね」
「どういう意味だよ。それより、先輩はどこに行っちゃったんだろう?」
がたん、と音がする。
音の方を見ると、田端が床に座り込んでいた。
「大丈夫か、田端?」
田端は顔面蒼白で、まだピアノの方を見ていた。そして、ぎこちなく小平を振り返ると、こう言った。
「こひら、あの先輩って」
小平は、苦笑いのような笑顔で応える。
「そうですね。100%、幽霊でしたね」
14
町の図書館で調べると、「先輩」がピアノのコンクールに出られなくなった事件があったのは、今から20年も前のことだった。実に俺達が生まれる前である。学校の図書室には、該当する記事の載った資料は置かれていなかった。さらに詳しい事情を、ネットで探そうかとも考えたが、先輩に敬意を表して、やめることにした。
昔、ピアノが大好きな先輩が、この学校にいた。
それがすべてでいいだろう。
「なんか一瞬、怖かったけど、きれいな人だったよな」
田端は、のんきな事を言う。
「そうですね。危険かと思いましたが、話が通じるかたで幸運でした」
小平も、的外れな返事をしている。
「それにしても」
小平が俺を見て、にこりと笑った。
「佐々木さんは、当初の目的を達成できましたね。私の言うとおり、音楽室に行ってみて、よかったでしょう?」
「当初の目的?」
「そうですよ」
俺が、なにかをしただろうか?
「やですよ、佐々木さん。先輩の手を取っておいでではなかったですか」
小平に言われるまで、まったく意識していなかったが、確かにそんなことをした。長年、というのは大袈裟かもしれないが、それでも十年来の悲願が、こんなに何げなく実現されたのは、いささか拍子抜けした感がある。
「おめでとうございます、佐々木さん?」
小平は笑顔でおれに言った。
「遠く苦難の道程かとも思われる話を聞いたその日に、ゴールにたどり着いてしまうのは、いささか拍子抜けではあったけど、それでもおめでとう、佐々木」
これは田端。
「ありがとう、だが再び言わせてもらうならば、俺の独白を取るな、田端」
「あれあれ? お礼は田端さんにだけですか?」
「いや、そんなことはない。音楽室にさそってくれてありがとう、小平」
「いえいえ、どういたましてですよ、佐々木さん」
小平は、にっこりと笑ってみせた。
15
その翌日。
本来ならばスクワットの日だが、昨日はピアノ騒ぎで腕立てができなかったので、今日にずれ込んだ。
つまり、今日も腕立ての日。相も変わらず、腕立てをしながらの会話となる。だが、それにもずいぶん体が慣れてきた。息が切れにくくなってきた。これでマスクを二重にして腕立てが出来れば、心肺能力も強化できそうだが、まずはその前に新弟子埋葬(死んでしまいそう、の誤変換)なのでやめておく。
「なあ佐々木」
「うん?」
「おまえは、この世に正義というものがあるとおもうか?」
「やぶからぼうにどうしたんだ、いったい」
「毎日のな、ニュースを見ていて思うんだ。なぜ『正しいこと』が行われないんだろう、ってさ」
「そうだなぁ」
「殺伐とした犯罪の報道や、悪事を重ね、それすらも自分たちの都合の良いように弁明し、責任を取らない、責任を免れる政治家たち。いったいこの世の中に、正義なんてものがあるんだろうか、ってね」
「俺の、本当に個人的な意見としては、『正義』は無いな」
「ま、佐々木はそう言うだろうと思ったけどな。厭世家のおまえなら。でも、なぜそう思うんだ?」
「以前にな、とある本で読んだことがある」
「うん?」
「長いが、論理は明確なので引用すると、いわく
『正義とはなにか』
『正義とは正しいことなり』
『悪とはなにか』
『悪とは悪いことなり』
『正義は何に対して正義というか』
『正義は悪に対して正義というなり』
『悪は何に対して悪と言うか』
『悪は正義に対して悪というなり』
『正義無きところに悪はありや』
『正義無きところに悪はなきなり』
『悪無きところに正義はありや』
『悪無きところに正義はなきなり』
『悪無きところに正義無く、正義無きところに悪は無し。ならば正義と悪は、同じものの二面なり』
と、こういうわけだ」
「言葉の一つ一つはわかるが、それは正しいのか?」
「正しいとかではなく、こう考えることも出来る、ってとこかな」
「それがどうして『正義はない』って結論になるんだよ?」
「仮にこの言葉どおりに正義と悪がひとつの事象の二面であったとすると、正義と悪を分かつことは出来ないということだ。たとえばここに、一枚の厚みの無い紙を想定したとして、紙には裏も表もあるけれど、厚みが無いからそれを二分することはできない」
「ああ、なるほど」
「二分出来ないものはもちろん一体だ。ゆえに正義と悪は同じものの二面であり、正義だけは単体で存在せず、悪だけは単体で存在しない」
「単体で存在しないだけなら、悪と同居で正義は存在するんじゃないか?」
「まあ、話は最後まで聞いてくれ」
「おうよ」
「いまのは個体の中の正義と悪だ」
「意味がわからんが?」
「今まで話していたのは、とある任意の一枚の紙の話だということさ」
「今度は紙にたとえると逆にわかりにくくなるから、話を人間にもどすが、俺の中には善も悪もある」
「あるんじゃないか」
「とにかく聞いてくれ。田端、おまえの中にも善悪はある」
「あると思うから、いま佐々木に問いかけてる」
「そうだな、田端。おまえ、こないだの話を憶えているか?」
「こないだの話?」
「他人は自分と同じ色を見ているのかって話だ」
「ああ、憶えている」
「あの時は、目や脳という器官が、同じ遺伝子情報によって組み立てられているのならば同じ色を見ているのだろう、という結論だった」
「そうだったな」
「だが、今回の『正義』は、前回『目』のような、遺伝子情報によって作り上げられた器官ではなく、『正義という思考』についての問題だ」
「そうなるのかな?」
「人間の器官は、遺伝子という名の、ほぼ同じ設計図によって作られるわけだが、人間の思考、言い換えれば個性や性格といった物は、個々すべてが各々に作り上げた別のものだ」
「確かに、何から何まで、そっくり同じ思考をする人間は、双子でもいないだろうな」
「そして個々人の善悪感も、それと同じで『厳密に言えば、すべて違う』と考えて間違いではないだろう」
「たしかにな」
「地域的に、または治安の水準が同様な場所で育った者は、似通った善悪感を持つだろうが、それはすべてではない」
「うん?」
「つまり、俺と田端の善悪感は大まかな部分では似ている可能性は高いが、厳密には同じではない」
「というと?」
「たとえば俺は、腹が減ったら早弁をして、昼休みは購買のパンを食えばいいと思うことがよくあるが、田端、おまえは早弁しないだろう?」
「早弁はいけない、というルールがあるだろう?」
「実は俺、生徒手帳を隅から隅まで読んだことがあるんだが、どこにも早弁をしてはいけない、とは書かれていなかった」
「だが世の中には不文律というものがあるだろう」
「そこが肝心だ」
「どこが」
「田端。不文律は書かないから不文律なんじゃない、書けないから不文律なんだ」
「なんだって?」
「不文律を文章に書けるならば、文章にすればいい。けれども不文律は、多岐多様に渡りすぎ、更に言えば場面場面で微妙に解釈が違ってくる。俗に言う『解釈が玉虫色』であり『玉虫色の解釈ができる』のさ」
「よくわからないぞ。ちゃんと説明してくれ」
「つまりだな、『不文律がある』と仮定してみる」
「わかった」
「ちなみに『不文律がある』という言葉は矛盾を内包しているけれど、それは今は問題としない」
「よくわからんが、わかった」
「不文律は、文章化されていないから、元本に当たることも、内容を照会することもできない。これは良いか?」
「いいだろう」
「すると、たとえばさっきのように、『早弁は是か非か』という問題を解決しようとしても、こと、あたるべき対象が不文律だった場合、問題を解決はできない」
「なぜ?」
