前編 (一)
前編 平穏な日々と、戦いの兆し
「これは『可愛い』という言葉しか出てこないな」
時刻は昼過ぎ。
城塞都市シェリティアの南東に位置する、とある一軒家に響いたのはカナデの優しげな呟きだった。何が『可愛い』のかと言えば。それはカナデの腕の中にすっぽりと納まった小さき存在だ。
――小さき存在。
愛らしいぬいぐるみや人形。想像すれば幾らか浮かんでくるのかもしれないが、今回腕に抱いているのは確かな生命だ。それも動物の子ではなくて、人の子だ。
手袋越しでも分かる程に柔らかい頬をふっくらと膨らませ、微かな寝息を立てている愛らしい存在。この存在を目にして『可愛い』という言葉以外を口に出せる者など、そうはいないとカナデは思う。
それも友人の子供ならば、なおの事。
「だよね。髪も瞳もイリスに似ているから……将来は美人になるね」
頬を終始緩みっぱなしのカナデを肯定してくれたのは、アリシア。
カナデの右手側に身を寄せるようにして覗き込んでいる彼女は、同じように頬を緩めて友の子を眺めているようだった。その眼差しはどこまでも優しくて、カナデが腕に抱いている存在が立派な王へと成長する姿を思い浮かべているようだ。
この子が王となる姿をカナデは見る事は叶わないが、自身の運命を変えてくれた人の子を腕に抱く事が出来た事は嬉しくて堪らない。
「きっと美人になるさ。この子には戦争という名の悲劇を体験させたくはないものだな」
だからなのか。
どうしてもこの子には甘くなってしまう。仮にこの大陸を統一しても、どこかで反乱が起きれば戦争は容易に起きてしまう。はたまた他の大陸から兵が押し寄せてくる事もあるだろう。そう考えれば、戦争を体験する可能性の方が高いのは明らかだ。
だとしても、人々の希望となり得る、この小さき存在には血を見せたくないと思ってしまう。そんなカナデは甘いのかもしれない。
いずれ戦争を体験するならば早くに体験して、慣れてしまった方がいいと思う者も当然いるからだ。そんな彼らの気持ちも分からなくはない。
だが、理解は出来ても頷く事が出来ない事もある。
「私達で終わらせよう。北のグシオン連合国と和解出来れば……もう戦いは終わるんだから」
その考えは触れ合う事で、全てを伝え合った少女には筒抜けのようで。
今まで頬を緩ませていたアリシアは表情を引き締めて、彼女にしては珍しい固い声でカナデの考えを肯定してくれた。
「グシオン連合国か。どうにか撃退する事が出来たが……次は全面戦争になるのだろうな。だが、これで最後だというのであれば……私の命を懸ける意味はある」
他の誰よりも理解して欲しい人の肯定を受け取ったカナデは一つ頷いて、一年という長きに渡る平穏な時間によって緩んだ心を引き締めていく。
なぜ引き締めたのかというと、単に残りの寿命が僅かだからだ。おそらく氷装具を使わなくても、残り一ヶ月か二ヶ月でカナデは天命を全うしてしまうだろう。
だが、その一生に悔いはない。むしろ『幸せだった』と、心から述べる事が出来る。それ程までにアリシアと共に過ごした一年の時間は満ち足りていた。
失われてしまうものではあるが、満喫した至福の時を否定する事など出来はしないのだ。
ならば、残りの一生を全力で生きるのみ。そして、その全力を向けるのは、先ほど話題に登場した強国に対してだ。
グシオン連合国を撃退して一年。
当然ではあるが、強国は残った兵を再編成して、聖王国ストレインに攻め入る準備を着々と進めている。
国内へと潜り込ませている者の報告では、約三万を超える兵をストレインへと派遣する案がすでに可決されており、いつ戦争が起きてもおかしくはない。
作物がまるで実らないと言われる極寒の地に住む者達。
時間を要すれば、要する程に蓄えた食料を浪費してしまう事を考えれば、明日にでも攻め入りたいと思うのは自然だろう。
だが、そう簡単に物事は進まない。ストレインの東に位置する新生フィーメア神国はすでに隣国であるクエリア神国との統合を終えているからだ。つまりは、グシオン連合国はフィーメア神国に対しても何らかの防御策を用意する必要があるという事。
それにも関わらず、グシオン連合国は全兵力をストレインへと差し向けようとしている。自国を守る気などさらさらないと述べるかのように。
その様は思い切りがいいと言うよりも、不気味だろうか。
しかし、その不気味さを晴らす『何か』をカナデは求めているが、どれだけ考えても分からないというのが正直な所だ。
