最終話 (一)
最終話 ―― あなたの居場所 ――
二つの宗教国家の国境線に存在するのは、一つの雪原地帯。
常日頃から雪が舞う事が多い白と銀に包まれた世界は、美しく、煌びやかな空間であるといえるだろう。そんな一点の穢れ無き場所である、フロスト雪原にて。
「……この場すら汚すか」
まるで独り言を述べるかのように言葉を紡いだのは、血染めの舞姫だった。
いつも通りに真紅の甲冑に身を包んだ彼女は、両手に握っている突撃槍の柄を強く握り締めて、眼前を睨みつける。視線だけでも人を殺せそうな殺気を受け取ったのは、膝丈まで積もった雪を踏み抜きながら進む一人の男。
積もった雪と同色の穢れ無き白の衣服を身に纏った、全ての始まりたる男だった。
「なるほど。私はあなたにとっては雪原すら穢す汚物ですか」
その男――教皇は舞姫が何気なく呟いた言葉に律儀にも言葉を返した。
その声音には感情は含まれていないように思う。恐怖も後悔も謝罪の気持ちすら込められていないというのだ。まるで中身のない人形が口を動かしているかのような不気味さすら感じさせる程に、こちらに一歩、また一歩と近づいてくる人物からは何も読み取れなかった。
(……あなたは怒っているのだな)
だが、不気味さを感じる舞姫とは違って、内に眠る少女は後悔の念すら抱かない教皇に対して、言葉では言い表せないような怒りを燃え上がらせているようだ。その熱は舞姫という器を内側から溶かす程に熱く、外側へと出さないようにするだけでも骨が折れる気がしてならない。
いっそ外へと出して、のこのこと一人でやってきた教皇を串刺しにさせてあげるのもいいのかもしれない。だが、その前にやるべき事はある。
武器すら持たない者を殺す事は容易いが、その前に目的くらいは聞いておこうと思ったのだ。このような思考は、以前の舞姫にはなかったのは言うまでない。おそらく対話をする事の意味を教えてくれたのは、自身に近しい存在である「氷結の歌姫」だろう。
そんな事を思いながら、ゆっくりと口を開きかけた瞬間。
「何をしにきた!」
舞姫に代わって、教皇へと言葉をぶつけたのはキルアだった。
クエリア神国の中で一番の年少者である彼は、憎むべき相手を視界に収めた事で理性を制御する事が出来なくなってしまったようだ。普段ならば誰かが止めに入るのだろうが、今回ばかりは彼の言葉を否定する者はいない。それぞれ想いは異なるのだろうが、教皇に対して怒りと憎しみを抱いている事は同じだからだ。
「何をしに来たと……そう問いますか。わざわざ『敵』に目的を告げるのも愚かしいのですが……今回だけは答えましょう。私は私自身が成した事の責任を取りに来ました」
キルアだけでなく、皆の視線を受け止めた教皇は両手を左右へと真っ直ぐに伸ばす。
その姿はまるで手にした剣で我が身を貫いてくれと言っているようだった。おそらく、それがここに来た目的。自身の命を捧げて、舞姫達が戦う理由を消し去ろうとしているらしい。
相手の思惑に乗るのは危険だと思うが、この場にいる者は手にした刃を止める事は出来ないだろう。自身の命すら捨てる覚悟を持って、復讐をすると決めた者達の集まりがクエリア神国なのだから。
(……これでいいのか?)
しかし、舞姫は訪れる結末に一人納得出来ないでいる。
理由は至極簡単で。ただ憎むべき相手を殺し、それで終わりだと言われて納得出来るのか疑問に思ったのだ。おそらく心は晴れる事はない。ただ全身を絶望感が覆い尽くすだけのような気がする。
だが、舞姫の思考はここで中断される。怒りに囚われた者達は、もはや飢えた獣のようにただ一人の人間を殺す事しか頭にないのだから。
「――理由なんてどうでもいい! 俺達の想いを……憎しみを受け取れ!」
きっかけはキルアの叫び声だった。
彼の声に導かれた者達は一斉に腰に固定されているボウガンを引き抜いて、地面と平行に構える。たった一人でも矢を射出すれば、目測で五歩の距離を空けて立ち尽くす教皇を絶命させる事は赤子の手を捻るよりも容易だろう。
ならば、代表して叫んだキルアのみが放てばいいと思うのかもしれない。だが、皆は一斉に矢を放つ事だろう。この場で矢を放たなければ、内にある感情を制御出来ないからだ。人は理性ある生き物だと言うが、結局は感情で生きる生き物なのかもしれない。
そういう意味では人と混ざった舞姫も感情で生きる存在と言えるのだろう。
「――止めろ!」
それを証明するかのように。
舞姫は内なる疑問に従って、静止の言葉を叫んでいた。内に眠る少女と記憶を共有している事もあって、彼を恨む気持ちは確かにある。だが、このまま終わらせてはいけないような気がしたのだ。
戦う事しか、人を疑う事しか出来なかった舞姫に対して、歌姫は正面から向き合ってくれた。そんな彼女なら別の方法で、この場を収める事が出来るような気がしたのだ。