「だってそうだろう。早弁はいけないという者と、早弁は良いんだという者がいたとして、不文律に照会することはできないのだから、議論は平行線にしかならないじゃないか」
「だが、大勢の人間の中には、同じような善悪感はあるだろう」
「さっき言った『同じ国』で『同じ時代』の『同じような社会環境下、あるいは似通った法律下、同じような治安環境下にある人々』であれば、同じような善悪感、正義感はあるかもしれない。だが、厳密に言えば同じではない。同じような正義感、倫理観を語っていても、細部ではさっきの早弁みたいに、善悪の基準がかわってくる」
「それはそうかもしれないが」
「それはそうかもしれないが、ここが一番肝心なんだと思う。つまり万人に無批判で受け入れられる法律がない事自体が、正義がない証拠なんだと俺は考える、ってことさ」
「日本の法律は、多様化する現代に即していない気はするけど、そこそこ良い法律だと思うけどな」
「それが、『同じ国』で『同じ時代』の『同じような社会環境下にある人々』ってくくられる典型例さ」
「どこがどうだって?」
「日本の法律では、銃刀法っていうのがあって、許可なくむやみやたらと刃物を持っていてはいけないし、そもそも銃は所持すら難しい」
「安全でいい法律じゃないか」
「だがアメリカでは、市民から銃を取り上げるという話題が出ると、多くの国民から猛反発をくらう。つまり、俺がさっきから繰り返し『同じ国』で『同じ時代』の『同じような社会環境下にある人々』に、って断っているのは、逆だといいたいんだ」
「何が何に対して、どう逆なんだ?」
「ま、ちょっと考えてみてくれよ」
腕立ては500回に近づいた。しゃべりすぎて、息も上がり気味だ。
「腕立ておわったら続きを話そう。それまで考えてみておくれ」
「ああ、そうするよ」
16
「今日は話が長かったから、後半でバテたな」
「本来はこれくらい、笑って会話を終わらせられるくらいには、なりたいものだな」
「で、なにがどう逆だって」
「考えてみたのか?」
「考えてはみたが、脳内麻薬様物質のおかげでらりぱっぱだ」
「ほとんど無害だがな」
「無害だが、思考を停止させる作用は、どちらもさほどかわらんと思うぞ」
「まあいいや、『逆』の話だが」
「おお」
「順を追って話そう。成文法にしろ不文律にしろ、最初から法があったわけじゃない」
「なるほど、そりゃそうだ」
「つまり『成文法』には、絶対に複数とは限らないが、多分、ほぼ複数であり、多数であろう『法を作った人』が存在する」
「たしかにそうだろう」
「その場合、法を作った人々は、『同じ国』で『同じ時代』の『同じような社会環境下にある人々』である可能性が高いわけだ」
「ああ、なるほど」
「同じような社会的環境下にある人間たちが寄りあつまっって、法律を作る。もちろん集めるのはそこいらにいる誰でもいいってわけじゃない。『正しい心』を持った人か、または『正しい心を想像するのが巧みな』者かのどちらかであり、俺は『正義はない』と断じているのだから、ここには、『ここ』というのは俺の話す話の中には、っていう意味だがな、ここには当然、後者しか存在しない」
「ややこしい言い回しは勘弁してほしいが、なんとなくわかった。つまり本来は存在しない『正しさ』をでっちあげることができる『正しくない者』が集まって、法律を作るんだ、ってことをおまえは言いたいわけだな?」
「すばらしい要約だな、そのとおりだ。とくに『でっちあげる』ってところが最高だ。我が意を得たり、ってやつだ」
「で?」
「ここからが最大に重要な事なんだが、作られる法律、つまり『きまり』や『きめごと』は、実は何でもいいんだ」
「なんでもいい?」
「そう、なんでもいい。全くホントに全然、ありとあらゆることを決まりとすることが許されるんだよ」
「まてまて、さすがにそれはないだろう。極端な例に走って申し訳ないが『人を殺しても良い』ってのは、さすがに法律にしちゃだめだろう?」
「いや、全く問題ない。もっと極端に言うと『こうこうこういう場合は、人を殺さなくてはならない』っていう法律だってある」
「どこの国に?」
「もちろんこの国に、だよ」
「そんな法律、ある分けないじゃないか」
「なにを言ってるんだ、田端? おまえは正気か?」
「その言葉はそっくりそのまま、おまえに返すよ」
「じゃあ、具体的に例を挙げよう」
「あげてみろよ」
「その前に確認して置くが、田端。おまえにとって殺人行為は悪いことだな?」
「もちろんだ」
「その根拠は何に基づく?」
「俺の良心と、この国の法律だ」
「その法律だが、司法裁判によって死刑が確定し、法相が書類に署名捺印したら、国はその罪人を殺さなくちゃならないんだぞ。それをおまえは知らないのか?」
田端は鼻白いだ。
「いま俺は婉曲的に『国は』と言ったが、もちろん最終的に罪人を殺すのは、死刑執行人、つまり人間だよ」
田端はまだ黙っている。
「加えて言えば、もしこの国で戦争が始まり、他国との間に戦闘行為が開始された場合、上官からの命令があれば、自衛隊員は戦闘行為をしなくてはならない。そうすることを契約の上に、彼らは自衛隊員として給与をもらい、生活をしている。たとえば敵戦闘機に向けて迎撃ミサイルを発射した場合、そのミサイルが命中すれば、目標となった戦闘機のパイロットは、かなりの高確率で死亡する。これも『そんなことはできません』とは言えない場面だ。拒否が許されるならば、職務怠慢どころか、より多くの自国民を危険にさらすことになる。躊躇する、あるいは拒否するという選択肢は『ない』んだよ」
「でもそれは、あまりに特例なんじゃないか?」
「特例ではないさ。一年に何人の死刑執行がなされているか、調べたことはないのか?」
「ない」
「もうひとつ、誤解を解いておきたいが、本当はこんな特例を出したかった訳じゃあないんだ」
「というと?」
「ホントに法律は何を決めてもいいんだ。たとえば」
「たとえば?」
「朝、家を出て最初に出会った人を殴らなければいけない、とかね」
「おいおい、穏やかじゃないな」
「ま、いまのは逆に否定されるだろうという例を、わざと挙げたんだけれどな」
「なぜ?」
「う~んとだな、ひとつおまえに訊いていいか、田端?」
「いいよ?」
「世界中に分布している人類は、ほんとに俺達と同じ人間か?」
「そりゃそうだろうよ」
「ほんとか?」
「あたりまえだ」
「じゃ、もひとつ質問だ。同じ人間なら、同じ正義と悪の観念を持っていると思うか?」
「同じだと俺は信じたいね」
「いいか、良く考えろよ。人間は多分それぞれの固体が別の正義をもっている。人の数だけ正義の数があり、それにくわえて、集団の数だけの正義があるんだ」
「意味がわからんぞ」
「さっき、人それぞれの正義が、少しずつ違うという話はしたよな?」
「ああ、早弁の話だったか?」
「そして不文律は、記述ができないから不文律なんだという話もした」
「ああ」
「今度は、『団体の正義』を考えよう」
「だからなんだそれは?」
「人が複数集まれば、それは個人じゃないよな?」
「そりゃそうだ」
「たとえば、日本には日本の正義がある」
「日本の正義?」
「日本の国が日本の正義として掲げる、もっとも象徴的なものは憲法だ」
「ああ、なるほど、そういう意味か」
「また、この神体育成倶楽部にも、ひとつの正義の形がある」
「あるのか?」
ここで突然、小平が口をはさんだ。
いままでそのことに触れる機会がなかったので、説明をしそびれていたが、小平は俺達が腕立てなりスクワットなりをしている時は大概、近くのコンクリに体育座りをしているか、または近くの金網フェンスにもたれて立ち、俺達の会話を、なぜか嬉しそうに聞いている。
初めて小平が俺達の会話に加わった時、もちろんそれは小平が入部表明をした時だが、それ以来、このおしゃべりな娘は、腕立てをする俺達のそばでは、いつも黙って微笑んでいる。それが俺にはわからない。何を目的で神体育成倶楽部に入り、何が楽しくて微笑んでいるのだろう?
