前編 (三)
氷結の歌姫と二国の代表が北へ偵察に向かって、二日後。
城塞都市シェリティアの王城内にある会議室にて。
「――現状ではカナデに頼るしかありませんね」
涼しげな声を発したのは、聖王国ストレインの女王イリスだった。
部屋と通路を隔てる扉を潜って、正面。つまりは、一番の下座に位置する席に座るイリスの表情は無表情。おそらく彼女を初めて見る者ならば、恐怖すら感じさせる程に感情を消し去った表情を浮かべている事だろう。
あえて言うが、イリスはあえてこんな表情をしている訳ではない。本来であれば向かい側の席に座るフィーメア神国の代表である教皇と、リシェス共和国の王に愛想笑いの一つか、自信に満ちた強気な笑みを浮かべなければならない立場だ。
「王族以外で汚染者の者となれば限られてくるからな。最悪は俺が決着を付けても構わないが……心が渇いてしまえば自分では止められないという問題もある」
そんなイリスを見かねたのは、右手側の席に座るシュバルツ王が一言。言葉では述べてはいないが、皆の意識が発言者に集中している間に「気持ちを整理しろ」と言いたいようだ。
見た目とは裏腹に気の利いた彼に感謝しつつも、イリスは一つ深呼吸をすると同時に脳内を整理していく。と言っても、イリスが抱える問題は個人的な事だ。自国の汚染者を、しかも一番の友を危険な場所へと送り出さなければならない事に迷いがある。
先ほどの無表情は言いたくはないけれども、言わなければならない立場へと追いやられた結果。感情を消し去りでもしない限りは述べる事が出来なかったのだ。
「フィーメア神国からは歌姫とクロエ団長を派遣させてもらいます。一国の中で一人や二人しか存在しないのが汚染者という存在です。その中で舞姫が力を貸してくれる存在は限られてきます。もはやカナデ殿しかいないのではありませんか?」
迷うイリスを追い込んだのは、フィーメア神国の教皇だった。
追い込んだという言葉を使ったが、実際はイリスの倍以上は生きている彼に悪気はない。ただの汚染者が外れるくらいであれば容認出来るだろうが、カナデは舞姫の力を借りる事が出来る。
クロエという団長が歌姫の力を用いる事で、千を超える銃口を形成出来るのは周知の事実だ。その力と対抗出来る存在がいるとなれば、出し惜しみする理由など存在しないのである。例え次がカナデにとって、最後の戦場になるのだとしても。
いや、カナデが命を燃やし尽くしてしまう事は他国にとっては関係のない事だ。そう思うと悲しい気持ちが胸を締め付けるけれども、こればかりは仕方がない。
だが、他国の言いなりになってばかりではいかないイリスは、深緑の瞳を力強く輝かせると同時に一つの提案を投げる。
「分かりました。聖王国ストレインからはカナデを派遣します。ですが、もう一人の汚染者は温存させていただきます」
投げつけた提案は、聖王国ストレインのもう一人の汚染者を温存する事。
つまりは、イリスの夫であるセドリックを最前線へと送る気がない事を明確に提示したのだ。もしかすれば、反対する者もいるのかもしれない。
しかし、三万もの軍勢が攻め寄せてくるのだ。前線が突破される事も十分に考えられる。後方に汚染者を配置しておく事は無駄ではない。そういう意味では、イリスが述べた提案は自国の重要人物を安全地帯に置きたいと我が儘を言っているようには聞こえないだろう。
――一秒、二秒。
フィーメア神国、リシェス共和国の代表二人が押し黙る中で。
「敵の目標はあくまで聖王国ストレイン。自国の守りをセドリック卿がするのは当然だ。そこに汚染者は関係ないだろう。違うか?」
素早く援護してくれたのは、シュバルツだった。
