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氷結の歌姫  作者: 粉雪草
第二部 もう一度あなたを抱きしめたくて
83/109

最終話 (二)

 聖王国という名を冠する両国の国境線付近にそびえ立つカストア砦を出て、北へ向けて五時間。東側に見えるマベスタの森を視界に収めつつ進軍しているのは、シュバルツ王が直々に率いている聖王国ルストの部隊だった。

 その一員であるカナデは、一度白い吐息を吐くと共に状況を再確認していく。一歩間違えれば二倍の兵力によって、殲滅されてしまうのだから慎重にもなるという事だ。

(……陣は、密集陣形。いや、中隊歩兵陣形に近いか)

 しかし、カナデは心の中で陣の名前を呟いてみたが、どうもすっきりしない気分だった。と言うのは、陣の組み方が基本に忠実ではないからだ。おそらく、ストレインの参謀であるゼイガンの指示を受けて、陣を組んでいるのだとは思う。

 奇策を用いる事を常とする彼の策ならば大丈夫なのだろうが、いざ指示を受けて戦う者は成果を目の当たりにするまで不安だという事である。その感情はどうやら表情に出てしまったようで。

「不安か? まあ、そうだろうな。では、その不安を拭ってやろう」

 共に二列目にいるシュバルツが、いつもと変わらない横柄な口ぶりで述べた。

 しかし、横柄なのは口調のみで、彼はカナデを安心させるために薄っすらと微笑みを浮かべてくれた。その微笑みに少なからず救われたカナデは、一つ呼吸をして心を落ち着かせる。彼が今から語る作戦の全てを脳内に収めるために。

「俺達の陣は……基本的には中隊歩兵陣形だ」

 すると、部隊を率いる王は声音を変えて、部隊に所属する全ての者へと語りかけていく。

 カナデと同じで耳にうるさくない、よく通る声を耳にした兵は一度表情を引き締めたが、ようやく作戦を知る事が出来るという事で、安堵の気持ちの方が強いような気がする。

 そんな騎士達を視界に収めた王は――

「基本的には横に長い三列を維持。交戦頻度の高い一列目が疲弊したら、三列目に位置する部隊が前線に上がる。ここまでは中隊歩兵陣形と同様だ」

 声音を維持したまま、淡々と語る。

 その語りを遮る者は当然ではあるが存在しない。横に長い三列を入れ替えながら戦い、持久戦に持ち込む陣である中隊歩兵陣形。ここまでは基本的な事であり、騎士を名乗る者ならば誰しもが知っている事だ。

 しかし、カナデを含める皆はその先が知りたい。ここで無駄な事を語って、聞きたい内容が遠のく事は耐えられないのである。

 それをよく知っているシュバルツは、素早く冷え切った空気を肺へと収めると。

「同様なのだが……問題はたった一万の兵では、倍以上の兵で攻めてくるグシオンを止められないという事だ。そこで、参謀殿が俺達に託した策はこいつだ」

 一列目、二列目に並ぶ騎士達が左手に持っている大楯を指差した。

 騎士達が持っているのは、片手で楽に扱える小盾ではない。高さ一メートルを優に超える大楯だった。しかも、正気なのかと疑いたくなる事が一点ある。それは二列目に所属する者は左手だけでなく、背中にも大楯を背負っているのだ。そこまでして、防御を優先させる意味は正直な所理解出来ない。

 カナデが知る限りでは、大楯と呼ばれる物は正面と頭上に重ね合わせる事で敵の攻撃を弾き、敵の足が鈍った所へ長槍を持った兵が攻撃するという戦法を用いるのが常だ。

 他には大楯を先ほどと同じように、正面と頭上へと掲げる事で防御を固めながら前進するという陣、確か名前は『テストゥド』というものもあるらしいが、カナデは一度もその陣を組んだ経験はない。しかし、共通して言える事は盾を背負うという発想はどちらにも存在しないという事だ。

 これはあくまで予想でしかないのだが、この未知の発想こそがストレインの参謀であるゼイガンが用意した策に繋がっているのだろう。限られた情報のみで、そこまで思考を進めたカナデは確認するような瞳を、唯一答えを知っている王へと向ける。