しかし、世界は舞姫が思っている以上に冷たくて。
まるで舞姫の叫び声を打ち消すかのように、無数の音が鳴り響いた。
音の正体は確認せずともボウガンの射出音だと分かる。彼らは舞姫の言葉よりも自身の内から湧き出す感情に従ってしまったのだ。そう思うと「神」と崇められていた事が滑稽に思えてくる。結局、舞姫は彼らを導く事も、眼前に広がる一つの生命の終焉も止める事も出来ないのだから。
(……これで終わり。そして、これが人という存在か)
今さら何をしても結末は変わらないと悟った舞姫は真紅の瞳を閉ざす。
それと共に、人という存在の汚さに再び絶望してしまう。今回命を落とすのは、その理由が確かにある教皇だが、次はおそらく未知なる獣として恐れられている氷雪種だろう。
確信はないのだが瞳を閉ざし暗闇の中に身を置くと、氷の鱗に身を包んだ仲間達が次々と射出された矢によって、貫かれる姿が鮮明に浮かんでしまうから不思議だ。
――だが。
全てを諦めた舞姫を救ってくれたのは、一つの小さな存在だった。
「――こんな結末は認めないよ」
雪原に響いたのは幼いようで大人びた不思議な声。
おそらく一度聞けば忘れないであろう、その声を耳にした舞姫は弾かれたように真紅の瞳を見開く。
それと時を同じくして、氷が砕かれる涼やかな音色が忙しなく鳴り響き、教皇を狙った矢の尽くは粉々に破砕される。こんな人の常識から外れた事が平然と成せるのは、世界は広いと言っても、ただ一人しか存在しないだろう。
「――氷結の歌姫」
その名を自然と口に出した舞姫は、雪のように白い霧を纏う少女を見つめる。
まるで重力を無視しているかのように、ゆったりと降下する人外の存在。腰まで届く髪も肌も、身に纏うワンピースですら真っ白な少女を、ただ呆然と見つめ続ける他に舞姫は何も出来なかったのだ。
対する歌姫は、舞姫の視線に気づいたらしく教皇に背を向ける恰好で舞い降りると。
「また会ったね。約束通り……お話しましょう」
小さな両手を差し伸ばして、歌うように言葉を紡いだ。
その声は確かな力を持っていて、眼前で展開された状況に追いつけないクエリア神国の者達は一時、手にしたボウガンの構えを解いた。つまりは、狂気の塊となった者達が呆気に取られてしまう程に、歌姫は常識から外れた存在だという事だ。
しかし、彼らを止めたいと願った者にとっては、これが最後の機会であると言えるだろう。その好機を逃す訳にはいかない舞姫は――
「私の許可なく……この男を殺すな」
指示を聞いてくれるかどうかは定かではないが、一歩前へと進むと共に狂信者と呼ばれる者達へと内なる気持ちを伝える。
――その瞬間。
突然の介入者によって強制的に止められていた時間は、まるで思い出したかのように動き出す。だが、動き出した時間は舞姫の味方をしてくれる事はなかった。それを説明するには、再び上がった叫び声に向けて耳を澄ませば誰であっても理解出来るだろう。
「どうしてですか!」
すでに予想をしていたが、皆を代表して声を荒げたのはキルアだった。
彼の号令を聞いて皆は矢を放ったのだ。その勢いを再び作り出すのも、またキルアであるのは至極当然な事だろう。と言っても、クエリア神国の中で最年少である彼は、単に感情を上手く制御出来ないだけの話なのかもしれないが。仮にそうであるとするならば、彼が納得出来る言葉を伝える事が出来れば、事態は収まる可能性もある。
「私とて内なる感情に従って、眼前にいる男を八つ裂きにしたい――」
「ならば、指示を!」
彼を納得させる。そう決意した舞姫が言葉を届けようとすると、キルアは聞く耳を持つ様子もなく言葉を被せてきた。
おそらく、どんな言葉を吐き出しても彼は同じ行為を繰り返す事だろう。それは分かっていても舞姫は開いた口はそのままに、キルアを無視して続きの言葉を選んでいく。
「――八つ裂きにしたいが、これでいいのか分からない。こんなにあっさりと憎むべき相手を殺して……我らは救われるのか? これが私達の望みなのか? もし、これが望みだと言うならば……教皇の血を浴びた後に、私達は何を望むのだ?」
だが、結局外へと紡ぎ出されたのは、純粋な疑問だった。
それだけでなく、疑問を外に出した瞬間に気づいた事もある。それは、クエリア神国の戦いはすでに終わっているという事だ。
なぜかと言えば、目標であった教皇はいつでも殺せてしまうからだ。
恨みも憎しみも数秒の暇さえ与えてくれれば、全てぶつける事が出来てしまう。それゆえに、その先の景色を見渡す事が出来てしまうのである。光も希望もない、空虚な闇が。
その闇を見せるために教皇がこの場にやって来たというのであれば、彼は人ではなくて悪魔だろう。いや、それ以上に醜悪な存在なのかもしれない。あえて、言葉にするならば闇の化身だろうか。
