第二話 (一)
第二話 戦いの兆し
漆黒の髪を揺らすのは微かな風だった。
微かな風、そうは言っても現在はようやく日が昇り始めた時刻であり身を冷やすには十分だ。そんな誰もが住居または城内に逃げ込みたくなるような寒空の中で一人立ち尽くしているのは、革の手袋越しに如雨露を手にしているカナデ。
彼女の目印と言ってもいい漆黒のローブを身に纏い、中には肌にピタリとあった灰色のウェア、そしてカーキ色のカーゴパンツというラフな格好をしている。衣服の種類は多々あるカナデではあるが基本的には正装は控えている。ついでに正装と言えば、貴族が着る礼服か、または騎士が装着する軽装または甲冑の事を指す。
最初の一日は私服で歩いていても触れられなかったが、さすがに二日目はお堅い騎士に服装を注意された。しかし、三日目となる現在も無視を決めこんでいる。
理由はただ一つ。カナデは騎士としてこの国に参加したつもりがないからだ。ただイリフィリアに協力するという名目のみでこの場にいる。それを伝えるために正装を拒否しているのだ。
断固とした意志を貫くカナデを「黙って正装をすればいい」と毛嫌いする者もいるが言っても聞かない変わり者を注意する者は稀で、指摘される事も少なくなりつつある。それは素直に喜ばしい事だと思っている。
そんな変わり者と呼ばれるカナデが現在立ち尽くしているのは、城の西側に位置する庭だ。ちょうどこの真上。三階部分にカナデをこの場に連れてきたイリフィリアの部屋がある。実を言えば城壁に沿うように吊るされたロープを伝えば彼女の部屋へと登れるのだが、今は姫に用がある訳ではない。
ならばなぜこんな城の外れにいるのかと言えば、理由は生茂る短い草と一緒に揺れるつぼみを見れば分かるだろう。
「まだ咲かないか」
つぼみを見つけたカナデは優しく語り掛ける。
傍目から見れば花に話し掛ける変わった人に見えるだろうが気にはしない。花も人と同様に氷雪種が触れれば凍るのだ。そこには確かに生命がある。
人と同じように声を掛ければ喜び、鮮やかな姿を見せてくれる。そう考える事は何も不自然はないとさえ思っているのだ。それを笑う者がいるというのであれば、心が狭いと言わざるを得ないだろう。
「待ってろよ」
変わらぬ口調で手にした如雨露から花のつぼみへと少量の水をかけるカナデ。この寒空だ、大量の水をかければすぐさま花は駄目になってしまうだろう。それを熟知しているカナデは細心の注意を払い、研ぎ澄まされた感覚を用いて適量の水のみを与えていく。
「これでいいな」
水をやり終えたカナデはどこか誇らしげな表情で独語する。
そんなカナデに応えるように花のつぼみが一度揺れる。昨日よりも力を増して見えるのはおそらく気のせいだろう。
――親馬鹿。
そんな言葉が今のカナデには似合うのかもしれない。
しかし、自身の行動で生命が力を増していく、そう思うと心が弾み、嬉しくて仕方がないのだ。奪う事しか出来ない自分が、今こうして生命を育んでいるというのだから。
もはや日課となった余韻に浸るカナデ。至福の時と言っても過言ではない時間を満喫していると、突如冷や水を浴びせるような声が掛かった。
「またここにいたんだ。鍛錬……もう半分終わったよ」
いつまでも鍛錬へと参加しない事を見かねた彼女が呼びに来たのだ。
まだまだ余韻に浸っていたいが、さすがに無視する事はできないカナデは声がした方向、つまりは左側に漆黒の瞳を向ける。
するとそこには真っ白な頬をほのかに赤らめた騎士の少女が立っていた。姫の近衛騎士とも呼ばれる童顔の少女だ。もう八回くらい顔を合わせているのだが、実はカナデは少女の名前を知らない。頬が赤らんでいるのはそれだけ騎士の鍛錬が厳しいという事を、言外に語っている。
