止まない雨のメモリー
どんよりとした雨雲が、ライトピンクの鮮やかなものに変わった。
「ドジ女、入れてやってもいいぞ」
隣の家の翔君が、そっぽを向いて私の頭上に傘を掲げている。
下校時間に下駄箱の前。急に降り出した雨に途方に暮れていたところで、翔君の気配が雨音に紛れて聞こえなかった。
「翔君……? ありがとう」
本当にありがたかったけど、他の生徒に見られると恥ずかしい……。母親の傘を借りてきたようなそのライトピンクの傘は、私が翔君を誘って入れたように見えるかもしれない。まあでも逆の立場で翔君が困っていたら、私はやっぱり入れてあげたと思う。隣の家の少年を見捨てることはできない。翔君も本当は恥ずかしいのか、そっぽを向いた彼の頬は、ほんのり赤みが差していた。このとき、私と翔君はまだ中学一年生だった。
「風邪ひくなよ」
「ありがとう……」
翔君の傘に入って一緒に下校する。すぐに止むと思った雨は、ますます強勢となって傘の上で跳ねる。
「髪が濡れてるよ」
と、翔君が私のポニーテールを指さして、どこ……? と、私が差しだした手と翔君の手が触れた。
「動かないで」
と、纏めた髪のテール部分に付いた雫を手で払ってくれて、ついでに肩も撫でるように払ってくれた。恥ずかしいのか、遠慮気味に……。
「……翔君、大きくなったね。もう私よりずっと背が高いよね」
小さい頃から私の方が少しだけ背が高かった。私の両親や翔君の両親に、ことあるごとに一緒に並んで背丈を比べられたものだ。
「翔君、何センチになった?」
「しらないよ。メシを食えば誰でも背は伸びるから」
そっけなく翔君は答えたけど、勝ち誇ったようなその顔は、私より背が低かったことを気にしていたからだろう。
「小鳥は食う量が足りないからだ」
と、翔君が私の名前を言った。
「もっと食って元気になるんだ。そうすれば、オレみたいに背が伸びる。風邪なんて引いてる場合じゃないよ。食べる量まで小鳥みたいにならなくていい」
「名前をいじらないで。私、けっこう食べてるし」
まだ心配されてる……と驚いた。
小さい頃の私は病弱だった。風邪を悪化させて病院で点滴を受けるなどはしょっちゅうで、翔君が両親と一緒にお見舞いに来ては、「死なないで……」と、目に涙を溜めて言っていた。
「……私のことがまだ心配? ちゃんと食べてるし、もう元気だから大丈夫だよ。これ以上食べたら、上じゃなくて横に伸びるから」
「ふっ……そういえば」
失礼にも翔君は口角を上げ、私のつま先から頭の上まで舐めるように見た。
「失礼ね……。べつに太ってないから」
女子が肥満に怯える……。そういうことを知っていて意地悪をしているのだ。あの泣き虫の少年が、こういうちょっとひねった冗談でおどけるさまに、少し寂しいものを感じた。すべてが少しずつ変わってゆく。
「ほら、濡れるから」
傘の外にハミ出た翔君をひっぱって寄せると、すでに肩と背中がずぶ濡れだった。
「ちゃんと傘を差して。翔君、こんなに濡れてるじゃない。ちゃんと真ん中で傘を持って」
ハンカチで翔君の肩を拭いて、その逞しくなった身体に驚いた。私の目の位置に肩がある。
「いや、オレはいい。それより、風邪を引きやすい奴を守らなきゃな。オレが偶然帰るところだったからいいけど、一人でどうするつもりだったんだよ」
「傘を忘れた日はそのまま濡れて帰るもん」
「一人で?」
ありえない……。という感じで、眉根を寄せた。
「お前は濡れたらすぐに寝込むだろ。明日から、お前は毎日雨合羽を持って歩け。そうすれば雨に濡れないから風邪も引かない。靴も長靴を履け。毎日だぞ」
「えー……?」
