赤ずきんは狼の腹の中
赤ずきんはむせ返る臭気の胃液に濡れながら、一番最初に溶けてくるのは自分の意識だろうかと考えた。
丸飲みにされたのが幸いしたと言うべきか、頭巾やマントを着込んでいて肌の露出も少なかったため、狼の胃液に直に触れている部分はほとんどない。ただ、纏っているその心許ない布も確実に消化されつつあり、陶器のように滑らかだった肌がゲル状の肉液へと溶かされていくのもそう先の事ではなさそうだった。手にしていたパンやワインを入れた駕籠も共に飲み込まれ、それらは既に元の形を留めていなかった。
湖の底に揺れながら落ちる木片のように、赤ずきんの意識はゆっくりと沈んでいく。徐々に狼との境目が曖昧になっていき自分は完全に消えてしまうのだなと思った。そうした暗転し沈み往く世界の中で赤ずきんはこれまでの人生を省みる。
赤ずきんの最初の記憶は母親の喘ぎ声であった。
まだ寝返りもできず、外の世界を正確に認知することも覚束ないような幼少時、ボンヤリとした天井を視界に捉えたまま、赤ずきんは母親の叫びを耳にしていた。その声は甲高く獣じみて、それでいて濡れた声だった。赤ずきんはそれを情景として記憶していたわけではなかったが、ただ今にして思えば、自分が横たわっている側で、母親がどこかの男と性交渉をしていたのは間違いないだろう。
赤ずきんの母親は売春を生業にしていた。村や町の農夫や商売人を、時には城に務める者や教会の神父までを相手にし、その日その日を生きていくための貨幣を稼いでいた。赤ずきんは物心付いてくると、自分には父親がいないが、毎日のようにやってくる様々な男達が父親の代わりに自分たち親子に生きる糧を与えてくれているのだと、そう理解した。その日も母親は自身の粗末な家に男を連れ込んで売春行為に及び、そして赤ずきんはその時の喘ぎ声を記憶していたのだろう。ただ赤ずきんはその母親の喘ぎ声の記憶は、もしかすると自分が母親の胎内から生まれてくるときに聞いた母親の叫び声であったかも知れないと、あり得ないとは知りながらも何となくそう思っていた。
雌犬から産まれるのが犬の子であるように、売春婦の子供としてこの世に生まれた赤ずきんも当然のように売春婦となった。いや、母親は端から一人の売春婦に育て上げるために赤ずきんを産む事を計画したのだろう。同年代の子等が未だ遊び盛りである頃に赤ずきんは初めての客を母親の手によりあてがわれた。
初めて見る男の陰部は、触れるだけで皮膚が爛れてしまう毛虫のように思えた。その毛虫が赤ずきんの股の間に強引に押し付けられた。生まれてきてから初めて味わう内側からバラバラに引き裂かれるような苦痛の中で、赤ずきんは母親が今まで歩んできて、そして自分に押しつけてきたこの世界を受け入れた。自分がこの世に生を受けたのはこの為なのだ。母親がどこからか男を連れて来る、赤ずきんはその男の毛虫を身体に受け入れる。それが自分がこの世界に存在する理由だ。
その日から赤ずきんは毎日男の相手をするようになった。
赤ずきんは「女」とはほど遠い少女であったが、そのような赤ずきんを好む種類の人間も大勢いた。口づてに評判を呼び、いつしか赤ずきんは日に何人もの男から買われる存在になった。しばらくすると母親は赤ずきんが一人で大分稼ぐ事ができるようになったためか、はたまた自身の衰えのためか、次第に自らが男を相手にする事はなくなり、赤ずきんを町の男どもに紹介する斡旋的な役割ばかりするようになった。
母親は事務的に、そして冷酷に赤ずきんに接した。今からどこそこの男を相手にしろ。金はヤル前に必ず先に貰い、自分に全部渡すように。ちょろまかしたら命は無いものと思え。何か言葉を挟もうとすれば手近にある薪などで容赦なく打たれた。殴打された肌は腐りかけた果実のような色になった。