それは女王イリフィリア・ストレインも同じのようで。
今この時でさえ、聖王国ルストの王シュバルツとフィーメア神国の教皇を呼んで対策を練っている最中だ。
その結果によって、隊長であるアリシアと女王の代行者たるカナデにも指示が出る事だろう。
「最後の戦か。本当は止めたいけど……止めないよ。最後まであなたらしく戦ってほしいから」
同じように指示待ちのアリシアは身を寄せるだけでなく、カナデの肩へと自身の額を預けてくれた。その様は別れを惜しんでいるのか、触れた温もりを忘れないようにしているのか。
おそらく両方だろうと判断したカナデは腕に抱いた存在を優しく見つめたまま、彼女が望むようにさせてあげる事にする。
そうして、腕に収まった温もりと、愛しい人の温もりに包まれて数十分。
この至福の時間は永遠に続くと思い始めた時に。
「――カナデ、いる?」
左手側に見える木製のドアから控え目なノックの音と共に、聞き覚えがある声が聞こえた。
「――ああ。鍵は掛けていないから、入ってくれ」
知り合いであれば拒む理由はないカナデは、顔だけをドアへと向ける。
すると、間を置かずにドアが外側に開くと。
「久しぶり、カナデ。あ……取り込み中だった?」
絹糸を思わせる金色の髪が特徴的な少女が身を寄せ合う二人を見て、苦笑いを浮かべた。すでにカナデとアリシアが同棲という関係を超越して、結婚した事は知っている彼女ではあるが、さすがにまだ見慣れないらしい。
「構わない。何か用か、カイト……いや、今はクロエだったか」
そんな知人に恥ずかしそうに頬を赤らめて、カナデは返す。
友であるクロエが見慣れないのと同じで、カナデも二人の関係を公にするのは慣れていないという事だ。相手であるアリシアは気にした様子もなく、むしろ広めたくて仕方がないみたいなのだが。
しかし、それはクロエの用事には関係ない事で。
「どっちで呼んでくれても構わないよ。名前を変えたのは、僕の事情だからね。えっと……用事だったね。単刀直入に言うけど、一緒に来てほしいんだ」
クロエは間を置かずに、ここを訪れた目的を述べた。
だが、あまりにも簡潔過ぎるためか。
カナデは小首を傾げる他にない。友人の頼みであれば、可能な事であるならば協力はしたいと思う。とは言っても、何をすればいいのか分からなければ動きようもないというのも事実だ。
しかし、彼女の服装。
肌に合ったウェアに、動きやすさを重視したズボン。そして、彼女が長を務める組織を説明する灰色のロングコート姿というのは、外に出るのに適しているように思う。
「一緒というのは……外に?」
正解かどうかは不明だが、とりあえずは確認をするカナデ。
「そうだね。僕とソフィ。それとカナデで偵察に行くよ。目的地はジグド平原……そこにグシオン連合国が強気に攻め込める理由があると思うんだ」
すると、隠す必要がないクロエは頷いて肯定の意思を示した。
ジグド平原。
元は祖国ロスティアが存在した地に今回の不気味さの正体がある。それを明らかにするのが、今回選ばれた者達という事か。
「この人選は……氷雪種関係なのか?」
「うん。北に偵察に行った部隊が帰ってこないんだ。おそらく何らかに襲撃されて、全滅していると思う。それも死体を残さずに、ね。こんな事が出来るのは氷雪種だけだと思うんだ。でも、氷雪種を形成出来るのは、現状ではソフィだけなんだよね。でも、ソフィが言うには、そう断定するのは危険だって」
やはり汚染者二人に『氷結の歌姫』という編成は、氷雪種に対抗するためらしい。
だが、不可解な事もある。それはカイトが述べたように氷雪種を形成出来る存在として把握されているのは歌姫だけだからだ。だとしても、その歌姫が断定するのは危険だと述べる以上は、何か他に氷雪種を生み出せる者がいるのだろう。
例えば『血染めの舞姫』のような、歌姫に近いけれども違う何かが。その何かが氷雪種を生み出して、人を襲っている。言葉にすれば何事もないように思う。
だが、一国すら片手間で滅ぼす事が出来る氷雪種の強さを目の当たりにしているカナデからすれば恐怖以外の何ものでもない。
「ならば、確認する必要があるな」
自身の中で考えが整理出来たカナデは自然と頷いていた。
頷いてみせたのは、当然ではあるがクロエの案を受け入れた事を意味する。本来であれば、イリスの許可が必要なのだが、事は急を要するような気がするのだ。
三万の軍勢に混じって、氷雪種とも戦うとなれば状況は最悪と言ってもいい。それを未然に防ぐ事が出来るか、または確実な情報として国内に伝える事が出来れば手の打ちようもある。
