表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷結の歌姫  作者: 粉雪草
第二部 もう一度あなたを抱きしめたくて
88/109

最終話 (七)

 鼓膜を破壊する程の轟音が鳴り止んだ途端に、耳へと届いたのは喘ぐような呼吸。

 まるで過呼吸にでもなったかのように激しい呼吸を繰り返しているのは、漆黒のローブを真っ赤に染めても、なお戦い続ける代行者カナデだった。

(……さすがに厳しいか)

 目標をカナデから聖王国ストレインへと切り替えた小銃部隊の猛攻は去ったが、弾丸によって穿たれた体は動いている方が不思議なくらいだ。そんな状況でカナデ同様に人外の力を持っている相手と戦う事は、自殺行為にも等しい行いだろう。

 しかし、退く事は叶わない。

 カナデがここで退いてしまえば、眼前で氷槍を振るう男を止める事は出来ないのだから。

 とは言っても、脅威と考えられるのは彼だけではない。王シュバルツが率いる大楯部隊も側面からの突撃を受けて瓦解寸前だ。

「――この状況で仲間の心配ですか?」

 ちらりと後方を確認したカナデだったが、正面から聞こえた声によって、即座に大鎌を左から右へと薙ぎ払う。

 次の瞬間、大鎌がちょうど正面を走り抜けた頃に鋭い痛みが両手に走り、同時に甲高い金属音が鳴り響く。遅れて追いついた漆黒の瞳に映ったのは、真紅のローブを翻すと共に槍を振り下ろしたクレヴァスだった。

 槍を突き出すのではなく、振り下ろしたのはカナデが薙いだ大鎌を無力化するためだ。言い換えれば、大鎌を地へと叩き落として、態勢を整える間もなく、もう片方の手に握った槍を突き出すつもりなのだ。

 その流れるような動作は、完璧と言っても過言ではない程だった。

 だが、動きが予想出来る攻撃であれば避ける事はさほど難しくはない。特に相手よりも速く動く事が可能ならば、なお容易い。

 それを証明するように、カナデは鋭く地を蹴りつけると共に身を左側に捻る事で突き出された刃を回避する。通常の者ならば後方へと退く所だろうが、カナデはあえて安易な道を選ばない。

「――勝たせてもらう!」

 逆に選ぶのは修羅の道。

 最も危険で、一歩間違えれば即死する可能性すらある道を選び続ける。その身に宿る命を燃やしながら、ただ一人の友に勝利を届けるために。自身の心に光を燈してくれた人に勝利を捧げるために。

「それでこそです。その姿こそが――騎士というもの!」

 その様を特徴的な切れ長の瞳に収めたクレヴァスは、なぜか歓喜に震えたような声を出した。傍目から見れば気でも狂ったかと心配になるような言葉だが、彼はただ純粋に主のために刃を取るカナデを賞賛しているのだろう。

 礼節を重んじるロスティアの騎士であれば極自然の事なのだが、背の中には騎士とは名ばかりの権力と富に縛られた者も大勢いると聞く。守るべき民を手にかけ、貪るように資金を蓄える。

 そんな者をカナデは騎士として認める事は出来ない。そして、それは彼とて同じなのだろう。どこまでも不器用で、民と主のために真っ直ぐに突き進む者。それこそが騎士と呼ばれる存在なのだ。

 そこまで思い至ったカナデは、どうやら自身は彼と同類なのだと思う。仮に国が同じであれば、共に祖国ロスティアにいたならば友と呼べる存在と成り得たのかもしれないと思ったのだ。

「元ロスティアの騎士、カナデ。カナデ・エーデルワイスだ」

 だからこそ、最大限の敬意を払って騎士としての名を口に出す。

 王の代行者としてではなく、騎士の心を強く抱いていた頃の自分を呼び起こして。

「高貴なる花の名前を冠する騎士ですか」

 その想いを受け取ったクレヴァスは、あえて半歩下がる事で距離を取った。

 だが、地へと両足をつけた彼は、突き刺さるような殺気を全身から解き放っている事が分かる。どうやら騎士の名誉のためにも、一切の手抜きなくカナデを殺すつもりでいるらしい。

