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フウセンカズラ

作者: クロスグリ

 嘘だ。

 私は今朝した母親との会話を思い返していた。

「お父さんと仲が悪いの?」という私の質問に言葉を濁す母親。なぜはっきり言えなかったのだろうか。

 私は昔から両親の仲が悪いように思っている。

 家で会話はほとんどせず、あっても事務的なものばかり。

 食事や睡眠も別々にとっている。特に父親が食卓に現れたところを私は久しく見ていない。

 なんで一緒に暮らしているんだろうと思うくらい二人は互いに気がない。

 私がいるから離婚しようにもできないのだろうか?

 私は仕方なく育てられているのだろうか?

 愛されているのか不安になっていく。こんなこと考えてても自信がなくなって疑心に蝕まれるだけだってわかっているのに……。

「加奈恵、ちゃんと聞いてる?」

 私を名を呼ぶ声が聞こえる。私ははっとなって、目の前で教室の机に腰掛けている友達――浅井縁――を見た。

「ちゃんと聞いてるって。出会い系サイトの話でしょ? 私、そういうの怖いからやらないよ」

「だーかーらー、ここはちゃんとした会社が運営しているんだってば」

「ちゃんとしてるって、どういうこと?」

「ほら、社長の名前がネットのフリー百科事典に載ってるじゃん」

「う、うーん……それは信用していいことに、なるの、かなぁ……」

「私は登録してから架空請求も迷惑メールもきてないよ。他に何も困ってないし、逆にハッピーなんだから、オススメしてるんだよ?」

「それじゃ、なんで私をしつこく誘うの? 他の人にも頼めばいいでしょ?」

「そんな簡単なこと……友達だからに決まってるじゃない!」

「この場面で格好つけるか……。それで、本当のところは?」

「使命だから」

「なにそれ、新興宗教?」

「違う違う」

「ならマルチ商法……あれ、ネズミ講だっけ? とにかく私嫌だよ」

「違うよ。全然違うよ。お金なんてどこにも絡まないんだって言ってるじゃん」

「もー、余計わっかんない! なんなの、私を誘って縁が何の得をするの?」

「えー……」

「そこを私に教えてくれないと、私だって何も納得できないよ。むしろ何もわからなくて怖いだけ」

「……うーん、加奈恵にわかりやすく教えるの難しいなぁ。そのアプリにはレベル? っていうか、そういうのがあって」

「アプリ? サイトじゃなくて?」

「うん。とにかく、今まで私が思ってた出会い系っていうか、ゲーム的な」

「でもそれって高校生でもやっていいの?」

「それは大丈夫。そういう色が強いだけっていうか、まぁ、出会い系もできるってだけだし」

「ん? それじゃ、出会い系じゃないんじゃない?」

「そうかな? うーん、そうかも」

 キーンコーンカーンコーン。

 突然なったその音に、私は黒板の上にある時計を見た。もう、次の授業が始まりそうだった。

「ちょっと、次体育じゃん! トイレ行きそびれた! 行ってくる!」

「じゃあ、後でメール送るから、よろしくね」

「いや、私まだやるって言ってないよ」

「えー、困るー!」

「あーもう、わかったわかった。気が向いたらね」

 そう言って私はトイレを目指して小走りに教室を出た。

 縁の話はいつも無駄に長い。その上、時々ややこしい。

 出会い系でないのなら、最初からそんな言葉を使わなければいいのに。きっと出会い系として使っている人が多いんだろうけど、なんでわざわざ怪しまれるような説明をしてしまうのだろうか。

 縁は決して頭は良くない。それは自他ともに認められている雰囲気がある。だが、自分でも思っているのなら、余計に気を使って話そうと思わないのだろうか?