「ありますとも。もちろん世界征服ですよね、佐々木さん?」
その小平が珍しく会話にからんで来たのだから、少なからず俺は驚いた。加えて、それがただの戯れ言だったことに、もう一度驚いた。
俺は、心中の動揺を表に出さないように答えた。
「そんなわけないだろ、あるのは『腕立てする』という正義だ」
「なるほど、よもやそんなことではないだろうかとは思っていましたが、やはり正解はそれでしたか」
「この神体育成倶楽部に、腕立て以上の正義は無い」
「するともちろん、次点の正義はスクワットなのですね?」
「いや、次点は小平だ」
小平は、きょとんとした顔をする。
「私ですか? はて、意味が解りませんが?」
「小平がいてくれることにより、我が神体育成倶楽部は存在し得る。それはすなはち、正義そのものだ」
えへへ、と小平が笑う。
「それだけ真っ向からほめられると、さすがに照れますね」
「ほう、小平でも照れることがあるんだな」
「やですよ田端さん、これでも私は引っ込み思案で、照れ屋さんなのですよ」
「でも、着痩せするんだよな?」
「そうです、それでいて着痩せするタイプでもあるのです」
小平と田端の楽しげな会話に、俺は水を差す。
「後半は今回の話題とは関係ない」
「そうですね。佐々木さんのそのご指摘は、確かに正しいような気もします」
確かに正しいような気もする、というのは婉曲な婉曲だな。遠回しに、遠回しだ。
「とりあえず話を戻そう。すべての団体には、団体としての正義が生まれる。しかもその多くは不文律だ」
「また不文律かよ」
「社訓や道場訓のようなものもあるだろうが、大概は不文律だろう」
「そうだろうな」
「それぞれの団体は、その規模にかかわらず、ひとつ以上の不文律であったり成文法であったりをもっている」
「言われてみればそうかもしれませんね」
「言い換えると、すべての団体にはひとつ以上の正義があるわけだ」
「人が複数いて、さらに不文律だから、ひとつ以上のっていう言い方になるわけか」
「そうだ」
「そして、近似する存在意義を正義とする、異なる団体が接触した場合、軋轢が生じる」
「って、どういうことだ?」
田端の問いに答えようとした俺の変わりに、小平がこたえた。
「つまりあれですよ、田端さん? 異なる二つの宗教団体は、決して仲良くはできないということですよ」
「あ~、なるほどね。それは良く分かるわ。小平、おまえは頭いいな」
「やですよ、田端さん。授業中にセンセからの指名に対し、必死に逃げ隠れをしている者を指して頭が良いとは、失礼にもほどがありましょう」
「逃げ隠れすれば、先生から指されないなんてことがあるもんなのか?」
「はい、それはもちろんですよ」
「それが本当ならば、あやかりたいモノだな」
「いえいえ、それが出来るようになるためには、それはそれで大きな代償を払わなくてはいけないのですよ? 田端さん。決して割りの良い話ではありません」
「なんだ、どのくらい割に合わないんだ?」
「そおですねぇ、100本の中に、98本までが現金100万円が当たるくじ引きがあったときに、のこり2本のハズレであるあめ玉かティッシュを、ほぼ100%の確率で引いてしまうようになってしまう程度には割にあわないんですよ」
「100%引いてシマウようになってシマウのか」
田端が、顔を上げほんの一瞬、考えるような素振りをしたが、すぐに言った。
「そいつは、わりにあわないな」
小平と田端の脱線話が小休止したらしいので、俺は本題を続けることにした。
「で、だな」
「おう」「はい」
「すべての個人に、ひとつ以上の正義があり、すべての団体にひとつ以上の正義があるとすると、得られる結論は次の通りだ」
「ごくり」
「『ごくり』ってなんだよ、小平?」
「やですよ、田端さん。緊張を高める効果音に決まっているではありませんか」
俺は、このやりとりを無視した。
「『正義の数は少なくとも、人類の総数よりも多い』」
田端は少しまじめな顔をし、また上を見てその言葉を吟味している。小平は相変わらず、にこにこと笑っている。
次に言葉を発したのは、田端だった。
「正義の数なんて、考えた事もなかったんだが、思ったより、いや、思ってすら居なかったんだが、正義の数は多いんだな」
田端の言葉は、迷いつつあり、またしどろもどろでもあった。
「で、だな。田端、話をまとめるとして、一つ目な」
「おう」
「最初におまえが言った、TVや新聞で世の中を騒がしている、おまえが理解出来ない、いや、理解したくない犯罪などの行為は、それが確信犯的な犯罪であればあるほど、おまえが持っている正義とは、まったく異なった『正義』のもとに行われている行為だということだ。また、おまえの正義と、その相容れない正義を持つ犯罪者とは、こと『正義』ということに関しては、優劣はない。おまえの正義も何かしらのエゴが含まれ、確信犯的犯罪者の正義も、その本人のエゴによって構成されている」
「長い科白ですね、佐々木さん」
「珍しくチャチャをいれてくれたが、すまない小平、いま、言葉を紡ぐことをやめると、二度と語れないかもしれないんだ。あとでいくらでも付き合ってやるから、悪いがちょっと待っててくれ」
「わかりました、佐々木さん。でもいまのは言質をとりましたよ?」
「ああ、わかったよ」
俺は、この時は良く分からず、この小平の言葉を肯定してしまった。
「それぞれのエゴが正義の基準である場合、それはもはや正義ではないと言える。この場合、この世に正義は存在しないというのが、俺が最初に答えた通りの結論。これがひとつめだ」
「わかったような、わからんような」
「まあいい、次は成文法と不文律のところで話したように、不文律には共通の正義がない」
「まあ、そうかもしれん」
「かといって『成文法』は、良く言えば人々の思いの最大公約数的な正義基準でしかなく、悪く言えば『でっちあげ』でしかない」
「さらに加えるならば、正義の数は人の数より多いんですよね、佐々木さん?」
「しかり」と俺。
「がぶり」は田端。
「やですよ、『がぶり』って、可愛いではないですか、田端さん」
