赤い狛犬
「一匹しかおらぬではないか」
燈中の右腕に絡みついた蛇又が、訝しげに見やった先には、一体の狛犬。狛犬は通常、門や本殿の前に二体一対で配置されているはずだが、目の前にいるのは左側に配置された口を開いている“阿”の狛犬のみ。
「相棒はどこ行っちゃったのかな?」
「ふん…大方蹴り壊されたのだろうよ」
台座には石が削られたような跡が残っていた。そしてその周りには崩れた石がゴロゴロと転がっている。トビは信仰する人がいると言っていたが、ここまでの鬱蒼と茂った草の道のりや、この有様から鑑みるとどうもそれも怪しい。
「左の子がひとりぼっちでここを守ってるのかな?なんか可哀想だね…」
「さてな。それよりも…護るべき者はおらぬようだが?」
「護るべきもの?」
狛犬のいる台座のさらに奥――社を見た蛇又は何かを見通したのだろうか。燈中が首を傾げたが、蛇又は冷たい瞳で主を見やった。
「無知な小娘、少しはその錆びついた頭で考えたらどうじゃ」
どうやら正解を教える気はないようだ。捻くれた蛇又の性格から考えれば、優しく教えてくれるわけもないので、何も不思議なことではないがその言い方は腹が立つ。
「むっ…うーん…狛犬は神社を護ってるんだよね…」
神社にいる狛犬は神使として、社の主に仕えている。稲荷神社であれば大凡にして【狐」が、近年ではそれ以外の動物を祀る社もあるという。
「わかった!あの神社には神様がいないってことだ!」
奥の社には誰も、何もいなかった。信仰するものがいなくなれば、社の主は消え去るのみ。人の信仰によって作られた神は、信仰されなくなれば無に帰すのだ。
《これ以上…社に入ることは赦さん…!》
燈中が蛇又の言葉の真意に気づくと同時に、脳内に響く声とともに、ゴオォッと目の前に広がったのは青白い焔。
「あっつ!熱い!熱っ!」
バタバタと走り回る燈中と蛇又を取り囲むのは、霊力を宿した炎だ。いつの間にか狛犬が実態化していたことに、ふたりは口論をしていて気づかなかったのだ。
馬ほどの大きさのその狛犬は、体躯は赤く、さらに濃い赤の縞のようなもようが体にいくつも入っていた。燈中と蛇又を睥睨するその瞳は黒とも見紛うほどの深い赤。
「早く調伏せぬか!我の体が干からびてしまうわ!!」
「待って待って!理由もわからないまま調伏するのはよくないって、貴人さんが言ってた!」
縁鬼の次に気に喰わない男の名前を出されたことに反発するかのように、蛇又は妖力を爆発させた。一瞬で本性に立ち戻り、巨大な体に見合うその顎門を大きく開き、狛犬を威嚇する。
相変わらずでっかいなー、とぽかんと口を開けて見ていれば、一瞬で間合いを詰めた蛇又が、狛犬を蛇腹で締め上げていた。
「あ!こら!!いいって言ってないのに!!私の言うこと聞いてよ!!私がご主人様なんだからね!!」
地面でキャンキャン喚く小娘を、蛇又は睥睨する。しかし、彼女に言葉をかけることはなかった。
《縊り殺されたくなければ、大人しくしておれ。我はそこな小娘と違い、甘くないぞ》
《ぐるるるっ》
威嚇のために牙を向いていたが、さらに強くギチギチと締め上げられ、身動きの取れない狛犬は、やっと唸り声を止めた。
「もー!」
ポケットからくしゃくしゃの札を取り出した燈中は、念のため四方に結界を張った。本来なら社に入る前に、他者が入って来られないように張るべきものだったが、蛇又の問いかけに気を取られすぎて失念していたのだ。
《ふん、話の通じぬ者は力で押さえつければよかろう》
「まったく!!」
蛇又に捕えられた狛犬は降参したかのように耳をぺたんと伏せている。それに気付いた燈中が、蛇又へ狛犬を下すように促した。
「どうして暴れてたの?あなたの相棒はどこにいるの?」
締め上げるのを弛めはしたが、蛇又は狛犬を下す離すつもりはないらしい。
「吽の方は、心のない人間に破壊された。神のいない社には、敬意を払う必要はなかったのだろうな」
蛇又の推察通り、転がっていた石は吽の狛犬のなれの果てだったのだ。