 私も頭は……まぁ自分が馬鹿だと思うことはよくあるし、人のことは言えないのかもしれない。

 それでも話をちゃんと整理してから誘えという話だ。

 縁のことは嫌いじゃないし、逆にその素直すぎるところが気に入っているくらいだが、どうにかしてほしい。

 結局、体育の授業には遅刻してしまった。


 学校が終わり帰宅して自室に入ると、タイミングを見計らったかのようにスマートフォンがぶるぶる震えだした。

 差出人名は「フウセンカズラ」……聞いたことのない名前だった。

 一応確認してみる。

<浅井縁さんから招待状が届きました! フウセンカズラは遠く離れた人とコミュニケーションゲームができる新感覚のソーシャルゲームです。ご登録・詳細はこちらからどうぞ!>

 どうやらこれが縁が言っていた「出会い系みたいななにか」らしい。

 文面を見る限りだと普通のゲームのようだが、これで出会おうとする人がいるのか。普通の出会い系サイトへ行ったほうが楽そうだが。

 私はURLをタップして詳細ページへ飛んだ。

 アプリが切り替わり、ブラウザが起動する。

 開かれたサイトの概要を見るが、メールに送られた文章と大した違いはなかったので「ゲームの遊び方」というページに進む。

<コミュニケーションゲームとは二人以上で楽しむゲームです。フウセンカズラではごっこ遊びや連想ゲームに人狼等、懐かしい遊びからグループワーク的な要素を含んだものまで多数収録しています。最初は遊べるゲームが限られていますが、レベルを上げたり、特定のゲームで高得点を獲得したり、ガチャポンを回すことによって解禁されます。ガチャポンは定期的に配布されるチケットかコミュストーンを購入・消費することで回すことができます!>

 面白そうだったので、私はフウセンカズラのアプリをダウンロードした。

 アプリを起動してゲームを始めようとすると、チュートリアルが始まった。

<ようこそ、田辺加奈恵さん! これからチュートリアルを開始します。まずは自己紹介ゲームをやってみましょう。ただいま遊び相手を探しています>

 しばらくして見つかったらしく、「YAさん」という文字が表示される。

 遊び相手の名前のようだが、ワイエーとはなんだろう。本名の頭文字をハンドルネームにでもしているのかな?

 画面が切り替わり、白い画面にチャット欄とお題が浮かび上がる。

<お題:『今の見た目』田辺加奈恵さんから話してください。制限時間は二分です。話し終えたらエンドマークを送信して、相手の話を待ってください。両者が終了次第、五分間のフリートークモードに移行します>

 私から話さなければならないらしい。どうしよう、何から書けばいいのかわからない。

 とりあえずありのままを書いてみよう。

[私は帰宅したばかりで、今は制服姿です。髪型は三つ編みでメガネっていう地味な感じで、本当にあんまり特徴はないんですけど……]

 困った。他に書くことがない。だけど、これだけだとなにか味気ないようで相手に申し訳ない。

 しかし、なにも思いつかないし無意味に相手を待たせるので、私はエンドマークを送信した。

<次はYAさんの番です>

[私も帰宅したばっかで制服だよー。これからルームウェアに着替えるところ。髪は茶色に染めてて普通におろしてる感じかな。私も目が悪いんだけど、最近コンタクトに変えたんだ。んー……あとは、身長と体重は平均的かな? この間学校で身体測定があって、私より背が高い子が私より体重軽くて少しショック受けたんだけどね。しかもその子、胸も大きいんだよ。私なんて制服からじゃ目立たないくらい小さいのに……。でもね、男ウケは私のがいい気がするかも、なんてね]

 ここでエンドマークを受信した。

 なんか明るそうでおしゃべりな子だな。私とはタイプが大きく違う気がするけど、なんだろう。ちょっと共感できるところや、気になる点があって興味をそそられる。特に身体測定の話なんか心当たりがあって、心境は私とまったく同じだ。

 他にも様々なお題に沿って交互に書き込み、自己紹介ゲームも終盤にさしかかった。

<これから5分間のフリートークが始まります。5分経った後でもフレンド登録をすることでメッセージにてやりとりができます>

[ねえねえ、加奈恵さんって学校でどんなふうに過ごしてるの?]

[あんまり面白くないよ。普通に授業受けて、休み時間は友達と話したりするだけかなぁ]

[へー、どんなのを読んでるの?]

[今日読んでたのは○○○っていう小説でね、これがすごい面白いんだよ]

[あ、それ知ってる!]

[そうなの?]

[うん! 私も図書室においてあったのを読んで、わからないことが多かったけど、なんか面白いよね!]