初めて会った時は敵同士だった彼ではあるが、今は同じ聖王国という名を冠する同盟国の一員でもある。いつの間にか強い絆で結ばれた彼の援護を有難く思いながらも、イリスは両者へと視線を向ける。
「構いません。シュバルツ王が語る事は筋が通っています」
すると、一つ頷いたのは教皇だった。
事情があって無表情となってしまったイリスとは違い、常に表情が変わらない男がこうもあっさりと承諾してくれた事は意外ではあるが、特に何か企んでいるようには見えない。
その事実に内心で安堵したイリスは思考を切り替えて、どうグシオン連合国を迎え撃つかを考えていく。その中で耳障りに囁くのは、内なる自身の声。
友を生贄に捧げて、夫を守る。
王としては正解でも、人としては間違っていると何度も、何度も頭に響き続ける。
(……アリシアは私を憎むかしら)
自身の良心と戦う中でイリスの脳裏に浮かんだのは、今でも幼さが抜けない女性騎士だった。元はイリスの近衛騎士として城に務めるようになった彼女も、今では隊長として兵を率いるまでに成長している。
そんな頼れる友が愛した人をイリスは最も危険な場所へと送り出す。おそらく状況を説明すればアリシアは分かってくれるのだと思う。それでも、心の片隅ではイリスを恨む気持ちも生まれるのではないだろうか。
――対話をする事で心を通わせて、分かり合いたい。
そう願う王がすぐ側にいてくれた友と分かり合えないという事実は、どこまでも滑稽で愚かに映るのではないだろうか。否、もしそんな事が知れれば、民はイリスが語る『理想』に耳を傾けてはくれないだろう。
そうなってしまえば、聖王国は終わりを告げるに違いない。
弱気になっているためか被害妄想が広がっているような気もするが、今こうして各国の代表が集まる事が出来たのはイリスが語る『理想』が耳に心地良いからだ。そこに希望があるからこそ、国の垣根を越えた会談が成し得ているのである。
しかし、希望が失われれば信頼などものの数秒で崩れてしまう。表面上は綺麗にまとまっているように見えるのかもしれないが、今の状況は手入れがされていない築数十年の館の軋んだ床を歩くようなものだ。どこが脆くて、どこに灯りがあるのかも分からない。下手をすれば腐った床を踏み抜いて、暗い穴へと落ちてしまう可能性すらある。
それでも、イリスは一人で進まなければならない。
元来から王と呼ばれる者は孤独だ。誰に頼る事無く、茨の道を進み続けるのが王という存在なのである。ならば、迷わず自身が信じた王道を進むのみ。
「教皇殿、それにシュバルツ王。心遣い感謝します。セドリックには我が国の防衛を任せます。ですが、仮に前線を突破された際は……全力を持って対応するよう命じます」
心中で決意したイリスは、全ての力を瞳へと込めて言い切った。
その瞬間、目の前にいる教皇とリシェス共和国の代表がはっきりと息を呑んだのが伝わってくる。どうやら彼らはイリスが友を戦場へと送る事に迷い、平静でいられないと思っていたようだ。しかし、今のストレインは彼等とも同盟を結んでいる。敵であれば警戒させてしまったのだろうが、味方であるイリスが力を取り戻した事は幸いであったようで。
「さすがは魔女と呼ばれるだけはありますね。普段から冷静沈着な風を装っていますが……私はそこまで割り切れません。今は味方である事を素直に喜ぶとしましょう」
一度皺枯れた表情を緩めた教皇は一人納得したように頷いた。
それに倣って頷いたのは、リシェス共和国の代表である壮年の男。どうやら、イリスはまだ王として、氷雪種の総意者という強大なる敵と戦う軍勢を率いる者として君臨出来るらしい。
「それでは魔女の呼び名に相応しい働きで……応えましょう」
魔女だろうが悪魔だろうが、何でもいい。今は国の平和のために、皆の笑顔のためにイリスは孤独な戦いへと赴く覚悟を決めたのだった。




