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幻燈  作者: Noah Ninama
1/2

神体育成倶楽部

ああ、またしょうもないものを書いてしまいました。物語が主題ではなく、挿話が主題です。初めての投稿ですんで、<続き>をどうUPしたらいいのか、まだわかりません。それでも、第一話は完結していますので、とりあえず読んでいただければ嬉しく思います。(「14」までが第一話です)

どうぞよろしくお願いいたします。

  ― 序 ―




 小平早苗(こひらさなえ)は、俺、佐々木 瑞樹(みずき)に向かって言った。


「さて、佐々木さん」

「うん?」

「いまここで、その問いに対する答えをつまびらかにして、この後に続くはずの長く楽しいお話が終わってしまうのと、今は少しだけ、その疑問から眼をそらせて頂いて、あなたの求めるような部活動が存続するのと、どちらがお望みですか?」

「なんか、昔話の悪いやまんばと会話をしてるみたいだな」

「いえいえ、やまんばなどではなく、あなたが話をしているのは、目の前にいる愛らしい同級生ですよ」

「楽しいお話が終わってしまうっていうのは、脅しかい?」

「いえいえ、正体を知られた鶴は、この地を去らねばなりません。そうすると部活の最低人数を割ってしまうという単純なお話なのです」


 珍しく、困っているようにも見えないこともない表情を、小平はしていた。




  1




 坂道を登りながら考えた。


 すべての事象は、自らの心という銀幕に映し出される幻灯にしか過ぎないのだということを、多くの人はもっと良く知るべきだ。


 実在がある、と考えるに足る論拠はない。


 またそれと等価で、実在はないともいえない。


 実在があるにせよ無いにせよ、同等に物事を紡ぎ出せるのだとしたら、経験則から考えて、「実在がある」とした方が話がしやすいから、便宜上、実在はあるということにされているだけなのだ。


 とにかく人々は、なにかにつけ「私は知っている」と言いたがり過ぎる。だが、冷静によく考えてみればいい。身近にある、どんな陳腐な辞書でもいい。もちろんそれは、国語辞典でもいいし、英和辞典でもいい。それを無作為に開いた頁に書かれている物事のすべてを、いったいどれほど克明に自分は知っているのか。それほど身近な辞書に載っている事ですら、そのほとんどを知らないのだから、町にある大きな本屋の、自分が興味のない専門書のコーナーにある任意の本の任意の頁に書かれた事象について、いったいいかほどの事をしっているのか。


 ことほどさように、我々は何も知らずに生きているのだと考えるのが普通なのだ。


 だが人は俺が何かについて話そうとする時、「あ、それ知ってる」と言いたがる。俺が今から話そうとしていることを、どれほど理解しているというのだろう。昨夜のTVで放送された話題など、俺は話さない。なにより俺はTVを見ない。話を訊くおまえは、俺の一体何を知っているというのだ。


「おい、佐々木」


 いつにも増して不機嫌に登校していると、俺の名前を呼ぶ声がした。


「ああ、田端か」

「おはよう。どうした? いつにも増して不機嫌な顔をして」

「莫迦やろ。俺のモノローグを奪うな」

「え?」

「いや、なんでもない。なにか用か?」

「おいおい、用がないとあいさつもしちゃいけないのかよ」

「いけないな」

「おまえのペシミズムが、そこまで末期的だとはおもわなかったよ。きのうは普通に返事してくれたじゃないか」

「昨日は日曜だ」

「だから、その日曜日に駅前の本屋で会って、声かけたろ」

「あれは『おう、どうした?』だったからな、あいさつじゃない」

「屁理屈莫迦やろ様だな、おまえは相変わらず」


 そんな詰まらぬ会話をしながら、俺は田端と登校した。



 その放課後。



「おい佐々木、今日も部活に行くのか?」


 田端だった。田端は隣のクラスに居る。


「もちろんいくさ」

「今日はなにすんだ?」

「腕立てだ」

「ちゃは。またかよ」

「べつにお前は来なくてもいいんだぞ、田端副部長」

「いくよ、佐々木部長」





 じつは、我が神体育成倶楽部は現在、正式な部活動ではない。いわゆる同好会ですらない。新生部活動申請時に、部活動総顧問の影山先生と、生徒会会長の滝沢先輩に、さんざん同じことを言われた。



 話は、一週間前に遡る。



 部活動総顧問の影山先生と生徒会の滝沢先輩は、異口同音に言った。


 曰くの一。それは何をする部活動なのか。

 曰くの二。部員は3名いるのか。


 一に答えて、俺は言った。


「なにかひとつのことを突き詰めることで、精神と肉体を、形而上的領域に近づけようとする部活動です」

「つまりあれか、100m走で10秒を切るようになると世界が輝いて見えるとか、限界を越えて戦ったボクサーは真っ白に燃え尽きるとか、とういうことか?」


 影山先生の質問には深い含みがあったようだ。


「はい、そのときに真っ白にならずに済む精神を育てるのが神体育成倶楽部です」

「なるほど」



 二の問いには、いません、と答えた。


 影山先生と滝沢は、また別々に、同じことを言った。


「目的はよくわからんが、怪しい活動ではなさそうだ。規定のあとふたりを捜し出したら、4月末までに、もう一度申請に来い。4月末までに3名が集まらない場合は、同好会としての活動は公認できない」


 じつは、部活にも同好会にも、俺はまったく興味がなかった。さらに言えば、そんな申請をしなくても俺のやりたいことは出来るので、必要もなかった。ただ、なんとなく申請をしてみただけだ。それきり気にもかけず、毎日、体育館の裏で腕立てをしていた。




 それから数日後の、ある日。




 いつものように、体育館の裏手で帰り支度のまま、カバンの上に丸めた制服とワイシャツを置き、打ちっぱなしになっているコンクリの上で腕立てをしていた。制服を脱いだからといって、下着姿なわけじゃない。もちろん体操着を来ている。


「おまえ、毎日よく腕立てばかりしてるな」


 そう声をかけてきたのが、田端だった。制服の名札に「田端」と書いてあるから、きっと田端というんだろう。下の名前は知らないし、知る必要も無い。


「ああ、腕立てが主な活動目的だからな」

「おれも混ぜてもらっていいか?」

「断る理由はない。俺はここで勝手に腕立てをしているだけだし、お前がとなりで腕立てを始めても、それはお前の勝手だ」

「そうか、それは助かる。1年6組タバタヨシロウな」


 そう言って田端は学ランとワイシャツを脱ぎ、畳んで通学カバンの上に置いた。


「几帳面なんだな、田端」

「ああ、俺はA型だからな」

「おれはO型だ」

「なんか、そんな気がしたよ。いま何回目だ?」

「わからんが、8分を越えたから120回位じゃないか?」

「ずいぶんゆっくりだな」

「早いのが腕立てだとは思わん」

「あはは、ちがいない」


 田端は、それでも2秒に一回という、俺の倍のスピードで腕立てをし、会話の8分後には、俺の腕立て回数と同じく240回においついた。そしてペースをおれと同じ、4秒に1回にそろえる。


 腕立てをしながら田端が訊く。


「何回までやるんだ?」

「とりあえず1時間のつもりだから、ペースが落ちなきゃ900回になるだろう」

「1000回、やらないのか?」

「別に回数が目的じゃない。腕立てをするのが目的なんだ」

「ほ~。んじゃ、おれは1000回な」


 結局、おれも田端も腕立てを1000回やった。


 奇麗に70分弱である。



 すこし息を切らしながら、田端はコンクリの上に仰向けに大の字になった。


「ひゃ~、あはは。けっこうきつかったなぁ」

「まだ始めたばかりだからな」

「あしたはなにするんだ?」

「とりあえずスクワット1000回数。毎日交互だ」

「月曜日が腕立てなら、腕立て週3000にスクワット2000か」

「週ごとに、月曜は腕立てとスクワットに交互だ」

「腹筋はやらんのか?」

「学校では腹筋をやっている時間がないから、腹筋は家に帰ってから1000回だ」

「あはははは~」


 ひとしきり笑うと、田端は言った。


「おれも、この部にいれてくれ」


 おれは答えた。


「入りたいなら入れ。拒む理由はない。辞めたくなったら辞めろ。止める理由はない」


 筋肉のストレッチをしていた俺に、田端が右手をだした。


「よろしくな。え~と?」

「1年2組、佐々木瑞樹だ」

「んじゃ、あらためてよろしくな、佐々木」


 俺達は握手をした。


 こうして「神体育成倶楽部」はでき、なかった。


 部員人数が、あとひとり一人足りない。


 繰り返しになるが、ご覧いただいたように、当面は腕立てとスクワット、そのあとのストレッチしか活動目的のない倶楽部だ。学校に認定されなくても、なんのデメリットもないのが強みでもある。実は同好会になるメリットも、さほど考えてはいなかった。「何かの活動を、まがりなりにも校内で行うのだから、届け出はしておいてしかるべきだろう」くらいの思いだった。もちろん腕立てとスクワットだけの、他校との交流試合なんてあるはずもないしな。



