前編 (二)
城塞都市シェリティアの北門を出て、約二時間。
進路を北東に向けて、ひたすら突き進むのは四人の少女。
「何事もなければいいのだがな」
状況が状況であるために、皆が皆、口を閉ざしていたのだが、さすがに限界を感じたカナデは当たり障りのない独り言を呟く。
「そうだね。三万の兵が攻めてくるのは……脅威だけど、氷雪種が絡む方が怖いからね」
しかし、その独り言を拾って、同じ軍馬に跨っているアリシアは応えてくれた。
どうやら、彼女も何か話をしたかったらしい。とは言っても、冷静に考えれば不安に押しつぶされそうなのは誰しも同じなのだ。会話をする事で、押しつぶされそうな緊張を解そうとするのは自然なのかもしれない。
その考えを肯定するように――
「歌姫が本気を出したら、どんな国でも叶わないんだからね。味方であれば心強いけど、敵になったら怖いね」
間髪入れずに、今の今まで黙っていたクロエも会話に割って入ってきた。
そんな彼女は話題に上った歌姫ことソフィの細い首に両腕を巻きつけて、浮いている。何かの冗談なのかと思うのかもしれないが事実だ。
クロエは背に氷の羽を形成したソフィによって、背中と両膝を抱えあげられる事で宙に浮いているのだ。人が空を飛ぶためには――空想の世界に出てくる『有翼種』と言えば分かりがいいだろうか――背に鳥と同じ羽を有した存在でなければ飛ぶ事は叶わない。
しかし、有翼種が飛べるのは空想の話で、実際は鳥の二倍、三倍の大きさの羽が必要だと聞いた事がある。ならば、なぜソフィとクロエが浮いていられるのかと言えば。
それをカナデが説明する事は出来ない。これはただの憶測に過ぎないが、ソフィは何か浮力を発生させる不思議な力を使えるのだろう。
不思議な力と述べたのは、ただ単に理解出来ないからだ。その背景には何か論理的な計算式が成り立つのかもしれないが、カナデには到底理解出来ない事だろう。
そして、おそらく敵国の偵察をすればいいだけの状況で、そんな論理的な計算式を考える必要は当然ない。
「大丈夫。私は味方だよ。でも……敵になる存在もいるんだね。あの子達は見た事ないよ」
それは答えを知っているであろう、ソフィにも当てはまるらしく。
十メートル上空を飛んでいる事もあってか、遠目が利くソフィは戸惑いながらも必要な情報を伝えてくれた。
だが、ただ馬に乗っているだけのカナデにはソフィが見たものが何であるのかは分からない。見たままを正直に言うならば、黒い何かが眼前で広がっているという事くらいか。
だが、ソフィが『あの子達』と述べた事を考えれば、どうやら最悪の事態が眼前に広がっているのではないだろうか。
「……黒い氷雪種? それに男の子?」
その疑問を形にしてくれたのは、クロエだった。
ソフィと同じで戸惑いながらも述べた友の言葉は、曖昧だったものの輪郭をくっきりと描いてくれた。
「氷雪種を生み出す……存在か。やはりいるのだな」
ちょうどその時に。黒い何かの存在を自身の目でしっかりと捉える事に成功したカナデは、鋭い瞳を眼前へと注ぐ。
眼光だけで戦意を奪う事が出来そうな、そんな力ある瞳が射抜いたのは漆黒のローブに身を包んだ人形めいた少年。歪みという言葉とは無縁に思える整った容姿に、昼下がりを迎えた事で強さを増した日の光が煌めかせる黄金色の髪は、ただただ美しい。
一目見ただけでは少女ではないのかと思う程に美しい少年だった。
場合によっては、氷雪種の付近に少年が立っているだけに過ぎないと思うのかもしれない。しかし、その少年は人には不可能な事を平然とやってのける。
――人には不可能な事。
それは、ようやく視認可能な距離に達したカナデ達に向けて、まるで風に言葉を乗せているかのように鮮明に声を伝えて来たのだ。
「ボクの前に立つのは……氷結の歌姫、やはり君なのかい?」