「ムクツケキ男子高校生には、可愛いという形容はそぐわないがな」と俺。
「こまりますね、佐々木さんは田端さんの可愛らしさが分からないのですか?」
「男が男を、可愛いとは思わんだろう」
「子供のころの佐々木さんは、可愛かったですよ?」
「それをいうな。ともかくもう一度、話を元に戻すぞ」
「よかろう」「よかりましょう?」
先が田端、後が小平だ。
「慣習が違い、言語が違い、宗教が違い、幼児期の教育が違い、初等教育が違った場合、人間は同じ人間とはなりえない」
「だからなぜ?」
「例えは簡単だ。ここに同一のパソコン3台があったとする」
「おう」
「ひとつに窓系のOSを入れ、ひとつにオープンソース系のOSを入れ、残るひとつにDOS系のOSをいれて、この3台に共通のプログラムを走らせることは出来るか?」
「やですよ、それは無理というものです」
「田端はどう思う?」
「そもそも、窓やオープンソースOSが走る機体じゃ、DOSが走らないだろう」
「いや、最近の窓にもDOSプロンプトモードがついてたりするからな、走るかもしれんぞ」
「言われてみればそうだな」
「この場合、パソコンが人間の肉体や脳であり、OSが人間の言語であったり、思想信条だったりする。『違ったOSが走っている人間は、もしかしたら、同じ人間だとは言えないかもしれない』とすら、俺はためらいがちに考えてはいるんだ」
「ためらいがちに、なんですね? 佐々木さん」
「しかり」
「がぶり」
今度は先が俺、あとが田端だ。
「ともかく、不可分ではあるだろうけれども、ハードウェアとしての体と、ソフトウェアの心、または思考というものを想定すると、同じアーキテクチャをもったハードウェアといえども、必ずしも同じソフトウェアが走っているとは限らず、そこから類推される帰結は、演算の解も違う可能性がある。つまり、地球上の人類は、こと心や正義といった事に限って言えば、『同じ人間だ』と言えるかどうかは、はなはだ心もとない、という結論を導けるだろう」
「ってのは、どういうことだ?」
「思考や心といったあいまいな物から、法律や法律を作る者達といった存在、ひいては個々人の持つ正義感や倫理観まで、すべての事象において、不変なる正義があると断言するに足り得る論理的証拠を見いだすことはできない」
「つまり?」と小平。
「この世に普遍的な正義という物は、存在しえないというのが、俺の結論だ」
「おまえらしいな、佐々木」
「そうか?」
「おまえの厭世家の素養が、一言一言にあふれている」
俺達の会話に割り込むように、小平が笑顔で言った。
「ひとつ、質問をさせて頂いてよろしいですか、佐々木さん?」
「なんだ?」
「今のお話で、ほぼ同様にして『真理は無い』という事を導き出せませんか?」
地球上の人類の、こと心や真理といった事に限って言えば、『同じ人間だ』と言えるかどうかは、はなはだ心もとない、という前提が成り立つのであれば。
思考や心といったあいまいな物から、世に存在する哲学者、ひいては個々人の持つ倫理観、価値観まで、すべての事象において、不変なる真理があると断言するに足り得る論理的根拠を見いだすことはできない。
ゆえに、この世に普遍的な真理というものは、存在しえない?
「導きだせる、かも、しれない」
「そのとき『真理は無い』というのは、ひとつの真理なのではないでしょうか?」
「そう、かも、しれないな」
「それは、『真理は無い』という真理があることなりませんか? 『真理は無いという真理』を見いだした矛盾について、これをどうお考えになりますか? 佐々木さん」
あいかわらず、いつものとおり小平は無邪気に笑っている。だが、言っていることは辛辣だ。
俺は、小平の質問の意味を考える。
「きっとあれだな。言葉遊びでは、本当の意味で真理を捕まえることは出来ないのかもしれない、っていうことかな?」
「そうかもしれませんし、もしかしたら、これは本当にただの言葉遊びなのではないのかもしれませんよ」
「そんなことはないだろう?」
「どうでしょう?」
小平は含み笑いをする。
「なあ、佐々木」
「なんだ?」
「もし、普遍的な正義がないとすれば、俺たちは何を信じて生きて行けばいいんだろう?」
「それはだな」
田端とともに、小平も黙って俺の顔をみていた。
田端は真剣な顔をして、小平は微笑んで。
「つまり、いつも俺が言っているように、『すべてのことは、自らの心という銀幕に映し出される幻灯にしか過ぎない』ということを信じるしかないな」
「それでいいのか?」
「俺はな、田端」
「おう?」
「どんなことがあっても、他人を変えることはできないと思っている」
「うん?」
「もし、俺が誰かに影響を与えて、その相手の性格なり考え方なりが変わったとしても」
「うん」
「それは、相手が自分で勝手に変わっただけだ」
「そうなのかな?」
「そうだとも。相手が自分で『変わろう』と思わなければ、性格も考え方もかわるはずがない。だとすれば、その人間は自分で勝手に変わったんだ。ならば、正義がそれぞれの人の中にあるだけのものでもいい。俺の中の正義を、俺自身が『正しい』と思えるならば、それでいい。ただ」
二人は、黙っていた。
「ただ、それは独善と紙一重だから、それだけは忘れないでいたいと思う」
田端は難しい顔をしており、小平は相変わらず微笑んでいた。
田端の第一声は「おまえらしいな」だった。
「そうか?」
「ペシミストのお前が言いそうなことだ」
「けれども」
けれども、と言ったのは小平だ。
「けれども、それはひとつの真実かもしれませんよ。佐々木さん?」
「おお、小平は佐々木と同じくペシミストなのか?」
「いえいえ、田端さん。私はいつでも真理とともにありたいのですよ。それが」
「それが?」
「私が、こちらの倶楽部に在籍させていただいている、理由なのです。佐々木さん、田端さん」
「ほ~、そうだったのか」
これは俺。
そんなことを考えていたのか、小平は。
「そうだったんですよ、佐々木さん?」
「うん?」
いまのは、俺に言ったんだよな。小平?
どういう意味だろう?