  2



 今日の腕立てが、300回を超えたころ、俺は隣で腕立てをする田端に話しかけた。


「なあ、田端」

「どうした?」

「話をする、余裕は、あるか?」

「そうだな、500を、超える、くらい、までは、大丈夫だろう、けど、後に、響くかも、しれん。手短に、頼む」

「そう、だな」


 言葉のとぎれとぎれは、当然、腕を立てる毎に発せられているのだが、紛らわしいので句点を省く。ト書も省くが、とにかくずっと腕立て伏せをしていると思っていただいて、間違いない。


「俺とお前が見ている世界は、同じだと思うか?」

「どのレベルでの話をしているんだ?」

「哲学のレベルだ」

「ああ、図書館にあった『哲学のなぞ』って本だろう? 俺も読んだよ」

「ああ、それなら話は早い。俺達は同じ世界を見ていると思うか?」

「あの本はつまり『事なる二人の人間の間で、感覚の差異の有無を認定する方法はない』って事を言っていたんだろう」

「そうだな」

「それじゃ、論じること自体が無意味だ」

「それを分かった上で、お前がどう思うのかを聞いているんだがな」

「そういう事なら、同じ世界を見ていると思うよ」

「ほう。その根拠は?」

「人間だけに限定するという前提での話だが、人間の形状や性能、これは筋力は筋肉の断面積に比例する、と言った意味での性能だが、ある値を標準として、ほぼ標準偏差の中に収まっている。つまり、身長5mの人間は存在しないし、身長16cmの成人も存在しない」

「ああ」

「ということは、遺伝子が持つ情報は、固体を差別する部分以下の基礎的な規格は、統一されていると考えて間違いないだろう」

「なるほど」

「だとすれば、五感に入力された刺激は、同じような規格で処理され、同じような規格で、脳で『感じて』いるだろうよ」

「なるほどな」

「『人間だけに限定する』と言った理由は、人間と犬を比べれば、眼や網膜の構造も、脳の性能も違うのだから、同じものを見ているとは、あきらかに言えないからだ」

「なるほど」

「答えになっているか?」

「十分だ。しゃべらせてすまなかったな」

「あと500だ。黙ってていいか?」

「ああ」



 腕立てが終わって、体育館裏のコンクリに転がると、学校の敷地を囲う金網に、制服の女子がもたれ掛かってこちらを見ているのに気づいた。


 名札の色からして、俺達と同じ1年らしい。


 俺と目が会うとその子は、にこっ、と笑った。




   3




「こんにちは」


 制服の女子は、俺達の方に向かって歩いてきた。


「ごめんなさい、さっきのお話、聞こえて来たんで勝手に聞いちゃいました」

「さっきの話?」


 腕立てで息を荒げたまま、俺が答えた。


「『哲学の』お話ですよ」

「お気に召したかい?」


 今度は田端が訊いた。


「お気に召したの召さなかったのって、もう感激しちゃいましたよ。あまりの感激に、こうして息を荒げるおふたりに、ふしだらにも私から声をかけちゃったくらいですからねぇ」


 莫迦にされてるのか褒められてるのかわからない言いようだ。だが、声には厭味が感じられない。


 女子は俺達が転がるコンクリの端に、ちょこんと腰掛け、言った。


「ここは哲学部かなにかですか?」

「ここは神体育成倶楽部だ」


 俺が答える。


「シンタイ、イクセイ、ですか?」

「そうだ。かみほとけ神仏のシン、体育のタイ、同じく体育のイク、成田山のナリで、神体育成だ」

「すごいですねぇ、神様に成る倶楽部ですか?」

「ほぼ、そういうことだ」

「感動ですね」

「ただし」


 田端が再び会話に割り込み、補足をする。


「但書き、効能書き付きですか?」

「そうだ。まだ部活でも同好会でもない」


 謎の女子は、なるほど、というように笑った。


「おやおや、ではつまり部員が3名に足りていないってことですね。見たところお二人様ですが」


 遠まわしな倒置法だが、これも字面を追うほどには、厭味に聞こえない。


「そういうことだな」


 俺が答えると、女子はすっくと立ち上がり、腰に手を当てて胸を張り、凛々しく言い放った。


「どうでしょう? 私をこの部活に入れてくれませんか、お願いします」

「いやさ、ね、君。それって胸を張って言うこと?」


 田端が苦笑いをしながら言うと、女子はさらに言った。


「私は先日、こちらのかた(といって俺を指さし)が、『入りたいなら入れ。拒む理由はない。辞めたくなったら辞めろ。止める理由はない』と言っているのを聞いています。入部したい私を断る理由などないですよね? 佐々木ミズキさん」

「もちろん拒む理由はない、が、なんで俺の名前をしってるんだ?」

「やですよ、こまりますねぇ、佐々木さん。私はあなたのクラスメイト、小平早苗ですよ」

「こひらさなえ? しらんぞ」

「クラスの自己紹介の時、私のターンの際に、窓の外をぼぉっと見ていたからですよ、佐々木さんが」

「あ、そうなの?」

「そうなのです。そして私は、まだ一度も授業中に先生から当てられたこともありませんしねぇ」

「授業で当てられないのは、得意技のひとつか?」


 俺がちゃちゃを入れる。


「それは企業秘密です。もしその秘密に興味がおありなら、私を部員にして損はありませんよ?」

「ああ、その件なら心配はいらないよ。入部すればいいさ」

「そうですか、それはありがとうございます」


 俺達の会話に、田端が割り込んだ。


「なあ、小平さん。小平さんは腕立てとスクワット、どれくらいできるんだい?」


 小平は、にかっと笑ったかと思うと、田端に向かって右手を突き出した。同時に、派手にサムアップのしぐさをする。


「それって100回って意味か?」


 田端がそういうと、小平は小気味よく答えた。


「やですよ、田端さん。親指は1万回の意味でしょう。私は着痩せするタイプなのですよ?」


 着痩せする、の使い方がイマイチ間違っているような気がしないでもないが、ともかく彼女は間違いなくそう言い放った。


 こうして、我が神体育成倶楽部はおくればせながら、かろうじて同好会としてのスタートを切ることになった。



  5



 今日はスクワットの日だ。


 小平は、入部依頼一度も腕立て伏せをして見せたことがない。もちろんスクワットも、だ。


 俺と田端はストレッチの後、スクワットを始めた。回数が200になるころ、俺は小平に言った。


「なあ小平さん」

「やですよ、佐々木さん。私のことは呼び捨てにしてくださいと、いつも言っているではありませんか」

「そんな科白は、いま初めて聞いたがな。じゃ、なんで小平は俺を『さん』付けで呼ぶんだ?」

「それはもちろん、そのほうが私の好感度が上がるからに決まっているではありませんか」

「誰の、誰に対する好感度が上がるんだ?」

「世界人類の、私に対する好感度に決まっています」

「おまえは、世界的に有名なやつだったのか」

「そうです。やがて世界人類は私の足元にひざまづき、私ひとりを敬うようになるのです」

「その人類の中に、俺や田端は入っているのか?」

「そうですね、お二人だけは同じ部活だったご縁がありますから、先に私が言ったような事にはならずにすむよう、とりはからいますよ?」

「素直にありがとうと言っておくよ」

「いえいえ、どういたましてです」

「いたまして?」

「『いたしまして』の省略形ですよ、佐々木さん」

「ひと文字しか省略していないぞ?」

「なにを言っているんですか佐々木さん。6文字のうちのひと文字というのは実に、全体の16.67%ですよ? これは2016年3月時点での消費税のほぼ二倍を上回ります。国民の生活を困窮させる消費税の二倍値を甘く見てはいけませんねぇ。言い変えれば、少なくとも一文字は省略されている事実があるわけですから、『いたしましまして』という言葉が自らを『いたしましての省略形だ』と言い張るのに比べれば、少しも詐称ではありませんよ」

「なるほど、よくわかった」


 俺は言葉を継ぐことができなかった。


 なにを言っても、口では小平にかなわないということを、俺はこの数日で思い知っていたからだ。


「ただな、小平」

「なんです? 佐々木さん」

「いじめるつもりは毛頭ないんだが、たまには部活動の本義である腕立てか、スクワットをしないか?」

「あら、さすがですね佐々木さん。私はまた数日ぶりに感動しましたよ。よくぞこの小平早苗にその言葉を言うことが出来ましたね」

「できるもなにも、部長としての当然の言葉だと思うが?」

「いえいえ、謙遜することはありません。このあと、私という人間を知れば知るほど、そういったことは言えなくなるものなのです。正確に言えば、知ろうとすれば素人するとも言えるのですが」

「どういう意味だ? 特に後半は」

「いえいえ、意味は追い追い分かりますから、今日のところは、ファーストラックまたはビギナーズラック、もしかしたら本当に神体育成の効果かも知れないですね、と持ち上げておいてさし上げますよ」