しかし、舞姫は憎むべき相手がどうしても闇の化身には見えなかった。
確かに教皇の瞳は、まるで氷で出来ているのではないのかと疑ってしまう程に冷たい。だが、冷気すら纏っていそうな瞳は時折、人間の感情を思い出したかのように揺れるのだ。
その揺れが止まらない限り、彼は対話が可能な人間だと思えるのである。
だが、それは舞姫の個人的な想いであって。
「何も望まない! 俺達はこいつを殺して――それで終わりなんだよ」
ただ一つの想いを胸に抱いたキルアは内から湧き出た想いを力に変えて、手に握ったボウガンを投げ捨てた。どれだけ矢を放っても、歌姫が空中で凍らせてしまうと判断したのだろう。つまりは、遠距離からの攻撃ではなく、新たに抜き放った剣で突き刺すつもりらしい。
数千の矢すら凍らせて見せた人外の存在に対して、無計画に飛び込むなど自殺行為でしかないように見える。だが、クエリア神国に集まった者達は『狂信者』と呼ばれる程に歪んでしまった者達の集まりだ。
すでに何も考えられなくなった彼らは、キルアに洗脳でもされているかのように全く同じ行動を取った。どうやら自身の未来がはっきりと見えた事で、吹っ切れてしまったらしい。どうせ死が訪れるならば、早い方がいいとでも思ったのだろう。それは憶測ではなくて、ある種の確信となって舞姫の心を駆け巡る。
『……私も行くよ。ううん、私が終わらせないと』
確信を得る事が出来たのは、どう動くべきか悩み止まっていた体が唐突に動き出したからだ。その理由は考えずとも理解出来る。
悩む舞姫の意思を押しのけた内に眠る少女が、意識の前面へと出て来たのだ。今の今まで舞姫に全てを任せてくれた少女は、ここに来て自身の想いを優先させたのである。
『ごめんね。ずっと、あなたを見てきたから……気持ちは分かるよ。あなたは間違っていない。ううん、たぶん人が生きる道としては正しいと思う。でも、私は……私達は他に道を選ぶ事は出来ないの。たぶん何度生まれ変わっても……同じ境遇になったら同じ選択を選ぶのだと思う。だから……ごめんね』
もはや体の自由を失った舞姫は、まどろむ意識の中で少女の心の声を聞く。
その間にも一歩、二歩と駆けた少女は、目標である教皇との距離を詰めていく。元々、距離が開いている訳ではなかったために、すでに眼前には氷結の歌姫が立ち塞がっているようだった。共に歩んだ少女は、戦いのない平和な世界を願う歌姫すら突き刺すのか。
以前は世界の冷たさに絶望していた舞姫は、手にした突撃槍で穢れ無き白い体を貫いた。だが、今は間違っていたのだと薄々気づいている。そう思わずにはいられないのは、氷結の歌姫が約束を守ってくれたからだ。
歌姫から舞姫へと送られた一方的な約束ではあったのだが、正直な事を言うと舞姫は不思議と心が温かくなったように思う。
そう。
言うならば、歌姫は舞姫を覆う闇を一つの言葉で吹き飛ばしてくれたのである。そして、今も彼女は戦場で孤独な戦いを繰り広げている。誰がどう見ても、分かり合えないと分かる者達を相手にして、変わらず一つの歌を奏でるために。
しかし、舞姫は一つ勘違いをしていた事に数瞬の間を置いて気が付いた。歌姫は決して一人ではなかったのである。確かに彼女は自身の霧を使って、氷雪種を呼ぶ事が可能だ。
だが、もっと他に心強い味方がいたのである。。
「――ソフィ!」
その心強い味方は、雪原を震わせるような力強い言葉を発した。
ただ大切な人の名前を呼んだだけなのだが、その言葉はどこまでも真っ直ぐで、それでいて鋭い。まるで放たれた矢の如く雪原を駆けた言葉は、確かな力となって歌姫へと伝わった事だろう。
それを証明するように。
「――数多の想いを繋いで、ただ分かり合えますように」
歌姫はすでに自らが成すべき事しか頭にないようだった。
ただの人であれば致命傷となる一撃をその身に受けたとしても、霧が溢れるだけで死す事はない歌姫と舞姫であるが、殺す事が出来ないという訳ではない。仮にこの場にいる者達の全てが歌姫を貫けば、存在が消失してしまう事は当然知っている筈だ。
それでも、歌姫はその名前の通りに澄んだ歌声を戦場に奏で続ける。言葉の通りに、ただ分かり合うために。
(……ならば、私も私の道を進もう)
歌姫が自分の道を貫くと言うのであれば、舞姫も心に浮かぶ想いに忠実に生きたいと思う。何が正しくて、何が間違っているのかは分からない。
それでも、舞姫は内に浮かんだ一つの想いを、共に歩んできた少女へとぶつけたい。そして、一緒に悩んでみたいと思う。
(――声を、想いを聞いて!)
そう願った舞姫は、心の中で必死に叫ぶ。
雪原を優しく包む銀色の粒子が想いを届けてくれると信じて。そう強く、強く願った舞姫は心の中で叫び続けたのだった。