そして、その少年が涼やかに見つめるのは、全ての答えに繋がると言っても過言ではない氷結の歌姫。対話と想いを繋げる事で分かり合う事を望む、穢れ無き存在だった。
「どうする? ざっと見た所だと……三千程いるように思うが?」
相手の目的は分からないが、彼の背後には黒い宝石を思わせるような輝かしくて、硬質そうな鱗に身を包んだ、太い四肢と長い尻尾が特徴的な蜥蜴に似た化け物がいる。さすがに陣などは組んでいないが、人を遥かに凌駕した氷雪種が千を超える数で存在するという事実は、卒倒しそうな程に気分が滅入る。
だが、圧倒的な力の前に屈するどころか、対抗しようとする者も当然いる。
「数だけなら……僕が引き受けるよ」
その意思を明確に示したクロエは、一度自身を支えてくれている少女に目配せをすると共に宙へと身を投げ出した。高さにして六メートル程の高さから跳躍したクロエは、身に纏う灰色のロングコートをしばしの間、吹き荒れる風になびかせて。
次の瞬間には、内にある氷雪種の力を発動させたようだった。
クロエの氷装具は小銃と呼ばれる、凍てついた弾丸を高速で射出出来る武器だ。カナデのように接近戦には向いてはいないが、多数と戦うには適した武器と言う事も出来るだろう。
とは言っても、相手の数は有に千を超えている。いや、遠目のために定かではないが、さらに増えているように思う。如何にクロエの氷装具が優れていたとしても、対抗出来るとはとてもではないが思えない。
だが、そんなカナデの考えを異国の汚染者は即座に否定する。
「ソフィ、力を貸して!」
始まりは、鋭いクロエの叫び。
今でも自由落下を続ける彼女は宙で姿勢を整えながらも斜め下に、件の少年に向けて銃口を差し向けた。その動きに沿って、蠢くのはソフィの体から溢れた白き霧。粉雪のように細かい霧は上空を埋め尽くして、次の瞬間には数多の小銃へと姿を変えていく。
「――カナデ、行って!」
確認せずとも自身の背後に数多の銃口が形成しつつある事を知っているのか、クロエは引き金を引き絞ると共に声を張り上げた。
「心得た。事の真相……確かめさせてもらう!」
そんなクロエに返したのは、鋭い一声。
天から授かった、よく通る声を戦場となりつつある場へと届けたのだ。
――刹那。
白い毛並みを有した軍馬の手綱を握り直したカナデが見つめたのは雨のように降り注ぐ煌びやかな氷弾だった。千を超える同じ力を起源とする氷弾は、人外の獣でも避ける事は叶わないらしく。一発、二発と身を貫かれた氷雪種の鱗には亀裂が走り、その隙間から不気味な程にどす黒い霧を噴出させている。
「……なんだか不気味だね」
カナデの背に身を張りつかせて肩越しで同様の景色を見たアリシアは、一度身を震わせながらも独語。先ほどカナデも『不気味な程にどす黒い』と表現したのだが、どうやら彼女も同じように感じたらしい。
おそらく歌姫の纏う霧と少年が纏う霧の役目は同じで、ただ単純に色が違うだけだろう。そう判断したのは『血染めの舞姫』と呼ばれる少女が纏う霧は色が違うだけで、その性質は同じだったからだ。
対峙する少年の正体が不明な状況で憶測を進めるのは危険だと思うけれども、彼だけが特別だと考える理由も存在しない。
「……彼の目的を確かめないと。そして、私達が成すべき事を」
だとしても、仲間が作ってくれた道で止まる訳にはいかないカナデは危険だと思いながらも馬の手綱を引く事はしない。
「……そうか。恐怖は人に武器を持たせるんだね。そして、恐怖を感じる対象を討つ。それが、人という存在。歌姫は人を『簡単』だと表現したけれど、単純な存在という意味では正解だね」
対する少年は、カナデには交戦する意思があると受け取ったようで。
少年は誰かに語り掛けているようで語り掛けていないような、そんな不思議な口調で言葉を紡ぎ出すと、一秒にも満たない時間で戦う態勢を整えていく。
(……あれは剣でいいのか?)