「すまないが私は参加しない。お前達よりも早くに自分で鍛錬しているから不要だ」
「それだけなくて……昼と夜もしているよね。やる気があるなら混じったらどうなの?」
適当に流そうと思ったら、少女はカナデの言葉に補足を加えた。まさか隠れて実施している昼と夜の鍛錬まで見抜かれているとは思ってもいなかった。
「驚いた?」
驚くカナデを少女は笑う事なく、自信に満ちた笑顔を浮かべる。何でも知っているとでも言いたげな表情だった。
「ああ。だが、馴染むつもりはない。お前は早く戻れ」
カナデは流されてしまいそうになる心を叱咤して視線を城壁へと向けて、拳を強く握り締める。協力はするが、自身は汚染者。決して馴染める訳はないのである。
「お前じゃなくて――アリシア! 言っとくけど私は姫様くらいにしつこいよ」
視線を外したカナデに、アリシアと名乗った少女は腰に手を当てて強く言い放つ。
しかし、伝わる声には怒りは含まれていない。ただカナデを想って、誘ってくれているだけなのだ。
「だが、私は――」
「アリシア。そいつか? 鍛錬に来ないという新入りは?」
カナデが向けられた好意を拒絶しようとすると、途中から野太い声が覆い被さる。
「アイザック将軍!」
次に上がったのはアリシアの驚きが混じった叫び声。
アイザックというのは、この国の将軍の名だ。祖国ロスティアにいた時に聞いた噂では王ラディウスと共に一万の軍勢を率い、兵力五倍強を誇るグシオン連合国を二度に渡って退けたとされる猛将である。小国と侮ったグシオン連合国が、兵数一万五千で攻めた事が勝利へと繋がっただけだと冷ややかに判断する者もいるが、兵数で劣る戦で勝利する事が如何に過酷かを、敗戦を通して経験したカナデは痛いくらいに心得ている。とてもではないがカナデは彼を、この国を小馬鹿にはできない。
「カナデという。聞いているとは思うが汚染者だ」
猛将と呼ばれる将軍へと、どこか尊敬に近い想いを胸に抱いているカナデは体ごと向き直り、自身の名を名乗る。こういう所はやはり騎士としての心がまだ残っているのかもしれない。
「ふむ。礼節を重んじるロスティアの騎士らしいな。俺がアイザックだ。実際の戦ではお前はゼイガンの部隊として参加する事になる。俺が指揮する事ができんのは悲しいが……グシオンに後れを取らない立派な騎士に育ててやろう」
改めて名乗った将軍アイザックは組んでいた腕を解いて、大股に一歩を踏み出す。鍛え抜かれた全身の筋肉と、身長二メートルを有に超える巨体が近づく様は、まさに城壁が迫るようだった。
「私は汚染者で……周囲の士気が」
とりあえずカナデは言葉を紡ぐ。
だが、言葉を聞いた筈であるアイザックは――
「汚染者ぁ? それがどうした。騎士は全員参加だ」
カナデに構う事なく巨大な腕を伸ばし、即座に首根っこを掴み取る。そして、まるで小動物を持ち上げるかの如く、軽々しくカナデを持ち上げて運んでいく。
「ちょっと待った!」
「そう言って待つ者がおるのか? 今日からはみっちり鍛えてやるからな。我が隊におらんのが悲しいわい」
静止の声すら無視した大柄な男は高らかに笑い、ずかずかと大股で歩いていく。運ばれていくカナデはちらりと窺う様な視線を将軍へと向ける。
手入れがされていないボサボサの茶色の髪と無造作な無精髭。その容姿は、この豪胆な性格によく似合っているように思う。多少、いやかなり強引な性格の将軍ではあるが、カナデはどこか嫌いにはなれなかった。
「自分で歩く」
嫌いにはなれないというのであれば素直に諦める事にしたカナデは、羽虫が鳴くようなか細い声で囁く。
「もっと気合を入れんか!」
だが、返ってきたのは怒声だった。豪胆な将軍にとってはすでに鍛錬は開始中らしい。
「自分で歩く!」
