前編 (四)
童話や絵本の世界に登場する『氷の女王』が住むような銀色の森に舞い踊ったのは、生命を失った花弁。そこに人外の獣が存在していた事を証明する花は、微かな夜風に揺らされて、悲しさと儚さを多分に含んだ花弁を宙へと舞わせたのである。
「……綺麗だな、アリシア」
舞う花弁をうっとりとした瞳で見つめるのは、人外の獣と同等の力を身に宿したカナデだった。一年前であれば氷雪種に関連するものを視界に収めるだけで拭いきれない過去を思い出してしまったのだが、今となってはその過去は一つの戒めとなって自身の心を強くしてくれる。時には悪夢として睡眠を妨げる時もあるが、それはそれだ。
反省する事も必要ではあるけれども、今のカナデは一人ではない。共に並んで歩いてくれる人がいるのであれば、表情を暗くする暇などはない。
だからこそ、カナデは『始まりの地』と言っても過言ではない、銀の森に咲き誇るこの世ならざる花弁を綺麗だと語る。
「そうだね、本当に綺麗。でも、私はここでもう一度……カナデの花が見たいな」
言葉を受けた愛しい人は、カナデの左腕に身を寄せて囁いた。
まだカナデがこの国に来る前に咲き誇っていたという浄化の花。今は氷結花となってしまっているが、以前は風に揺られる度に涼やかな音を奏でていたらしい。
「私も聴いてみたかったな」
「なら、戦いが終わったら……ここにカナデの花を植えよう」
心すら浄化すると噂される澄んだ音色を聴きたいとカナデが語ると、彼女は薄っすらと微笑んで一つの約束を投げ返してきた。
当然であるが、アリシアは約束が叶わない事は知っている。それでも、結ばれた約束が奇跡を起こしてくれると信じたいのだろう。
どこまでも純粋に想ってくれる彼女が愛しくて、同時に儚く感じたカナデは――
「そうだな。ここにカナデの花を植えよう。そして、二人で育てるんだ」
叶わない約束を結ぶ事にした。
あと一度大きな戦いを経験すればカナデの命は燃え尽きてしまう。それだけでも絶望的だというのに、相手は今までにない程の強敵だ。正直な事を言えば、全ての力を結集しても勝てるかどうか定かではない。
だとしても、カナデは彼女の夢を叶えてあげたいと願う。そう願うからこそ、彼女の約束を無下にする事が出来ないのだ。
「うん。それなら早く終わらせないとね」
それをよく知っているアリシアは一時の幸せを満喫するために、あえて話を合わせてくれたようだった。そう長い付き合いではないけれど、彼女の柔らかな頬を流れる雫を見れば何を思っているのかは分かる。
だからこそ、カナデは何も言う事が出来なかった。本来であれば気の利いた言葉の一つや二つは届けてあげたい。
しかし、カナデはどこまでも不器用で、人と長く会話する事も不得手だ。どれだけ願ったとしても、即座に言葉など思い浮かぶ筈もない。
「何も言わなくていいよ。カナデの気持ちは……ちゃんと伝わっているから」
しばし言葉に詰まり、悩んでいたカナデを救ってくれたのは、柔らかい声。
身を寄せる事で変わらない想いを伝えてくれるアリシアだった。氷結花が舞う森の中ではあるが、その主たる氷結の歌姫の力は当然ではあるが発動していない。それでも彼女の鼓動の音は変わらない心の温度を伝えてくれる。
どれだけ心を凍てつかせても、ものの数秒で溶かしてしまうような熱い気持ちを伝えてくれるのだ。確かに歌姫の力は便利だと思う。主に人と人が心を通わせるには、最も適した空間を作り出してくれるのだから。
だが、人は触れ合う事で、身を貫く程の鼓動の音を聴く事で気持ちを伝え合う事も出来るのだ。もし言葉巧みに人を騙す事が出来る者がいたとしても、この温かさと音だけは再現する事は出来ないのだと思う。