 小平は制服をくるくると脱ぎ捨てた。


 いや、脱ぎ捨てたと思ったのだが、実際は制服はきれいに畳まれて、コンクリの上においた彼女のカバンの上に置かれていた。

 そして、俺に向き直ると体操着姿の小平が、にいっと笑んで言った。

「腕立て伏せとスクワット。どちらかリクエストはありますか? それとも両方続けてやりましょうか?」

「いや、どっちかでいいけど」


「ではおふたりとも、しっかり数えていてくださいね」


 小平は、奇麗な腕立て伏せの姿勢をとった。


 そして、奇麗な奇麗な姿勢のまま、腕立て伏せを始めた。


「いち、にい、さん、しい、」


 思ったよりもペースが早い。




 6




「きゅうせんきゅうひゃくきゅうじゅうはち、きゅうせんきゅうひゃくきゅうじゅうきゅう、いちまん!」


 小平は腕立て伏せを、本当に一万回やってみせた。ペースはかなり早かったが、いっかい一回が、まがい物でない、奇麗な姿勢のままで行われる、体の沈み込ませが深い、文句の付けようがない腕立て伏せだった。


 俺たちのスクワットはとっくに終わってしまい、ただただ小平の綺麗な腕立てを数えていた。


「いかがですか佐々木さん?」


 ほんの少しだけ息をはずませながら、小平は俺に言った。


「いや、否のうちどころのない腕立てだった」

「ありがとうございます。謝罪の言葉はいりませんが、誠意は購買のグラタンパン一個程度で示してくださいね」


 俺は体育館の中にある壁時計を見た。


 夕方5時半を少し過ぎたところだった。


 たしか小平が腕立てをはじめたのは、午後4時少し前だったはずだ。

 仮に1秒に一回のペースで腕立て伏せをしても、一万回の腕立てをするには、3時間弱の時間がかかる計算になる。逆の言い方をすれば、1時間半では5000回を超える程しか、腕立てはできない。だが、俺と田端は間違いなく小平の腕立ての回数を数えていたし、「時そば」でもあるまいに、ふたりとも同じ数え間違いをするとは思えない。


 加えていうならば、確かに小平の腕立ては、俺のやる腕立てのペースよりは早かったが、それでも1秒に一回のペースよりは間違いなく遅かった。


 いったいこれはどういうことなんだ?


「難しい顔をして、いかがなさいましたか、佐々木さん?」

「いや、たしかに小平の腕立て一万回はすごいけれど、時間との整合性がどうもおかしいような気がするんだ」

「あらあら、ほんとにさすがですねぇ佐々木さん? よもやあなたが、私ウィークポイントを、しかもこの短い時間で二度も指摘するとは、あなたは私の想像以上の人物ですよ」

「そりゃいったい、どういう意味だ?」

「いえいえ、失礼。まったく言葉どおりの意味ですよ、佐々木さん。さすがです」


 やはり小平の言葉には、厭味の片鱗もない。厭味ではないのだが、言葉に裏があるのだろうということは、俺にもわかる。


「さて、佐々木さん」

「うん?」

「いまここで、その問いに対する答えをつまびらかにして、この後の長く楽しいお話が終わってしまうのと、今は少しだけ、その問題から眼をそらせて頂いて、あなたの求めるような部活動が存続するのと、どちらがお望みですか?」

「なんか、昔話の悪いやまんばと会話をしてるみたいだな」

「いえいえ、やまんばなどではなく、あなたが話をしているのは、目の前にいる愛らしい同級生ですよ」

「楽しいお話が終わってしまうっていうのは、脅しかい?」

「いえいえ、正体を知られた鶴は、この地を去らねばなりません。そうすると部活の最低人数を割ってしまうという単純なお話なのです」


 珍しく、困っているようにも見えないこともない表情を、小平はしていた。


 俺は、脅しに屈するような生き方はしない。だが、その我を通すために、クラスの女子を悲しませるようなことは、もっとしたくない。


 それに。


「小平」

「はい」

「俺は、おまえが思っている以上に、おまえが部活に入ってくれたことには感謝しているんだぜ?」


 一瞬、きょとんと顔をしたあと、小平は破顔した。


「そうですか、それもまたさすがですね佐々木さん。佐々木さんは、いつも私の想像の上を行きますよ」

「部活にならなかったら、こうして毎日、ここで腕立てをできなかったかもしれないんだからな」


 俺がそういうと、田端が口をはさんだ。


「いや、たぶん部活に何ぞならなくても、腕立ては毎日ここで、思う存分出来たと思うぞ。なにしろ体育館の裏の、日当たりの悪い打ちっぱなしコンクリートの上で、何かをしようという奴は、俺達以外には、だれもいないだろうからな」

「田端さんも、佐々木さんの決定と同じでいいんですか?」

「ああ、俺は時間のことに気づかなかったし、単なる佐々木の勘違いかもしれん。それより」

「それより?」

「小平が難無く腕立てを、一万回もやったことがゆるせん。ほんとにそんなに筋肉が付いてるとは思えんよな、華奢だし小柄だし」

「だから言ったじゃないですか。私はこう見えても着痩せするタイプなのです」

「んじゃ、一度は脱いで見せてくれ」

「それは想像の中だけにしてくださいね」

「ほぅ、想像の中なら制服を脱がせてもいいんだな?」

「あ、いえ、失言しました。想像の中でも止めてください」


 結局小平の謎は、何ひとつ、つまびらかにはならなかった。




 7




 今日は腕立ての日。



 我が神体育成倶楽部の王道である。

 あの一件以来、田端は小平に腕立ての話を振らない。ときおり「1000回でもキツいっていうのに、一万も出来ねぇょなぁ」などと独言をいっているのをきいたことがある。


 部活に遅れることがほぼ無い、さすがの田端も今日は委員会がある。昼休みに田端本人から、今日は部活に遅れると言われていた。


 田端を待っていてもしょうがないので、俺はいつものように制服を丸め、鞄の横に置き、さあ腕立てだ、という時に小平が現れた。


「あら佐々木さん、今日も腕立てですか、精が出ますねぇ」

「ああ。活動内容が腕立てとスクワットしかないんだ。そりゃしょうがないだろうよ?」

「いえいえ佐々木さん、今日はその地味な活動ではなく、ほかの活動をしませんか?」

「腕立て以外の活動?」

「はいそうです」

「そんなものは、我が神体育成には存在しないぞ」

「やですよ佐々木さん、私は知っているんですよ? 佐々木さんがこの部活が創立された、ほんとうの理由を」

「ほんとうの理由?」

「そうです。それは、佐々木さんがまだ幼い少年だったころ、小学校2年生くらいでしたか?」

「なんでその話を小平が知っているんだ!?」


 その話。


 話の時代は、いまからざっと10年ほどさかのぼる。


 俺が住む家の近くに、児童公園がある。在り来りの遊具、ブランコやすべり台と、砂場がある児童公園を思い浮かべてくれればほぼ、当たらずと言えども遠からずだ。ブランコの近くに、何本かの植樹がされていた。誰が言うともなく、その木々の辺りに、夕方になると幽霊が出る、といううわさがたった事がある。

 

 ガキだった俺はその話に興味をもち、ある夏の夕暮れ、公園のうわさの場所に行ってみた。


 幽霊らしきものは見当たらず、ただ、おとなの女のひとが一人でブランコに腰掛けていた。


「おねえさん」


 俺はその人に話しかけた。子供ゆえの無遠慮だったと、いまでは思う。


「なあに? ボク」

「このへんにおばけが出るんだって。おねえさん、幽霊みなかった?」


 俺がそう言うと、女のひとはにっこり笑って言った。


「あら、あたしがその幽霊よ?」


 そう言われても、その人はまったく幽霊には見えなかった。俺は、ふ~ん、と返事をした。


「あたし、幽霊に見えない?」

「うん。だってお姉さんには足があるじゃないか」

「ボクは知らないかもしれないけど、ホントの幽霊には、ちゃんと足があるのよ」

「ぼく、幽霊に会ったことないもん。そんなの知らないよ」

「いま会ってるんだけどね」

「え?」

「だからあたしが幽霊だって」

「あっはは、へんなお姉さん」


 それから俺は何日かの間、その公園に通った。俺が行く時にはきまって、お姉さんは俺をまっていてくれた。


 お姉さんは自分のことは「幽霊だよ」ということ以外は一切何も語らず、俺が話す学校での出来事や、他愛もない子供の話を、それは嬉しそうに聞いてくれた。


 俺は毎日、土曜日も日曜日も、かならず一度は公園を訪れた。


 子供にとっては随分長い期間だった。


 お姉さんが好きだという訳ではなかった。もちろん嫌いな訳ではない。男の子が年上のお姉さんに憧れる、というのはもちろんあっただろうが、実はそれよりもはっきりした理由が俺にはあった。