「戦いが始まって数刻は、素直に大楯を用いた密集陣形を維持しつつ後退する。そして、ここからが肝心だが……援軍の到達を知らせる『合図』が届いた瞬間に陣を変える。変更する陣はテストゥド。三列目は二列目が背負っている盾を受け取って、防御の薄い場所を埋めながら前進する。俺も含めてだが、この陣を組んだ経験を持っている者は稀だろう。だが、聖王国の未来決まる一戦だ。四の五の言う者は、この場に置いていく」

 すると、王は刹那の時間だけカナデと視線を合わせた後に、変わらない口調で言葉を発した。だが、彼の飢えた獣を思わせる瞳は獲物を見つけたように一度ぎらついたように見えたのは気のせいだろうか。いや、実際にそうなのだろう。彼は何があったとしても勝つ気でいるのだから。

 一度敗戦を経験し、勝利に飢えているというのは分かるが、指揮官としてはいささか不安に思う。だが、そう思うのは異国の騎士であるカナデ一人だけだった。

 汚染者と呼ばれる人外の化け物ではあるが、当然他人の心など読む事などは出来ない。それでも、聖王国ルストの騎士達は身に纏う甲冑を叩く事で喜びを表現しているように見えた。寡黙で気真面目な者が多い騎士という存在は、例外なく多くを語る者は少ない。

 それでも、皆で統一的に一つの行動を取る事で、言葉で表現する以上の想いを伝える事が稀にある。騎士でない者が見れば、愚かしいと思うのかもしれない。

 しかし、不器用な生き方しか出来ない騎士にとっては、最も重要な事だろう。

「まあ、俺の国に所属する騎士だ。臆する者などいる筈もなかろう。前半は苦渋の時だろうが……皆、俺を信じろ。そして、俺が心から信じる貴殿達を信じ抜け! 王たる俺が述べる事は以上だ」

 そして、王である以前に騎士でもあるシュバルツには、彼らの想いは正しく伝わったようで。シュバルツは想いに応えるために、左拳を天へと掲げると共に叫び声を上げた。

 ――刹那。

 寒空を震わせたのは騎士達の咆哮。シュバルツが述べた事は何の根拠もないものであったのだろうが、彼らにとっては王が信じてくれる事が何よりも嬉しいのだろう。

 カナデ自身もイリスの『代行者』を名乗っている事もあり、彼女の信頼に応えるために刃を握っている事を思えばよく理解出来る。だからこそ、カナデは彼らに倣って、声を張り上げた。所属する国は違えど、想いは共にあるのだと。

 ここにいる全ての者達に伝えるために。

 この場に女性は一人しかいないために、少々目立ってしまったように思う。だが、それで良かったのだと、数瞬の間を置いて理解する。迷いと不安を振り切ったカナデを、一度は衝突した事もあるルストの騎士達は認めてくれたのだから。

 そして、全ての準備が整った事を肌で感じたのだろうか。

「一列目、二列目――大楯用意! 基本的には防戦に徹するが、隙あらば喉元に食らいつくつもりでいろ!」

 皆の運命を背負ったシュバルツは、迷う事なく、彼らしい言葉で檄を飛ばした。

 その瞬間。一列目は眼前に迫る敵に備えて大楯を正面に。同時に二列目に所属する騎士達は大楯を頭上に掲げて前進を開始する。そして、最後に三列目は機会があるかは分からないが、腰から素早くボウガンを抜き放っていた。

 王の命令を従順に聞いた三列目の騎士達は、隙を見つけたならば大楯の隙間からでも敵を狙い撃つつもりなのだろう。この気迫はストレインにもロスティアにもない、聖王国ルストの騎士達が持っている独自の強さだろう。敵であれば恐ろしいが、今は味方である事が素直に喜ばしいと思ったカナデは、一度息を吐いて心を落ち着かせる。