母親からは親らしい愛情を受ける事もなく、体を重ねなければならない汚らしい男達の数は増え続け、赤ずきんは疲弊していった。身体以上に精神がボロ布のようにすり減り続けた。愉しげに遊ぶ同じ年頃の子供達の声を耳にしながら自身の境遇を恨み、手をつなぎ歩く親子の姿を見ながら在りもしない別の生活を夢想した。だがやがて、赤ずきんはすべてを諦め考える事を止めた。一度生まれてしまった子犬が別の動物に生まれ変わることなど、もうできはしないのだから。
赤ずきんが成長していくらか生活にも余裕が出来た頃、母親からパンとワインを持って東の森の奥にある小屋に行けと言われた。何もお使いに行くのではないという事は赤ずきんにも分かっていた。こちらから出張って男の元へ身体を売りに行く場合、何かしらの小間使いを装って赴く事がよくあった。
東の森には人攫いや人を襲って喰う獣が出るなどと人々の間で気色の悪い噂が立っていたが、赤ずきんは特に気にすることなく、母親の言い付けに頷いた。
身支度を調えて出発しようとした時に、うっかりパンが入った駕籠を携えずに家を出ようとしてしまい、母親から怒声と共に皿を投げつけられた。母親は赤ずきんに、お前は本当に使えない奴だ、お前なぞ要らない、森に行ってもう帰ってくるな、などと必要以上に罵声を浴びせかけた。そのような母親の態度はいつもの事ながらも、赤ずきんは恐れを抱いて弱々しく謝り、駕籠を手に取ると逃げるように家を出た。苛立ちが治まらずに赤ずきんを睨め付けていたのだろうか、森へ向かおうとする赤ずきんは長い間母親の視線を背中に感じていたような気がした。
森へと入ると、狭く細い道が奥へと続いていた。左右の木々から節操なく伸びた枝々が屋根を作るように頭上を覆い、陽の光はほとんど受け取れない。夜のように暗く、ジットリと湿度を満たした筒状の道を奥へ奥へと進んでいくと、果たして一軒の小屋がそこにあった。
扉をコツコツと叩く。するとゆっくりと扉が開き始めた。
赤ずきんが取っ手を引いて小屋の中を覗くと、そこには竈の炎のように赤い喉があった。テラテラと唾液で濡れて蠢くそれは、本当に熱い空気を発しながら燃えているようだった。
視線を退くと、それは巨大な狼であった。
燃えさかる炎が襲いかかってくるように獣の影が覆い被さってきた。あ、と思う間もなく赤ずきんは狼に飲み込まれた。
喉の筋肉が収縮し、赤ずきんの身体を締め付けた。その肉の圧搾機によって全身の骨を粉砕されるのではないかと怯えたが、絞り出されるように少し余裕のある空間へと落とされた。鼻を突く刺激臭に赤ずきんはそこが狼の胃袋であることに気が付いた。圧死させられる心配は無いとはいえ、生暖かい肉壁に閉ざされたその空間は相応に狭く、赤ずきんは膝を抱え込むような姿勢を余儀なくされた。
赤ずきんはその狼の噂を思い出した。森の奥に住む狼は町に出てきて人を襲ったりはしないと言う。狩られる事を危懼した保身のためだろうか。狼は人を買うのだそうだ。金を払い人の子を買い上げて喰らうのだ。
ああ、と赤ずきんは思った。自分は生まれてから売春婦として育てられて今までお金を稼いできた。そして男と寝た数が増えるに連れて蓄えもいくらか出来てきた。おそらく、人間一人がつましく生活していく分には十分な余裕があったであろう。だから、母親は私を捨てたのだ。もう自分には必要ないと思い捨てたのだ。最後に狼に売りつけて幾ばくかの金でも得ることができればそれでもう言う事はないだろう。私は母親の金を稼ぐ道具として生まれ、そして最期もいくらかの金を稼いでその役目を全うさせる。母親によって計画された私の人生が母親の計画によって終わりを迎える、ただそれだけのことだったのだ。
赤ずきんは目を閉じた。元もと自分の正体などなかったのだ。このまま獣の腹の中で消化されてしまったところで一体何の違いがあろうか。