[そう、そうなんだよね! 不思議と読む速度が進むっていうか、なんというか]

[でもさ、精神に異常は出なかったよね]

[色々と理解できたら、そうなっちゃうのかもね。私、馬鹿だし]

[私だって馬鹿だよ。この間すっごい失敗しちゃってさー]

 それから意外と話がはずみ、フリートークは盛り上がっていった。

<フリートーク終了まで後一分です。終了後にフレンド登録をすることでメッセージにてやりとりができます>

[あ、そろそろ時間だね。ごめんね私の話ばっかりで]

[いやいやー。フレンド登録しとけばいつだって話せるし]

[でも、フレンド登録ってどうすればできるんだろ?]

[きっと終わったらそういう画面が出てくるんでしょ?]

[そっか。じゃあお疲れ様でしたー]

<フリートークが終了しました。YAさんにフレンド申請をしますか?>

 迷わずタップしてYAさんにフレンド申請をした。

 それから私はフウセンカズラに夢中になった。

 いや、ゲーム自体はそこまで遊んでいなかった。毎日YAさんとゲーム内のメッセージ機能で歓談し、散漫としたやりとりに段々とハマっていったのだ。

 学校のこと、家族のこと、恋愛のこと、人生のこと……。

 何を話しても楽しくて、何を聞いても面白くて、出会ったその日からさながら昔ながらの大親友といった感じで互いにくだらないメッセージを送りあった。

 朝起きたら「おはよう」、夜寝る前に「おやすみ」……ずっと同じ部屋で一緒にいるような、それでいて退屈さや窮屈さは一切感じないし、むしろYAさんと連絡が取れない時は軽い不安感に襲われるくらいだった。

 しかし、そんな私にもYAさんについていけない部分があった。

[加奈恵、好きだよ]

[私にはあなたしかいないの]

[もしね、加奈恵が辛いことがあって、それで困ってたらさ、私に相談してね? 絶対に力になってあげるから]

 YAさんから届いた過去のメッセージ読む。冗談にしても過剰すぎる愛情表現。どうも友達の域を超えているような気がする。

 たしかに普通の友達よりもずっと知ってるし、親友と呼べるところまでいってる関係だと思う。

 しかし、同性愛者なんじゃないかと疑ってしまうくらいに、最近はこういうメールが多い。

 もしそうだったら少し困るなぁ。私だって男性に興味がないわけではない。少なくともレズビアンではない。

 これ以上こういう発言が続くようだったら、対応を考えたほうがいいのだろうか?

「あんた、最近スマホいじってるけど何してんの?」

 背後から声がした。私は慌てて学校の机の下にスマホを隠した。

 視線を後ろに移すと、クラスメイトの女子がいた。

 私にもよくわからない化粧品で彩った顔を嫌な笑みで歪め、長い髪を手ですきながら見下すような目でイスに座っている私を見下ろしていた。

「アンタただでさえキモいんだからさぁ、行動までキモくなったら終わるよ?」

 本当なら今すぐこの女子の鼻っ面に頭突きを食らわせて髪の毛を掴んで机にこすりつけたいくらい腹がたったけど、こんな馬鹿を相手にしても何も得をしないのでを女子を刺激しないように私は愛想笑いを相手に向ける。

 私だってわかってる。自分がぶさい……いや、それほど可愛くないということを。

 だったらせめて身だしなみを良くしとけという意見も納得できる。髪の毛はとりあえず肩くらいまで伸ばしてるだけで、体型こそ標準的だけど特に気を使っていないし、私服だって我ながら可愛くないものを選んで着ていると思う。

 少し怖いのかもしれない。私がオシャレをしたって変で不格好で笑われるだけだろう、と。

 それでも一般的な高校生っぽくしないとかえって目立つし、それでいいことは何一つない。

 そんなことわかってる。わかってるけど、私はこの女子に言いたい。

 余計なお世話だ馬鹿野郎、と。

 だけどその言葉は飲み込んで、生まれてから今まで溜め込んだ内なるストレスの一部と化す。

 なんで私ばかりがこんなドス黒い汚れを抱えなければならないのだろうか。

 ブサイクだから? 確かに汚物入れもまた汚いものだ。汚い器に汚いものを入れる。当たり前だろう。

 いやいや、原因と結果の取り違えかもしれない。汚物入れのごとく色々と溜め込んでしまうから汚いのか?

 だったら、この心の奥底に鎮座しているゴミとクズとカスを、どこに捨てればいい?