怖い顔を作って翔君は睨む。翔君とは小学四年生を最後に同じクラスになっていない。その頃から一緒に遊ぶことがなくなったから、それ以前の幼い私の印象が色濃く残っているようだ。たまに風邪を引くことはあるけど、まあまあの健康体に私はなっていた。私だって成長と共に変わってゆく。
「聞いてんのか?」
私を叱るように翔君は言う。
その顔を見て私は笑ってしまった。翔君とは生まれたときから家が隣の幼馴染。言い争いの喧嘩を何度もしてきたけど、常に喧嘩では私が勝ってきた。怒った翔君の顔が相変わらず子供っぽくて、次には昔のようにめそめそ泣き出しそうな気がした。
「……なんだよ」
思い出し笑いを始めた私に困り、翔君は眉尻を下げた。
「うふふ……。だって私、翔君の怒った顔と泣いた顔の区別がつかないもの。泣き虫だったから、今にも泣きそう」
「オレが」
「うん。泣きそう」
「まさか……。オレの記憶では、いつも泣いていたのはそっちだよ」
「ふざけないで。私、今だって翔君を泣かせる自信があるもん。最後に私に泣かされたの、ほんの一年くらい前でしょ?」
「嘘つけ」
今度は翔君が笑った。たしかに、一年前はオーバーだったかもしれない。三年くらい前だろうか……。その翔君の余裕のある笑顔から、また大人になった彼をひとつ発見した。声変わりも始まっていて、掠れた声にも変わってゆく寂しさを感じる。
「よし、もう家が近いから大丈夫だ!」
翔君は私に傘を握らせると、水溜まりをばしゃばしゃさせて一人で走り出した。
「濡れちゃうよ!」
「もう大丈夫。これくらいの雨、本当は避けられるんだ」
翔君は空を見上げて素早く首を振る。
「濡れるから!」
ぱっと明るく顔中で笑い、翔君はあっという間に小さくなって道の向こうに消えた。消える前に、私がまだ見ていることを期待してか、体を左右に跳ばして反復横跳びをしていた。雨を避けているということか……。
「ぜったい濡れてるし」
大粒の雨が傘に当たって弾けている。見上げると、薄いピンク色の傘が晴れ間のように鮮やかに見えた。
私たちは高校二年生になっていた。
私は翔君の野球部を応援するために、親友の佳菜子と応援に来ていた。
あいにくの雨模様で、パラパラと雨が降ったり止んだりしているけど、そのスタンドの熱気はものすごい。花が咲くように色とりどりの傘がスタンドに咲き、選手たちは雨など気にせず勇ましく戦っている。夏の全国高校野球選手権大会の県予選で、私たちの学校は決勝戦まで勝ち上がっていた。この試合に勝てば、甲子園とかいう高校球児の夢の舞台に翔君は立てるそうだ。これまでの翔君の試合も何度か一人で見に来てはいたけど、ルールに疎い私にはよくわからなかった。
父兄を含めた学校関係者も大いに盛り上がっている。球場に来てみると、一万六千人が観戦できるという県立球場は黒々と人で溢れ、私たちは自分の席を確保するのにも苦労した。
「あれが佐々木君! 背番号一の。彼がエースですごく速い球を投げるんだよ」
佳菜子は興奮気味で私に解説してくれた。なんのことやら私にはわからない。でも、佳菜子の興奮ぶりで、その選手の凄さは伝わってきた。
ピッチャーが渾身の力で白球を投げ、打者が全力で打ち返す。
その一挙一動に、「わっ!」「きゃあ!」とスタンドから歓声が上がり、野球のルールがよくわからないながら、私も歓声と一体になって母校を応援した。
「あ、代走! あの十番の代走君がむちゃくちゃ速いの!」
佳菜子が指差すその先に、真っ白なユニフォーム姿の翔君がいた。
「うちの学校、負けてるんでしょ?」
「うん。でも、まだわからない。一点差だから」
わっ!