しかし、少年の臨戦態勢をはっきりと視界に収めたカナデは、一つの疑問が湧きあがってきた。
確かに少年が蠢く霧を操り顕現せしめた物は剣の形をしている。だが、剣の形を成しているだけで、触れた物体を切り裂く刃が存在しないのだ。
どういう事かというと。
少年の手に握られている武器は、周囲に展開している氷雪種が身に纏っている鱗で包み込まれているのだ。使用の用途としては、相手を殴打するのに適している『棍』のように見える。
しかし、カナデは相手の武器を断定しない。霧が作り出す武器は、時に予想を超えた物を形作る時があるからだ。
例えば、カナデが扱う氷の大鎌は不思議と手に馴染んでくれるために苦に感じる事はない。としても、実用的とは言い難い武器であろう。ならば、彼が棍を扱う可能性もあるし、またはその他の予想も出来ないような武器である可能性もあるのだ。
ゆえに見た目だけで判断して、不覚を取る訳にはいかない。
「アリシア、降りるぞ」
未知なる相手を前にしても冷静さを失っていない事に安堵したカナデは、恐怖のために震え上がりそうな背を温めてくれる人に声を掛ける。
このままの勢いを維持して突撃してもいいが、相手の力が未知数である以上は正面から激突するのは自殺行為だと判断したのだ。
「分かってる。行くよ、カナデ!」
すると、アリシアはその程度の事は可能性の一つとして考えていたらしく。
あっさりと馬の背から飛び降りて、着地すると共に前方へと駆け出していた。その動きには一切の無駄がなく、隊長と呼ばれるだけの実力を改めて思い知らされる。
しかし、いつまでも呆然としている訳にはいかないカナデは氷装具の力を借りて、馬の背を蹴って跳躍。一瞬の間で開いてしまった距離を縮める事に成功したカナデは、確かな怒りを含んだ瞳を右隣へと差し向けた。
カナデを戦わせないために自ら危険な場所へと先行しようとする彼女に怒りを覚えたのだ。それはアリシアなりの『愛情表現』なのかもしれないのだが。
それでも、カナデは共に戦場を駆けて、共に戦いたいと思う。いや、そうあるべきだ。
「……ごめん」
どうやら視線だけで、何を思っているのか分かったらしいアリシアは彼女らしくないか細い声を絞り出した。そんな彼女はどこか痛々しく思ったカナデは、これ以上怒る事は出来なくて。
「いい。でも、また同じ事をしたら……許さない」
彼女の横顔を見つめていた視線を、再び前方へと戻す。
馬から降りた事で、速度を失った二人と件の彼が立ち尽くす距離はすでに十メートル。
ボウガンや、グシオン連合国との戦争の際にこの身に受けた小銃が存在するならば脅威となる距離だが、相手は近接武器が主体だ。
ならば、クロエの援護がある内に懐に入るのが得策。
素早く判断したカナデは地を鋭く蹴ると共に、視線を上空へと差し向ける。
視線を向けた先には確認するまでもなく、クロエが放つ氷弾の雨が地へと降り注いでいる最中だ。汚染者の力の発端でもある『氷結の歌姫』の力を借りているだけはあって、クロエの展開する攻勢に隙はなく、この力と真っ向から衝突したならば万を超える軍勢でも甚大な被害を受ける事だろう。
それを証明するかのように、千の銃口は今も増え続ける氷雪種の群れを着実に減らし、見事に足止めしているように見える。
(――行ける!)
数の脅威が薄れたならば、少年と対峙し目的を問う事も可能。
そう判断したカナデは展開した氷装具の柄を強く握り締めて、さらに速度を上げていく。当然ではあるが、共に戦うアリシアには視線だけの合図を送る事を忘れない。
次の瞬間。
一秒にも満たない刹那の時間に合わさったのは二人の瞳。伝え合ったのは確かな信頼だった。アリシアは先行するカナデを信じて、カナデは自身の背をアリシアが守ってくれると信じて。二人の間には、もはや言葉は不要で。
「――何が目的だ!」
カナデは自身が成すべき事を、愚直なまでにやりきるだけだ。
「目的? そうだね、君達の敵になる事かな?」
対する少年は、両手に握った棍のような武器を重そうに持ち上げてみせた。
武器を手にして、敵となると宣言した少年。
だが、彼の端正な容姿と覇気を感じさせない構えは、戦う気があるのかどうか逆に問いたくなる。しかし、疑問に思う事が出来たのは、そこまでだった。
「――カナデ、来るよ!」