 ――一分、二分。

 総勢一万の騎士達が奏でる金属が擦れる音を聞いたカナデは、そっとナイフホルダーへと左手を差し伸ばす。それと同時に鳴り響いたのは、二つの音色。

 一つは汚染者の力が正常に働いた事で鳴り響いた、物体が凍てつく涼やかな音色。そして、もう一つは甲冑が鳴らす金属音も、微かな吐息の音すらも吹き飛ばす乱暴な音だった。

 前者は言うまでもなく、不測の事態に備えてシュバルツ同様に大楯を持っていないカナデの力が発動した音で、そして、もう一つは噂でしか聞いた事がないグシオン連合国の新兵である『小銃』が発した音だろう。

「――カナデ!」

 音のみで危険を察知したらしいシュバルツは素早く、名を呼んでくれた。

 その言葉に込められているものは絶対なる信頼。この穢れた手が形成せしめた物を、彼は現状を打開出来る切り札として信じてくれたのだ。

「分かっている!」

 その信頼に応えたカナデは全てを切り裂くような鋭い一声を発すると。

 目にも見えない速さで、遥か先まで見通せるのではないかと思う程に透き通ったナイフを下投げで投擲する。カナデのナイフによる氷壁展開。それは事前に用意していた防御手段の一つではあるが、さすがによく訓練されている騎士達は、一つ瞬きする間に重ね合わせた大楯に僅かな隙間を空ける。

 その微かな隙間に針を通すような正確さを持って駆け抜けたのは、カナデが投擲したナイフだった。

 空を切り裂いたナイフは、今だ正体が分からない小銃という兵器が放った『物体』と衝突して、刹那の時間を要して、その力を発動させる。展開したのは数にして、五つの氷壁。

 高さ五メートル、横幅二メートルを有する氷の壁がルストの騎士達を守るように顕現したのである。その様を一言で表現するならば、まさに城壁だった。

 簡易的に作られた壁ではあるのだが、鼓膜を破壊するような音を鳴り響かせる兵器の攻撃を受け止めても揺らぐ事はなく、逆に自身の一部にするかのように、触れた物体を氷の結晶へと変貌させていく様は不気味な程に頼もしい。

 実際は衝突するまでは効果の程は未知数だったが、どうやら防御の手段としては有効らしい。そう判断したのは、どうやらシュバルツも同じようで。

「効果はある! こちらの有効射程まで接近! 一斉射の後に大楯を構えつつ、後退!」

 部隊を率いる王は素早く次の指示を飛ばした。

 その号令を受け取った騎士は、確かな重量を誇る大楯を持ちながらも鋭い一歩を氷結花が咲き誇る平原へと刻み込む。と言っても、接近して騎士の誇りたる剣にて敵を討つのではない。

 こちらが攻撃手段として選ぶのは、王が指示をした通りにボウガンによる一斉射だ。ボウガンにしろ、銃と呼ばれる物にしても遠距離で戦う兵器は接近戦には弱いものだ。それは分かっていても、兵数で劣っている状況で敵の懐に入るのは危険だと判断したのだ。

 その判断が正しかった事は数瞬の間を置いて、皆は知る事になる。

「――王! 右翼に歩兵部隊が接近。数にして、大よそ一万!」

 きっかけは右翼と呼ぶのが正しいのかは分からないが、カナデから見て右手側に位置する騎士の一人が報告した事が始まりだった。

(……正面に銃を持った部隊を配置。飛び込んだら歩兵隊と挟撃か)

 怒鳴り声にも近い報告を耳にしたカナデは、視界が制限される中で情報を整理していく。

 それと同時に、このまま前進していいのか疑問に思う。汚染者の力を使えば正面に存在する小銃を持つ部隊に攻撃出来る。だが、後退が遅れれば敵の歩兵隊に側面を突かれてしまうだろう。如何に大楯を持っているとしても、正面と側面を突かれては耐えられるかどうかは分からない。

 しかし、これ以上考えても仕方がない事は分かっている。判断するのはカナデではなくて、王たるシュバルツなのだから。

「――このまま前進! ただし数秒で結果を出せ!」

 当然、その程度の事は熟知している王は即座に判断を下した。

 指揮官に求められる素養として大切なのは、如何に冷静であるかという事。そういう意味では、彼の指示には疑問も残る。だが、どれだけ冷静でも判断が遅い指揮官は戦場では役に立たない。彼のように数秒で決断出来る力がある部隊は、時に予想も出来ない戦果を上げる事も事実なのだ。