俺は小平を見つめた。
小平も俺を見ていた。
「こういうときは、あれかな? 『ひゅーひゅー』とか言えばいいのか?」
冷めた声で言ったのは田端だ。
「言いたければ言えばいい。止めるつもりはない」
諦めたように田端は、ため息をつく。
「はいはい、おまえらしいな」
小平はなぜか嬉しそうに笑う。
「佐々木さんらしいですね」
17
翌日。
俺がスクワットを始めると、しばらくして小平が姿をみせた。今日は、なぜか田端があらわれない。
「佐々木さん、佐々木さん?」
「小平か、どうした?」
「やですよ、佐々木さん? どうしたじゃありませんよ? こんなところでスクワットしている場合ではありません」
「こんなところ」とはごあいさつだが、体育館の外、しかも人通りの少ない裏びれたコンクリ打ちっぱなしの場所ではある。こんなところ、と言われてもしかたがない、というよりは構内では、こんなところ、という呼び方が、もっとも似合う場所のひとつかもしれない。
「今日はスクワットの日だから、終わるまでまってくれないか?」
俺がそう言うと、小平はニヤリと笑う。
「やですよ、佐々木さん。こないだの約束をお忘れですか?」
「約束?」
「いいですか? いまから私が再現する会話を聞いてくださいね」
小平は、一人芝居をはじめる。
『長い科白ですね、佐々木さん』
『珍しくチャチャをいれてくれたが、すまない小平、いま、言葉を紡ぐことをやめると、二度と語れないかもしれないんだ。あとでいくらでも付き合ってやるから、悪いがちょっと待っててくれ』
『わかりましたよ、佐々木さん。でもいまのは言質をとりましたよ?』
『ああ、わかったよ』
思い出した。というか、憶えていた。
「小平は、なんていうか、物まねがうまいな」
俺が、トンチンカンな感想を言うと、小平は珍しく口をヘの字にして、頬を膨らませる。しかし、目はいたずらっぽく笑っているようにも見える。
「やですよ、佐々木さん。よもや知らぬ存ぜぬを決め込む訳ではありませんよね?」
「ああ、すまんすまん。そんなつもりはない。今の会話はもちろん憶えているが、俺の口まねがあまりにうまかったんで、純粋に驚いただけだ」
「では、今日の放課後は、不祥このワタクシめにお付き合い頂けますね?」
「応ともよ。で、何に付き合えばいいんだ?」
「やですよ、佐々木さん。もちろんそれは決まっているではないですか」
「うん?」
小平は、にぃっと笑うと、サムアップをしながら言う。
「やですよ、やですね。我が校の七不思議巡りですよ、佐々木さん?」
小平のサムアップを見たのは久々だった。
18
俺は、遅れて来るだろう田端にメッセージを残すことにした。
「なぁ、小平。今日はどこへ行くんだ?」
「北棟1階への渡り廊下にある、女子トイレですよ、佐々木さん?」
「北棟って、特別棟か。うん? おいおい待てまて、さすがに俺は女子トイレには入れんぞ?」
「大丈夫です、ささやかながらこの私も同行致しますし、私の力およばず佐々木さんに、あらぬ疑いをかけられてもっ!」
「かけられても?」
「それはそれで、なかなかに出来ない経験をしたということで、一件を落着させることもできます」
「落着させるな、そんなもの」
「実を伴わない、ただ噂だけの怪談かも知れません。『あとでいくらでも』付き合ってくださいな」
「ああ、もうわかったよ。行けば良いんだろう? 行けば」
「晴れ晴れとした御快諾、ありがとうございます、佐々木さん?」
俺は、そこいらにある柔らかそうな石ころを拾うと、いつも田端が腕立てをする辺りのコンクリに、その石のとがっているところでこう書いた。
「北棟1階 渡り廊下 女子トイレにいる 佐々木」
これは、田端以外のだれかが見たら、間違いなく先生を呼ばれるに違いない。
「よし、それじゃぁ」
「え? なんですか、佐々木さん?」
「なんでもない、独り言だ」
俺は、コンクリの上にさらに一行を書き足した。
「頼む 読んだら水をかけて 消しといてくれ」
小平と俺は、かくして北棟1階の女子トイレに向かうことになった。
19
「あれ? 佐々木はいないのか」
部活に遅れてきた田端はつぶやいた。
「おっ?」
コンクリの床に何やら書いてある。
----北棟1階 渡り廊下 女子トイレにいる 佐々木
----頼む 読んだら水をかけて 消しといてくれ
「ははぁ、こりゃアレだな。トイレの怪談に向かった模様だな。それにしても、水かけて消せって言っても、ここから水道までは、体育館の裏表程に離れてるってのに、どうやって水を持って来いって言うんだ?」
説明臭い科白をつぶやくと、体育館の表に向かって歩き始める。
「バケツバケツ、バケツはどこかいな?」
バケツが見つかるといいのだが。
20
俺は、小平と北棟のトイレの前まで来ていた。
「小平、ここには何がいるんだ?」
「うわさでは、女子トイレの一番奥の個室に、オンナノコがいるそうなんです」
「さすがに俺は入れないぞ?」
「やですよ、佐々木さん。ここまで来たら、一蓮托生です」
「一蓮托生というよりは、俺だけがドナドナの立場のように思われるんだが」
「さあ、行きましょう佐々木さん?」
「いまのが、『生きましょう』に掛けた言葉なら、ちょっと死にたいくらいだよ、俺は」
「もちろん、そんな掛詞のつもりは毛頭ありませんが、それを差し引いても、前途ある若者が、たとえ言葉のアヤであったとしても、『死にたい』などとおっしゃられてはいけませんよ、佐々木さん?」
ああ、久々に小平のこの言い回しを聞いた気がする。
「ほんとうに、どうでもいいことなんですけれどね」、といった調子で、たおやかに言い捨てる。
いや、言い捨てると表現すると強く聞こえるが、厭味でもなんでもないように、さらりと言う時、実は小平は言葉を、心の底から絞り出しているのかもしれない。いま初めて、俺はそう感じた。
「悪かった。小平の言う通り『死にたい』って言ったのは言葉のアヤだ。あやまる」
小平は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐにバツが悪そうに苦笑した。
「やですよ、佐々木さん? 真顔で何をおっしゃるのですか。私はいわゆる一般論を申し上げたまでですよ。佐々木さんが謝られるには及びません」
「そうか? なんだか最近、小平のことが少し解って来た気がしたんだが」
「他人の気持ちを理解したと思った時、そのほとんどは誤解である、と考えるのが妥当ですよ」
「おまえはほんとうに、追いかけると逃げるタイプだな、小平」
「佐々木さん。少しは私のことも、追いかけてくれるんですか?」
「も?」
「そうですよ、佐々木さん。佐々木さんはいつも真理ばかりを追い求めておいでですから、もし私がいなくなれば、少しは私のこと『も』、探してくれたりはするんでしょうかね? たとえばそれが」
「たとえばそれが?」
「そう、神体育成倶楽部の存続と関わりがないような場合でも」
「どういう設定だよ?」
俺はそう答えて、笑おうと思って小平の目を見た。小平の表情は、相変わらずのグリニングフェイスだったが、目は笑っていないように見えた。
「設定ではありませんよ、佐々木さん? 佐々木さんはいつだっておっしゃっているではないですか。『去りたければ去れ。引き留める理由はない』って」
「あれはだな、単に相手の意思を尊重しているだけだ。必ずセットで言うだろう? 残りたければ残れ、あるいは、来たければ来いと。俺は他人の人生までは背負えない」
「それが冷たいと申し上げているんですよ、私は」
「小平、おまえは少し、思い違いをしているぞ」
「私が、ですか?」
「そうだ」
小平は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「いつもは、だな。その、気恥ずかしくてあまり言えない言葉もある」
「どういうことですか?」
「つまりだ、あの言葉には続きがあるんだが、いつも言うわけじゃない、というか、いつもは言わないわけだ」
「それはどんな言葉なんですか?」
「だから、恥ずかしいから言わないって言ってるじゃないか」