なぜかといえば、突如としてアリシアが警告を発したからだ。
おそらく、その警告が無ければカナデは彼が握っている武器によって粉々に破砕されていただろう。破砕と表現したが、何も大げさに言っている訳ではない。
ほぼ反射的に右側へと身を捻る事で事なきを得たカナデではあるが、空を切った凶器は止まる事を知らずに地へと力任せに叩きつけられる。その結果は、ただ地を窪ませるだけではなく、見事に抉り取られてしまった。
これは仮定の話だが、振り下ろされる棍をその身で受けたならば、胸骨を砕かれただけでは終わらず、両膝を砕かれていた事だろう。否、その程度で済めば軽傷の部類に入るような重い一撃であるように思う。
「アリシア!」
どうにか回避というよりも退避が間に合ったカナデは、即座に後方を駆けていた大切な人の名を呼ぶ。よもや直撃したなどという事はないだろうが、飛び散った岩などで負傷している可能性は十分にある。
しかし、そう考えてしまう事は彼女にとって失礼であったらしく――
「大丈夫。畳み掛けるよ!」
アリシアは手にした槍で飛散した細かな岩を弾き飛ばすと共に、鋭い一歩を踏み込んでいた。この動きは、目標である彼へと真っ直ぐに槍を突き出すつもりだろう。
槍という武器は突くか、柄で殴打するか。はたまた接近しての体術に持ち込むか。それくらいしか選択肢は存在しない。その中でも最も威力が高く、それでいて速度のある攻撃手段を選んだのは、彼がどこまで出来るのかを確かめるためか。
(……側面からの一閃か。一歩、踏み込むか)
ストレインの中では他の追従を許さない槍使いの一突き。
まさか外すとは思ってはいないが、相手は人外の存在だ。汚染者と同じで、人の身では不可能な動きをする可能性は十分にあり得る。
ならば、相手が避けると考えて動く方が正解だろう。素早く結論付けたカナデは、浮かんだ選択肢の内で後者を選ぶ。
つまりは、彼の左手側に位置するカナデは、即座に横薙ぎの一閃を放つのではなくて、距離を詰める事で圧力をかけたのだ。
だが、圧力を受け止めた少年は怯むどころか、知人に会った時に浮かべるような柔らかい笑顔を浮かべるだけだった。
「冷静だね。でも、捉えられないよ」
それだけでなく、どこか楽しげに語る少年。
その様はどこまでも余裕で、ここが戦場である事を忘れてしまいそうになる。
しかし、ここは一瞬の油断が命取りとなる戦いの場だ。相手が力を抜いてくれればくれる程にカナデ達は有利となり、展開される戦いも早くに終わる。
実際はそうである筈だった。だが、この冷たき世界は、そう単純には出来ていないようで。少年は軽やかな動きで、アリシアが突き出した槍を避けて見せる。
そして、距離を詰めたカナデを失笑するかのように、その身を漆黒の霧へと変えていく。当然ではあるが、舞う霧を氷装具で切り裂いただけでは彼の存在を消し去る事は叶わない。むしろ、その行動は相手の懐へと飛び込んでしまうようなものだ。
どうやら捉えられないと語ったのは、この能力があるが故だろう。この能力を初めて目の当たりにしたのならば、対策を講じる間もないだろう。
だが、能力の大半を理解している者であれば、対抗出来る手段の一つや二つは思い浮かぶものだ。
「――いつまでも神を気取っていられると思うな!」
その対抗策を神に近しい力を持った者にぶつけるために、カナデは即座に左手をナイフホルダーへと伸ばす。革の手袋越しに掴んだナイフへと際限なく伝えるのは、彼と対抗出来る力。全てを凍てつかせる禁忌の力だった。
その瞬間。相手は霧になっているために定かではないが、一度蠢く霧が動揺するように揺れたような気がした。もしかすれば気のせいなのかもしれないが、カナデは自身の脳裏に浮かんだ手段が間違っていないのだと確信する。
ならば、やるべき事はただ一つ。
一秒の時間すら惜しいカナデは、即座に力を吸い込んで凍りついたナイフを下投げで投擲する。一投目、二投目、三投目。
続けざまに寒空を切り裂いていく氷のナイフ。
ナイフが突き刺さったのは、蠢く霧が漂う場所の付近。まず一投目は霧の左右を挟むように地を抉って氷壁を展開する。続く二投目は前後。そして、最後は霧の前方に展開した氷壁に突き刺さり、その勢いを借りて、霧の前後を挟む壁を易々と突き破ってみせた。