「可憐な花を思い浮かべているならば……そちらが死ぬ事になるぞ」

 しかし、その殺気すら跳ね返すように、カナデは薄っすらと微笑む。

 自然と微笑んでしまうのは、最後の相手になるかもしれない相手が誇れる騎士だったためか。それとも同類に出会えた事が嬉しいのか。それは自分自身の事であるというのに分からなかった。だが、すでに考え事をしている暇は存在しない。

「その忠告――我が槍にて返させていただきます!」

 一度は後方へと下がったクレヴァスが、その手に握った氷槍を突き出したからだ。

 もはや視界にすら映らない高速の一突き。

 しかし、その速度を超えてカナデは、愚直なまでに真っ直ぐに平原を駆けていく。

 まるで自分から槍へと貫かれていくような動きに見えるが、実際は違う。芸術品のように美しく煌めいた刃が触れる刹那の直前に、カナデは左手で引き抜いたナイフを用いて、突き出された槍の軌道を逸らす。

 同時に右手に握っている大鎌を横薙ぎに振るうために、左腰辺りに移す事も忘れない。片手で振るえば威力が落ちてしまう事は分かりきっているが、相手は甲冑ではなくローブを身に纏っている。一度、大鎌の刃が触れれば致命傷となる事だろう。いや、このまま横薙ぎに走らせたならば、両者の身長差の影響もあって、腹部を切断する事も出来るかもしれない。

 だというのに、槍を弾かれたクレヴァスは動じない。ただ淡々と切れ長の瞳をカナデの何色にも染まらない瞳へと重ねるだけだった。

(……なにかあるのか?)

 一瞬、クレヴァスの罠かと思ったのだが、この一秒が全てを決める瞬間に策など用意出来る訳はないだろう。

 そう心の中で断定したカナデは、迷わず大鎌を右手のみで振るう。

 ――次の瞬間。

 返り血を浴びて、漆黒のローブが汚れるかと思っていたのだが、決してそんな事はなく。まるで誇り高き騎士二人のために用意された空間に鳴り響いたのは、甲高い金属音だった。

 どうやらクレヴァスはローブの下に、それも胸部と腹部を守る様に軽装を身に付けていたようだ。何とか腹部の軽装を砕き、刃を食い込ませる事は出来たが、明らかに傷は浅いように思う。

「――私の勝ちです」

 それを証明するように、クレヴァスの動きは先ほどと比べて遜色はないように見える。対するカナデは、中途半端に大鎌の刃を柔らかな人体へと食い込ませてしまったために、今から距離を取る事は絶望的だろう。つまりは、クレヴァスの言葉は誇張でも何でもなくて、誰しもが容易に想像出来る未来を語ったに過ぎないのだ。

 しかし、その未来は一つの声と、慌ただしい足音によって安々と砕かれてしまった。

「――カナデ!」

 まずカナデとクレヴァスに届いたのは、幼さを感じさせる少女の声だった。

 さすがに敵であるクレヴァスは声だけでは分からなかっただろうが、カナデは名を呼んでくれた声には覚えがある。というよりも、同じ家に住んで毎日聞いていた声なのだから間違えようがない。

 共にイリスを支える道を選んだアリシアの声なのだから。当然ではあるが、同時に届いた数多の足音はアリシアの背を追うように西から東へと駆ける騎士達だ。隊長を先頭に偃月えんげつの陣を組んだ彼らはカナデを助けると同時に、敵の指揮官を潰す気なのだろう。

 それが合図となって、シュバルツ王が率いる部隊が攻勢に出るという事だ。

(……アリシア、君はいつも力を分けてくれるな)

 届いた声は一秒の間もなくカナデの心へと溶け込んで、手に握った氷装具へと確かに伝わって、まるで拒む相手に強引に意見を押し付けるかのように、力を増した刃はクレヴァスの纏う軽装を砕き、その内にある肉体を切断していく。

 その最中にクレヴァスが両手に握る氷槍は、カナデの左右から迫る。狙いは確認せずとも致命傷となる腹部だ。すでに小銃によって、言い方は悪いが血に濡れた雑巾のようになっているカナデは、これ以上刃を受け止める事は出来ないだろう。

