エピローグ
エピローグ
カルティシオン大陸の全人口の約半数近くの者が戦場を駆け巡った、確実に歴史書に残るだろう激戦が終わってから一週間が経過し、無事に家族の元に帰れた者も、傷ついた者も等しく戦いの日々を過去の事だと思い始めた頃。
城塞都市シェリティアの住宅街に存在する、とある一軒家にて。
「……元通りとはいかないな」
漆黒のローブ越しに、そっと自身の胸に手を当てたのはカナデだった。
何が元通りにいかないのかと問われたならば、それは自身の弱い心だ。イリフィリア・ストレインの代行者として戦場を駆け、そして、彼女の代わりに守らなければならない人がいた。
しかし、カナデは救う事が出来なかったのだ。理由は至極簡単で、無理の蓄積が足枷となって、自身の体を縛り付けたのである。その事実が情けなくて、悔しくて。
一週間が経ったというのに、カナデの心は晴れる所か、日を経る度に暗くなっているような気がする。
そう。
まるでイリスと出会う前の心を閉ざしていた時に戻ってしまったかのような錯覚すら覚える程に。
「ゼイガンの事は悲しいけれど……悔やむ事はないと思うよ。イリスも心配してる」
そんなカナデの背中を毎日眺めているのは、同居人のアリシア。
カナデが元気になるまでは外には出ないと言い張っている彼女は、常にベッドへと腰を降ろして、時には温かい眼差しを向け、時には今回のように優しさを届けてくれる。
その優しさがあるからこそ、カナデは自暴自棄になる事無く、平静でいられるのかもしれない。だが、とてもではないが彼女の言葉を受け取る訳にはいかないのも事実だ。
「イリスには合わす顔がないな。だが、報告にいかないというのはな……」
だからこそ、カナデの主君でもある王へと報告出来ないままとなっている。
当然ではあるが、イリスはゼイガンが戦死した事も、救援に向かったカナデが動けなくなった事も知っているだろう。ならば、何も言う必要はないのではないか。
そう思うのかもしれないが、臣下というものは自身の失敗も、口にする事を躊躇うような事も正しく報告する勤めがある。
そういう意味では、今のカナデは騎士としては失格だろう。特に礼節を重んじるロスティアの騎士らしくないのは誰の目にも明らかだ。それは同じ騎士であるアリシアには説明せずとも伝わっているようで。
「分かっているなら……行動あるのみかな。それに、イリスなら大丈夫だよ」
彼女は急にベッドから腰を浮かせると、座りもせずに立ち尽くしているカナデの後方へと立った。おそらくカナデの背を押してでも、女王の元へと向かわせるつもりだろう。
「なぜ、そう言い切れる?」
断った所でアリシアが動き出してしまえば、もう止められない事は誰よりも理解しているカナデは、溜息を吐くと共に気になった事だけを確認する。
なぜ確認したのかと言えば、カナデはイリスが何を思っているのか分からないからだ。怒っているのか、呆れているのか。それとも隊長ですらないカナデの事など気にもしていないのか。たった一週間会わないだけで、心を通わせていた相手の心が分からなくなるというのだから、不思議なものだ。
「王座に座っている事を嫌う王様が……一人の臣下の報告を受け取るために、一週間王座に座っているみたいだよ」
すると、そんなカナデを見かねたのか。
アリシアは問いへと答えつつも、どこから出すのか今でも理解出来ない、大岩すら動かせるような力でカナデの背を押していく。ふと気づいた時には、二人の住居と外を隔てるドアの前まで移動させられていた。
「あのイリスが一週間も? 私のために?」
だが、それよりもカナデが気になる事は、彼女の語った内容だ。
何かあれば即座に立ち上がり、王自らが行動する事で臣下を取りまとめてきたイリス。そんな行動派の王が、一週間も自身の歩みを止めているというのだ。
ただ人外の力を扱えるだけで、他に取り柄らしいものが何もない一般人のために。それは騎士という立場で考えるならば、大変に名誉な事だと思う。
しかし、それ以前に彼女によって心を照らされた者としては、言葉では表現出来ないような想いが内側から溢れてくる事が分かる。湧き出す水のように際限なく溢れ出る気持ちは、当然ではあるが心の内だけでは処理出来なくて、気づいた時にはカナデの両肩は喜びで震えていた。
「……もう他に言葉はいらないよね」