 退くのが正解なのか、それとも刹那の時間も無駄にせずに突き進むべきなのか。

 どちらが正しいのかはカナデには分からない。だが、王が進むと決めたのならば、もう迷いはない。イリスの代行者たるカナデは、彼女が信じた王を疑おうとは思わないのだから。

「二秒後に氷壁を消す! その間に有効射程へ!」

 内に浮かぶ疑問も、迷いも吹き飛ばしたカナデは、戦場へと天から授かった耳にうるさくないよく通る声を届ける。

 ――次の瞬間。

 一秒すら惜しいと感じた騎士は弾かれたように前進を開始。騎士達の鋭い一歩は地に咲く氷の花弁を無数に舞わせ、着実にグシオン連合国との距離を縮めていく。

 目測で敵国との距離が三十メートルに接近するために要した時間は、僅か一秒。

 そして、残りの一秒でやるべき事は決まっている。まるで心でも通じ合っているかのように、一列目にいる騎士達は重なった大楯の間に矢一本分の隙間を空けて、三列目にいる騎士は迷わずに引き金を引いた。

「――砕けろ!」

 それを合図にして、カナデは眼前に展開する氷壁に言葉と想いを届ける。

 想いを受け取った、どこまでも美しい壁は一度乾いた音色を響かせて。意図した通りに粉々に破砕され、平原へと氷の雨を降らす。その間を通り抜けたのは、ルストの騎士達が放ったボウガンの矢と、グシオン連合国の新兵器が射出せしめた弾丸だった。

 しかし、その内の三割は降り注ぐ氷の結晶によって同一の物体へと姿を変えて、涼やかな音色を響かせるが、残りは敵を殺すためだけに真っ直ぐに突き進んでいく。

「――大楯、用意。決して離すな!」

 未知なる兵器の威力がどれ程のものなのか判断出来ないためか、シュバルツは後退の指示よりも前に防御を優先した。その指示が大げさではなかった事は、すぐに証明される。

 轟音を轟かせ続ける兵器は、斧ですら弾き返す大楯を揺らし、それだけでなく伝わる衝撃だけで一列目にいる騎士を後退させる程だったのだ。さすがに開発段階という事はあって、貫通するという事はなかったようだが、これが正式採用されれば脅威となる事は間違いないだろう。

 しかも、驚くべきは攻撃の頻度が明らかに速い事だ。事前に聞いた情報では、一発射出する度に弾を込めなければならず、ボウガンと比べて次射に時間が掛かるという話だった。

 だが、実際はボウガンと遜色がない程に速い。もはや間髪入れずに放たれているのではないかと思う程である。

(このままでは一列目が耐えられないな。ならば……!)

 もはや迷う時間も、判断を仰ぐ時間もない。

 そう結論付けたカナデは、一度隣に立つシュバルツに視線で合図をしてから、内なる力を呼び起こす。

「――待て!」

 重なった瞳だけで、カナデが何をしようとしているのかが分かったのだろう。王は引き止めるために、カナデへと向き直ろうとしているようだった。

 だが、その時間すら惜しいカナデは――

「……行ってくる」

 すぐさま氷装具を展開すると共に、地を蹴りつけた。

 人外の力を得た体は、一時重力を無視するかのように浮き上がる。だが、それだけでは高さが足りないと判断したカナデは、眼前に見える地面と垂直に構えられた大楯の頂上を目標に片足を向けて。