 例え血を固める事が出来る汚染者の力を使っても、限度というものがあるという事だ。

 しかし、それでもカナデは恐れない。ただ友を信じて、手に握った大鎌へと全ての力を込めていく。

「私を信じて!」

 その気持ちに応えるかのように、一本の槍がカナデの腹部を掠めて通り過ぎた。当然、掠めただけでなく、見惚れる程に綺麗な氷の結晶を宙へと舞って散らせて見せる。

「――何が起こったというのですか!」

 今の今まで手に握り、突き出した氷槍を一度の投擲で同時に破壊された事が信じられないのか、クレヴァスは切れ長の瞳を可能な限り見開いて叫び声を上げた。

 対する、神業に近い所業を成したアリシアは――

「突撃!」

 右足を半歩前に出した投擲姿勢のままに指示を飛ばす。

 そして、隊長の技量を目の当たりにした騎士達は迷う事無く、雄叫びを上げて身を襲う恐怖を弾き飛ばしているようだった。

(……本当に適わないな)

 カナデには実行不可能な奇跡にしか思えない所業を淡々とこなし、それだけでなく兵の恐怖をも吹き飛ばす。まさに隊長に相応しい友の姿を漆黒の瞳に焼き付けたカナデは、一つ息を吸って心を落ち着かせると。

 突き進めていた大鎌を戻すと共に後方へと下がる。もうこれ以上無理な戦闘を続ける必要がなくなったからだ。

 そう思わせるに至ったのは、西側から救援に迫るアリシアの部隊がいるからではない。

「――攻勢に出ろ。今までの鬱憤の全て。剣に込めて叩きつけろ!」

 場合によっては野蛮に聞こえてしまうような号令を、シュバルツ王が飛ばしたからだ。

 号令を受けた聖王国ルストの騎士達は、今の今まで大楯を構え、甲羅に閉じこもった亀のように大人しかった事が嘘のように、即座に重量物と成り果てた盾を投げ捨てると、飢えた獣さながらに標的に向けて突撃を開始した。

 指揮をする将軍クレヴァスが手傷を負った事と、今まで大人しかった部隊の急な変わりように驚いたグシオン連合国の兵達が戸惑っているように見えるのは、気のせいではないだろう。

 そして、当然ではあるが、その一瞬の隙を見逃す程にシュバルツ王は甘くはない。一度敗北を経験し、勝利に飢えている聖王国ルストの騎士達を巧みに鼓舞する事で士気を上げ、まるで全てを飲み込む雪崩を思わせる勢いでグシオン連合国を駆逐していく。

 上空から見下ろせば、ただ突撃しただけに見えるのかもしれない。だが、十分な士気に支えられた部隊が正面から突っ込んでくる事は、戦場においては最も避けたい場面であるだろう。それも指揮官が不在である場合は、立て直しが上手くいかずに勝敗を決定付ける事もしばしばあるだろうか。

 さすがにグシオン連合国にも優秀な副官等がいるようで忙しなく指示を飛ばしているようだが、飢えたシュバルツ王の勢いを止められる者など、そうそう存在しないだろう。

 そこまで思考を走らせ、現状を整理したカナデはふと視線を左側へと向ける。

 それと時を同じにして。

「カナデ。ゼイガンを助けて!」

 安堵の息すら吐き出す前に、アリシアは次の行動を指示した。

 今回はシュバルツ王の指揮下にいるために、聖王国ストレインの隊長の指示を聞いてもいいのどうか迷ってしまう。だが、「助けて」という短い言葉の中には緊急を要する事項が含まれている気がする。

「――分かった。ここは任せる」

 結局、カナデが迷ったのは数瞬で。

 素早く東方向へと進路を変更したカナデは、一度友の蒼い瞳に漆黒の瞳を重ねる。

 しばし見つめ合って、お互いの考えを語らずとも理解した二人は一度頷き合う。

「――また後で」

「ああ。これを」

 そして、すれ違う瞬間に言葉を交わす。

 だが、それだけで終わりではない。素早く右腰に固定されている騎士剣を鞘事引き抜いたカナデは、言葉と共にアリシアへと放り投げる。

 槍を失ったアリシアが、後方へと置き去りにした汚染者と戦うために必要だと判断したのだ。素の状態ではカナデよりも腕が立つ事は知っているが、さすがに丸腰では勝負にならないだろう。