その震えを蒼い瞳だけでなく、背に触れた手で感じたアリシアは、導くような言葉を背に届けてくれた。
おそらく、それがカナデの止まっていた時間を再び動かしてくれたのだと思う。
いや、違う。カナデの心は止まっていたのではなくて、ただ逃げていただけだ。この広い世界すら正しく照らす事が出来る、そんな少女の表情を曇らせてしまう事に恐怖していたのである。
「それでは駄目だ。私は……彼女のために前へ進むと決めた」
どれだけ辛くても、命すら代償に捧げても心を照らしてくれた人のために戦い続ける。
そう決めて、ずっと戦い続けてきたのだ。その歩みを止める事は彼女を、そして、共に戦ったゼイガンを裏切る事になってしまう。
それだけは何があっても選んではいけない。そう思うからこそ、カナデは眼前に迫ったドアを力任せに開け放って、溢れんばかりの光を全身に浴びる。
世界を等しく照らす光に似た、温かくて優しい人に会うために。ただそのためだけに、カナデは赤茶色をした硬質な岩が敷き詰められたメイン通路をひたすら北に向けて駆け出したのだった。
*
常日頃から張り詰めた雰囲気が漂うのは、一般の者や他国の使者が王へと謁見を許される場所。特に若くしてグシオン連合国を退けた女王、イリフィリア・ストレインがいる聖王国ストレインの謁見の間は、訪れる者に想像を超える圧力をかける事だろう。
「お初にお目に掛かります。フィーメア神国代表、クロエ・フォン・クレイスターと、ソフィ・ラーバスティンです」
その圧力を全身に感じながらも自身の名を口にしたのは、フィーメア神国からやって来た和平の使者であるカイトだった。とは言っても、現在では『カイト』という偽名を使う事は憚れる。
その理由は今のカイトは傭兵団『シュトゥルム・ステイト』をまとめる団長であり、そして、育て親と言っても過言ではないアールグリフの姓を継いだ者なのだから。
――クロエ・フォン・クレイスター。
ただ本名を使い姓が変わっただけ。しかし、名前に込められた意味を考えれば、易々とその名を口にする事は出来ないだろう。
それだけアールグリフの存在が大きいという訳である。そんな偉大な父の顔に泥を塗る訳にはいかないクロエは、何としても聖王国との『和平』という初任務をこなさなければならない。
しかし、実際は緊張で固まっているのはクロエだけで。
「傭兵団の団長が来ると聞いていたので少々身構えていたが、予想外の組み合わせだな」
女王が座る王座の左側に佇む、礼服を身に纏った壮年の男は苦笑交じりに述べた。
どうやら傭兵団の団長という言葉を聞いて、大柄な男が訪れると思っていたらしい。それが実際は十代前半と半ばの少女二人だというのだから、緊張も解れてしまうのは極自然だろう。
(……ここまでは教皇の想定内だね)
聖王国ストレインの者が想像したような大男を使者として派遣したならば、戦の雰囲気となり、逆に知恵が回る者を送れば警戒される。ならば、和平の使者に適している者はどんな人物か。そう考えた末に教皇が選んだのは、ある程度知恵が回り、そして相手の心を解す容姿をした者だった。
それがクロエとソフィという訳だ。
「セドリック、油断してはいけません。クロエ殿はこう見えても、一つの戦争を止めた人物なのですから」
だが、さすがは『魔女』と呼ぶべきか。女王には教皇の策は通用しないようで、セドリックと呼んだ男の緩んだ心をしっかりと固め直してみせた。
「そうだな。だが、彼女は和平の使者。そう構えすぎる事もなかろう」
「私も臨戦態勢で挑むつもりはないわ。では、クロエ殿……あなた達がストレインに望む事は何ですか?」
しかも、それだけでなく必要であれば、花が咲いたような笑みを浮かべ、包み込むような姿勢も取れるというのだから恐れ入る。厳しさと優しさを兼ね備えた王の姿は国民が理想とする絶対者のように見えて、クロエは自身との器の差に一度身震いする。
いち早く言葉を返さなければならないのだが、震えはいつの間にか口にまで伝わって、上手く言葉を発する事が出来るのかは怪しい所だった。
「……クロエなら出来るよ」
そんなクロエを救ってくれたのは、いつもと同じ真っ白な衣服に身を包んだ幼い少女だった。一年以上もの間各地を彷徨って、戦いを止める事だけを考えていたソフィが、まるで力を分け与えるかのように手を握ってくれたのだ。
その優しさと、手から伝わる温かさを力に変えたクロエは――