 それが終わってしまった今だから、はっきりと断言出来るのだが、子供の俺は「僕がお姉さんに会いに行かないと、お姉さんが寂しがっている」と感じていたのだ。子供の記憶であるから定かではないが、俺が公園に行くと、いつも必ずお姉さんはブランコに腰掛け、地面を見ているかのようにうなだれていたし、俺の姿に気づくととたんに表情が晴れ、「またきてくれたの?」と声をかけてくれた。その時はそれが何を意味しているのか分からなかった(いまは分かっている)が、子供なりにその意味を理解していたのだろう。

 

 そして。


 別れは突然やってきた。


 その日も、俺は公園に向かった。やはりお姉さんはブランコに腰掛けていた。俺に気づいたお姉さんは顔を上げ、いつもとちょっと違う笑顔でほほ笑んだ。当時の俺は子供だから、それが「いつもとちょっと違う」くらいにしか思えなかった。今でもその表情を忘れていない、と言いたいのだが、実は俺の記憶からは、「お姉さん」の容姿がすっぽりと抜け落ちている。


「今日も来てくれたんだね、瑞樹くん」

「もちろんさ、ぼくは毎日ここに来るって決めたんだ」

「どうしてここに来るの?」

「だってお姉さん、いつも寂しそうにしてるじゃないか。だから、ぼくがお姉さんの話し相手になるんだって決めたんだ」


 お姉さんの表情がは、またすこし変わった。だが、その表情が、どんなふうに変わったのかは憶えていない。


「そっか、心配してくれてたんだね」

「でも、ぼくがいれば寂しくないでしょ?」

「うんそうだね。瑞樹くんがいる間は、いつもずっと寂しくなかったよ」


 そう言い、おねえさんは、ありがとう、と続けた。


「ありがとう、瑞樹くん。でも、それも今日で終わりなの。ほんとにありがとうね」


 お姉さんの瞳が潤んでいた。


「どうしたの? お姉さん」

「あたしがね、この公園にこれるのは、今日が最後なんだ」


 お姉さんの、その言葉の意味が最初は分からなかった。だが、分かったとたん、俺は口から悲鳴に似た声が出た。


「やだっ!」


 その声があまりに大きかったのに、自分で驚きながらも、俺はもう一度言った。


「やだっ!」


 お姉さんは、たぶん優しくほほ笑んでいたと信じている。


「ごめんなさい、瑞樹くん。ほんとは、今日ここで待っているのはやめようかと思ったんだけど、やっぱり瑞樹くんに、ちゃんとお別れだけは言っておかなきゃ、って思ったんだ」


 お姉さんはブランコから降りて、口をへの字に曲げて仁王立ちする俺の前にしゃがんだ。目の高さがちょうど俺と一緒になった。顔はまったく思い出せないのだが、その時初めて、奇麗な人だ、と認識した。それまでは、面白いお姉さんだとしか思っていなかった。


 おれは、不遜に言った。


「どうしてもうここに来れないなんて言うんだよ?」

「瑞樹くん。お姉さんはね、ほんとにもう、こっちの世界にはいない人だったの。それでも瑞樹くんが毎日遊びに来てくれたから」


 ついつい、ここに来ちゃったんだ、とお姉さんは言った。


「瑞樹くんがあたしを励まそうとしてくれてたこと、知ってたよ。ありがとうね」

「だから、どうしてここに来れなくなっちゃうんだよ!」

「きょうが、49日目なの」


 その言葉の意味はわからなかったが、これは自分でなんとか出来る問題ではないことだけは分かった。


 子供の俺は、自分自身が何も出来ない無力さを悟り、子供としての唯一の対抗手段を取らざるを得なかった。


 すなはち、俺は声をあげて泣き始めた。


 そういえば、お姉さんとこの公園で遊んで(もらって?)いるとき、俺は何度か擦り傷を作ったり、ブランコから落ちたりして泣いたことがあった。しかし、お姉さんは頭をなでてくれたり、傷の手当をしてくれたりはしなかった。あそこの水道で、傷を奇麗に洗ってらっしゃい、とか、傷口を奇麗にしたらあんまりさわっちゃだめよ、とかそんなことを教えてくれはしたが、手を貸してはくれなかった。それがどういう意味だったのか、この時ようやく、頭の悪い俺にもわかった気がした。


「一緒にいてくれて、とっても嬉しかったよ。ありがとうね、瑞樹くん」

「どっかへ行っちゃ、やだ!」


 子供の俺は、お姉さんの手を捕まえようとした。俺の手は、お姉さんの手に届いたはずだった。


 だが、俺の手は空を切った。


 お姉さんは振り返る。


「ね、お姉さんはお化けだよって、最初から言ってたでしょ?」


 そして、もう一度子供の俺の視線に高さを合わせてしゃがみ、少し泣きそうにほほ笑みながら言う。


「生きてるうちに瑞樹君と出会っていたら、こんなに仲良しになれたかどうかわからないね。あたしは死んじゃったけど、ひとつだけ良いことがあったよ。瑞樹君に会えたこと。ありがとうね、瑞樹君」


 小さな俺は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって、泣いていた。


「行っちゃやだ」

「もし、生まれ変われることができるなら、瑞樹君の近くに生まれるね。そしたら、今度はちゃんと友達になろう。指切り出来ないけど」

「行っちゃやだ」

「そろそろ、ほんとに時間みたい。じゃ、またね」


 お姉さんは立ち上がって、子供だった俺に背を向けた。声を上げて泣く俺は、もうきっとお姉さんは振り返らずに行ってしまうんだ、と思った。

 しかし、お姉さんは一度だけ振り返ると、にかっと笑って右手を顔の高さに上げ、ひらひらと振ってみせた。


 まるで、また明日会えるかのような笑顔だった。




 俺はほんの十数秒で、せつなく大切な記憶を振り返った。


 これを小平が知っているだって!?




 8




「実はそのころ私は、偶然に佐々木さんの近所に住んでいたんですよ。すべり台とブランコのある公園ですよね。そう、その公園で私は、まだ幼き少年のころの佐々木さんと、出会っていたんですね」


 小平はそう言った。たいがいの公園にはすべり台とブランコはあるぞ、と言いたかったが黙っていた。会話が長くなるだけだからだ。


「近くに住んでいたのは分かったが、どうして俺とお姉さんの話を知っているんだ?」

「いえいえ、けっこう当時は有名だったのですよ、佐々木さんは。公園で大声で独り言を言っている子供がいると」

「だけどその噂からは、詳細はわからないだろう」

「ま、小平だけに、ちょっと平たく言ってしまうと、ストーカーだったわけですよ、私はあなたの」

「うん? 意味がよくわからんが」

「少年佐々木君が、なにを独り言で言っているのかを、ずっとそばで聞いていた、といえば分かりますか?」

「小平がか?」

「私と言えば私であり、私でないと言えば私ではないのですが、有体に言えば『わたしが』です」

「それはなんかこう、恥ずかしいばかりだな」

「いえいえ、恥じるには及びません。少年佐々木君の想いは、私の心をも打ったのです」

「まずは、その『少年佐々木君』というのをやめてくれないか?」

「私としては非常に気に入っているのですが、ここは甘んじて了承しましょう。ですが『幼き日の佐々木さん』では長くありませんか?」

「当時の俺、でいいだろう」

「『湯治の佐々木さん』でいいんですね、わかりました」

「なんか、字が違う気がするぞ」

「たぶん『答辞の佐々木さん』の気のせいですよ」

「いや、勘違いしているとすれば、それは今の俺だろう」

「『居間の佐々木さん』ですね、たしかに」

「それも違う気がするが、まあいい。小平は」


 俺は真顔になって言った。


「なんでお前は、その事と神体育成倶楽部が、俺の中で無関係でないってことを知っているんだ?」


 小平はくすりと笑った。


「障子の向こう側には秘密があります。障子を開けなければ障子の向こう側にいる私は、たぶん佐々木さんに悪くない高校生活をお約束します。けれど、以前も言いましたとおり、いま障子を開いてしまえば、鶴はこの地を去らねばならなくなります。いま障子を開きますか?」

「またそれか」

「佐々木さんは、たぶん少年のあの日から、人並み以上に勘が鋭くなっています。本来なら私との会話がこうなるはずが無いのですが、私の意図にそぐわずこうなってしまいます」

「そうなのか?」

「はい。私は佐々木さんと楽しい3年間を過ごしたいだけで、佐々木さんに仇なすつもりは毛頭ありません。ですが、あなたが障子を開けると決めるのであれば、それを止めるつもりもありません」