と、観客がどよめく。翔君が二塁に向かって走り出した。
「あ! 走ったあ!」
佳菜子が立ち上がり、周りの観客も立ち上がる。翔君の姿がその観客の背中で見えなくなり、私も慌てて立ち上がった。グラウンドを見ると、翔君が泥だらけになって拳を突き上げている。
「な、なに!?」
私は佳菜子に掴みかかるようにして訊いた。
「盗塁成功! 二塁に盗塁したんだよ。あの人、すっごく足が速い代走屋なんだよ。補欠だけど、足だけは速いの」
「足だけは……。翔君、補欠なんだね」
これには少しがっかりした。毎日練習を頑張っていると聞いていたのに……。
「あの人、知ってるの? 小鳥のクラスメイト?」
佳菜子は目を輝かせた。
「今はクラスメイトじゃないよ。翔君は二組だから。家は隣だけど」
「ええっ
「ええっ!? 家が隣!?」
佳菜子は、目をぱしぱしさせて驚いた。あとで知ったことだけど、佳菜子は野球部の練習を毎日のように見学に行っていて、翔君の大ファンということだった。
「すごいね……」
呆れたように佳菜子は私を見た。
「すごい? 翔君、人気者ってわけじゃないでしょ? 補欠だし」
「足だけはすごく速いの。だから、わざと補欠になってるんだよ。試合の大切なところで登場して頑張るの。代走で出たあとは守備にもついてバッターボックスにも入るよ。足だけの人だからあんまり打てないけど」
「ふーん……」
早口で佳菜子は説明してくれた。その「足だけは」というのも、どうやら褒め言葉のようだ。
翔君に向けられる声援がすごい。やんややんやの大騒ぎで、翔君が人気者であることが私にもわかった。翔君が歓声に答えるようにガッツポーズをスタンドに送ると、わっ! と、さらにスタンドは盛り上がる。まるでロックスターの観客いじりのようだ。あの泣き虫の翔君が、ステージでマイクを握るスーパースターに見えた。
「きゃーっ!!」
黄色い歓声が上がり、また翔君が走り出した。とにかく速い。
「すごい! また成功! ほら、三塁ベースの上!」
三塁ベースに頭から滑り込んだ翔君は泥だらけで立ち上がり、またさっきと同じように両手の拳でガッツポーズを作った。さらに狂気のように盛り上がるスタンド。私も一緒になって手を叩いた。
調子に乗った翔君は、
「見て! ホームスチール!」
と、佳菜子が絶叫するそのことまで敢行し、足だけで一点をもぎ取ってしまった。
「すごい! こんなの見たことない! 本当にすごいよ!」
発狂したように佳菜子が飛び跳ねている。
「速いな。なんだあれは」
「すごいのがいるなあ」
周囲の大人もうなるように言っている。
あとで聞いたことだが、翔君は盗塁屋という珍しい役割をしている選手で、打撃や守備の能力は平均程度……。しかしながら、走ることでは誰にも負けない。代走として彼が一塁に登場すると、相手の投手が二球投げる間に彼は三塁ベース上になにくわぬ顔で立っている。盗塁で、一度もアウトになったことがないという記録保持者で、足だけならプロでも彼にはかなわない。スタンドにプロのスカウトが翔君を見に来ているという噂まであった。足だけの選手なのに……。
結果を言えば私たちの学校はこの決勝戦で姿を消すのだが、翌日の地方新聞のスポーツ欄にも翔君のことが出ていた。「快速選手、決勝戦で散る。――」そのように書かれていて、彼の韋駄天ぶりが尋常ではないことが私にもわかった。
佳菜子に頼まれて私は翔君と佳菜子のデートをセッティングすることになった。夏休み明けの、高校二年の九月のことだ。
二人だけになるのは恥ずかしいということで、私と佳菜子と翔君の三人で遊園地に行くことになり、私ははなはだ迷惑だった。二人の仲が良くなるのなら勝手になればいいのだが、それを目の前で見るのがなんとなく嫌で、ついでにジェットコースターのような激しい乗り物も嫌いで、なんのためにここに居るのか自分が滑稽に思えた。
「ちょっと、邪魔だよね」
と、翔君にも露骨に言われた。