「我が国の代表である教皇は……クエリア神国との統合が終わるまで同盟を組みたいと考えています。もちろん同盟を組むにあたって、聖王国側の望みは出来る限り聞くつもりです」
飾らず自分の言葉で、絶対者である王へと用件を伝えていく。
正直な事を言うならば、女王がどう考えて、どう動くのかはまるで想像出来ない。もしかすると教皇はある程度読めているのかもしれないのだが。
――一秒、二秒。
数秒が数十分にも思えるくらいに長く感じられる中で。
「いいでしょう。そもそもフィーメア神国に攻め込むつもりはありません。なので、こちらから望む事は一つもない、というのが答えです。ですが、国が統一された後も同盟関係を続けられる事を切に願います」
ほっそりとした顎に手を置いて、思案顔を作った女王は耳を疑うような事をさらりと述べた。まず驚いたのは「攻め込むつもりはありません」と王自らが手の内を明らかにした事だ。
苦戦の内に何とか追い返したとは言っても、北にはまだ強国が控えているために、表だって戦争する事が出来ない事は分かっている。だが、兵の大半を失い、国と国が統合する中で、混乱する事も多いだろうフィーメア神国を討つ事はあまりにも容易い。
それを放置するという事は考えられないのだ。しかし、この女王は見逃してくれると述べた。それだけではなく共に歩む事を望んでくれたのだ。
「どうして……ですか? こちらとしてはありがたいとは思います。ですが、場合によっては、とても受け入れられないような案を押し付けられると思っていました」
その理由が分からなくて、クロエは女王の深い緑を思わせる瞳を見つめて訊いた。
手の内すら明かしてくれる人ならば、どんな疑問にも正面から向き合ってくれると思ったのだ。
「そうね。冷静に考えれば……今の聖王国の戦力ならばフィーメア神国は容易く攻め落とせます。ですが、それでは意味がないと思っています」
やはりと言うべきか、女王はクロエの青い瞳をしっかりと見つめ返してくれた。だが、その言葉はすぐには心へと沁みる事はなくて。
「意味がない? それはどういう事ですか?」
クロエは気づいた時には一歩を踏み出して、彼女へと再び問いかけていた。
「他国を侵略して、自国の領土にすれば戦いは一時的に終わります。ですが、私が天命を全うした時……侵略された国は内に溜めた怒りの炎を再び燃え上がらせる事でしょう。そうなれば、また戦争が起きてしまうのです。それでは意味などない。だとすれば、私は別の道を探したいと思います。人と人が手を取り合って、戦う事など愚かしい事なのだと分からせたいのです」
問いを受け取った女王は内に浮かんだ想いを隠す事無く、また恥じる事も無く、自らの考えを述べたようだった。
言葉を受け取ったクロエは、今度は自然と言葉が全身へと沁みていくのが分かる。
それもその筈だ。彼女が語った事は、ソフィの考えと同じだったのだから。つまりは、歌姫の代弁者であるクロエも女王と同じ考えを持っているという事だ。
「素晴らしい考えだと思います。僕も人と人が手を取り合える世界を見てみたいです。だからこそ、僕は『氷結の歌姫』と共に進んでいきます。その中でイリフィリア様のような方がいてくれるのは大変心強いです!」
同じ志を持った者に出会えた事が嬉しかったのか、クロエは使者としてではなくて、いつの間にか素の状態で女王へと語り掛けていた。
「同じ考えを持っている方に出会えるのは嬉しいですね。ですが、私に期待し過ぎるのは問題ですよ」
熱が入ったクロエの様子に女王は苦笑しながらも、あえて姿勢を崩す事を選んだようだ。
だが、どこか寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。そう思うのは彼女の深緑の瞳は確かにクロエの瞳を見つめてくれるが、なぜだか別の所を見ているような気がしたのだ。
「王は誰かを待っているのですか?」
それがどうしても気になったクロエは無礼だとは思ったけれども、女王を深く理解したい一心で問いを放ってしまった。これで間違っていれば、使者としても人としても問題だとは思う。それでも知りたいという気持ちを止められなかったのだ。
「分かってしまいますか? 私はここで一人の友をずっと待っています。他国では『魔女』などと呼ばれているようですが、実際は一人の友人と向き合う事も出来ないのです」