 次の瞬間には、小銃の弾丸を受けて揺らぐ大楯を足場に再び跳躍。五メートルという高みまで到達したカナデは、迷わず腰に固定されているナイフホルダーへと手を伸ばす。

 ――一投、二投。

 空中で姿勢を制御しながらも、カナデは汚染者の力を受け取ったナイフを投擲する。

 一投擲目は、右腕を振り下ろすように真下へ。グシオン連合国の部隊と聖王国ルストの騎士達との間に投擲する事で、先ほどと同じように氷壁を展開する。

 氷壁を展開しての一時的な防戦という手段を取った事は、誰もが予想出来る範囲であろう。では、二投目はどこを狙ったのか。

 その答えは視線を右へと向ければすぐに分かる。今まさに側面を突こうとしているグシオン連合国を狙って放たれたナイフは、柔らかな土を貫いて、行く手を阻む壁を形成せしめたのだ。しかし、行く手を阻むと言っても、相手は歩兵隊。進路を変更したならば、防壁としての効果を発揮する事は出来ず、また数秒の時間を相手に浪費させるだけに過ぎないだろう。

 しかし、部隊が衝突する刹那の直前では、ものの数秒の差でも結果は大きく変わる。それを証明するかのように、上昇を終えて、自由落下に移行したカナデの瞳に映ったのは大楯を崩された無残な姿ではなくて、楯を重ねて一歩、二歩と後退を開始した騎士達の姿だった。兵数で言えば倍を誇るグシオン連合国を相手に油断する事は出来ないが、初撃は辛うじて防ぐ事が出来たと言っても過言ではないだろう。

 だが、その戦果に対して両手を上げて喜ぶ事は出来ない。特に逃げ場が見当たらない宙に身を投げ出したカナデにとっては、これからが本番だ。氷壁によって小銃を無効化にされた者達の銃口が、上空へと向く可能性があるからである。

 しかし、その程度の事でカナデが生きる事を諦める事はない。

 そもそも自身の代償は命なのだ。元から命懸けのカナデが、少々不利になったくらいで臆する事などないのである。しかし、それは心の持ちようのみで。

 恐怖に対して正直な体は震えているような気がする。しかし、その震えを押し殺したカナデは、轟音を耳にした瞬間に禁忌の力を振るう。

 ――禁忌の力。

 それは汚染者の内なる力と結びついて、力として形を成す氷装具だ。カナデの場合は凍てついた大鎌として顕現し、力を振るう刃は常人では視認する事も叶わない速度で視界に入る物を切り裂いていく。だが、宙を駆ける弾丸を防ぐ事が出来たのは、二つの閃光が瞬く間のみ。つまりは、カナデが握る大鎌が横薙ぎに走り、すかさず返す刃で自身を狙う凶弾を弾き飛ばすまでが限界だった。

 もはや構え直す事もせずに、返す刃の勢いに乗って回転したカナデの薙ぎ払うような一閃を縫うように飛来した弾丸は、防御能力など皆無である漆黒のローブを易々と貫いて、色鮮やかな血を溢れさせる。

(……この程度で!)

 銃弾を初めて受けたカナデは意識が吹き飛びそうになるのを必死で堪えて、力を内から外へと解き放つ。弾丸が肉を抉った瞬間に、血を固まらせる事で致命傷となる事を未然に防いだのである。

 全てを凍らせる汚染者からすれば至極当然の事だが、ただの一般人が見たならば、ただの少女が弾丸を弾き飛ばすという光景は目を疑いたくなる光景だろう。

 それは、今の今まで休む事なく放たれていた銃弾の勢いが目に見えて弱まった事で説明出来る。しかし、カナデはそれをも計算に入れていた。

 どれだけ訓練した兵でも、未知なる恐怖に抗う事は出来ないという事をよく知っているからだ。これは化け物と呼ばれた事がある者であれば、薄々と気づく事でもあるだろう。汚染者が一般人に対して敵意など持っていなくても、目の前で物体を凍らせただけで大の男は恐怖にその身を強張らせる。そんな光景を一度、二度だけでなく、片手で数えきれない以上も目にすれば分かってしまうのだ。

 普段であれば溜息が出そうな事実ではある。だが、今は勢いが弱まった事を好機と見て、着地地点である平原へと自身の体を落としていく。

 当然、ただ体が重力に引かれて落ちていくのを待っているだけではない。すかさず左手をナイフホルダーに伸ばしたカナデは、力を調整して真下に向けて投擲する。

 全力で投げる事をしなかったのは、目標が平原ではないからだ。では、どこだというのか。その答えは自身の足だ。もっと正確に言うならば、自身の足が通過する場所と言えばいいだろうか。