 先にも言ったが、小平はこの科白を笑顔で言っている。言葉だけを追うと、悲壮な覚悟で発せられた言葉のように聞こえるが、そうではない。そこは誤解のないよう。


 言い換えると「ああ、ほんとに私はぜんぜんどっちでも良いんですけどね。判断は佐々木さんにまかせますよ?」といった風だ。


「なにやら、私の人間性をおとしめるような要約をしていませんか?」

「してないよ」

「そうですか。それなら良いのです」


 それで、と小平は言う。


「どーします? 障子をあけますか」


 今度は俺が「にやり」として小平に言う。


「小平が3年後に答えてくれるなら、3年間の楽しみにしておくよ」


 それを聞いて小平が嬉しそうに笑う。


「3年後に聞きたいと思うようなら、もう一度聞いてください。私は佐々木さんに『もう聞かなくてもいいよ』と言われるよう精進します」

「んじゃ、勝負な?」

「はい」


 とそのとき。


「うんでもって、つまり神体育成倶楽部には、腕立てやスクワットの先に、なにか目的があるってことなのか?」


 俺と小平のすぐ隣に、田端がすわっていた。


 まず口を開いたのは小平だった。


「これはこれは田端さんではありませんか。いつからそこに?」

「うーんと『湯治』だか『答辞』の佐々木少年のあたりからだ」

「さすがは神体育成倶楽部。田端さんまでただ者ではなくなってきましたね」

「そうか?」

「この部活の真の目的があるとすれば、それはやはり佐々木さんの口から説明していただくのが筋というものだと思いますが、いかがですか?」

「まったく小平がどこまで俺のことを知っているかと思うと、恐ろしくなるよ」

「あたりまえですが、私は私が知っている以上のことは知りませんよ」

「ま、いいだろう。いつか話すべき時が来るように決まっていたのかもしれない。聞いてくれ」



 9



 俺は子供のころに、ある人と悲しい別れを経験した。それが、世間一般にある普通の別れだったなら、こんなことに思い至りはしなかったかもしれない。


 その人は、俺の体験が夢やまやかしでなかったとすれば「幽霊」だった。

 最後の時、俺はその人の手を取ることができなかった。


 子供の俺は考えた。


 それはそれは、もう、気が遠くなるほど毎日、同じことを考えた。


 どうして僕の手は、あの人の手を捕らえることが出来なかったのだろうか、と。


 子供ながらに、たくさんの本を読んだ。


 幽霊に関する本ももちろん読みはしたが、それよりも多くの哲学の本を読んだ。そして科学の本を読んだ。宗教の本には興味が持てなかった。




 すべての事象は、自らの心という銀幕に映し出される幻灯にしか過ぎないのだということに思い至った。実在がある、と考えるに足る論拠はない。またそれと等価で、実在はないともいえない。実在があるにせよ無いにせよ、論理上は同等に物事を紡ぎ出せるのだとしたら、経験則から考えて「実在はある」とした方が話がしやすいから、便宜上、実在があるということにされているだけなのだ。


 ことほどさように我々は、実態というものの何たるかを、何も知らずに生きているのだと考えるべきだ。


 実態があるにせよ無いにせよ、それを捉える主体はある。もちろん主体は自分自身だ。


 自分が外界(ある意味ではそれすらも主体、つまり自分の内にしか存在しない、とも言い得る)を認識し、それに対して影響を与えるのもまた自分であるならば

、外界に対して影響を与えられなかった、つまりあの人の手を捉えられなかったのはなぜか?


 それはひとえに自分自身の「ちから」が足りなかったせいだ。自分の「ちから」を限定してしまったのは、やはり自分自身の「こころ」、すなはち「思い」が足りなかったせいだ。




 子供の俺はそう考えたのだ。




 お姉さんが幽霊だと悟った瞬間に、意識下でこう考えたのだ。


「お姉さんは僕に触れなかった」

「やはり幽霊と人は、触れあえないものなのだ」

「僕の手は、お姉さんの手を捕らえることが出来ないだろう」


 そして、自分のちからの限界を自分で規定しまった子供の俺は、お姉さんが去り行く姿を、泣きながら見送るしかなかった。


 では、どうすればよかったのだろう?


 どうすれば、お姉さんの手を取り、引き留めることが出来ただろう。


 俺は俺なりにひとつの結論に至った。


 たとえば、100mを11秒で走ることができる人がここにいたとしよう。彼は、さらに早く走ることを望むか望まないか、そのどちらかである。

 さらに早く走ることを望む時、「たぶん無理だとは思うけれども」と言い分けをしながら練習を重ねるのと、「かならず10秒台で走る。出来ることならば、10秒を切ることを目指す」という気持ちを持って練習に臨むのとは、結果に大きな影響を与えるだろう。

 そして「できる」という確信を持てるという事は、自分への自信の現われそのものであろうと、俺は考えた。

 つまり「お姉さんは幽霊はなのだから、手を取ることはできない」と、心のどこかで思ってしまったとしても、「いや、おれは日頃からこれだけ習練をしているのだから、お姉さんがたとえ幽霊であっても、その手を捕らえることはできる」と、自分の可能性を肯定することができ、それを自分自身に信じこませるに足る努力を行なっていれば、思いはかなうのではないか、と。


 もう一度繰り返すと、100mを10秒で走れる、と自分で信じ、100mを10秒で走るにたる努力をしている者は、いつかは100mを10秒で走ることが「出来るかもしれない」が、「走れるはずが無い」と端からあきらめてしまった者は、よほどの天賦の才がないかぎり、10秒で走ることはできない、ということだ。


 「成し得るちから」を自分のものにするために、俺は自分の基礎体力を高めてみることにした。少なくとも「あの時」、お姉さんの手を捕らえることが出来なかったのは、俺が心のどこかで「お姉さんの手を掴むことはできない」とあきらめたからであり、あきらめたのは「僕は、たとえお姉さんが幽霊でも、その手を捕らえることはできる」という信念を持てなかったからなのだ。


 例え話を、もうひとつしよう。


 つまり、この世界が「自分の心の銀幕に投影された映像にすぎないもの」だとするならば、その映像への相互作用の有無強弱は、最終的には自分の心が決定すると言えるだろう。


 ともかく俺は、心の習練のために、まずは腕立て伏せという方法を選んだ。腕立て伏せがある程度出来るになるにつれ、そこにスクワットと腹筋運動が加わった。


 ただし、足りないものがある。


 それは「速さ」を得る方法だ。


 力と速さが備わり、それが心とともに育まれてゆく。力と速さと心が十分に備わり、不可能が可能になるとき、人は絶対的な存在に近づく。それこそが、「神体育成倶楽部」の目指す高みなのだ。


 たとえば、腕立て伏せやスクワットや腹筋が10万回出来るようになり、数メートル先から放たれた矢を掴むことが出来るようになったとき、自らの心の銀幕に映される多くの「モノ」に、迷いなく働きかけることが出来るようになると「信じる事ができる」のだ。




10




「なるほどわかった」


 まずは、田端が口を開いた。


「つまり、それが事実であろうとなかろうと、まずは『自分の可能性を信じる』ところから始めないといけないわけだな」

「まあ、言ってしまえばそうだが、別にお前が信じる必要はないさ。これはひとえに俺個人の問題だからな」

「馬鹿野郎」

「うん?」

「そんな面白そうなこと、俺にも一枚噛ませろってんだよ」

「面白そうか?」

「そりゃ面白いだろうよ。幽霊を素手で捕まえようってんだからな」

「趣旨の要約が、間違ってると思うがな」


「ところで」


 俺と田端がじゃれているのを黙って見ていた小平が言った。


「どうした? 小平」

「先程の佐々木さんのお話にあった『速さ』は、このあとどうなさるおつもりですか?」

「おお、良い質問だな、小平」

「その口ぶりは、なにか速さを習練する策に、心当たりがあるのですね、佐々木さん」

「そりゃあるさ」

「なにをするんだ? 佐々木」


 俺はにぃっとわらって答えた。


「反復横跳びだ」


 小平が、表情を少しも変えずに俺に向かって言う。


「ほんとうに佐々木さんは、体力測定野郎ですね?」


 しかし厭味な言葉ではない。どちらかというと、子供の戯れ言を、ほほえましく聞いている大人のような表情だった。


「んじゃ、今日から反復横跳びやるか、佐々木」

「そうだな、目標は10秒20回からな」

「ちょっとまってくださいよ、佐々木さん?」

「なんだ?」

「だから今日は、反復横跳びを必要としない、実践が佐々木さんを待っているのですよ」

「じっせん?」


 「じっせん」のところで、俺と田端の声が重なった。


「あらあらやですよ、お二人とも。早まらないでくださいよ。私の言う『実践』は『実際に戦う』ではなくて『実際に踏み入れてみる』ほうです」

「いったい何をどうすればいいんだ?」

「いまの季節は? はい、田端さん」

「そろそろ6月も終わりだから、梅雨が明けて、夏か?」

「夏の話題といえばなんですか? はい、佐々木さん」

「う~ん、すいかか?」

「ボケは一回まで許して上げましょう。でも次にボケたら、私と同じペースで腕立て1万回、スクワット2万回、腹筋3万回に付き合ってもらいますよ? みっつセットで6時間でおわらせますよ?」

「そんなのできるか! わかったわかった、夏の話題と言えば怪談だ」

「そうです、夏の学校と言えば怪談。その中でも定番中の定番、学校の七不思議です」

「ナナフシギというと、シャクトリムシみたいなやつかぁ?」

「た~ば~た~さぁ~ん?」


 珍しく小平が悪乗りをする。


「くる日もくる日も腕立てというのも、それはそれでアリだとは思いますが、使ってこその神体、試してこその育成ではありませんか、佐々木さん」

「う~ん」


 そう話を振られて、俺は困った。腕立てを1000回やったくらいで息が上がるようでは、俺の目指す高みには到底及んではいない。しかし、たとえば今あのお姉さんが自分の前に再び現れたならば、そんなことを考える前に、今現在の全身全霊をこめて、その手を取ろうとするだろう。