前後左右。そして、上空をも透き通った檻で囲まれた霧にはもはや逃げ道はないだろう。他の物体であれば通り抜ける事など平然とやってのけるのかもしれないが、形成せしめた檻は彼と同じ力を元とする物。
確信はないけれども有効だと信じたカナデは、一つ深呼吸をする事で意識を集中させる。閉じ込めた相手を倒す事は叶わずとも、最悪は戦闘不能な状態にまで追い込むために。
「なるほど。確かにこれは有効だね。どうやらボクは君を甘くみていたみたいだ」
対する少年は、閉じ込められているという事実すら楽しんでいるようで、視認せずとも笑っていると分かる。挑発している事は分かるが、ここで相手の思惑に乗る訳にはいかない。
「お前の目的は何だ?」
ゆえに、心を氷のように凍てつかせたカナデは、飛び出しそうになる体を必死に抑えて彼へと訊いた。ここで彼に刃を向ける事は知性のない生き物でも出来る。
だが、カナデは対話する事で道を切り開こうとする女王の代行者。身動きを封じてから声を掛けるのは遅すぎるのかもしれないが、こうでもしなければ対話など成り立ちはしないだろう。
と言っても、問いを投げた所で答えが返ってくるのかは分からないのだが。
しかし、その懸念は件の少年によって、即座に霧散する。
「目的かい? 簡単に言うなら……ドレスティンと協力して、君達を滅ぼす事かな」
問いを受けた少年はまるで問われる事を待ち望んでいたかのように、さらりと答えてくれたからだ。正直な事を言うならば、気軽さすら感じさせる彼の態度と言葉の内容が噛み合わずに戸惑ってしまう程だった。
(……滅ぼす? なぜ、グシオンの王と共闘している?)
戸惑いを解決するために、カナデは心中で考えを整理していく。
だが、どう考えても彼がただの一国に協力する理由が分からない。
「分からない? ドレスティンが勝ったとしてら……この大陸は統一される。そして、君達が勝っても平和になるだろうね。氷雪種の総意者たるボクは叶うならば後者を望むよ」
どうやらカナデが答えに辿り着けないだろうと予想していた彼は、間を置かずに言葉を紡ぐ。しかし、さらなる情報を得たとしても、分からないものは分からない。
大陸一の軍事力を誇るグシオン連合国が聖王国を破れば確かに大陸は統一される。また、その逆に聖王国がグシオン連合国を破れば、他に対立する国は存在しない。
そこまでは誰でも分かる事だ。
では、何が分からないのかと言えば。それは聖王国と対立する道を選んだ彼自身が敗北を望んでいる事である。聖王国の勝利を、女王イリフィリア・ストレインが望む『和平』の道が叶う事を望んでくれるというならば、なぜ力を貸してくれないのだろうか。
その理由がどうしても理解出来ない。
一度、氷の檻に隙なく槍を向けているアリシアに視線を向けたが、彼女は銀色の髪を左右へと振るのみ。どうやら理解出来ないのはカナデだけではないらしい。
「共に歩む事は出来ないのか?」
ならば、しつこいと思われようとも再び彼へと問う他に道はないと思ったカナデは、浮かんだ言葉をそのまま伝える。真摯な言葉には真っ直ぐ答えてくれると信じて。
「出来ないね。ボクにはボクの役目がある。ボクが演じるのは一つの役さ。その役を演じきるまでは……消される訳にはいかない」
だが、彼はカナデの想いを平然と受け流す。
それだけでなく、自らの意思を明確に示すために氷の檻を内側から叩いているようだった。いや、叩いているなどという生易しい言葉では済まない。
まるで何かが破裂しているかのような衝撃が内側から発せられているような気がするのだ。さすがに内側をはっきりと覗く事が出来ないために、彼が何をしているのかは判別出来ない。それでも、彼を閉じ込めている檻は、数秒後には破壊されてしまうだろう。
(……仕方がないか)
対話する事も、共に歩む事も出来ないならば戦う他にない。
諦める事はしたくはないけれども、今は振りかかる火の粉を払う事が先決だろう。そう心中で決意したカナデは一息で跳躍。狙いはもちろん檻に閉じ込められている少年だ。
致命傷を与える事は十分に可能だと判断したカナデは、全ての力を氷装具へと込めて迷いなく振り下ろす。
「そう。それでいいんだよ。でも、まだ終われないんだ。ボクは君達にとって、強者でなくてはならない」