「カナデの剣があれば……百人力だね」

 その好意を素直に受け取ったアリシアは、宙で鞘を受け取って即座に騎士剣を解き放つ。そして、金属が擦れる涼やかな音色と共にカナデの背に届いたのは、彼女らしい言葉だった。

 渡したのは特注品ではなくて全ての騎士に支給されている剣だというのに、アリシアからすれば特別に思えるらしい。そう思うに至る理由を知っているために、自然とカナデの頬は朱色に染まってしまう。

 いつか答えないといけないとは思っているけれど、今は目の前の事に集中するべきだろう。アリシアから頼まれた「ゼイガンを助けて!」という曖昧な依頼を完遂せねばならないのだから。

 だが、その曖昧な依頼は、すぐさま輪郭がはっきりとした形となる。

 参謀であるゼイガンがいれば難なく相手を屈服させる事が出来ると思っていたのが、実際はその真逆で、二方向から攻撃するために兵を割いた事が裏目に出ているようだった。

 簡単に言えば、北へと向けて進んだイリスとシオンが率いる部隊は何の障害もなく進んでいるが、東から西へと進行する元は小銃を構えていたグシオン連合国の部隊からの総攻撃を受けているゼイガンの部隊は、現状を維持するのがやっとという状況だ。

 幸い汚染者セドリックがいるために部隊が壊滅する程の状況にはなっていないが、それも時間の問題だろう。

「……時間がない」

 もはや一刻の猶予もないと悟ったカナデは、刃を血で汚した大鎌の柄を握り直すと共に地を鋭く蹴りつける。

 それもただ強く蹴っただけではない。自身の内に眠る氷雪種の力を、手にした氷装具を経由する事で際限なく外へと解き放ったのだ。捻った蛇口のように留まる事を知らずに溢れる力は、カナデの命を燃やす事によって、その効果を最大限に発揮する。

 ただの人であれば数分程の時間を要する距離を、人を超えた力を手にしたカナデは一分までに縮めてみせたのだ。おそらく遠目から見たならば、漆黒の影が戦場を切り裂いたように見えた事だろう。

 しかし、どこまで速く動けたとしても、はたまた神に近しい能力を持っていたとしても、たった一人の存在が戦況を変えられる事はない。

 まるでカナデの疾走は無駄に代償を浪費しただけだと述べるかのように、この冷たき世界は見たくもない現実を叩きつけてきたのだ。

 ――見たくもない現実。

 それは一言で言えば、味方の負傷だった。それもただの軽傷ではない。

 彼の特徴と言っても過言ではない黒の礼服を、もっと正確に言うならば左脇腹辺りは鮮血色で染まっていて、その傷の深さを物語っていた。

「――ゼイガン!」

 助ける目標であるゼイガンの思わぬ姿を視界に収めたカナデは、両国の騎士達が上げる雄叫びを吹き飛ばす程の声を戦場へと届ける。

 それだけでなく、氾濫した川のように東の方角から押し寄せてくるグシオン連合国の騎士達を、手にした氷装具で斬り捨てながら進んでいく。グシオン連合国は一秒でも惜しいのか陣を維持する事無く、ただ真っ直ぐに突き進んでいるため、氷装具を手にしている現在の状況ならば各個撃破は容易い。

 ならば、間に合うのか。そう思うのかもしれないが、相手の勢いに押されて陣を瓦解されたゼイガンの部隊は見るからに脆いように見える。まるで大人と子供が戦っているのかと錯覚する程に、聖王国ストレインはグシオン連合国の猛攻に押されていたのだ。

(……間に合え。間に合え!)