 俺は話題をすり替えることにした。


「とはいえ学校の七不思議が即、本当の心霊現象だとは限らないわけだし、大概はその場に行っても何も起きないんだから、わざわざ無駄なことをしなくても良いんじゃないか?」

「これはまた、いつになく弱気ですね佐々木さん? 同じことを逆から言っても意味が通じる話は、言い訳にはなりませんよ?」

「逆から言っても意味が通じる?」

「つまり、こうです。『学校の七不思議がいつでもデマだという証拠はありませんし、火のないところに煙りはたたないとも言います。もしそこに行って何も起きないならば、何も対応をしなくて良いのですから、時間をさほど無駄にはしません』」

「なるほど」

「それにですね」

「うん? ほかにも何かあるのか?」

「『あの時の佐々木さん』は、そんなことを考えずに純粋に行動したから、貴重な体験をすることができたのではないのですか?」


 そうか。あのときの俺が、「幽霊なんてデマに決まっている」と決めつけて、公園に行かなかったならば、今日ここでこうして腕立てをやっていることも無かったのか。


「なるほど、小平の言うことは、いちいちもっともだ」

「そうですよ、私の言うことは、いつでももっともなのです」

「どうでもいいが小平。学校の七不思議って、どんなのがあるんだ?」


 訊いたのは田端だ。


「よくある話として集約される代表に足る話題としては、音楽室のピアノと、特別棟の奥のトイレでしょうか?」


 こんどは俺が訊く。


「音楽室のは、どんな話なんだ?」

「それがほんとによくある話で、やになっちゃうんですけれど、放課後、誰もいないはずの音楽室から、ピアノの音が聞こえるそうなんです」

「ほう、それで?」

「それだけですよ、佐々木さん」

「それだけ? 勇気を出してその音の正体を突き止めようとした女子が、二度と戻ってこなかったとか、実は大切なピアノ発表会の前日に、手にケガをしてしまって、それを悲観して音楽室で自殺した女生徒の霊がピアノを弾き続けているんだとか、そういうのはないの?」


 いや、そういったのは俺ではない。田端だ。


「田端さんはストーリーテラーの才能がおありですね」

「いまのは、いわゆる紋切り型の典型なんだけどな」

「わかった」


 わかった、と言ったのは俺だ。


「何があるかは分からないが、とにかく音楽室に行ってみよう。何もなければ、戻って来て腕立てだ」

「さすが佐々木さんです。信じるものはスクワレンオイルですね」

「なんだかそれじゃ、救われないみたいだぞ」

「まぁまぁそれはそれとして、いってみましょうよ」




 11




 まずは音楽室の鍵を、職員室に借りにゆくことにした。


「だいたいスクワレンオイルってのは何なんだ?」

「植物由来の油脂で、世の女性のお肌に良いとかなんとかの効能がある油じゃなかったか?」

「まぁ、あれですね。すくなくともおふたりにとって、今すぐ必要なものではありませんから、知識として以外には別世界の桃だと思ってかまいませんよ?」

「別世界の桃、って言うのは、けっこう面白い表現だな」

「もちろん言い間違いではありませんよ? 桃という果実が『別世界』という言葉の尾枕詞(おまくらことば)になっているのですよ」

「意味はわかるけど、尾枕詞ってちょっとな」

「田端さんは、ずいぶんその話を引っ張りますね。こういうものは、笑って聞き流すものです」


 職員室での部室の鍵の貸し出しは、現国の旭川先生が担当している。


「旭川先生。音楽室の鍵って借りられますか?」

「あら、佐々木君は音楽部だっけ?」

「いいえ、神体育成倶楽部です」

「しんたい、いくせい?」

「はい、個人的に個人的な部活です」

「その部活が、音楽室を使うの?」


 俺には、神体育成倶楽部が音楽室を使う理由が思い浮かばなかった。そこへ小平が口をはさんだ。


「はい。今日は身体のなかでも、発声に関わる腹筋と喉周りの筋肉、そして肺活量のトレーニングをしようと思いまして、声を出すならやはり音楽室を使うべきだと考えたんです」

「あら? あなたはえっと?」

「やですよ、センセ。佐々木さんと同じ1Cの、小平早苗です。今日もセンセの授業、受けたじゃないですか」

「そうね? そうだったわね」

「というわけで、もし音楽室を誰も使っていないようなら、鍵を貸してください」

「貸し出しはされてないわ。じゃここに名前とクラスをかいて」

「はい」


 無事に音楽室の鍵を貸りることが出来た。


 音楽室は、以前はなぜか技術棟の4階にあったそうだが、今は同じ技術棟の1階に移設されている。俺達は、技術棟に向かう。


「しかし小平はすごいな」


 俺がそう言うと、先を歩いていた小平は振り返り、言う。


「なにがですか、佐々木さん? 腕立てとスクワットなら、確かに今のところ倶楽部で一番の自負はありますよ?」


 小平は笑顔だった。


「いやいやそうじゃなくて、ウソやいい加減なことを言わせたら、たぶん学校一だろうな、とおもって」


 そんな掛け合いが盛り上がってきたところに、音が聞こえて来た。


「あら?」


 小平が顔をあげ、立ち止まった。


「どうした?」


 ピアノの音だった。


 曲名はわからないが、よく耳にするクラッシックのしっとりとした小曲だ。

 そういう曲調では無いはずだが、物悲しいピアノの音だった。


「だれか、放課後にピアノを借りてるのかな?」


 田端が言った。


「吹奏楽部とか、軽音楽部って、ピアノを使うのか?」

「でも、さっき旭川先生は、だれも音楽室を使ってない、って言ってたよな」


 俺がそう応えた。現に、音楽室の鍵を、いま俺がもっている。


 腕立て伏せとスクワットにしか能がない俺達には、わからない設問だった。


 唯一その問いに答えられる可能性をもった小平は、だが、何も言わずに、じっと音楽室の戸を見つめていた。


 音楽室の戸に手をかけ、俺は言った。


「こんちは~」


 中で、女生徒がひとりきり、ピアノを弾いていた。


 俺に気づくと、女生徒はピアノを弾くことを止め、俺達の方を見た。そして険のある声で問いただした。


「だれ?」


 小平が答える。


「演奏中にごめんなさい。神体育成倶楽部のものです」

「しんたい、いくせいクラブ?」


 女生徒の名札の色は、2年生のものだった。今年の新入生、つまり俺達の名札の色は緑、2年生の色は黄色。ついでに紹介すると、3年生の色は青である。俺達が2年に進級すると、次の1年生の名札は青になる流れだ。


 ピアノを弾いていたのは、先輩の2年生にあたるわけだ。


「はい。かみほとけ神仏のシン、体育のタイ、同じく体育のイク、成田山のナリで、神体育成です」


 小平は、俺が初めて倶楽部名を紹介したことばを、一字一句間違えずに言った。そして、先輩も小平と同じことを言った。


「あら、神様に成る倶楽部なの?」


 その問いに答えたのは、田端だった。


「そうです。まだ修行は始まったばかりですけれど」 

「神様になれるなら、そんなに頼もしいことはないわね」

 先輩は田端にそういった。


 小平が俺に、かすかな声で「気を付けてくださいね、佐々木さん」と言う。

「え?」

「あまり、性質(たち)の良いものではなかったかもしれません」

「だからなにが?」

「でも、いつでも私の想像の上を行く佐々木さんなら、大丈夫ですよ」


 さらに俺が小平に聞き返す前に、突然、先輩がけたたましく笑った。

 先輩の一番近くにいた田端が、驚いて一歩下がる。


「神様になれるになら、時間をあの日にもどしてよっ!」


 先輩の顔が怒りで歪んでいる。


「どうしたんですか? 先輩」


 田端がやっとのことで声を出した。


「あの子があんないたずらをしなければ、あたしはコンクールに出られたの!」

「コンクール?」

「そうよっ! あんなにあんなにあんなに練習したのにっ!」


「田端さん、離れてください。どうやら、最初から大ボスみたいです」


 小平はそういった。


「大ボス?」


 田端はもう一度先輩に向き直る。


「センパイ」


 俺は言った。


「なによ?」

「俺に、その話を聞かせてくれませんか?」




  12




 先輩は、思いの外素直にうなずいた。


 あれは、あたしが出るはずだったピアノコンクールの3日前のことだった。あたしはこのピアノでいつもの通り、課題曲の練習をしていた。そこに、同じクラスの○○が入ってきた。あのこもピアノの演奏が上手だったけれど、あんまり練習をするのが好きじゃなかった。あたしは練習をしているのに、あの子は話しかけてきた。


―あしたコンクールなんですってね。

―いっつも練習ばっかりしてて、よく飽きないわね。

―コンクールに出るからって、毎日毎日、よくおんなじ曲を弾いていられるわね。あたしだったら、そんなこと莫迦莫迦しくって、とってもやってられないわ。

―ごりっぱですねぇ。


 途中までは無視していたけれど、あたしはつい頭にきて言い返してしまったの。


―あたしは明後日、精一杯の演奏をするために練習をしているの。用がないなら、話はまた今度にしてくれない?