「そこまで聞いてしまったら、気になるではないですか。しかも佐々木さんは、私の『思い違い』を御指摘なさっている訳ですから、なにがどう思い違いなのか、少なくともその点に関しては、私に説明をしてくださっても良いのではないかと思うわけです」
今日はおまえの科白も長いな、小平。
「わかったよ、小平。あまり何度も人前で言いたくはないから、一度だけ言うぞ」
「なんだか、どきどきします。告白されるみたいですね、佐々木さんに」
「莫迦なこと言うと、教えないぞ」
「ああ、すみません、ごめんなさい。いまのはただの戯れ言です」
「わかってるさ。いいか、俺のあの科白には続きがある」
「初耳です」
「だから人前じゃ、一度も言ったことはないんだってば」
「それでは私が初めての人、って事になりますね?」
「こ~ひ~ら~~っ?」
「あぁっ! ごめんなさいゴメンナサイっ!」
「いいか、良く聞け」
「はい」
「望むのならばそばに来い。拒む理由は何もない。去りたいのならば去るがいい。引き留める理由は俺にない。必要ならば追いかける。追いかけるのは俺の勝手」
小平はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「最後が、字足らずですね?」
「あ~~、だから言いたくなかったんだよ」
「嘘ですウソです、感動しました」
「この期に及んで、嘘をつくなっ!」
「いえいえ、本当ですよ。まさか人一倍のペシミストを自他共に認める佐々木さんに、そんな一面があるとはおもいませんでした。どうせならば『追いかけるのは俺の勝手だ』にすればシチ音ですよ?」
「そうか、そのテがあったか」
俺がそう言った時。
「くすくすくす」
笑う声がした。
声がした方を見やると、目前の女子トイレに続く、コンクリの犬走りに女子が一人、俺達を見ておかしそうに笑っていた。俺達と同じ一年生の、緑の名札をつけている。
「おにいさん~、おねえさん~。おもしろい人達ですね~」
面白い人達って、小平と一緒にしないでほしい。
俺がそう思って小平の顔を見ると、小平はけっこう嬉しそうに笑っている。そして、俺に聞こえない程度の声でつぶやいた。 ―でましたね。でてきてくれましたよ―
「なんだって、小平?」
「いえいえ、なんでもありませんよ? 『今日は良い天気ですね』と言ったんです」
「そんなことを言ったんじゃないことは、俺にもわかる」
会話中、小平は一度も俺に目を向けず、さっきの女子を凝視している。
「あらあら、それはとんだ無礼をいたしましたね、佐々木さん?」
俺の思考を読んだかのように、小平は俺に言い、続けてトイレの犬走りにいる女子に声をかける。
「やですよ、私達の会話は、そんなに面白かったですか?」
「仲良さそうで~、とっても信頼関係があって~、いいな~って思いました」
「そうですか、それは気に入っていただけて何よりです」
「あの~、じつは~、仲よしさんを見込んで~、お願いがあるんですけど~」
女子は、にこにことした笑顔でそう言った。
「私の名前は~、大西茜といいます。1年A組です~。ちょっとわけあって~、ここから動けなくなっちゃったんで~、あたしをおぶって、西棟の昇降口まで連れて行ってくれませんか~?」
俺は大西さんに訊いた。
「それは、俺に言ってるの? それともこっちの子に言ってるの?」
そう言って右手の親指で、小平を示した。
「そうですね~。あたしとしては~、どちらでもいいんですけど~、お兄さんの方がいいかな~って希望します~」
「わかって言ってると思うけど、俺、男だよ? おんぶされて大丈夫なの?」
「はい、もちろんわかって言っていますけど? お兄さんの方が嫌なのであれば~、お姉さんにお願いしますけど~?」
「西棟までは、けっこう遠い。女子に頼む事じゃない。俺は、大西さんが俺におんぶされることに抵抗がないのか、それを聞きたかったんだ」
「遠い、ということに限って言えば~、そちらのお姉さんでも全然問題ないかとお見受けしますけど~?」
いままで黙っていた小平が、ここで口を開いた。
「何から推察して、私にそれだけの素養があることを見抜いたのかは不明ですが、大西さん?」
「は~い」
「どうして西棟に行きたいのですか?」
「そうですね~。しいて言えば~、お二人があまりに仲がよさそうかな~、って思ったというのが理由でしょうか~?」
「俺には、大西さんが何を言ってるのか、さっぱりわからないんだが?」
「ああ、ごめんなさ~い。解らなくてもいいんですよ~、おにいさん。それが真実であれば~」
「さっきから、おにいさんって、大西さんも一年なんだろ? それなら俺達と同学年じゃないか」
「あれ~? おにいさん、怒ってます~?」
「いや、怒ってはいないけど」
「仲がよければ」
俺と大西さんの会話に、小平が割って入った。
「仲がよければ、邪魔をするんですか? あなたは、野暮天さんですか?」
「警戒しなくても大丈夫ですよ~、おねえさ~ん。おねえさんが考えているような~、裏はありませんから~。あたしはただ~、ずっとここにいて~、西棟に戻れなくなってしまったものだから~、この力強いおにいさんに~、連れて行ってもらいたかっただけなんです~」
俺は小平に言う。
「なあ、小平。この子も例のアレなのか?」
小平は俺に向き直って、少し寂しげに応える。
「はい、この子がきっと『北棟女子トイレの子泣き少女』だと思います」
「俺には、悪い子に見えないんだが」
「そうですねぇ、私にもそうは見えません」
俺達の会話の後ろで、大西さんが「なんですか~、そのセンスのない呼び名は~」とか「そうですよ~、悪いものじゃありませんよ~。これでもあたし、クラス委員長を任された身なんですから~、素性は確かですよ~」とか、他人事のように小声で言っている。
「じゃ、俺がおぶって、西棟に連れてってやっても良いかな?」
「佐々木さん、憶えておいてくださいね。通り名に『子泣き』って付いてるってことは、彼女、きっと重たくなりますよ」
なかば諦め顔で、小平が俺にそう言った。
俺は小平にウインク、大西さんにはサムアップしてみせる。
「行こう、大西さん。西棟へ!!」
「はい~、よろしくおねがいします~、運転手さん~」
なにげに失礼な言い回しのような気がするが、大西さんは、にこにこと嬉しそうに笑っている。
「このトイレから離れるのは、随分ひさしぶりです~。嬉しいです~。クラスのみんなも、ここには迎えにきてくれなかったので~」
また大西さんは、訳の分からないことを勝手に言っている。
俺は、大西さんの前に来ると、背を向けてしゃがんだ。
「大西さん、どうぞ」
「はい~、それでは~、失礼します~」
「そういう時に『失礼します』って変じゃないかな?」
「いえいえ~、このあと本当に失礼な重さになりますので、『失礼します』で正しいかな~と思います~」
そういって大西さんは俺の背中におぶさった。びっくりするほど、大西さんは軽かった。
「本当に重たくなるの?」
俺はだれに訊くともなくつぶやいた。俺の問いには背中の大西さんが答えた。大西さんは俺の背中に、ぎゅっとしがみつき、俺の右の耳元でささやいた。
「はい。それはもう、半端ではなく重たくなりますよ」
この声を聞いた時、初めて俺は、大西さんの魔性を実感した。その声は、それまでののんびりした声調とはまるで違う、深みのある艶やかな声だった。
同時に、背中に押し付けられた大西さんの胸の感触が、俺の胸の鼓動を速めた。
「あらあら、やですよ佐々木さん。なにか無償に鼻の下が長くなっておいでですよ?」
いままで黙っていた小平が珍しく、少しばかり険のある言い方で、不機嫌そうに、そして明るく俺にそう言った。
「鼻の下なんか、延ばしちゃあいないぞ」
「あらあら、そうですか? ふ~ん、わかりました」
俺達の会話を、俺の背中で聞いていた大西さんは、少しばかり嬉しそうに言う。
「ヤキモチですか~? あたしとおにいさんは~、いわば行きずりの出会いですから~、気にすることはありませんよ~」