 それでも、カナデは諦めずに大鎌を振るう。

 力を使い過ぎたためか、自身の心臓は破裂しそうな程に痛い。それに伴って、呼吸は乱れに乱れて息をする事すら苦しい状態で、なおも疾走を続ける。

 なぜここまで必死なのか。そう問われれば、答えはおそらく見つからない。

 同じロスティアの生まれだという事もある。また、共に旅をしたという事実もあるだろう。おそらく後者の方が理由としては大きいとは思う。

 だが、もっと違う理由があるような気がするのだ。

 そう思った時に浮かんだのは、カナデの心に光を燈してくれた一人の姫君の涙だった。今は女王となったイリフィリア・ストレインの深い緑を思わせる瞳から一筋の涙が零れ落ちたような気がしたのである。

 湖の底まで見渡せそうな程に澄んだ一筋の雫を脳裏に浮かべたカナデは、頭を振る事で訪れる未来を否定する。その未来はあってはならず、また自身の光であるイリスが涙を浮かべる事などあってはならないと強く思ったのだ。

(……守るから。私はあなたの代わりに刃を振るう者なのだから)

 目測三十メートル先で、敵の騎士と交戦するゼイガンを視界に捉え直したカナデは、心中でイリスを想う。そして、想いを新たにしたカナデは一つ息を吸って。

「――たとえ失ったとしても」

 自身を奮い立たせる言葉を内から外へと解き放った。

 カナデが述べた言葉は『魔法の言葉』。どれだけ苦しくても、辛くても、ボロ雑巾のようにズタズタにされても、この言葉を口に出せばこの身は動いてくれる。

 もう何度も何度も繰り返した言葉ではあるけれど、今回も同じように力が溢れてくるから不思議だ。と言っても、その背景は命懸けで物事に挑むと決意するだけの事なのだが。

 しかし、魔法にかかったカナデの動きは、自分でも分かる程に洗練されているように思う。

 ――例えば。

 ゼイガンへの救援に向かう先で進路を塞ぐように立ちはだかり、長剣を構えたグシオン連合国の騎士を捉えたカナデは、一切の迷いなく正面に立つ相手の懐へと、自身の身を滑り込ませる。

 敵の位置は正面と、左右。

 数秒という僅かな時間を与えてしまえば、たちまちの内に取り囲まれる事は明白だろう。そんな一歩間違えれば命すら落としかねない道を選んだのは、単純に一秒という時間ですら惜しいからだ。

 傍目から見れば生き急いでいるように見えるのかもしれないが、今は止まってしまう事の方が怖い。だからこそ、カナデの急な加速に反応すら出来ない敵の腹部を凍てついた大鎌で切り裂くと、体当たりをするかのように人から物体へと姿を変えていく相手へと、その身を衝突させる。

 すでに腹部と胸部は氷の結晶へと変貌していた敵国の兵は、小柄なカナデが衝突しただけであっさりと砕け、一度涼やかな音色を奏でる。

 人が一人死んだという割には軽くて、それでいて美しすぎる音色を間近で聴いたカナデは禁忌の力を発言させる刃の柄を強く握って、身を震わせる程に冷えた氷の欠片を全身に浴び続ける。だが、それも一瞬の事で、カナデは何事もなかったかのように駆け出した。

 確かに心は痛む。だが、一度戦うと決めたのならば迷ってはいけないのだ。

 ここで迷って足を止める事は仲間に対してだけではなく、先ほど命を砕かれた者に対しても失礼な話だと思うからである。

 ゆえに、高貴なる花の名を冠する騎士カナデは迷わず、自身の誇りを貫くために進み続ける。世界の冷たさから逃れるために纏った漆黒のローブで、禁忌の力を用いた結果たる咎の結晶を防ぎながら。

 ――十メートル、二十メートル。

 正確な距離は分からないが、透き通る結晶と地に咲く氷結花の花弁が舞う平原を突き進んだカナデは、煌びやかという言葉が似あう場所には不釣り合いな、睨むような視線を前方へと向ける。

 それもその筈で。

 出血のためか、平原へと膝をついたゼイガンに対して、グシオン連合国の騎士が長剣を振り上げていたからだ。当然ではあるが、敵は一人だけではない。

 作戦の要とも言うべき将をこの場で討ち取るために、総勢五百の兵がゼイガンを中心にして円を描く様に取り囲んでいたのだ。

 対するゼイガンの護衛を担当する総勢三百の騎士は、身に纏う甲冑は砕かれ、また騎士の誇りたる剣は半ばで折れていた。何とか包囲網を留める事が出来ているのは、汚染者セドリックが奮戦しているからに過ぎないだろう。