しかし、少年は演劇の舞台で決められた台詞を述べるかのような口調で言葉を返し、次の瞬間には『氷雪種の総意者』と名乗るに相応しい力を見せつけてきた。
解放された力は彼が語るように強者たる力。特にカナデやクロエのように彼らと同等の力を身に宿している者にとっては何があっても逆らえないような絶対者たる力だった。
当然、神にも等しい力に抗う術を知らないカナデは、今の時代よりも百年、二百年も前に行われた処刑の際に上がるような、苦しみに満ちた断末魔の叫び声を上げる。
叫びの正体は、一言で説明するならば内側にある力が暴れたと言うべきだろうか。今の今まで制御下にあった氷雪種の力が突如としてカナデへと牙を向いたのだ。
そう。
まるで従うべき主の命を聞いて、倒すべき者を八つ裂きにするかのように。八つ裂きという言葉は比喩表現ではない。事実カナデの両腕、両足、はたまた腹部に至る全ての場所で、氷柱に似た刃が肉を突き破って外側へと飛び出しているのだから。
もはや意識を保っている事ですら奇跡に等しい程の重傷を負ったカナデは、大鎌を振り下ろす所か地へと着地する事も叶わない。気づいた時には倒れ込むように氷結花が咲き誇る平原へと身を委ねていた。
「カナデ! どうしたの!」
突如として倒れたカナデに掛け寄ったのはアリシア。
おおよその事態は近くで見ていた彼女であれば予想出来た事だろう。それでも、ただ叫ぶ事しか出来なかったのは、頭が現状に追いついていないのだろう。
しかし、心配してくれるアリシアへと言葉を返す気力はすでにない。普段であれば仮に負傷したとしても、傷を凍てつかせる事で出血を防ぐ事が出来るカナデではあるが、今は内なる力に頼る事は恐ろしい。
「懸命だね。今は力を使わない方がいい。その力の根源は……ボクである事を忘れないことだね。さすがに歌姫の力に頼っている彼女には無効らしいけれど。さあ、ボクの力に頼らないで……君達はこの軍勢にどう抗う? どうやって、ボクを止める?」
カナデが形成した氷の檻すらも制御下においた少年は、いつの間にか檻を破壊せしめたようで、重力を無視するかのように浮き上がっていた。
どうも彼が望む答えに誘導しているようにも思えてしまうのは気のせいだろうか。いや、彼は明らかに皆の心を導いている。だが、辿り着く答えを否定する理由はない。
その答えは人がいつか辿り着かなければならない境地であるのだから。ならば、胸を張って、答えをぶつけておくのもいいと思ったカナデはゆっくりと口を開く。
だが、代わりに答えを紡いだのは意外な人物だった。
「――氷雪種の総意者。あなたが人類共通の敵を演じるというのならば……私は討たせていただく。この場にいる全ての者が持っている力を集めて。それが望みだろう?」
答えを紡いだのは、女性にしては低い声を発する少女。
元はクエリア神国を統べていた、真紅の甲冑に身を包んだ『血染めの舞姫』だった。
「そうだね。ボクは人類の敵となる道を選ぶ。君達ならば全ての力を統合させて……ボクを討てるよ。それが叶わないならば……さらなる強者が大陸を統一すべきだね」
どこまでも涼やかな舞姫に対して、少年は変わらぬ調子で敗者となる事を望む。この大陸に住まう者全てが力を統合させる事の意味を知って、争う事など愚かしい事だと分からせるために。
ただそのためだけに彼は討たれる事を望む。それが彼の歩みたいと願う道らしい。ある意味では、彼は女王イリフィリアと氷結の歌姫が歩んできた道を肯定してくれたのだろう。
ならば、カナデが伝えるべき言葉は一つだ。
「お前も……この世界の住民だ。私はお前を救いに行く。女王の代行者としてな」
対話する事で分かり合いたいと願う女王ならば、彼を見捨てたりはしない。
カナデの心に光を届けてくれたように、彼の心にも光を燈してくれる事だろう。だが、それはイリスの役目ではなくて、戦場で彼女が成すべき事を成す代行者がやるべき事だ。
ゆえに、カナデは痛む体を強引に立ち上がらせる。しっかりとこの地へと足を付けて、想いを伝えるために。
「そんな状況で出来るのかい? ボクと対等に戦えるのは、歌姫と舞姫だけだ。君は世界を救う英雄――イリフィリア・ストレインに認められたくらいで、自身を特別な存在だと思ってはいないかい?」
そんなカナデに届けられたのは呆れを含んだ溜息。