お手洗いに出掛けた佳菜子がなかなか帰って来ない。翔君と二人きりになったときのことで、雨にもぱらぱら降られて私は泣きたくなった。自分が邪魔者なのは自分が一番よく知っている。
「ほんとに、私って邪魔だよね……」
私は空を見上げた。冷たい雨粒が頬に当たる。もっともっと雨よ降れ。泣いてることがばれないように。
「だから、いつも雨合羽を持って歩けと言っただろ。すぐ風邪を引くくせに」
翔君は折りたたみの傘を私の上に開いた。
「そんなのいらない。バカ!」
その親切に、私は怒声を放ってしまった。乾いた布きれにじんわりと冷水が広がるように、私の心は凍えていた。これ以上、ここに居ることに耐えられない。ここから消えたい。自分の気持ちを知るのが怖い。知ることは壊れるきっかけにもなり得るのだから。
私は泣き虫で捻くれ者……。そのうえ、邪魔者……。
私は空を見上げて雨に打たれ続けた。
「風邪を引くといけないから……」
恐る恐る私に近付き、頭上に傘を掲げる翔君。ああ、もうずいぶん濡れたから、涙はばれないかも。
「……私、一人で帰るから」
「どうして?」
気の抜けた声で翔君が言った。
「邪魔者だから……」
「だれが」
翔君は首をひねっている。
その不思議そうな顔を見て、
「え……?」
と、私は赤面の思いだった。
邪魔とは、私ではなく佳菜子のことだろうか……。
そういう思いも寄らない可能性に、胸が早鐘を打つように振動を始めた。
「だって、私が邪魔者でしょ?」
それでも、私はとぼけて翔君の表情をうかがった。このときの私は、雨に濡れて開き直る思いに背中を押されていた。
「どうして?」
また翔君が言った。意味がわからないのか、首をひねっている。
「……わかってるでしょ? 三人で来たけど、これって佳菜子と翔君のデートなんだよ。佳菜子が一人じゃ不安で恥ずかしいから、私が付き添いなの。次からは、佳菜子と翔君の二人で好きなところへ行くんだよ」
翔君は目をぱちくりさせた。
「ちがうちがう!」
慌てた翔君が自分の顔の前で手をぶんぶん振る。
「……邪魔って、他のお客さんが多すぎるっていう意味だよ。休みの日だからしょうがないけど、これだったら夏休み中に来た方がまだ良かったかなって。結局、決勝戦で負けたから夏休みは暇だったし」
「ち、ちがうよ。私だって……」
慌てて私は弁解した。
「私もお客さんが邪魔だって言ったのよ……。邪魔なんて言ったら悪いけど、こう人が多いとね」
「そうだよね……」
翔君はぼんやり首を傾げていた。さすがに、誤魔化しきれた自信はない……。
いつまでも帰ってこない佳菜子から携帯に電話が来て、一人でもう帰宅中と言われた。
「え……? 帰ったの!?」
意味がわからなかった。
電話口で佳菜子は、
『――うん。帰ったよ。はっきり言っていい?』
「……うん」
『――私、翔君のことが好きなんじゃないよ』
「……ちがうの?」
『――ぜんぜん。ああいう足が早いだけの運動馬鹿なんて知らないから。……翔君、小鳥の方ばっかり見てるし、私、お邪魔だから一人で帰ることにしたの。あとは二人で楽しくやって』
「運動馬鹿はひどくない……?」
『――馬鹿は馬鹿だから』
それで佳菜子に電話を切られた。
こういう話し方をする子じゃないのでショックだった。少しだけ佳菜子のことを悪く思ってしまったけど、すぐにそれは反省した。私は佳菜子を傷付けてしまったのだ。もしかしたら、二人を祝福したくない気持ちが態度に出てしまっていたかもしれない……。
次の日、学校で佳菜子に会うと、
「昨日はごめんなさい」
と、佳菜子の方が私に謝ってきた。私は慌てて佳菜子に謝った。
「ううん。私が悪かったから……。今度は佳菜子の邪魔はしないから、翔君と二人で映画でも行ってきてね」
「私が?」
佳菜子は嫌そうな顔をした。
「もう御免よ、あんな野球馬鹿。隣の家の幼馴染と上手くやればいいんじゃない?」
「わたし……?」
「二人で恥ずかしくてデートも出来ないっていうのなら、昨日みたいに一緒に行ってあげてもいいよ。邪魔者は途中で帰るし」