そんなクロエの熱意が伝わったのか、女王は微笑んだ表情から一転して、困り顔で答えてくれた。その様は王族というよりも年相応の少女のようで、幾分か親しみやすいような気がする。
「待っているだけでいいのですか?」
だからなのだろうか。クロエは思った事を抵抗なく彼女へと伝える事が出来た。
国も血筋も関係なく、一人の人として伝えたい事を伝えられたのだと思う。もしフィーメア神国の代表である教皇がこの場面を見たならば、表情を青ざめながらもイリスとクロエの様子を注視した事だろう。
しかし、クロエは何も気にしなくていいのだと思う。同じ想いを胸に抱いた彼女ならば、届けた言葉を真っ直ぐに受け止めてくれると思うから。
「可能であれば私の方から出向いてあげたいと思います。ですが、私は王。ただ一人の臣下を特別扱いする訳にはいかないのです。例えあの子に何の咎がない事が分かっていても。いえ、あの子は何も悪くはありません。ゼイガンが戦死したのは……皆が最善を尽くした結果。それでも、あの子はその罪すら背負ってしまうのです。あの小さな背中で」
それを証明するかのように、女王は泣きそうな表情を浮かべて、クロエの言葉に丁寧に答えてくれた。しかし、クロエは足りないと思う。
確かに王族の回答としては過不足ないのだろう。だが、肝心のイリフィリア・ストレインとしての答えが聞けていない気がするのだ。
「行ってもいいと思いますよ。いいえ、行くべきだと思います」
そう思うからこそ、クロエは彼女の背中を押す事を選ぶ。
確かに一人の臣下を優遇する事はあまり褒められた事ではないと思う。しかし、気持ちを押し殺して、救える人を救えないまま、ただじっとしているのは良くない事だと思ったのだ。
これはクロエのような一般人にしか当てはならない事なのかもしれない。だが、王であっても一人の人である事は変わらないのだ。ならば、同じように考えても問題はないと思う。
その考えが伝わったのか。
「行って来るといい。この場は俺が預かる」
王座の側に控えていたセドリックは、女王の柔らかそうな髪に手を触れながらも彼女を促してくれた。二人分の想いを受け止めたイリフィリアが、実際に動くかどうかは分からないけれど、ここまでして動かないのであれば、もはや他人が踏み込んではいけない領域の話だろう。だとすれば、もう何も言わずに引き下がる方が賢明なのは言うまでもない。
しかし、その懸念は瞬く間に崩れ去る。
「分かりました。今回だけは……自分の気持ちを優先させていただきます」
他ならぬイリフィリアが王座から、その身を浮かせたからだ。
確認などしなくても、彼女が向かう先は分かっている。この大陸において、その名を知らない者はいないとされるイリフィリア・ストレインが『友』と認め、そして会いたいと願う人の元へと向かうのだ。
「それがいいと思うよ」
すでに周りが見えていない彼女へと、クロエは失礼かと思ったけれども、普段の口調で言葉を送る。王ではなく、一人の少女へと戻ったイリフィリアには、これが自然だと判断したのだ。
「ええ。ありがとう」
その意図を正確に受け取ったイリフィリアは、通り過ぎる合間に綺麗な笑顔を浮かべてくれた。その笑顔はまるで長い間留守にしていた両親と再会した時のような嬉しさと幸福に包まれている気がして。
「これでいいよね、父さん。僕も少しは大人になったでしょう?」
邪魔をしてはいけないと思ったクロエは何も声を掛けずに、彼女の背中を見送ったのだった。
*
メイン通りを北へと進み、城塞都市シェリティアの象徴とも言うべき大聖堂を超えて。
なおも走り続けるのは、一人の少女だった。
(……もうすぐ。もうすぐだから)
もはや声を上げる力すら残っていないカナデは荒い息を整えながらも、ただ前方を見つめる。先ほどから見つめているのは、会いたいと願う少女がいる王城だ。
その中で彼女は自身の成すべき事をしながらも、ただの一人を待ってくれている。一週間も自分の殻に閉じこもり、何も出来なかった弱いカナデを待っていてくれているのだ。
彼女の力になりたい。そう願っていた筈のカナデが、彼女の歩みを止めてしまっている。それは本来であれば、あってはならない事。だが、過ぎた時間を巻き戻す事は叶わない。
ならば、再び動き出した今からでも取り戻したいと願う。
――一分、二分。