 ボウガンにしろ、銃にしても、ただ下へと落下するだけの単調な動きをする相手を狙うのは容易だ。ならば、不規則に宙で軌道を変える相手であれば、多少は狙いにくいのではないかと考えたのである。

 その考えは正しかったようで。

 宙でナイフを蹴りつける瞬間に氷壁を展開し、それを足場に方向を変えていくカナデをグシオン連合国は捉える事が出来ないようだった。おそらく、空中で足場を作る事を想定していなかったのだろう。以前のカナデは、特にイリスと旅をしていた頃は考えなしに突撃した事もあったように思う。しかし、今は違う。

 ――大振りな武器を扱う者は時には不規則な動きを求められる。

 そう教えてくれたアリシアの言葉を戒めにして、常日頃から内なる力の使い方を考え続けているのだ。

 考え続けている理由は、ただ一つ。決して足を止めたくはないからだ。

 イリフィリア・ストレインという世界を照らす光は常に前へ、前へと進んでいく。その影たる代行者が立ち止まる事など許されはしないのだ。だからこそ、女王の代行者は決して立ち止まる事無く、時には汚れた力に頼ってでも闇を追い払う光を追っていく。

 それがカナデの戦いなのである。

 実を言えばカナデは前回の戦争によって、英雄となる事も出来た。しかし、それは望んだ道ではない。世界から居場所を失った者が望むのは、平穏なのだから。

 言い換えれば、取り戻したいと願ったのは当たり前に笑える日常なのだ。だからこそ、カナデは選んだ答えに後悔などはない。むしろ、自身が選んだ『答え』に満足すらしている。

 そんなどこまでも迷いのないカナデは足場を利用する事で勢いを殺して、ゆっくりと平原へと降り立つ。その様は見つめたのは、先ほど形成した氷壁の向こう側で銃を構えるグシオン連合国の兵達だった。

 たった一人に人外の化け物に対して、相手は数千の部隊。

 現実で考えれば対抗出来る手段などないように思えるが、そびえ立つ氷の城壁はカナデの意志の強さを表すかのように全く揺らぐ事はない。その様を目の当たりにした騎士剣程の長さを誇る単発式の小銃を、間断なく放つ事を目的として横三列に並んだグシオン連合国の兵達の表情は、徐々に青ざめているように見るのは気のせいではないだろう。

 中には口々に「化け物」と呟き、そして畏怖の視線を注ぐ者すらいる始末だ。しかし、カナデはもう迷わない。どうしても、助けられなかった騎士の瞳が脳裏に浮かんでしまうが、それでも氷装具の柄を握り締める右手の力は緩む事はなかった。

 否、緩める事など出来はしない。それはイリスの代行者であるからという事もあるのだが、もう一つ理由がある。

 平原に足を付けたばかりのカナデではあるが、自身の目論見では数秒は暇があると思っていた。言うならば、後方へと跳躍する事で距離を取るくらいの事は出来ると思っていたのだ。

 しかし、そんなカナデを叱咤するかのように。冷たき現実は容赦なく、力ある者へと試練を与える。試練という言葉を使ったが、得てして特別な事が起きた訳ではない。

 ただ眼前に展開する氷壁に亀裂が入り、粉々に破砕されただけだ。とは言っても、ボウガンとは比較にならない程の破壊力を保有する小銃ですら破壊出来ない壁を、一体どんな手段で破壊したというのだろうか。

 だが、カナデがその点に思考を走らせる事が出来たのは一秒にも満たない時間だった。自身の力がこの世界において、ただ一人に与えられた特別な力であるというのであれば驚きに目を見開いたのだろうが、汚染者と呼ばれる者は国に少なくとも一人か、二人は存在する。特に人口が多いグシオン連合国ならば、当然いると考える方が自然だ。