あれ? ほんとに大西さんが重たくなって来たような気がする。
また大西さんが耳元でささやく。
「気のせいではありませんよ? おにいさん。どうか西棟まで、無事にたどり着いてくださいね」
そして、うふふふ、と笑う。
もちろん、日々スクワットに明け暮れている俺の脚力ならば、今のところはどうということはない重さだ。だがまだ数メートルしか歩いていないというのに、10kgは重たくなっている。
「まさか等比級数的に体重は増えないよね、大西さん?」
「ごめんね、あたし自身は、重さが増えてる自覚がないから、解らないの」
そう俺の耳元でささやいた後、「仮にも女子に~、『体重が増える』なんて言っちゃ、ためですよ~」と楽しそうに言った。
「それは失礼したな」
「いいんです~。もしかしたら本当に今日、あれからはじめて西棟に行けるかも知れないんですから~」
「『はじめて』って、西棟まで行けた奴は、誰もいないのかい?」
「はい~、残念ながら~、皆さん途中で力尽きられて~」
「まさか、つぶされて死んじゃったなんて事はないだろうな?」
「まさか~、ありませんよ~。みんな目を回して延びちゃうだけですから~」
「それだけですか?」
小平が聞く。
「延びちゃった人には~、あたしに出会った事を忘れてもらいました~」
「やですよ。それなら怪談にならないじゃないですか、大西さん?」
「ほんと~に、まれなんですけど~。あたしを放り出して逃げちゃう人もいるんです~。そんな人からは~、記憶を取れないんです~」
「そういったときに、大西さんはどうなってしまうのですか?」
「地面に落ちる前に、北棟のトイレの一番奥の個室に戻っちゃうんです~。だから記憶を取りそびれるんですけどね~」
実は、小平が会話をしてくれて助かっている。大西さんが、じわじわと重くなって、いまはたぶんガタイのいい男子二人分(そんな男子を二人同時におぶったことはないが)よりは重いだろう。ゆうに100kgは超えているようだ。だが、まだなんとかできる重さだ。北棟の昇降口までは、残り100mはある。
「でも~、噂とゆうのは~、なかなか面白いもので~、なぜか他人の中傷が囁かれるんですよね~。あたしはそういうの好きじゃないんです~」
背中で大西さんが、無邪気な声で好き勝手な事をしゃべっている。だが俺は、両足を踏ん張り過ぎて耳が聞こえにくくなってきていた。
大西さんがしゃべっている間に、小平が俺にささやいた。
「やですよ、佐々木さん。ゆっくりと息をすって下さい吐くときは鋭く、同時に足を踏み出してください?」
別段、大西さんに聞かれてもいいのだろうし、大西さんの顔は俺の耳のすぐそばなのだから、嫌でも聞こえるのだろうけれど、小平はそうした。
言われて俺は、呼吸法を間違えているのに、やっと気付いた。
腹筋に力を入れ過ぎて、息を止めてしまっている。苦しい時こそ、息を吐くんだ。
腹筋を締めながら息を吐きだし、最後に瞬間的にもう一度息を吐く。それに合わせて一歩を踏み出す。
呼吸法を取り戻し、北棟昇降口まであと50m(もちろん、気が遠くなりそうな状況下での、希望的観測だが)にまでたどり着いて、俺はふと思った。ガタイの良い高校生男子二人は、もうすでに背中にはおらず、居るのは、これまたガタイの良い「関取」に変わっている。180kgを超え、200kg前後ではあるまいか? 200kgといえば、ちょっとした中型バイクの装備重量に近い。バイクを背中に背負って歩く苦行は、いかな神体育成倶楽部といえども、現在のところ想定していない。
ただ不可解なことに、背中にはまだ、大西さんの柔らかな胸の感触があることに、すこし前から気がついていた。不可解とはどういうことかと言うと、実際に大西さんの体重が200kgだったとして、こんな柔らかなものが、ひしゃげもせずに、背中にその存在をしめす感触をもたらすものなのだろうか?という疑問である。ただし、背中に居る大西さんを、ガタイのいい関取に置き換えて想像をし、考察することはやめた。関取の胸が背中に当っていても、少しも嬉しくほない。そんなしょうもない想像はしないほうがましだ。
「やですよ、やですね、佐々木さん? 結構、余裕がありそうですねぇ。さっきの助言は、しない方が良かったのでしょうか?」
これは小平。
「なにやら~、おにいさんの妄想の中で~、あたしの貞操に危険がおよびそうな気がします~」
これは大西さん。
どいつもこいつも勝手なことを言いやがって。重い思い(地口じゃないからな)をしているのは、俺だけなんだぞ、っとこれは逆恨み。そんなことを思うくらいなら、最初から大西さんの依頼にを無視すれば良かっただけのことだ。
俺はそう思ったが、言葉にはしなかった。というか、言葉にすることすらできなかった。「勝手なことをいいやがって」という思いが、正当なものなのか逆恨み的な感情になるのかも分からなかった。
ともかく俺は、寸断される思考をよそに、西棟へ向かう執念だけで歩いていた。
実際にバイクをかつぐのだとすれば、バイクを背中に乗せる方法がなく、フレームなりチェーンなりが体のどこかに当り、激痛のもとになる。体重200kg超の関取を背負うのは、相手が背中に乗ってくれるのだから、ある程度の体格と脚力さえあれば可能だろう。大西さんは自分に重たくなる感覚はない、と言っていた。ならば、背負う側の体感するこの重さは、どこからくるのだろうか?
「それは私の罪の重さから」
力み過ぎで聞こえが遠くなった耳に、そんなささやきが聞こえた気がした。
うん? いまのは大西さん?
誰の罪だって? 「私」? 私ってだれだ?
東棟昇降口の上がりがまちまで、あと数メートル。だがそこで俺は立ち止まってしまった。
遠くで小平が俺の名前を呼んでいるのが聞こえる。ああ、大丈夫だ、そうじゃないんだ小平。足が上がらないんじゃない。この問いに答えないと、きっと大西さんは、たとえ東棟にたどり着いても、自由にはなれないような気がする。もちろん、なぜかそう思えるだけで、理由も根拠もない。
そして、俺はひとつの考えに至った。
「大西さんさ」
「はい~」
「もしかして、ホントに委員長とかやってた?」
「あら~、よくわかりましたね~。それはホントですよ~」
「きっと」
きっと、とまで言って俺は言葉を継げなかった。
きっとクラスの皆から、事あるごとに責任を押し付けられて、その重さにつぶされてしまったんじゃないだろうか? だがその推察は、今こうして、西棟にたどり着くことを心待ちにしている大西さんには、言ってはいけないような気がする。
「きっと、なんですか~?」
「あ、いや、なんでもない」
俺は大西さんを、なんとしても西棟に、送り届けなければいけない。北棟は特別棟で、実技系学科の実習室や実験室が集められている。
そして、生徒が集うホームルームは、西棟にある。
大西さんは、クラスに帰りたがっているのだろう。
さっきの大西さんの言葉を思い出した。
『このトイレから離れるのは、随分ひさしぶりです~。嬉しいです~。クラスのみんなもここには迎えにきてくれなかったので~』
そして、どこからか聞こえた声。
『それは私の罪の重さから』
多分、増え続けるクラスメイト達からの要求が、やがて大西さんへの重圧となっていったのだろう。そして、どんな事かはわからないが、大西さんは皆からの期待に応えられない失敗をした。結果として大西さんはクラスから孤立してしまった。その後、大西さんは北棟のトイレから「戻れなく」なる。
クラスメイトのいる西棟に、戻ることができなくなってしまったんだろう。
物理的に戻れないのではない。
戻れないのだ、大西さんの心が。
「よしっ!」
俺が気合をいれると、大西さんが俺に聞いた。
「何が『よし』なんですか~、おにいさん~」
「俺が、大西さん分の重責もぜんぶ担いで、ちゃんと西棟に送り届けるから」
「それは、とっても嬉しいかもしれません」
その大西さんの声は、いままでの妙に間延びしたものとは違う、すっきりしたものだった。
俺はあと50mを歩き始める。
あれ?
2~3歩あるいてすぐ気づいた。
大西さんが軽くなっている?