鍛錬が始まっているというのであれば手を抜くつもりはないカナデは声を張り上げる。天性の耳にうるさくない、それでいて遠くまで通る声で。
「ならば歩け。しかし……その声は隊長向けだな」
力強い声をやる気と受け取ったアイザックは、カナデは宙へと放り投げる。
「祖国を失った身だ……その気はない。ただの騎士で十分だ」
無造作に投げ捨てられたカナデは宙で態勢を整えて、草が生い茂る地へと鮮やかに着地を果たす。
「そうか。なら次期隊長はアリシアかな」
カナデの言葉を受け取った将軍はどこか残念そうな表情を浮かべ、それから無精髭へと手を伸ばす。これはおそらく彼の癖かもしれない。正確な所は分からないが、これから一緒に戦うのであれば、癖の一つくらいは把握しておかねばならないような気もする。
そんな事を考えていると。
「私ですか?」
遅れてアリシアが将軍へと問う。しかし、なぜ自分の名が呼ばれたのか分からない彼女は結い上げた銀髪を揺らして唸っていた。
(名前が挙がるという事は……やはり実力があるのだろうな)
とても強そうには見えないアリシアを、一度視界へと収めるカナデ。
しかし、見た目で判断する事が如何に危険かという事は重々承知している。それに氷雪種の瞳を、一度の投擲で貫いたアリシアの腕が未熟であるとは思えないのも確かだ。
(まあ……いつか分かるか)
結局は一度彼女の槍捌きを見ねば分からない、そう判断したカナデはそこで思考を打ち切る。
そうしている間に――
「俺とラディウス王、そしてゼイガン。我が国の兵力一万五千を率いるには将軍は足りている。だが、将軍がもう一人いれば王は出陣せずともよい。その候補となる隊長を養成するのが俺の使命のようなものだな」
アリシアの問いに、アイザックは言葉を返していた。
この国では、おそらく五千の兵力を一人の将軍が率いる事を想定しているのだろう。そうすると総力戦となる事があれば、アイザック、ゼイガンが攻め、王ラディウスが自国の防衛という役目になるのが自然か。その防衛を担える将軍さえいるならば、王は玉座に座っているだけでいい。それがアイザックの望む形なのだろう。
確かに王が戦場に出て戦死したとなれば、いかに前線で戦う二人の将軍が奮戦した所で敗戦は決まってしまう。それを彼は恐れているのだろう。それは臣下として、この国の未来を思う者としては、当然とも言える考えだ。
しかし、そこまで考えられる臣下というのは実を言えば少ない。皆、自分の出世や自部隊の強化しか頭にないからだ。より強い騎士、または参謀を自部隊で抱え込み、全体の事などは頭にない将軍など探せばいくらでもいるだろう。
だが、アイザックは違う。それは今まさにゼイガンの部隊に所属するカナデを鍛えようとしている姿を見れば分かる事だろう。
(これが聖王国ストレインか。どうりで強い訳だ)
周囲を敵国に囲まれながらも揺らがないこの国。ロスティアにいた時は疑問ではあったが、その核心へとカナデは触れたような気がした。
「隊長か。十年早いかも」
過度の期待をかけられたアリシアは肩を竦めながら答えた。
「うむぅ。俺が若い時は、隊長になると野心を燃やしていたものだがな」
若者二人に拒否されたアイザックは唸り、表情を歪ませる。
そんな様子は将軍というよりも、困った近所のおじさんという言葉が似あいそうだった。
(隊長か……私は姫が守れればそれでいい)
困った将軍の気持ちに応えたいとも思うが、内にあるのは姫への想い。その想いを貫くだけで十分だとカナデは思う。
それに自身の寿命は思っているよりも短い事だろう。ならばこの想いは消えることはないと思う。ならば視界に移るものは見ずに、ただ光を照らしてくれる彼女だけを見ていようと思うのである。
――たとえ失ったとしても。
想いを心に刻んだカナデは新たな日常に向けて一歩を踏み出した。