 ……また嫌なことを考えてしまった。

 嫌な気分に身を委ねても腹の虫が居心地悪そうに胃袋を突き刺すだけなのに。

 私は隠したスマートフォンをブレザーの内ポケットに入れて、休み時間の間は本を読んで過ごすことにした。


 暇さえあれば女子の発言がお腹をつつき、まるでボディブローのようにダメージを蓄積させるプチ地獄が続いて数日後、担任の先生がホームルームで衝撃的な発言をした。

「○○が退学処分になった。理由はSNSで犯罪自慢や援助交際発言、また住所が特定できる画像や文章をネット上にあげて学校側に苦情が殺到したからだ。お前らも犯罪は当然、ネット上に個人情報を特定できるような発言はしないように。世の中には面白半分で人の人生を壊す奴が沢山いる。自業自得といえばそれまでだが、俺は生徒が何をしようが出来る限り面倒をみていきたい。今回の件は非常に残念だが、これ以上人生を踏み外す生徒を出さないために俺も尽力するつもりだが、お前らも自分の身は自分で管理すること。特にネット上では少し隙を見せると歪んだ人間に幼児の人形遊びのごとく壊れるまでオモチャにされる。気をつけるように」

 クラス中がどよめいた。中にはショックそうにしている女生徒もいる。あんな女子にも悲しんでくれる友達がいることのほうが驚いた。

 私としては「ざまぁみろ」というのが正直な感想なのだが、そんな表情をしている生徒は一人もいない。まぁ、そりゃそうか。逆に無関心無表情でいる私のほうがおかしい。結構な事件のはずなのに、自分でも不思議なくらい冷静でいる。

 ホームルームが終わり、先生が教室を出て放課後になった。

 その時、スマートフォンが揺れだした。YAさんからのメッセージ通知だった。

[加奈恵の嫌いな子、潰しといてあげたよ]

[え、どういうこと?]

[加奈恵の悪口を言ってた子いたでしょ? あの子、かなりのいじめっ子らしいよ。こういう野蛮な人に目をつけられたら早めに対処しないとダメだよー?]

[それって、もしかしてYAさんが○○さんを退学に追い込んだってこと……?]

[そうだよー。SNSのアカウント作ったり、色々と画像集めたりね。大変だったよー]

[どうしてそんなことを……]

[だって、私は加奈恵のことが好きだもん]

[どういうことなの……何がなんだか全然わからない]

[あのね、私は加奈恵のことならなんでもわかるよ。私はいつでも加奈恵のことを見ているし、加奈恵が何を考えてるかだってわかる。たとえば加奈恵が今何してるかっていうとね……]

 そこから猛烈なスピードで文章が書き込まれていった。

 私の現在地、格好、行動……どんな仕草をしているのかまで、全てが当たっていた。

 びっくりして周囲を見渡す。しかし誰も私を見てはいない。怪しい人物は見当たらなかった。

 教室のドアでクラスメイトと話している縁と目があった。

 スマートフォンをいじっている指を止めて、手を振ってくる。

 ま、まさか……ね?

[今、浅井縁さんと目があったね]

 なんなんだ、この人は。

 いったい、どこで私を見ているんだ。

 息苦しい。胸が苦しい。胃腸をY握りしめられてるように痛い。この気持ち悪さをかき消したい。

 目眩がしてきた。吐きそうになってきた。

 私は倒れた。


 縁に保健室まで連れて行って、ベッドの上で少し休むことになった。

 寝ながら考えれば考えるほど、YAさんが縁なのではないかという疑いが段々と大きくなってきた。

 あの中でスマホをいじりながら私を見ていたのは縁だけだった。

 倒れた時も真っ先に駆けつけてきて、私を心配してくれた。

 YAさんの名前の由来も、Azai Yukariのイニシャルからきていると考えるとしっくりくる。

 そもそも私にフウセンカズラを勧めたのは縁だし、本名でゲームを始めた私とすぐに打ち解けられたのも、現実世界での友達だったから……ということなら、ありえない話ではない。

 そう思うと、普段送り合っているメッセージの内容も、どことなく縁っぽい気がしてきた。

 もし、本当に縁が犯人だとしたら、私はどうする?

 ゲーム内での過剰な発言、女子を陥れた罪。

 私は、どう対応すればいい? どう接していけばいい?

