阿の獅子
「えっ犬じゃない!おかしい!」
戦闘で力を使いすぎた狛犬は、小さな姿へと変化していた。社の主がいなくなってから、力は衰える一方で回復する見込みもなかった。今回の戦闘については蛇又の強さを感じて、相打ち覚悟で最後の力を振り絞ったといっても過言ではない。
「俺は獅子だ」
「しし?」
燈中の腕の中にいる狛犬は、まるでたてがみがふさふさと生えた猫のようだった。――後に兄に聞いたところ、“ペルシャ猫”という少し毛の長い種類に似ているようだ。
「俺たち…所謂“狛犬”は獅子と犬で一対だ。阿吽で配置され、阿はツノのない獅子――つまりは俺だな、そして吽はツノのある狛犬。“狛犬”とは本来“犬”の方だけを指す言葉だった」
「ほー」
噛み砕いた説明を受け、燈中もなんとなく事情を察したらしい。なるほどと、しきりに頷いている。今の説明で彼女がどのくらい理解しているかは微妙なところだが。
「小娘、この犬っころを下僕にしろ」
「え?」
小さくなった後、無理やり燈中の左腕に巻き付けられていた蛇又は、ふと思いついたかのように口を開いた。
「我ばかりこき使われるのは割に合わん。此奴はそこそこ使えそうじゃ」
「ハァ!?」
「社にとどまる理由もない。もはや行く宛もないのじゃろう」
「…それは」
主のいない社は不穏なものが集まってくる。このまま放置していれば、ここはよくない場所になるだろう。そうなると“本家”から派遣された人間が、この神社を取り壊しに来る。そして、この狛犬――獅子も調伏あるいは滅ぼされることになるだろう。
「小娘!疾く縛れ!」
「シンカイ、なんでそんな必死なの…?」
よくわからないが、己の式鬼が必死に使役にしろと訴えかけてくる。以前から唯我独尊なところがある蛇又だが、こんなにも勢いがあるのは珍しい。
「すぐにでも名を与えるのじゃ!」
「バカだなー、シンカイ。名前はしっかり考えてから与えるものだよ?一生ものなんだから」
燈中のその物言いに腹を立てた蛇又はガブッと右腕にその顎を食い込ませた。――我の時は数十分後には名を与えていただろうに!!
「痛っ!痛い!!」
燈中と蛇又のやり取りを見ていた阿の獅子は、目を瞑って逡巡しているようだった。
やはり社に主がいないとはいえ、ここを見捨てるわけにはいかないのだろう。ここは彼の家でもあるのだから。
「えーっと…とりあえず今日は退散するよ。あなたが悪さをしないのなら、しばらくは様子を見るように依頼主にも伝える」
トビには怪異の起こる神社の様子を見てきてくれ、狛犬が暴れている理由が知りたいと言われただけなので、今すぐ調伏する必要もないだろう。この獅子の話だと、肝試しと称してやってくる若者たちを追い払うためにやっていたようであるし、人間への実害は出ていない。
「社の周りに張った結界はそのままにしてくね。人除けになるから、しばらくは誰も来ないはず」
蛇又が本性に戻ったときに張った結界は、艮家の当主である燈中が作り出したものだ。
同じ一族なら誰が張ったか一目瞭然であり、“邪”を操る艮家が作り出したものに一切手は出さないだろう。中にどんな邪が封じられているか想像に難くないからだ。
そして、この結界は燈中以上の力を持つ者にしか解除はできないだろう。そんな人物はこの辺りの地域には数名しか心当たりがないし、彼らは燈中の張った結界を壊すようなまねはしないと断言できる。
「じゃあね」
いまだに蛇又に腕を噛まれたまま、燈中は結界の外へと歩いていく。今やっと気付いたが、随分と日が傾いてきている。あまり遅くなると縁鬼が千里眼を使って迎えに来てしまうかもしれない。
「待ってくれ!!」
社の階段を下りきったところで、後ろから獅子が駆け下りてきた。少し後ろ足を引きずっているように見えるのは、蛇又との戦闘で先ほど負傷したのかもしれない。
「どうしたの?」
「俺も連れていってくれ」
燈中をまっすぐ見つめ、獅子は使役になることを望む。きょとんと眼を丸くした後、燈中はにっこりと笑った。
「俺は、炎獅子。今の俺は全盛期の力にはほとほと及ばんが、お前の刃となろう。――艮家の当主よ」