第五話 (五)
耳に痛い程の静寂が包む中で。
まるで眠りから覚めるかのように深緑の瞳を開いたのはイリスだった。
(……まぶしいですね)
今の今まで暗闇が視界を覆っていたからなのか、玉座の間に差し込んだ光は確かな痛みとなって瞳を貫く。どうやら瞳を閉じて休むつもりが、転寝をしてしまったらしい。
一国をまとめる女王が玉座で眠っていたなどと知られれば、いい笑い種となってしまう気もするが、幸いにも現在は早起きを心情とする者が目覚める時刻だ。
当然、この場に控える参謀も、真紅の絨毯が敷かれた道の左右に並ぶ騎士の姿もない。つまりは、イリスが黙っていれば誰にも知られないという事だ。
その事実に安堵して、一つ息を吐こうとした時。
「……やはり完璧な人間というものは存在しないのだな」
突如として、低い声がイリスへと届けられた。
慌てて身なりを整えて、と言っても、ただ背筋をまっすぐに伸ばす事しか叶わなかったのだが、何とか場を繕うイリス。その行動の背景には王らしい威厳を保とうとする精一杯の気持ちが込められているという事は、ここだけの話にしたい。
「気にする事もないだろう。先日までルストへと旅立っていたのだからな。それに国にいる間は……ほとんど寝ていないとも聞く。転寝したくらいで騒ぐ人間はいよう筈もあるまい。そう言う俺もどちらかというと……年相応の寝顔が見られて安心しているくらいだ」
だが、そんな精一杯も一回り年が離れているセドリックには通じなかったようで。
薄っすらと微笑みを浮かべた鍛冶師は一定の歩幅を保ちながら、イリスの元へと一歩、また一歩と近づいてくる。
「……見たのですか?」
本来であれば、王らしい振る舞いをしなければならないのだが、どうしても彼が述べた言葉が気になって上目遣いで聞き返すイリス。
自身の寝顔など前王であり、父でもあったラディウスか、共に旅をしたアリシア、カナデ、ゼイガン辺りにしか見せた事がない。そのために恥ずかしくて仕方がないのだ。
おそらく現在のイリスは、肌という肌を紅潮させている事だろう。それは確認せずとも、全身が汗ばむくらいに熱い事で分かる。
「すまない。見るつもりはなかったのだが……起きるまで待っている時間はお互いにないだろうからな」
対するセドリックは、一度肩を竦めて微笑みを深くした。
そんな彼の大人びた姿を見ていると、自身が子供のようでさらに恥ずかしくなってしまう。しかし、いつまでも少女のような振る舞いをしている訳にもいかないイリスは、わざとらしく咳払いをする事で場の空気を変える。
残り一時間もすれば出陣の準備で慌ただしくなる事を思えば、誰にも邪魔をされない現在の時間は貴重なのだ。今の内にやるべき事はやっておかなければならない。
それに幸いにもたった数分の睡眠しかとっていない体は鈍っているというよりも、幾分か調子がいいように思う。これならば判断を誤る事はないだろう。
「おっしゃる通りに……そう時間はありません。今回は私も出撃する事を考えると準備もありますからね。あまり簡潔に命を出す事は好ましくないのでしょうが……女王として鍛冶師セドリックに頼みたい事があります」
心中で揺るぎない決意を抱いた女王は言葉を慎重に選んでいく。
自身の立場を考えれば、ただ命令をすればいいというのに。しかし、それでは人は動いてはくれないのだとイリスは思っている。だからこそ、彼へと頼む事にしたのだ。
当然、彼が頼みを断るならば強制はしない。人は選択の自由を奪われれば反発のは明らかだからだ。それに権力に頼って高圧的な態度を取る事は、イリスの「王道」には存在しない。
女王イリフィリア・ストレインが望むのは対話によって分かり合う事。お互いの望みを共有して、共に歩んでいく事なのだから。
そんなイリスの想いをよく知っているらしいセドリックは――
「頼みですか。では、何なりと。このセドリック、あなたとの約束を忘れた事は一度たりともございません」
まるで上流階級に住まう者のように、恭しく礼をした。
どこか形式的に見えるセドリックではあるが、彼が本気である事は身に纏う衣服を見ればすぐに分かる。普段は鍛冶の仕事をするために、薄手のシャツと左右に大きめのポケットが付けられたズボン姿という出で立ちの彼なのだが、現在はその上に旅人が着用する事が多い、薄茶色のローブを纏っていたのだ。
毛布に近いような素材で作られたローブは、遠い土地、例えば吹雪く事が多いとされる北の大地の寒さすら防ぐ事が可能だろう。つまりは、彼はイリスが何を言うのかを予測して、予め準備をしてくれていたのだ。
そんな彼に内心で感謝したイリスは――
「私と共に北へ。グシオン連合国を追い払う刃となって下さい」
ゆっくりと立ち上がった後に、彼へと頭を下げる。
まだ姫だった時に散々に注意された事だが、今でも直らない。いや、直すつもりがないイリスの癖だ。相手に感謝したい時に、または内から溢れる想いをどうしても伝えたい時には一人の人として頭を下げる。そこに一般人も貴族も、はたまた王族である事も関係がないのだと思っているのだ。つまりは、イリスからすれば当然の行いなのだ。