 わからない。

 だけども、私の体は動いた。保健の先生に自分の体調は大丈夫であることを告げてすぐさまテニスコートを目指して走った。

 ちょうど休憩中らしかった。水飲み場で蛇口とキスをするのかというくらい水分補給をしている縁を見つけた。

「ねぇ、縁……」

「あ、もう良くなったの? いきなり倒れるから心配したよー」

「うん、おかげさまで。この前教えてもらったゲームなんだけどさ、ちょっと変な人に絡まれててね」

「あーそうだろうね。調子はどう?」

「知ってるの?」

「そりゃもちろん」

「……もしかして、YAさんって縁のことなの?」

「違うよ。だけど誰かは知ってるけどね」

「誰?」

「それは私の口からは言えないよ。言っても信じてくれないだろうから。でもまぁ、ヒントをあげるなら、『YA』ってどういう意味か? かな?」

「なんでも信じるから答えを教えてよ」

「だーめ。それじゃ、私は練習に戻るけど、仲良くやるんだよー」

 そういって縁はテニスコートへと向かっていった。


 それ以上用事のなかった私は、暗くなる前にと下校することにした。

 放課後に保健室で休んでいたこともあって、もう空と世界は朱に染まっていた。

 赤い。いつに増しても赤い。他の色を否定するように全てを夕焼け色に着色していく。

 そして、静かだった。まるで約二兆平方キロメートルの静止画のように、地球全体の時が止まっているかのように、物音一つあがらなかった。

 いつもならこの風景に美術的魅力を見出すところなのだが、今日は恐ろしい体験をしてしまったので、その閑静さがかえって不気味でしかない。

 ブブブブブブブブッ!!

「ひえぁあ!」

 スマートフォンのバイブが動き出した。お知らせ画面にメッセージ到着の通知がされている。

 YAさんからだった。

 またストーキング発言が書かれているのだろうか? それとも犯罪自慢だろうか?

 どちらにしても見たくない。これ以上この人と関わりたくない。

 その拒否反応と裏腹に私の指はメッセージを開封する。

[今から行くよ]

 その途端に背後から砂を蹴る音が聞こえてきた。

 今度は足が勝手に動き出す。自分でも驚くくらい俊敏に前へ前へと進みだす。

 荷物を投げ捨て、一直線に駆け抜け、自宅を、母に父に誰かに助けを求めて。

 後ろから足音が響く。私を追っているんだ。

 少しずつ、だけど確かに近づいてきている。

 このままだと…………。

 大声をあげたほうがいいのかもしれない。だけど、体内の全エネルギーは足に集中していて、本来なら運動が苦手な私だったらへばっているくらい体力を消耗している。

 走りながら叫ぶのなら簡単だっただろう。だけど、不審者から逃げながら叫ぶのは、条件が同じように見えて意外と難しい。

 前を向いて走る以外の行動をとってしまえば、その間に起きるディレイで相手に捕まってしまう。それくらいの距離があるんだと感じた。

 誰かの家に助けを求めることもできない。鍵がかかっていない家だったら扉を開けて閉めるくらいの余裕はあるだろう。しかし、ノックやインターホンに頼らざるをえないのなら……。

 とにかく、私には走ることしかできなかった。

 だけどかすかな希望はあった。

 どれくらい走ったかわからない。すぐ近くにあった自宅など通り過ぎた。

 私はある家に入って、立ち止まり、可能な限り素早く呼吸を整え、大声を張り上げた。

「助けてください! 不審者です!」

 叫ぶ必要はなかったのかもしれない。どうやら不審者はひゃくとーばんの家、というマークが玄関に貼り付けてあるのを見たのだろう。振り返っても誰もいなかった。

 助かった。

 我ながら危険な賭けではあったけど、それでも結果はよかった。こういう類のものに怯むタイプの不審者でよかった……。

「どうされましたか?」

 玄関が開いて、少し体格のいい男性が出てくる。

「いきなり、誰かが追いかけてきて……」

「不審者ですか? とりあえず中に入って。その様子だと外は危険でしょう」

「いえ……お、お母さんが……心配です……」

「まずは君の命だよ。さ、早く」

「いえ、もう……家に……帰りたいです……」

「……君の家はどこなの?」

「すぐ……近くです。歩いて、10分くらいです」

「それなら僕もついていくから。だけど警察がくるまで僕も自宅にあがらせてもらうよ」

「はい……ありがとうございます」


 家に着くと、男性も一緒に中に入った。

 リビングで不審者に追われていたことを説明すると、母親はまるで我が身のことのように心配してくれた。

 私が健全な人間だったらここで母の気持ちに感涙して抱きしめたいところであるのだが、あいにく私は今までにないくらいの距離を全力疾走したのだ。とても疲れているし、少し休みたい。