意外とさっぱりした感じで佳菜子が笑ってくれるので、それには正直安心した。佳菜子が本気で翔君のことを好きだったのは知っている。翔君にその気がないことに気づいて強がっているだけだ。
でも、翔君が私に興味を持っているわけではない。幼馴染だから私という存在に安心しているだけで、それを佳菜子は誤解している。単に私に慣れているだけというか……。
「べつに、私と翔君は付き合わないから」
「見ていて」
と、予言じみたことを佳菜子は言った。
「近い内に翔君の方から小鳥に告白してくるよ。照れるようなことを言ってくるから」
「それはないから」
自信を持って私は言った。
――が、すぐに私は翔君から映画に誘われた。
「急がないと、他の男子に小鳥を取られるよ」
と、佳菜子がけしかけたようだ。
映画を断る理由はない……。けれど、むりやりステージの上に上げられている感じが嫌だった。佳菜子のお節介が軽く不愉快にも感じた。心の奥の小さ火種が大きく燃えだしたことに自分自身で戸惑っている最中だ。
そして、二人で行った映画館の照明が落ち、上映が始まろうかという変なタイミングに、
「オレと付き合ってくれ」
と、隣に座る翔君が言った。
嬉しくないと言えば嘘になる。
返事を返す間もなく映画は予告編が始まり、続いて空気を震わす大音響と共に本編が始まった。バリン、ドドガン、バガガガーン。映画が終わるまでの二時間、私は真っ直ぐスクリーンを見つめ、映画に没頭している振りをした。バガガン、ズガガン、ズゴゴゴゴーン……。どうしてアクション映画なんて選ぶかなぁ……と、自分で選んだくせに思った。
上映が終わり、映画館のロビーに座って、私は翔君を説得するように言った。
「……いい? 翔君は私のことが好きじゃないのよ」
「好きだけど」
翔君はきょとん顔で私を見る。その真っ直ぐな瞳に私の方が目を逸らしてしまった。
「あの……翔君は、私の体調を昔から心配してくれたでしょ? だから、その心配で気になる気持ちを『好き』と誤解してるだけなんだよ。私のことを好きなんて嘘」
「嘘じゃない。好きだ」
ちょっと、泣きそうな顔で翔君は言った。勇気を出して言った自分の言葉を『嘘』と、ばっさりやられて困っている。
「私が雨に濡れたら、風邪を引かないかと心配してくれるでしょ? でも、そう思うのは翔君が優しいからで、好きと心配は違うのよ」
「……でも、オレは小鳥が好きなんだ」
「だから、そういうのは好きっていうんじゃないの。だいたい、私なんて恥ずかしいくらいになんの取り得もないし、翔君とは釣り合わないもん」
「いつも、小鳥は頑張ってるじゃないか」
「わたしが?」
「うん。病気になってもいつも頑張ってきた。だからオレだって小鳥に負けないようにって頑張ってこれたんだ」
「…………」
返す言葉がなかった。
闘病中の私が、翔君にはそういうふうに見えたのか。頑張ることが取り得なら、もっともっと頑張ってみたい。私が単純なのか、急に胸に火が付いた。とりあえず、翔君に心配かけないように頑張りたい。
「小鳥が好きだ。ずっと好きだった」
「でも、それとこれは……」
おなじなのだろうか……。
結果的に、なんども翔君に私を好きだと言わせてしまった。翔君が真剣な表情で私を見つめている。たしかに、佳菜子の言った通りの照れてしまう展開になった。
「うふふ……」
と、急に翔君が含み笑いを始めた。
「……なによ?」
「見ろよ、雨が降ってきたぜ」
翔君が指さす窓の外はどしゃ降りだった。
「あれェ……? 晴れの予報だったのに」
駅まで少し距離があって、映画館から濡れずには帰れないだろう。
「そんなときにはこれさ」
ぽんっ! と、翔君は傘を開いた。
「まるでパズーの鞄……」
私は呆れた。男子のくせにバッグ持ち……とおもったら、傘なんて持っていたんだ。映画待ちをしている人たちの視線が私たちに集まる。翔君は構わず相合傘を始めた。もちろん、室内に雨はない。ベンチは四人用だけど、遠慮したのか誰も近寄ってこなかった。