「私が……私がやらないと」

 この部隊の指揮官であるゼイガンが動けないのだ。

 もはや乱戦状態に突入している現状を思えば、援軍は期待出来ない。北側に迂回したイリスの部隊は器用に敵の側面へと回り込んで、少数の分隊を各個撃破しているようだが、とてもではないが間に合わないだろう。

 ならば、特別な力を持っているカナデがどうにかするしかないのだ。

 たった一人の援軍で何が出来ると嘲笑うならばそれでいい。だが、一縷の望みがあるというのに、それを捨てるのは愚者の選択だ。そう確信したカナデは自身でも珍しいと思いながらも、意味のない叫び声を上げて、平原を疾走していく。

 それと同時に、左腰に固定しているホルダーからナイフを一本だけ引き抜いて、下投げに投擲する。疾走に伴って発生した荒々しい風に舞った凍てついた花弁を貫く程の精度で駆け抜けた氷色のナイフは、戦う兵達の間をすり抜けて、目標の物体――今まさにゼイガンの命を散らすために振り下ろされた長剣に突き刺さる。

 もはや避けられる事はないと、そんな絶対の自信を持っていたであろグシオン連合国の一兵士は、突如側面からナイフが飛んできた事に驚いたようで、警戒のために一歩後退。

 その僅かな時間で肺へと息をため込んだカナデは、敵味方が入り混じる戦場へと一息で突入する。その瞬間に、敵味方から驚愕に満ちた視線が向けられるが、カナデはそれには応えずに、必要最低限の動きでゼイガンの元へと進んでいく。

(……もう少し。もう少しだから)

 我ならが無理をしているとは思うが、ここまで来たならば後は無理を押し通すまでだ。しかし、その想いに反して、限界など等に超えている体は思う通りにはいかないようで。

 異変に気が付いたのは、両軍が入り乱れる混沌とした戦場に足を踏み入れて数秒が経った時だった。自身の内側から熱い『何か』が込み上げて、喉元を通ったのだ。

 普段のカナデであれば、心を震わせる熱い想いを叫び声に変える事はある。

 だが、今回は明らかに違う。同じように熱いものではあるが、外へと出ようとしている『何か』は不快感極まりないものだったからだ。

 咄嗟にそれを飲み込もうと空いている左手で口元を塞いでみたが、それは明らかに遅かった。ふと気が付いた時には、漆黒の手袋は見たくもない鮮血色で染まっていたからだ。

 ――吐血。

 この状況を一言で説明するならば、その言葉が適しているだろう。どこか他人事のように説明出来てしまったのは、カナデ自身が現在の状況を己の事と認識出来ていないからだ。

 だが、思考は追いつかなくても、血を吐き出す事で限界を知らせた体は正直なもので。射抜く様に前方へと注がれていた視界は、不規則に世界を折り曲げたかのように歪んでいて、その歪みに沿って自身の両膝は地へと崩れ落ちていた。

「そん……な。ここまで……来て。どうして」

 何とか血に濡れた左手を突き出す事で転倒だけは防いだカナデは、荒い呼吸を整えながら切れ切れに言葉を紡ぐ。しかし、普段であれば全身に力を与える言葉は、今回は全く効果がないように思う。

 まるで深い沼地に半身を沈めたかのように、崩れた体は起き上がってはくれなかったのだ。一秒でも、否、刹那の時間でさえ惜しいこの状況で、この体はついに止まってしまったのである。

 どれだけ願っても、想っても。限界を超えた体は動いてはくれない。

 なぜこの状況で、動けないのか。その答えはカナデ自身がよく分かっている。以前の聖王国ルストとの戦争の中で、カナデは単身で突撃を慣行した。その際は汚染者の力で何とか生き延びる事が出来たが、この体の深部には治り様のない傷を抱えてしまったのだ。