耳に煩く響く鼓動の音を聞きながらも、カナデは走り続ける。その中で住民が、そして警備を担当している騎士が不思議そうに眺めてくるが、今は気にしている余裕はない。
送り出してくれたアリシアと、待ってくれているイリスの優しさを無駄にしないためにも、今は前だけを見て走るべきなのだ。
(イリスに会ってからは……走ってばかりだな)
そんな中で、ふと感じたのは今までの事だった。
イリスという光に照らされたカナデは、戦場を自身の短い一生をただひたすらに走り続けているような気がする。そんなカナデの寿命は残り一ヶ月。
おそらくグシオン連合国ともう一度戦争したならば、この命は確実に燃え尽きてしまうだろう。しかし、それでもいいのだと思う。
彼女が差し出してくれた手を見つめて、歩き出す事を決めなければ、カナデはずっとあの森で静かに暮らしていたのだから。
そう思えば、今は幸せだ。信頼出来る人がいて、想いを通わせる事が出来る人がいる。そして、会いたいと願う人もいるのだ。
そうして、過去を想い、一人一人の顔を思い浮かべていた時に。
「そんなに急いで、どこに行くのですか?」
唐突に届いたのは、一つの問いかけだった。
思考に夢中で、ただ一点しか見ていなかったカナデは、急に声を掛けられた事に驚き、弾かれたように左側を振り向いた。しかし、唐突に振り向いた事と、声を掛けてきた人物の声があまりにも意外だったのも相まって、カナデは何の障害物がないメイン通路の上で前のめりに体を傾けてしまった。
今から態勢を整える事は当然不可能で、ものの数秒でカナデは硬質な岩が詰まった固い通路に身を衝突させてしまう事だろう。どこか他人事のような言い回しになってしまったのは、おそらく痛みというものに慣れてしまったからなのかもしれない。
「――カナデ!」
そんなどうでもいい事を考えていると。カナデに声を掛けた人物は名を呼んでくれると共に、その華奢な体で抱きしめるようにして受け止めてくれた。
その瞬間に感じたのは、母親の胸の中にいるような優しさと柔らかさ。
ずっとその胸の中で眠っていたい、そう思ってしまうような安らぎが全身を包み込んで離してはくれなかった。
「イリス。私に触れるのは危険だ」
だが、いつまでも汚染者ではない者が触れているのは危険だ。
名残惜しい気持ちもあるけれど、カナデは抱きしめてくれた人の名前を口にして、彼女の細い腰へと両手を置く。後は離れるようにと軽く押すだけだ。
「アリシアはいいのに?」
だが、頭上から降ってきたのは、どこか拗ねたような声だった。
怒ってはいないが、納得がいっていないような声音は不思議と懐かしいと思ってしまう。そう思ったのは、おそらく会いたいと願った少女が王ではなくて、姫だった時に戻っているからだろう。
王となってからも、出来る限りは対等な立場で人と接しようとする彼女ではあるが、さすがに立場を意識しているようで、中々心を開けないでいたイリス。しかし、今この時だけはカナデだけを見て、心を通わせてくれているような気がした。
「……あいつは断っても、すぐにくっつくから」
「なら、私もそうする」
だからなのだろうか、カナデは自然といつもの通りの口調となってしまう。対するイリスも年相応の少女に戻ってくれた。
(気にし過ぎていたんだな。私は……まだ彼女の代行者でいられる)
一週間前と何も変わっていない事を、触れた温もりと交わした言葉で理解したカナデは薄っすらと微笑んで。
「すまない、イリス。私は守れなかった」
会話の流れを無視して、必要な事を彼女へと伝えていく。
親交を取り戻すのも、深めるのも、まずは必要な事を報告してからだと思ったのだ。
「ゼイガンの死は……最善を尽くした結果です。全ての責を負うのは、むしろ私の方。だから、悲しまないで。いつもの凛々しくて、気高い……私だけの騎士に戻って下さい」
想いを受け取った彼女はカナデを責める事もせず、逆に抱きしめた両腕に力を込めてくれた。それだけでなく、こんな弱い汚染者を救うために、再び心に光を燈してくれたのだ。
カナデが迷わず、自分らしく生きる理由を与えてくれる大切な人。
「ああ。ずっとあなたの騎士でいる。この命が燃え尽きるまで」
その大切な人にカナデは騎士として、友として忠誠を誓う。
誓いを受け取った王は短く「ありがとう」と述べるだけで、カナデは言葉では伝えられない温もりを、ずっと離さないように抱きしめ続けたのだった。