 というかすごく眠い。頭が重たい。まともに立っているのも気力を使う。

 走っただけでこれほど疲労が溜まるものなのだろうか? まるで睡眠薬を飲んでいるようだった。

 思わず体が横に倒れる。ソファの感触がとても気持ちよくて、つい目を閉じてしまう。

 このまま寝てはいけない。もうすぐで警察が来る。事情聴取に答えなければ。

 どこから話そうか? 女子が退学したことから? ソーシャルゲームを始めたところから?

 ……何にしても、私とYAさんとのやり取りを見せることから始めないといけないだろうか。あんまり人に見せたくない書き込みもしてしまったから、ちょっと嫌だな。

 それでも、それが一番手っ取り早い。体を起こしながら目を開けた。

 リビングは夜のように真っ暗だった。

 あれ? 寝てしまった?

 いや、それにしてはおかしい。だったら母が毛布でもかぶせるはずだし、寝た気が全然しない。眠気だけが吹き飛んで、寝起きのけだるさが一切感じられない。

 なにより、暗いことは暗いのだが、私が見てきたどの夜とも少し雰囲気が違っていた。

 カビたような臭いがする。しっかり換気されていないような、とても人が住んでいる家とは思いがたい空気だ。

 そして、電灯はついていないのに周囲は把握できる。暗闇に目が慣れた時よりも、ずっとはっきりと。夕焼けの闇バージョンとでも表現すればいいのだろうか。とにかく暗いけど物は見える。

 トントントン……。

 キッチンから包丁で何かを切っている音がした。

 母だろうか?

 ソファから立ち上がり、恐る恐るキッチンを覗く。

 誰も、いなかった。

 しかし、何かを切るような音は響き続ける。

 他の音ではない。

 なぜなら、目の前で包丁が動いているからだ。

 調理台のに敷かれたまな板。その上に置かれた腐った肉の塊。

 毒々しくドクドクと脈を打つそれに、包丁が振り下ろされていた。

 どれほど目を凝らしても、包丁を動かすものは何もない。まるで透明ロボットがそこにいるかのように、包丁は機械的にまな板を叩く。

 どういう仕組みで動いているのだろうか?

 それよりも肉の塊のほうが気になる。ニコチンとタールに汚染された肺のような、死んだ色をしているそれ。生命的に動き続けているそれ。異臭を放つ中に、確かに感じられる人の匂い。異臭は異臭でも腐った臭いではない。排泄物の臭いだ。吐瀉物の臭いだ。三日風呂に入らなかった者の臭いだ。

 洗わなくてはいけない。いや、包丁を止めなくてはいけない。

 一歩前に進む。

 ジャー……。

 水が流れだした。

 キッチンのほうからではない。

 背後から――おそらく、トイレの洗面所から――聞こえてきた。

 ……もう、キッチンには用がない。

 次は洗面所に向かわないと。


 洗面所にも、やはり人はいなかった。

 とりあえず水を止めないと。

 蛇口に手を伸ばそうとすると、ブレザーの内ポケットに閉まっていたスマートフォンが鳴り出した。

 また、YAさんからのメッセージ通知だ。

[鏡を見て]

 視線を鏡に移すと、そこには黒いマジックペンで書かれたような文字があった。

「Love Me Do ……」

 古い洋楽の曲名だ。たしか、私が人生で最初に覚えたメロディ。一番昔の思い出。

 たしか、お父さんについていった楽器店だかレコード店にかかっていた曲だった。

 その時始めて音楽を聴いて、そして子供ながらに感動した。歌の意味など当然わからなかったのだけれど、妙に心地よかった。

 その思い出は誰にも話したことがない。話すような機会がなかったから。

 たとえどんなにストーキングをしようとも知り得ない、私だけが知っている思い出。私だけの記憶。

 それを知っている者は誰もいない。

 だったら、それを知っているとは……。

 鏡の中の自分の姿を見つめる。

 そこに映る私は、聖母のような笑みを浮かべていた。

 こんな状況で私が笑うはずがない。表情筋を動かすことすらしていないのに、なんで笑っているの?