確かに彼が言う様にカナデは特別な力を持っている訳でも、歴史に名を残すような英雄でもない。英雄の影で戦い続ける一般人でしかないのだ。
それでも、イリスはカナデを救ってくれた。そして、優しく包んでくれたのだ。
伝えてくれた想いだけは本物で、この温かさを伝える事が出来れば彼の心にも光を燈せるのだと信じたい。だからこそ、カナデは血にまみれた体を一歩進ませる。
刻まれた確かな一歩は言葉で表現出来ない力となって、少年に抗う術を持った少女の心を揺らしていく。
「出来るさ。いや、私が叶えてみせよう。力だけでは……人は救えない。それを教えてくれた人の想いに応えるためにも。構わないか、セリエ?」
その少女――血染めの舞姫は一度自身の内で眠る少女へと声を掛けて、全身から真紅の霧を噴出させた。
(……霧が)
どうやら同意を得られたようで、噴出した霧は一歩を刻み込んだカナデを抱きしめるように包み込んでくれた。カナデの同意があれば、この霧は確かな力となって支えてくれるだろう。
「行こう……彼を止めるために」
当然、迷う必要はないカナデは、さらなる一歩を刻み込む。
それと同時に身を掠めた霧は、カナデの身へと溶け込んでいく。
――刹那。
内側で暴れていた力は従うべき者を思い出したかのように大人しくなり、加えて、新たな力がカナデの中で溢れ続ける。自身の意思では止める事は叶わない力というものは総じて恐ろしいものだが、今は人では決して制御出来ない程の力が頼もしい。
そんなカナデは、もしかすれば力に酔っているのかもしれない。しかし、今はこの力に頼る他に信じる道を歩む事は出来ないのだ。
「この力――意志を貫くための力として使わせてもらう」
ならば、迷わず力を受け入れるべきだろう。
一つの決意は力を解き放つ合図となって。
身へと溶けた霧は邪魔な物を。今回の場合で言えば、全身から突き出た氷の柱を破砕せしめる。と同時にカナデを覆い尽くしたのは真紅の軽装。汚染者となってからは着る事を拒んでいた騎士の正装とも言うべき防具が、カナデを覆い尽くしてくれたのだ。
血染めの舞姫を受け入れたのだから、彼女の個性とも言うべき騎士姿になるのは容易に想像出来る。しかし、カナデを包んでくれた軽装は彼女なりの気遣いなのではないだろうか。自身の力を呪って国に馴染めなかったカナデ。ゆえに、軽々しく正装をする事は無く、まるで影に隠れるように漆黒のローブを身に纏っていた。
だが、今のカナデは違う。確かにイリスのためというのはある。それが一番の理由ではあるけれども、カナデには守りたい人がいて、貫きたい想いがあるのだ。
ならば、騎士らしい服装で、己を貫くべきだと言ってくれているような気がする。おそらく、「正装をしろ」と言われただけならば今まで通りに拒んでいたと思う。
しかし、こうして強制的に装着されてしまえば断り様もない。
「――すまない」
考えていた事は正しいかどうかは分からない。それでも、正解であるならば感謝すべきだと思ったカナデは短く礼を述べる。当然ではあるけれども、内に溶け込んだ舞姫からの言葉は返ってこないと分かっていても。
「そうまでして……表舞台に上がってくるか。さすがに予想はしていなかったよ。まあ、いいさ。君がどんな力を得たとしても変わらない。君がボクを討つだけの事さ」
やはりと言うべきか。
舞姫の言葉は聞こえずに、代わりに応えてくれたのは少年だった。
だが、彼の言葉はそれが最後となってしまう。ここでの役目を終えた彼が突如として、その身を周囲に展開している氷雪種共々、細かな霧へと霧散させたからだ。
彼の目的は圧倒的な力を見せつけて、それぞれの国の力を統合させる事。
そのためには脅威を伝える者と、自身を討ち取ってくれる存在を消す訳にはいかないのだろう。ある意味では見逃されたと言ってもいい状況である。
しかし、今はそれでもいいとカナデは思う。
現状では彼を説得出来る手札は存在せず、数日の間もなく攻め寄せてくるグシオン連合国と漆黒の霧を纏いし少年に対抗する策も用意しなければならないのだから。
「戻ろう。今は時間が惜しい」
素早く判断したカナデは、皆を代表して成すべき事を述べる。
当然ではあるが、その言葉に異を唱える者はおらず。皆は浮かない表情を浮かべながらも南の方角へと進路を変更したのだった。