 あの子は、あたしの言葉にカチンときたようだったわ。


―おじゃましてごめんなさいねっ!


「ね」に憎しみとも羨みともつかない響きがこもっていた。


 あのこは、言葉と同時に鍵盤カバーを、勢いよくしめたの。


 私の左手の中指と、薬指と、小指はまだ、鍵盤の上に添えられていた。





 私の指は、私の指は、私の指は、私の指は。





 私の指は、ひしゃげて、見る見る内に腫れ上がった。


 悲鳴を上げた私をみて、あの子の顔が一瞬こわばったわ。


―しらない、私のせいじゃない! あんたがそんなところに手を置いとくからいけないのよっ!


 そう言って、教室をでていった。


 あたしはもう、夢も希望も無くした気がして、指が痛くて涙が流れた。絶望っていうものがこの世にあるのならば、これが絶望だとおもったの。


 涙があふれてきたけれど、指が痛かったからなのか、悔しかったからなのか、ツラかったからなのか、わからなかった。


 指を見て。


 ひしゃげたあたしの指を見て。


 そこの窓から外を見たの。





 あたしの心を一色に塗りつぶしてくれるような、真っ赤な夕焼けが窓いっぱいに広がっていた。


 夕焼けは、あたしの涙であたしの指の様にひしゃげていたけれど。


 あたしをこの絶望から救ってくれそうな「なにか」が、窓の外の、夕日の向こうから呼んでいる気がしたの。



 あたしは、窓をあけた。




   13



 

「先輩?」


 俺は言った。


「なに?」

「先輩はさっき、ピアノを弾いていましたよね?」

「そうね」

「指は痛まなかったんですか?」


 そう言いながら、俺は少しづつ先輩に近づく。


 先輩は手を顔の前に上げて、自分の指を見た。



 ほっそりとした、綺麗な長い指だった。



「痛くはなかったわ」

「手を」


 みせてください、と言って俺は先輩の右手を取る。


「治ってるみたいですね、先輩?」


 先輩の手は、冷たかった。


「治ったのかな?」

「こうして見る限り、治っているようですよ」


 俺は先輩に、笑って見せる。


「よかったですね。これで次のコンクールではきっと、すばらしい演奏をすることができますよ」


 先輩もほほ笑んだ。


「そうかな?」

「そうですよ。またさっきみたいに、ピアノを俺達に聞かせてくださいよ」


 先輩はちょっと照れ臭そうに笑って、ピアノに向かった。


 音楽室の前で聞いた曲だった。


 ただ、廊下で聞いた時ほど、悲しげには聞こえなかった。




 と、突然。




 ピアノの音がとまった。


 今し方まで、ピアノの椅子に座って演奏をしていた先輩の姿も消えていた。


 しばらく後に。


 といってもそれはほんの10秒ほどだったかもしれないが、しばらく後に、小平が口を開いた。


「さすがですねぇ、佐々木さん」


 いつもの口調だった。


「一時はどうなる事かと思いましたが、やはり佐々木さんは、私の予想のはるかに上回りますね」

「どういう意味だよ。それより、先輩はどこに行っちゃったんだろう?」


 がたん、と音がする。


 音の方を見やると、田端が床に座り込んでいた。


「大丈夫か、田端?」


 田端は顔面蒼白で、まだピアノの方を見ていた。そして、ぎこちなく小平を振り返ると、こう言った。


「こひら、あの先輩って」


 小平は、苦笑いのような笑顔で応える。


「そうですね。100%、幽霊でしたね」




  14




 町の図書館で調べると、「先輩」がピアノのコンクールに出られなくなった事件があったのは、今から20年も前のことだった。実に俺達が生まれる前である。学校の図書室には、該当する記事の載った資料は置かれていなかった。さらに詳しい事情を、ネットで探そうかとも考えたが、先輩に敬意を表して、やめることにした。


 昔、ピアノが大好きな先輩が、この学校にいた。


 それがすべてでいいだろう。


「なんか一瞬、怖かったけど、きれいな人だったよな」


 田端は、のんきな事を言う。


「そうですね。危険かと思いましたが、話が通じる方で幸運でした」


 小平が、的外れな返事をしている。


「それにしても」


 小平は俺を見て、にこりと笑った。


「佐々木さんは、当初の目的を達成できましたね。私の言うとおり、音楽室に行ってみて、よかったでしょう?」

「当初の目的?」

「そうですよ」


 俺が、なにかをしただろうか?


「やですよ、佐々木さん。先輩の手を取っておいでではなかったですか」


 小平に言われるまで、まったく意識していなかったが、確かにそんなことをした気がする。長年、というのは大袈裟かもしれないが、それでも十年来の悲願が、こんなに何げなく実現されたのは、いささか拍子抜けした感がある。


「おめでとうございます、佐々木さん?」


 小平は笑顔で俺に言った。


「遠く苦難の道程かとも思われる話を聞いたその日に、ゴールにたどり着いてしまうのは、いささか拍子抜けだったが、それでもおめでとう、佐々木」


 これは田端。


「ありがとう、だが再び言わせてもらうならば、俺の独白を取るな、田端」

「あれあれ? お礼は田端さんにだけですか?」

「いや、そんなことはない。音楽室にさそってくれてありがとう、小平」


「いえいえ、どういたましてですよ、佐々木さん」


 小平が、にっこりと笑ってみせた。



 

  <第一話 完>




  15



 その翌日。


 本来ならばスクワットの日だが、昨日はピアノ騒ぎで腕立てができなかったので、今日にずれ込んだ。 


 つまり、今日も腕立ての日。相も変わらず、腕立てをしながらの会話となる。だが、それにもずいぶん体が慣れてきた。息が切れにくくなってきた。これでマスクを二重にして腕立てが出来れば、心肺能力も強化できそうだが、まずはその前に新弟子埋葬(死んでしまいそう、の誤変換)なのでやめておく。


「なあ佐々木」

「うん?」

「おまえは、この世に正義というものがあるとおもうか?」

「やぶからぼうにどうしたんだ、いったい」

「毎日のな、ニュースを見ていて思うんだ。なぜ『正しいこと』が行われないんだろう、ってさ」

「そうだなぁ」

「殺伐とした犯罪の報道や、悪事を重ね、それすらも自分たちの都合の良いように弁明し、責任を取らない、責任を免れる政治家たち。いったいこの世の中に、正義なんてものがあるんだろうか、ってね」

「俺の、本当に個人的な意見としては、『正義』は無いな」

「ま、佐々木はそう言うだろうと思ったけどな。厭世家のおまえなら。でも、なぜそう思う?」

「以前にな、とある本で読んだことがある」

「うん?」

「長いが、論理は明確なので引用すると、いわく

 『正義とはなにか』

  『正義とは正しいことなり』

 『悪とはなにか』

  『悪とは悪いことなり』

 『正義は何に対して正義というか』

  『正義は悪に対して正義というなり』

 『悪は何に対して悪と言うか』

  『悪は正義に対して悪というなり』

 『正義無きところに悪はありや』

  『正義無きところに悪はなきなり』

 『悪無きところに正義はありや』

  『悪無きところに正義はなきなり』

 『悪無きところに正義無く、正義無きところに悪は無し。ならば正義と悪は、同じものの二面なり』

と、こういうわけだ」

「言葉の一つ一つはわかるが、それは正しいのか?」

「正しいとかではなく、こう考えることも出来る、ってとこかな」

「それがどうして『正義はない』って結論になるんだよ?」

「仮にこの言葉どおりに正義と悪がひとつの事象の二面であったとすると、正義と悪を分かつことは出来ないということだ。たとえばここに、一枚の厚みの無い紙を想定したとして、紙には裏も表もあるけれど、厚みが無いからそれを二分(にぶん)することはできない」