「まあ、オレにはわかっていた。雨が降るときは匂いでわかるんだ」
得意げに翔君が言う。
「匂いが?」
「嗅いでみろよ」
鼻をくんくんさせる翔君を真似て、私も匂いを嗅いでみた。映画館のロビーはポップコーンの焦げた匂いしかしない。
「わからない? 湿った感じの匂いがするだろ。早いときは前の晩からわかる」
「猫ですか。私は、どちらかっていうと晴れの匂いの方が得意。この匂いの感じだと……」
私はあてずっぽうに鼻をくんくんさせた。
「三日後までには晴れるかな?」
「あはは……。止まない雨はないもんな。そういうのはずるいよ。……で、返事は? オレと付き合ってくれる?」
私は静かに頷いた。
思えば、翔君との思い出は雨降りばかりで、私たちの結婚式も大雨だった。相合傘に思い入れがあるのか、結婚式の最中、翔君は常に傘を持ち、相合傘で誰とでも写真を撮っていた。もちろん、私とも撮った。
長男が生まれたときも、長女が生まれたときも雨だった。
たまの旅行にもよく雨が降った。こうなると、どちらが雨男で雨女なのかわからない。たぶん、二人とも雨の神様に好かれているのだ。幼い頃、雨に濡れて体調を崩すことを翔君に心配され続けたけど、私はいつの間にか雨の日が大好きになっていた。雨がなければ二人は結ばれなかった気がする。
「私、現役時代の翔君をあまり思い出せないの……」
彼がプロ野球選手を引退してからそう言うと、
「プロはドームだからな。いつか思い出せるときに思い出したらいいさ」
翔君は笑った。さらに、
「雨の日もいいけど、晴れの日だっていいものだよ。止まない雨はないっていうし、頑張って晴れの日も一緒に居ようよ。そこでも一緒に頑張ろう」
雨を絡めなければ私が彼を記憶できないことに、翔君は気付いているようだった。
翔君の手と顔が皴で覆われ、翔君の眠る棺には彼の愛用の傘を入れた。翔君は、いつも大きめの傘を買ってきた。二人で雨の日に相合傘。だから、これは私の傘でもある。この先、一人になった私はどうすればいいのだろう。彼の言いつけを守り、雨合羽を持ち歩けばいいのだろうか。――
――雨音が聞こえる。
病院のベッドで私は目が覚めた。ざー……という雨音を聞きながら、八歳の私に返る。私の手を小さな男の子が懸命に握りしめていた。
「翔君? ……泣かないで」
私は幼い翔君の顔を覗いた。
「死んじゃだめだ……!」
翔君の涙がぽろぽろと丸い頬を伝って流れ落ちる。
翔君の隣には彼の両親もいる。ベッドの反対側に私の両親もいて、みんな神妙な顔だ。
「……この子は、もう長くは生きられない」
昨日の夜、私が眠っているとおもったのか、うっかり話すパパとママの声が聞こえてしまった……。
テレビが音もなく点いている。翔君が喜ぶと思って私が点けた野球中継。
「……ねえ、鏡は?」
私はママに言った。八歳の自分の顔を見てみたい。とても長い時間だったから、まだ大人の感覚が残っている。
「今は見ない方がいいけど……」
ママは、迷いながらも私に手鏡を渡してくれた。ベッドに横になったままで赤い手鏡を受け取る。骸骨のようにやつれたその顔を、ママは私に見せたがらなかった。
鏡に映る八歳の私は、おさげ髪で頬のこけた白い顔。
そうだ……。翔君と手を握る前にはパパと手を握って……パパとの一生分を夢で見たんだ。翔君とのことも、いま……わたしはみた。
次はママと手を握ろう。そうすれば、また何十年という長い時間をそこで過ごせる。ただ、その体験は、なぜか雨の日ばかりだった。雨の神様が見せてくれたのだろうか……。
ママが私の出した手を握ろうとする。私は少し考えて手をひっこめた。
そうだ、がんばるんだ。がんばって、本当の時間にするんだ。未来の翔君も言っていた。一緒に晴れの日を過ごそう……。
とつぜん晴れ間が出現し、きらきらと光彩を放つ光が天から届いた。
止まない雨はないらしい……。
「……わたし、がんばるからね」
泣きすぎて目を腫らせた翔君に約束した。
【了】