模糊としてきた意識の中で赤い頭巾やマントが徐々に液状化してきたことが感じ取れた。もうすぐだ。もうすぐ私の皮膚がドロドロに溶かされ全てが消えていく。その前に自分の意識の方が先に溶け出してしまえば好いと赤ずきんは思い、生暖かい肉の中で膝を抱えた身体を一相縮めた。
その時、何か硬く冷たいモノが肘に触れた。狼の胃液と一体化しつつあった身体の感覚がそこだけ不意に呼び起こされる。パンも駕籠も既に消化されてしまっている。何だろうかコレは。気怠い感覚の中で指を伸ばしてみた。
痛っ。
隔離された世界から現実へと意識を引き戻す呼び水のように、伸ばした指に鋭い痛みが走った。
それはナイフだった。母親がパンと一緒に駕籠の中に入れておいたモノだろうか。冷たく鋭利なそれを指で弄びながら赤ずきんはボンヤリと考えた。何故、こんなモノがココにあるのだろうか。パンを切り分けるのにナイフは当然必要だが、今まで男の元にいくときにはソコまで用意して行った事はない。ナイフなぞ男の家にもあるであろうし、何より、持って行くパンもワインもただのお飾りで世間体を気にする者へ配慮した偽装に過ぎないのだ。いや、そもそも狼に喰われる事が前提ならばこれらのモノを赤ずきんに押しつけてまで持たせる必要など無い。なら何故ココにナイフがある。
狼の体液とは違う液体が赤ずきんの指を濡らしていった。
あの時、母親はなんと言ったか。
お前などもう要らない、帰ってくるなと言った。赤ずきんはそれを、母親の憤怒からくる罵声だと思った。しかし本当にそうであったか。それは確かに赤ずきんが何かヘマをしたときに母親が見せるいつも通りの態度であったが、皿を投げつけてまで駕籠を赤ずきんに押しつけた事実と並べて考えると違う意味合いにも取れる。
母親は確かに自分が必要なくなり捨てたのだろう。だがそれは赤ずきんの生を支配する立場の放棄であり、そして委譲ではなかったか。母親のために存在していた自分の人生が、今自分自身の元に返されたのではないか。
指先を濡らした自身の血が熱かった。狼の内臓以上に熱く感ぜられ、その熱は赤ずきんの身体全体に拡がって行ったような気がした。溶けて消えていきそうだった自分と狼との境界線が明瞭に感じ取れるようになった。
思えば自分には名前が無かった。生まれたときから母親に「赤ずきん」として呼ばれ、そして周りの者からもそう呼ばれ続けてきた。「赤い頭巾を被った売春婦」それが自分であり、それ以外の何者でもなかった。私は今まで母親に用意された人生の中で母親のために男と寝てそして母親のためにお金を稼いできた。私には私の人生はなかったのだ。それで良いと思っていた。そういうものなのだと思っていた。だが、それももう止めだ。
私は私に名前を付けよう。
赤ずきんはナイフを逆手に握る。
母親は自分自身のために私を産み、育て、そして捨てた。もう自分にこの娘は必要ないのだと思い捨てたのだ。最後に駕籠の中に忍び込ませたのはナイフ一本。
赤ずきんはナイフを逆手に力強く握ると目の前の肉壁に思い切り突き刺した。そしてそのまま一気に下方に引いて切り裂く。真っ赤な肉の裂け目から淡い光が漏れてきた。ぬめる内臓と脂肪をかき分けて狼の腹の外側に指を引っかける。指先にザワリとした狼の毛の感触が伝わる。赤ずきんはその肉の裂け目から両方向に狼の腹を引き裂いた。鼓膜を突き破るような狼の悲鳴とともに、白い世界が目の前に開けた。
狼が発する甲高い叫び声の中で、赤ずきんはその体を狼の体液と血で赤黒く光らせながらゆっくりと這い出てくる。纏っていた衣服は全て胃液で溶かされていた。完全に狼の体内から抜け出し、再び地面に立ってみると、何だか自分の二本の足で立つという行為が初めての体験であるように思えた。
部屋にはなおも嬰児の泣き声のような狼の咆吼が響いていた。赤ずきんは狼の前に立つと、その頭蓋に思い切りナイフを突き立て泣き声を止めた。
「おめでとう私」
そうして自分自身に名前を付けると、彼女は小屋を出て森の中を家とは反対の方向に進んだ。