そう。
例えば、聖王国ストレインとルストだけでなく、フィーメア神国とリシェス共和国にも協力を要請する事も可能だろう。ストレインが滅べば、次は自分達が狙われる。冷静に考えれば、断る理由など存在しないだろう。
「ありがとう、カナデ。汚染者で頼める人が少なくて……困っていたんだ」
それでもクロエは断られる事も想定していたのか、承諾したカナデを見て、ほっと一息ついているようだった。傭兵団の団長となった事で変わったかと思ったが、結局クロエはクロエのままらしい。
その事実に安心したカナデは、柔らかい笑顔を彼女に向ける。
笑顔を受け取ってくれたクロエは、澄んだ水を思わせる青い瞳をしばし重ねてくれた。
――一秒、二秒。
変わらない確かな友情を確認し合う、クロエとカナデ。
「カナデ、浮気は駄目だよ!」
このまましばし見つめ合うのかと思っていたが、突如背に衝撃が走る。いつの間にか背後へと回り込んでいた想い人がカナデを抱きしめたらしい。
どうやらクロエとの友情に対して嫉妬してくれたようだ。
「大丈夫だ。クロエにはソフィという大切な人がいるんだから」
対するカナデは、苦笑して彼女の抱擁を背で受け止める。
その瞬間にアリシアが両腕の力を強めたのは喜びなのか、不安なのか。お互いに相手を愛していても分からない事もあって、彼女が何を考えているのかは今のカナデには分からない。
「そうだね。僕にはソフィがいるから……彼女の事で頭が一杯なんだ。歌姫と一緒になってからは無茶ばかりするから、特にね」
そんな二人を見かねたクロエは大切な人を思い浮かべながらも、恥ずかしそうに頬を赤らめた。赤らみを増した頬は、時には言葉で伝えるよりも確かな説得力を発揮する。
「これは……私と同類だね。少し安心したよ。でも、やっぱり心配だから、付いてく」
どうやら納得したらしいアリシアは、抱擁を解いて一歩下がる。
しかし、やはりというべきか彼女も付いて来るようだった。彼女が述べた「心配だから」というのは、氷雪種と戦う事でカナデが命を落とす事を恐れているのだろう。
彼女にとってカナデはか弱き存在で、守るべき対象と認識されている事はすでに知っている。それは騎士としては屈辱的だが、同時に大切にされていると感じる事が出来るのは嬉しくもある。特に後者の方が大きいカナデは、彼女の提案を拒む事は出来なくて。
「氷雪種の霧は私が防ぐ。その際は絶対に離れるな」
一つの条件をアリシアへと提示する。
単純な強さだけでは防ぐ事が出来ない全てを死へと誘う氷雪種の霧。カナデの身にも同等の力が備わっているのだが、やはり人ならざるものが放つ霧は汚染者であっても恐ろしい。いや、汚染者だからこそ恐ろしいのだ。
特に戦場で、ただ一人生き残ってしまったカナデは、あの蠢く霧が怖くて仕方がない。
「うん。カナデが守ってくれるなら……平気だよ。それ以外の脅威は全て私の槍で追い払うから。大丈夫、私は死なないよ」
おそらくカナデが恐怖で震えている事が分かったのだろう。
アリシアは努めて明るい口調で、カナデの背に必要な言葉を届けてくれた。大切な人が『死なない』と言ってくれる。ただそれだけの事なのだが、カナデの心は浮き上がったように軽くなったような気がした。
おそらく気持ちの問題で、実際は浮き上がってなどはいない。それでも、そう錯覚する程に気持ちが楽になるというのだから不思議だ。それだけカナデにとって、アリシアは必要不可欠な存在なのだろう。
「死なせるものか。アリシアには……まだ伝えたい事がたくさんあるんだからな」
確かな想いを胸に刻んだカナデは、内なる熱い気持ちを彼女に伝えるために振り返る。
その瞬間に重なったのは、確かな意志が込められた漆黒の瞳と、湿った蒼い瞳。
「うん。ちゃんと聞くから……戻ってこようね」
感情を隠す事が出来ないアリシアは、大きな瞳から温かな気持ちを零す。
手袋越しに触れても確かな熱さを感じるのは喜びの気持ちが込められた涙だからだろう。それが嬉しくて仕方がないカナデは、そっと彼女の細い背に右腕を回す。
カナデとアリシアに挟まれた事で、腕に抱いた小さな命が一度呻き声を上げたが、今はこの温もりを放したくはないと思ってしまう。
そして、ただ一人放置されたクロエは――
「うーん。新婚さんだから仕方ないけど……僕の事を忘れないでね」
青い瞳を細めて、優しく見守ってくれたのだった。