 そう素早く結論付けたカナデは、粉雪のように舞う、細かな氷の結晶を突き進んでくる「何か」に漆黒の瞳を注ぐと共に、左足を一歩後方へと下げる。

 そんなカナデを追うように迫ったのは、色鮮やかな真紅のローブに身を包んだ長身の男だった。彼がそれぞれの手に握っていたのは予想した通りに、カナデが握った氷の大鎌に似た凍てついた氷槍。しかし、氷槍と言っても、その長さは一メートル程で実際に相手を突くだけでなく、投擲する武器でもあるようだ。

 どうやら武器を観察している事に気づいたのか――

「グシオンの将、クレヴァス。まずは、初めましてと――そう言っておきましょうか!」

 肩まで伸ばした銀髪を揺らした男は将軍というよりも武人らしく名を名乗ると。

 すかさず左手に握った槍を挨拶代わりに投擲した。しかし、挨拶代わりだとしても、人外の力を得た汚染者の力による投擲だ。単純な速さは小銃以上で、一つ瞬きする間には標的たるカナデの目と鼻の先まで迫っていた。

 だが、カナデとてぼうっと立っていた訳ではない。予想外の状況に反応した体は自然と右足を後方へと下げて、ほぼ反射的に振り上げた大鎌は日の光を吸って煌めいていた。輝いた一閃は眼前に迫る槍を破砕し、刹那の時間だけ、ここが戦場であるという事を忘れてしまいそうな煌びやかな世界を作り出す。

「とりあえずは、小手調べです。それでは、本命の一突き――避けられますか!」

 だが、光に満ち満ちた幻想的とも言える光景を見る事もしない武人クレヴァスは一度気迫が込められた叫び声を上げると、言葉通りに真っ直ぐに槍を突き出した。

 砕けて宙を舞う細かな氷さえも貫くかのような精度を持った一撃は、ようやく後方へと下げた右足が地を踏むのと同時に、再び眼前へと迫る。

(速いな。だが……)

 まるで流れるような動作で攻撃を繰り出すクレヴァスを心中で賞賛するカナデ。

 しかし、速いと感じたのは常人と比べてだ。同じ汚染者であるカナデからすれば、対応可能な速さであるように思う。

 それを証明するために、カナデは一息の間に振り上げた大鎌を降ろし。次の瞬間には左手で逆手に引き抜いたナイフを振り上げていた。

 結果として。頭上へと弾き飛ばされたのは、クレヴァスと名乗った細身の男が突き出した氷槍。死に体と言っても過言ではない程に無防備な胴を曝け出した相手を、カナデはどこまでも涼やかな瞳で見つめ続ける。

「……この状況で来ませんか。どうやらあなたを侮っていたようですね。その非礼は侘びましょう」

 対するクレヴァスは落ち着いた動作で半歩下がり、再び両手に氷槍を形作る。

 その動作はどこまでも自然で、もし彼の無防備な胴へと踏み込んでいたならばカナデの体は貫かれていたのではないかと思ってしまう程だった。いや、おそらく貫かれていたのだろう。確信はないが、それだけの技量が彼とカナデとの間にはあるような気がする。

 現在、対抗出来ているのは、グシオン連合国の将はカナデの力量を推し量っている最中であり、本気ではないからだ。弱気に取られても仕方がないような事を考えている気もするが、カナデ達の役目は彼らを誘き出す事。これ以上は無理な行動はせずに、常に慎重に立ち回りながら、イリス達の援軍を待つべきだろう。

「叶うならば……一騎討ちなどしてみたい所ですが、状況が許しませんね」

 しかし、思考を進める事が出来たのは、ここまでだった。

 地を蹴った事で真紅のローブをはためかせた彼が再び槍を突きだし、そんな将軍を援護するように、後方で待機していた小銃を抱えた部隊が引き金を引いたからだ。

(……これ以上は無理だな)

 戦闘狂に付き合うのも、たった一人で数千を超える兵と戦う義理もないカナデは、短い草が生い茂る地面を強く蹴りつける。

 それが新たな戦いの合図となって。

 氷の刃を振るう人外の存在は、持てる力の全てを正面から激突させたのだった。


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