 そして、今回。

 汚染者クレヴァスと戦闘しながら小銃の一斉射撃を身に浴び、その後に力を際限なく使用してしまった。ここまで酷使すれば動けなくなる事など、誰でも分かる事だ。

 それでも、カナデは進んでしまった。

 友の言葉を受け取って、決して涙など流してはならない人のために。

「……動いてくれ。もう一度だけでいい……から」

 その代償は後でいくらでも払う。だからこそ、今は仲間ゼイガンを救うために動いて欲しい。

 それはどこまでも単純な願いだった。だが、単純だからこそ、どこまでも美しい願いだという事も出来るだろう。

 しかし、その澄んだ願いは天には届かない。まるで彼の死は予め定められていると述べるかのように、再び黒を基調とした礼服は朱に染まってしまったのだ。

 ナイフを投擲した事で一時は難を逃れたゼイガンではあるが、これだけ入り乱れた戦場だ。他にも敵がいるのは当然の事で、その内の一人が彼の背へと長剣を突き立てたのだ。

 その後はとてもではないが見ていられる状況ではなかった。確実に止めを刺すと暗黙の内に決めたらしいグシオン連合国の兵達は、立て続けに老齢な騎士へと手にした長剣を突き刺したのである。

「そんな……」

 ゼイガンの付近にいる敵はざっと見る限りでは五名。

 仮にこの体が正常に動いていれば助けられた状況だった。あの場所にいて、全力を尽くして守れなかったのであれば、謝罪の言葉一つでも送る事が出来たと思う。

 だが、実際はどうだと言うのだろう。抗えない強い力にひれ伏す様に地へと無様に膝を付いて、眺めている事しか出来なかったのだ。

 そんなカナデを誰が許してくれるというのだろうか。しかし、この冷たき世界には、その冷たさすら吹き飛ばす程に温かい心を持っている人がいるのも事実で。

 もはや助かり様がない状況に追い込まれたゼイガンは最後の力を振り絞って、カナデを包み込むような微笑みを届けてくれた。その微笑みは「この状況であなたが動けないのは私の責任です」と述べているような気がする。確かな根拠はないのだが、どうやら彼はカナデが自身を責めないように、今動けない事すらも背負う気でいるらしい。

「……ゼイガン」

 元は同じロスティアの騎士である彼の名をカナデは、震える唇で呼んだ。

 叶うならば彼の最後の言葉を受け取るために。その想いが伝わったのかどうかは分からないが、浮かべた笑みを引っ込めたゼイガンは、皆へと最後の指令を飛ばすために閉ざしていた口を開いた。

「――総員、カナデ殿を何としても王の元に!」

 そして、次の瞬間には自慢の口髭が血で汚れる事も構わずに、兵へと指示を飛ばす。

 場合によっては耳を疑いそうな命令だが、言葉を受け取った聖王国ストレインの兵に迷いはない。逆に戸惑っているのは、指揮官を討ち取ったにも関わらず勢いを失う事無く、戦闘を続行している様を目の当たりにしたグシオン連合国の方だろうか。

 そんな彼らに追い討ちをかけたのは、北側と南側に展開している聖王国ストレインの部隊。正確に言うならば、北側へと迂回したイリスの部隊と、アリシアの分隊と合流したシュバルツ王の部隊がグシオン連合国の予想を上回る程の戦果を叩き出したのだ。

 予想を上回るような戦果。

 まず一つ目として挙げられるのは、アリシアの分隊が手傷を負わせた汚染者であり、将でもあるクレヴァスを討ち取った事。そして、もう一つは一人で百人を超える戦力と成り得るシオンを中心としたイリスの部隊が、怒涛の勢いで南下している事だ。

 もしこの状況を空から見下ろす事が出来たならば、グシオン連合国の部隊は北と南からの猛攻に成す術がないように見える事だろう。つまりは、強国と謳われたグシオン連合国に聖王国ストレインは再び勝利する事が出来るという事だ。

 しかし、その代償は安くはない。一回目の侵攻では王妃シルヴィアを失い、今回は参謀であるゼイガンを失ってしまった。三度目があるのかは分からないが、次も誰かを失う程の激戦になる事は明らかだろう。

「……光だけは失わせない。この命が燃え尽きる事があっても」

 それでも、聖王国ストレインの希望たるイリスだけは失わせない。

 その願いを強く心へと刻み込んだカナデは、ようやく力を取り戻した身を立ち上がらせたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