「ああ、なるほど」

「二分出来ないものはもちろん一体だ。ゆえに正義と悪は同じものの二面であり、正義だけは単体で存在せず、悪だけは単体で存在しない」

「単体で存在しないだけなら、悪と同居で正義は存在するんじゃないか?」

「まあ、話は最後まで聞いてくれ」

「おうよ」

「いまのは個体の中の正義と悪だ」

「意味がわからんが?」

「今までしていたのは、とある任意の一枚の紙の話だということさ」

「今度は紙にたとえると逆にわかりにくくなるから、話を人間にもどすが、俺の中には善も悪もある」

「あるんじゃないか」

「とにかく聞いてくれ。田端、おまえの中にも善悪はある」

「あると思うから、いま佐々木に問いかけてる」

「そうだな。田端、おまえこないだの話を憶えているか?」

「こないだの話?」

「他人は自分と同じ色を見ているのかって話だ」

「ああ、憶えている」

「あの時は、目や脳という器官が、同じ遺伝子情報によって組み立てられているのならば同じ色を見ているのだろう、という結論だった」

「そうだったな」

「だが、今回の『正義』は遺伝子情報によって作り上げられた器官ではなく、『正義という思考』についての問題だ」

「そうなるのかな?」

「人間の器官は、ほぼ同じ設計図によって作られるわけだが、人間の思考、言い換えれば性格は個々すべてが各々に作り上げた別のものだ」

「確かに、何から何まで、そっくり同じ思考をする人間は、双子でもいないだろうな」

「そして個々人の善悪感も、それと同じですべて違うと考えて間違いではないだろう」

「たしかにな」

「地域的に、または法的に同様な場所で育った者は、似通った善悪感を持つだろうが、それはすべてではない」

「うん?」

「つまり、俺と田端の善悪感は大まかな部分では似ている可能性は高いが、厳密には同じではない」

「というと?」

「たとえば俺は早弁をして、昼休みは購買のパンを食えばいいと思うことがよくあるが、田端、おまえは早弁しないだろう?」

「早弁はいけないというルールがあるだろう?」

「俺は生徒手帳を隅から隅まで読んだことがあるが、どこにも早弁をしてはいけない、とは書かれていなかった」

「だが世の中には不文律というものがあるだろう」

「そこが肝心だ」

「どこが」

「田端。不文律は書かないから不文律なんじゃない、書けないから不文律なんだ」

「なんだって?」

「不文律を文章に書けるならば、文章にすればいい。けれども不問律は多種多岐に渡りすぎ、更に言えば場面場面で微妙に解釈が違ってくる。俗に言う『解釈が玉虫色』なのさ」

「よくわからないぞ。ちゃんと説明してくれ」

「つまりだな、『不文律がある』と仮定してみる」

「わかった」

「ちなみに『不文律がある』という言葉は矛盾を内包しているけれど、それは今回は問題としない」

「よくわからんが、わかった」

「不文律は、文章化されていないから、元本に当たることも、内容を照会することもできない。これは良いかい?」

「いいだろう」

「すると、たとえばさっきのように、『早弁は是か非か』という問題を解決しようとしても、ことあたるべき対象がが不文律だった場合、問題を解決はできない」

「なぜ?」

「だってそうだろう。早弁はいけないという者と、早弁は良いんだという者がいても、不文律に照会することはできないのだから、平行線にしかならないじゃないか」

「だが、大勢の人間の中には、同じような善悪感はあるだろう」

「さっき言った『同じ国』で『同じ時代』の『同じような社会環境下、あるいは似通った法律下にある人々』であれば、同じような善悪感、正義感はあるかもしれない。だが、厳密に言えば同じではない。同じような正義感、倫理観を語っていても、細部ではさっきの早弁みたいに、善悪の基準がかわってくる」

「それはそうかもしれないが」

「それはそうかもしれないが、ここが一番肝心なんだと思う。つまり万人に無批判で受け入れられる法律がない事自体が、正義がない証拠なんだと俺は考える、ってことさ」

「日本の法律は、多様化する現代に即していない気はするけど、そこそこ良い法律だと思うけどな」

「それが、『同じ国』で『同じ時代』の『同じような社会環境下にある人々』ってくくられる典型例さ」

「どこがどうだって?」

「日本の法律では、銃刀法っていうのがあって、許可なくむやみやたらと刃物を持っていてはいけないし、そもそも銃は所持すら難しい」

「安全でいい法律じゃないか」

「だがアメリカでは、市民から銃を取り上げるという話題が出ると、多くの国民から猛反発をくらう。つまり、俺がさっきから繰り返し『同じ国』で『同じ時代』の『同じような社会環境下にある人々』に、って断っているのは、逆だといいたいんだ」

「何が何に対して、どう逆なんだ?」

「ま、ちょっと考えてみてくれよ」


 腕立ては500回に近づいた。しゃべりすぎて、息も上がり加減だ。



「腕立ておわったら続きを話そう。それまで考えてみておくれ」

「ああ、そうするよ」




 16




「今日は話が長かったから、後半でバテたな」

「本来はこれくらい、笑って会話を終わらせられるくらいには、なりたいものだな」

「で、なにがどう逆だって」

「考えてみたのか?」

「考えてはみたが、脳内麻薬様物質のおかげでらりぱっぱだ」

「ほとんど無害だがな」

「無害だが、思考を停止させる作用は、どちらもさほどかわらんと思うぞ」

「まあいいや、『逆』の話だが」

「おお」

「順を追ってはなそう。成文法にしろ不文律にしろ、最初から法があったわけじゃない」

「なるほど、そりゃそうだ」

「つまり『成文法』には、単数とは限らないが、そして多分必ず複数であり、多数だろうが『法を作った人』が存在する」

「たしかにそうだろう」

「その場合、法を作った人々は、『同じ国』で『同じ時代』の『同じような社会環境下にある人々』である可能性が高いわけだ」

「ああ、なるほど」

「同じような社会的環境下にある人間たちが寄りあつまっって、法律を作る。もちろん集めるのはそこいらにいる誰でもいいってわけじゃない。『正しい心』を持った人か、または『正しい心を想像するのが巧みな』者かのどちらかであり、俺は『正義はない』と断じているのだから、ここには、『ここ』というのは俺の話す話の中には、っていう意味だがな、ここには当然、後者しか存在しない」

「ややこしい言い回しは勘弁してほしいが、なんとなくわかった。つま本来は存在しない『正しさ』をでっちあげられる者が集まって、法律を作るんだ、ってことをおまえは言いたいわけだな?」

「すばらしい要約だな、そのとおりだ。とくに『でっちあげる』ってところが最高だ。我が意を得たり、ってやつだ」

「で?」

「ここからが最大の重要な点なんだが、作られる法律、つまり『きまり』や『きめごと』は、実は何でもいいんだ」

「そう、なんでもいい。全くホントに全然、ありとあらゆることを決まりとすることが許されるんだよ」

「まてまて、さすがにそれはないだろう」

「極端な例に走って申し訳ないが『人を殺しても良い』ってのは、さすがに法律にしちだめだろう?」

「いや、全く問題ない。もっと極端に言うと『こうこうこういう場合は、人を殺さなくてはならない』っていう法律だってある」

「どこの国に?」

「もちろん日本だよ」

「そんなのある分けないじゃないか」

「なにを言ってるんだ、田端? おまえは正気か?」

「その言葉はそっくりそのまま、おまえに返すよ」

「じゃあ、具体的に例を挙げよう」

「あげてみろよ」

「その前に確認して置くが、田端。おまえにとって殺人行為は悪いことだな?」

「もちろんだ」

「その根拠は何に基づく?」

「俺の良心と、日本の法律だ」

「その法律だが、司法裁判によって死刑が確定し、法相が書類に署名捺印したら、国はその罪人を殺さなくちゃならないんだぞ。それをおまえは知らないのか?」


 田端は鼻白いだ。


「いま俺は婉曲的に『国は』と言ったが、もちろん最終的に罪人を殺すのは、死刑執行人、つまり人間だよ」


 田端はまだ黙っている。


「加えて言えば、もしこの国で戦争が始まり、他国との間に戦闘行為が開始された場合、上官からの命令があれば、自衛隊員は戦闘行為をしなくてはならない。そうすることを契約の上に、彼らは自衛隊員として給与をもらい、生活をしている。たとえば敵戦闘機に向けて迎撃ミサイルを発射した場合、そのミサイルが命中すれば、目標となった戦闘機のパイロットはかなりの高確率で死亡する。これも『そんなことはできません』とは言えない場面だ。拒否が許されるならば、職務怠慢どころか、よりおおくの自国民を危険にさらすことになる。躊躇する選択肢は『ない』んだよ」

「でもそれは、あまりに特例なんじゃないか?」

「特例ではないさ。一年に何人の死刑執行がなされているか、調べたことはないのか?」

「ない」

「もうひとつ、誤解を解いておきたいが、本当はこんな特例を出したかった訳じゃあないんだ」

「というと?」

「ホントに法律は何を決めてもいいんだ。たとえば」

「たとえば?」

「朝、家を出て最初に出会った人を殴らなければいけない、とかね」

「おいおい」

「ま、いまのは逆に否定されるだろうという例を、わざと挙げたけれどな」

「なぜ?」

「う~んとだな、ひとつおまえに訊いていいか、田端?」

「いいよ?」

「世界中に分布しているのは、ほんとに俺達と同じ人間か?」

「そりゃそうだろうよ」

「ほんとか?」

「あたりまえだ」

「じゃ、もひとつ質問だ。同じ人間なら、同じ正義と悪の観念を持っていると思うか?」

「同じだと俺は信じたいね」



<続く>



「14」までが第一話です。

「15」からは第二話になりますが、UP出来るのはまだまだ先になりそうです。

どうか気長にお待ちください。^^

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