(彼女の気持ちだけは……本物だから)
初めて彼女の気持ちを知った時は戸惑ってしまったけれど、今はこの温かな気持ちがなければカナデは物足りないと思ってしまう。そう思ってしまう自分自身が不思議で仕方がないけれど、今は伝わる熱を満喫するために眠るように漆黒の瞳を閉ざしていく。
「やはり、ここにいたのですね」
だが、夢心地な気分を味わう事が出来たのは数秒だった。
突如として草をかき分ける音と共に、聞き慣れた声が届いたからだ。
「……イリス?」
聞き慣れていても、こんな何もない所に自国の王がいる訳はないと思ったカナデは、疑問に思いながらも首だけを後方へと送る。
「他に誰がいますか?」
すると、戸惑うカナデを見つめた友は一度表情を和らげてくれた。
淡い黄金色の髪に、優しげな深緑の瞳を有した少女。何度瞬きをしても、凛々しさと優しさを兼ね揃えた姿は変わる事はなくて、どうやら本当に王がこの場にいるらしい。
カナデの止まっていた心が再び動き出した場所に、彼女は変わらない笑みを浮かべているというのだ。
「こんな夜更けに王様が出歩いていたら駄目だよ」
もはや固まる事しか出来ないカナデを見かねたのか。
王を蒼い瞳に収めた隊長は自身の責務を果たすために一度カナデから身を放した。としても、それは形だけで、アリシアはカナデに向けるのと同じ表情で友を迎えるつもりらしい。
「そう? 護衛が二人もいれば安心だと思うわ」
当然、イリスもアリシアの気持ちが分かっているらしく。
王ではなくて、一人の少女に戻って一歩だけ距離を縮めた。そこまでは、いつもの三人で、今も変わらず強い絆で結ばれているのだと感じる事が出来た。
「イリス?」
だが、穏やかな時間がというものは、唐突に終わりを迎える時がある。
それを説明するかのように、今の今まで笑顔を浮かべていたアリシアの表情が一変した。その理由を探るべく、ようやく体ごと振り向いたカナデは交互に二人を見つめる。
まずは疑問の声を上げたアリシアを。
普段は子供のような無邪気な笑顔を浮かべている彼女ではあるが、今はどんな顔をしていいのか分からないという様子だった。言い換えれば、戸惑いを隠せないような困り果てた顔をしていたのだ。
どうも要領を得ないカナデは決意を固めて、全ての原因だと思われる人物へと漆黒の瞳を向ける。
その瞬間、なぜアリシアが戸惑っているのかを理解した。それもその筈で。
先ほどまでこちらまで優しくなれるような温かな微笑みを浮かべていたイリスの瞳が湿っていたからだ。いや、違う。彼女は確かに泣いている。
一度目を合わせるだけで心を奪われてしまう魔法の瞳から、幾度となく内なる感情が零れ落ちていたのだ。なぜ泣いているのか。
女王イリフィリア・ストレインを知らないものであれば首を傾げるのだろうが、カナデはその理由に心当たりがある。
「私の事か?」
なぜかと言えば、それがカナデ自身の事だからだ。
国の代表が集まる会議の中で、イリスは王として舞姫の力を借りる事が出来るカナデを最前線へと送る事を宣言した。そして、その対価としてもう一人の汚染者を温存するように交渉したのだ。
会議の結果は部隊を率いる将軍と隊長。そして、当の本人であるカナデには伝令を通じて報告があったのは数時間も前の話だ。
話を聞いたカナデとアリシアは自宅でじっとしている気分にはなれず、こうして人里離れた場所までやってきたという訳である。決戦を控えているのだから、本来はゆっくりと体を休めているべきだというのに。
「ええ。私は人として間違っているわ」
だが、不忠の臣下を怒る事もせずに、あろう事か追いかけてくれた王は頬を伝う涙を拭う事もしなかった。それどころか神へと懺悔するかのように、胸の内を明かしてくれる。