「こんにちは」

 もしかして、これがYAさんの正体……?

「うん。ようやく会えたね」

 信じられなかった。信じたくなかった。今まで私に過剰で歪な愛情を向けていたのが、自分自身だったということを。

 自分が大好きだなんて、ナルシストじゃないの。

「そんなことないよ。みんな自分のことが好きなんだよ」

 嘘だ。そんなわけがない。そんな人、見たことがない。

「それじゃあさ、あなたのことを一番心配してくれる人ってのは誰?」

 …………。

「あなたの身を一番に守ってくれる人ってのは誰?」

 …………。

「私から目を背けないで」

 ……………………。


 目が覚めた。

 すっかり眠っていたらしい。もう窓の外は暗くなり、男性もいなかった。

 YAの意味……今思い出した。たしかに聞いたことがあった。「you」の省略だかなんだかで「ya」と表記する場合があると。

 体を起こすと、父親が私と同じソファで座っていた。会社から帰ってきたばかりなのか、それとも私が心配で着替える余裕もなかったのか、スーツ姿のままだった。

 父の「起きたぞ!」という声に母も私のもとへ駆けつけてくる。警察の人は来たが、私が異常なまでに熟睡しているものだから、とりあえずパトロールに出かけたらしい。

「不審者に追われたって聞いが、一体何があったんだ?」

 そう父が質問をしてきた。そうだ、フウセンカズラでのやり取りを見せるんだった。

 私はスマートフォンを取り出してアプリを開こうとした。

 ……ない。

 フウセンカズラのアプリが、どこにもない。

 アプリストアを探しても、そんな名前のアプリは見つからない。

 ブラウザで検索しても、そんな名前のゲームは出てこない。

 名前を間違えるはずがない。タイプミスもない。

 あれ……?


 後日、警察の人から「無差別連続殺人犯を逮捕した」という電話をもらった。

 なんでも次のターゲットとして私を狙い、観察していたのだけど、突然走り去る私を見て、正体に気づかれたと思った殺人犯は、その場で始末しようと考えていたらしい。

「もう安心しても大丈夫ですよ。殺人犯は今後二度と、加奈恵さんに会うことはないでしょう」

 警察の人の報告もあんまり耳に入らない。殺人犯がコレコレこういう刑になったと話しているようだけども、そんなことどうでもいいくらいに、現実味を感じない。

 いったい、どこからどこまでが夢だったのだろう。今この現在も、夢なのかもしれないが。

 今の私に言わせれば、もう家族関係が冷め切っていると感じていたころから夢だったんじゃないかと思う。それくらい、最近の両親は仲がいい。決して何かが変わったわけじゃない。私が大変な目にあったからじゃない。いつもと変わらないはずなのに、前とは違って見える。

 ……きっと、私が勝手に悪いように感じていただけなんだろう。勘違いだったのだ。それで済ませるのもどうかと思うけど、今はそれでいい。

 通話を切ると、並んで歩いている縁が話しかけてきた。

「警察? この前言ってた不審者の話?」

「うん。なんか、最近話題の何々町連続殺人犯だったみたいで、捕まったんだってさ」

「えー! 何々町からここまで手を広げたってこと?」

「そうみたい。流石に騒がせすぎたから、ちょっと離れたところで人を殺したかったみたいだよ」

「へー、やっぱり死刑なのかな?」

「さぁ、そこはよく聞いてなかったけど、もう私に会うことはないってさ」

「よかったね」

「うん。でも明日から送り迎えがなくなるって思うとなぁ」

「こやつめ、贅沢なことをー!」

 ブブブブブブブブッ!!

 不意に、スマートフォンがバイブする。

 消えていたはずのフウセンカズラからの通知だった。

<田辺加奈恵さん、チュートリアルクリアおめでとうございます! 次は貴方が誰かをフウセンカズラに招待してみましょう。その相手は……、続きはこちらから!>

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