さっきまで、まるで大きな鉄の塊のようだった大西さんは、俺が一歩進むごとに軽くなっていく。
「大西さん?」
「なんですか? 佐々木さん」
「あれ? 俺、名前教えたっけ」
「最初に、小平さんが佐々木さんの名前を呼んでましたよ」
「私の名前も、佐々木さんが呼んでらっしゃいましたか?」
「うん。呼んでたよ」
背中の大西さんの顔は見えないが、声がはしゃいでいるのがわかる。そして、なぜか話し方が変わった。
「それはですね、佐々木さん?」
小平が唐突に、俺の心を読んだかのように言う。
「憑き物が落ちたんですよ、大西さんの」
そして、小平は俺を見て笑う。
「すごいですね。佐々木さんは、本当にいつでも私の想像の上を行きます」
「仲良しさんですね」
俺の背中で笑顔であろう、大西さんが言う。
西棟の昇降口前の階段まで、あと数歩。大西さんはすっかり元の重さに戻っている。「重さ」って言ってはだめなのだろうか? すっかり元の「軽さ」に戻っている。
階段に足をかけようとして、ふと顔を上げると、そこに大勢の生徒がいた。みんな1年の名札を付けている。
「あかねっ!」
大勢の中のひとりの女子が、大西さんの名前を呼ぶ。
「どこ行ってたの? みんなで探してたんだよっ!」
「サワコ?」
「大西っ!」
今度はひとりの男子が声を上げた。
「加藤君?」
「戻ってこないから、心配したぞ」
あとはなだれるように、多分1クラスの生徒全員が、俺が上がる階段を、花道のように開けて取り囲む。
俺はたった3段の昇降口前の階段を上がると、大西さんに言った。
「西棟に着いたよ」
「ありがとう、佐々木君」
大西さんが、俺の背から降りる。
「きみ。佐々木君っていうのか? どこのクラスか分からないけど、大西君を送ってくれてありがとう」
さっきの「加藤君」が俺に言う。
「茜、突然いなくなって戻ってこないから、クラスのみんなで探してたの。ありがとう佐々木君」
これはサワコさん。
「あんなこと、気にしなくていいんだよ」
名前が呼ばれない女子が言う。
「でも、皆に迷惑をかけちゃったし」
大西さんが、申し訳無さそうにか細い声でそう言うと、名前は不明の別の男子が言う。
「大西さんはさ、なんでも一人で抱え込み過ぎだよ。もっとみんなに責任を分担させていいんだよ」
「ミサキ君..。」
名前が判明した。ミサキ君というらしい。
「佐々木さん」
大西さんが俺の前に回って、言った。
「ありがとう。まさかクラスの皆があたしを探してくれてるなんて、思ってもいなかった」
大西さんが、朗らかに微笑む
「あたし、クラスのみんなを誤解してたかもしれない」
大西さんは泣いているようだった。
「誤解でよかったな」
俺はそう答えた。
「あたしね」
大西さんが一度、言葉をとぎる。
「佐々木君に出会えてよかった。ありがとう」
「大西さんの役に立てたなら、それは嬉しいことだ」
「本当にありがとう」
大西さんがそう言うと、大西さんのクラスの面々が、てんでに俺に礼を言い始めた。
大西さんが、俺に右手を差し出す。
俺はそれに応え、右手を差し出す。
握った大西さんの手は、暖かかった。
よかった。
俺がそう思った瞬間。
あたりが、かき消すように静かになった。
俺はひとりで、右手を虚空に差し伸べていた。
「あら。いってしまわれましたね、みなさんで」
小平が、ぽつりとそう言った。小平を見ると、少し寂しそうだ。
その小平の顔の前、ちょうど小平が手を延ばせば届きそうな当りに、柔らかな光が現れた。何だろうと俺が思っていると、小平が一瞬不可解な顔をし、それからおかしそうに笑い始めた。光と会話をしているようにも見えた。小平が笑い始めるとすぐに、その光はひらひらと舞うように、上昇を始めたが、俺が手を上げるくらいの高さ(だいたい2mを少し超えるくらいだ)まで昇るうちに、光は薄らいで、そして何もなくなった。
「なにがおかしいんだ? 小平」
小平は俺に向き直り、本当におかしそうにくすくすと笑いながら言った。
「大西さん、私に『お礼を言い忘れてごめんなさい』ですって」
そして小平は、自分の笑い涙を左手で拭った。
21
大西茜という先輩についての情報は、どこからも得られなかった。
「大体さ、なんで俺をおいていくんだよ、つまらない」
田端がいじけたように言う。
「おいて行ったわけじゃないさ、田端が来るのが遅かったのと、大西さんが来るのが早かったんだ」
「だいたい佐々木、お前が『床の文字を消しといてくれ』なんて言わなきゃ、すぐに行けたんだよ、北棟に」
「それは俺が悪かった」
田端が不意に話題を変えた。
「大西さん?のことも、その加藤って奴のこともサワコさんもミサキさんのこともわからなかった。そいつらって、ホントにこの学校にいたのかな?」
俺は、思ってはいたが口に出せなかったことを、言ってみることにした。
「小平は見たわけだけど、大西さんのクラスって、ほとんど全員あそこにいたんじゃないかな?」
「そうですね。たぶん1クラス全員いたんではないでしょうか?」
「それってさ、クラス全員がもう生きていないってことだよな?」
「そうですね」
小平は黙る。
「それってどういうことだよ、佐々木」
田端が会話に割り込む。
「つまりですね、田端さん。大西さんという女生徒がい
らしたのは、多分、二次大戦よりももっと以前のことだったのかもしれないという事ではないかと、私と佐々木さんは考えているということです」
「二次大戦以前?」
「クラスの全員が同時に事故かなにかで死んだんなら、いくらなんでも、どこかに記録は残るだろう。でもそんな記録はない。とすれば、クラスのほとんどが老衰で亡くなるくらい、以前のクラスだったってことじゃないかな?」
「そして、それが戦前あるいは戦中のクラスだったならば、クラスの記録が戦時下のどさくさで失われてしまった可能性も考えられる、というわけですね、佐々木さん?」
「ま、推理と言うにはあまりに凡庸な考察だけどな」
「すべては謎のまま、というわけですね」
「大西さんが、クラスの皆に待っててもらえたならば、俺はそれだけでいいけどな」
「佐々木さんらしいですね」
「佐々木らしいな」
「そうか?」
もう一つの疑問。
「大西さんは、なんで途中から軽くなったんだろう? 小平、分かるか?」
小平は、俺から目を逸せて天をあおぐ。
「これも多分、でしかありませんが、大西さんは『解ってくれる人』を求められていたのではないでしょうか?」
「解ってくれる人?」
「そうです。まず、自分をおぶってくれる人を捜す。これは、自分の感じる重責を分け合ってくれる人を求めた訳のでしょう。それゆえに、自分の肩にのしかかり続ける重圧を『無意識に』具現化して、彼女をおぶってくれる人にも『共有』してもらった。ですが、佐々木さんが大西さんの重責に気づいた時からは、いたずらに佐々木さんだけに重さを感じてもらうことができなくなって、軽くなられていったのではないでしょうか」
「なるほどな、そうなのかなぁ」
「きっとそうですよ、佐々木さん。佐々木さんは、ホントにいつも、私の想像の上を行きます」
そして、小平は再度、俺と視線を合わせて微笑む。
田端がいじけたように「こんどは俺も行くからな」とゆぶやくのが聞こえた。
「おう、遅れて来るなよ?」
俺が田端の肩を、ぽんと叩く。
「うるせっ」
田端は、にかっと笑う。
22
今日は、腕立ての日。
「なあ佐々木」
「うん?」
「おまえと小平って、仲いいよな?」
「そうか?」
ほぼ毎日、眠る前にベッドに入り、2~3文字から数十行を書いています。
眠りにつく前の数分を集めてできたお話ですから、「幻燈」のタイトルに恥じないwものだと言えるのでしょうか?
ほとんどは1~2行で眠りに落ちています。こんな書き方をしていて、よく話のつじつまが合うものだと我ながら驚くのですが、じつは結構、物語や科白に矛盾がでてきたりしています。
アップロードの前には、とりあえず推敲をして大幅に削ったり、すこし付け足したりします。そんなお話ですので、理屈抜きに(いえ、いつでも前半分は理屈っぽいですが)楽しんでいただけたなら、望外の喜びです。