その様はどこか痛々しくて、とてもではないが見ていられない。
「イリスは間違っていない。むしろ、私は最後まで信じてくれた事を嬉しく思っている。だから、気にする事はない。ただ一言……命令してくれるだけでいいんだ」
見ていられないからこそカナデは王の言葉を否定してみせる。
同時に、残った命の全てを捧げられる事が誇らしいと思う事が出来た。確かに死ぬ事は怖いけれども、騎士として彼女の力となれる事が嬉しいのだ。
「どうして? 私はカナデに声を掛けただけ。他に何もしてあげられなかった。望むなら……隊長にも貴族として扱う事も出来たのに。それだけの活躍をカナデはしてくれた。それなのに、私は――」
「声を掛けてくれた。ただそれだけ私は救われたんだ。もしイリスとアリシアに出会えなかったら……私はこの場所にずっといたと思う。確かにその方が長く生きられたのは事実だ。だが、私は今を悔いてはいない。戦ってばかりの人生だったけれど、私は幸せだから。そのきっかけをくれたのが、イリスなんだ」
それでも、イリスは今までを悔いて感情のみをぶつけてくる。
対するカナデは彼女がくれた優しさという名前の『心の灯り』を返す。自身の心を照らしてくれたように、イリスの沈んだ心が鮮やかに彩られる事を祈って。
「たぶんイリスが命令しなくても、カナデは自分から志願したと思うよ。私はその意思を尊重したい。だから、イリスが気にする事は何もないの。それとも、私が友達を恨むとでも思ったの? そんな事を考えていたのなら、本気で怒るよ」
たった一人の言葉では孤独な王の心には届かないと思ったのか、アリシアは子供に言い聞かせるように左手の人差し指を立てて、頬を膨らませていた。その横顔は心外だと言っているようで、言葉の通りに『本気で怒る』寸前らしい。
三人の中では最も感情に素直なのがアリシアではあるが、彼女が本気で怒った所を見た事はない。普段から元気で爽やかなアリシアが本気で怒るというのだから、それだけイリスに対する友情は軽いものではないという事だ。
「アリシアはそういう子だったわね。そして、カナデも。本当に私は……馬鹿みたい」
二人分の気持ちを正面からぶつけられたイリスは、もう一度瞳から涙を零す。
だが、零れ落ちた涙の意味合いは先ほどとは種類が異なるのではないだろうか。時として人は嬉しくても涙を流す事があるのだから。他の誰かであれば確信は持てないけれども、友の涙であれば判別出来る自信はある。
「分かったのなら、もう大丈夫だな?」
自信を確信に変えるために、カナデはそっと右手を差し出す。
あの時、この場所でイリスは絆を結ぶために手を差し出してくれた。ならば、カナデは彼女の力になるために手を差し伸べようと思ったのだ。
「ええ。カナデから手を差し出すなんて……明日は快晴かしら?」
すると、数秒の間もなく手袋越しに伝わったのは彼女の温かさ。
ずっと触れる事を恐れていた温かさは、最後の戦場へと向かう恐怖を難なく吹き飛ばして、カナデの全身に力を溢れさせる。受け取った力をカナデは、彼女の手を強く握り直す事で返していく。
「快晴でいいんじゃないかな? 雪ばっかり降っていると気が滅入るから」
雪雲さえ吹き飛ばすような晴れやかな声が届いた瞬間に、繋がれた手にさらなる圧力が加わる。イリスと繋いだ手をアリシアが両手で包むように握ったのだ。
――一分、二分。
握手にしては長すぎる時間を、三人の少女は共有する。
今思えば、こうして三人で絆を確かめ合うのは初めてだ。だとするならば、なかなか手が離せないのは仕方がないのかもしれない。そうして長い握手をしている理由を脳裏に浮かべたカナデは、最初で最後の絆の確かめ合いを延々と続けたのだった。