「王となっても……変わらないのだな。そんなお前だからこそ付いて行きたいと思う。そして、想わずにはいられない」
だが、王族でも貴族でもない一般の者には特別に見えるようで。
セドリックは前半を苦笑交じりに、そして後半はどこか固く真剣な声音で言葉を紡いだ。
特に後半の言葉には彼の真摯な気持ちが込められていて。
(……いつか答えないといけないわね)
なんとか平静を取り戻して、数秒前までは元の雪のように白い肌色に戻ったのだが、再び真っ赤に紅潮していく。それと共にこの静寂な中ではセドリックに伝わってしまうのではないかと思う程に、自身の心音がうるさく鳴り響いている。
ここまでイリスが彼の一言に反応をしてしまうのは、聖王国ルストとの戦争の際にセドリックの気持ちを知ってしまったからだ。
原因は戦場を包んだ銀色の煌めき。人々の想いを受け取って、その場にいる全ての者に伝えた、まさに奇跡としか言い表せない現象が原因なのである。確かに皆新しく王となったイリスを信じてくれた。その熱い想いは今も忘れずに、この胸に抱き続けている。
だが、その想いに混じって届いたのが、彼の気持ちだった。
セドリックはおこがましいと思いながらも、イリスを一人の女性として想ってくれていたのだ。とは言っても、二人の出会いは最悪と言っても過言ではない。
彼は訪れたイリスの目を全く見ようとしなかったのだから、当然だ。
――しかし。
それでも彼はイリスが送った「あなたに光を届ける」という言葉を信じてくれた。それだけでなく、力のない女王を助けるために戦場へと馳せ参じてくれたのだ。そんな彼の気持ちを無下にするというのは、人として問題があると思う。
だが、イリスは王なのだ。
自身の伴侶くらいは自由に選びたいとは思うが、臣下が納得する者を選ぶ事も必要である。そして、イリスがいつ倒れてもいいようにと、世継ぎを授からなければならない。もはや私情を持ち込んで、自分勝手な事が出来た時とは違うのだ。
「――どうしたのだ?」
そうして、イリスがしばらく思い悩んでいると。
窺うような視線と、心配そうなセドリックの言葉が届く。
「……自身の将来の事を考えていました」
そんな彼に困ったような笑顔を浮かべて、イリスは答える。今は他に人がいないために本心を語っても問題はないだろう。
すると、本心を語ったのが幸いしたのか。
「ゆっくり考えればいい。俺の想いは受け取ってくれるだけでいいのだからな。それに、イリフィリア……君の心には私よりも強く想っている人がいる筈だ」
セドリックも心の内を隠さずに届けてくれた。
どうやら彼はイリスの気持ちが向かう先も、悩んでいる事も全て知っているらしい。
イリスの想い人は女性。妹のように思っていながらも、どうしても心配で堪らなくさせる一人の少女――カナデを愛している。しかし、彼女はアリシアと共に歩む事を選ぼうとしている。そんな二人の間に介入する隙間はないだろう。
確かにイリスの全権力を使えば、割って入る事も出来るのかもしれない。だが、それでは意味がないのだ。それに叶うならば、今の関係は崩したくないと思ってしまう。
もしかすれば、女王であるとか、世継ぎの事などを頻繁に考えてしまうのは、イリスが本筋から逃げているだけなのかもしれない。
(……私はずいぶんと弱い女なのね)
ようやく自身の本筋を理解したイリスは、内心で言葉を漏らす。
心で発した言葉は自然と体へと沁みていき、はっきりと「イリフィリア・ストレイン」という個を感じさせる。時折、弱さを排除しようとする気持ちが心を駆け抜けるが、それよりも弱さを受け止めて、前へと進もうとする気持ちの方が強いように思う。
「私は聖王国ストレインの王――イリフィリア・ストレイン。ゆえに一人の女性だけを愛す訳にはいかないわ。私が愛すのは、全ての民。そして、私が求めるのは共に国のために命を捧げ、器となっていただく方」
だからこそ、紡げた言葉なのだと思う。
一切の迷いがないのかと問われれば、確かに今でも迷いはある。それでも、イリスは内にある溢れる気持ちを抑えて、王として進んで行けるのだ。
「そうか。俺は君の選んだ道を否定はしない。ただ共に歩める事を祈ろう」
決意を込めた言葉を受け止めたセドリックは、さらに一歩を進む。
両者の距離は、これで残り三歩。
臣下でもない者が寄るには近すぎる距離だろう。その近すぎる距離を彼はさらに埋める。つまりは、彼はセドリックという「個」を捨てて、王族という器になる事を望むらしい。イリスの中に別の人を想う心があっても、セドリックだけを愛してはくれない事も分かっていても、彼は同じ道を歩んでくれるというのだ。
「……すみません」
そんな彼に対して、イリスはうつむいて謝罪する事しか出来ない。
「構わない。俺が選んで……決めた道だ」
対する彼はローブの色合いに合わせたのだろう、薄茶色をした手袋越しにイリスの頬へと触れた。早朝の空気に包まれた彼の手は冷たかったけれど、想いはしっかりと伝わってくる。
人と人が争う場所でしかなかったあの場所で感じた熱い気持ちが、今も変わらずイリスを包み込んでくれたのだ。
どこまでも真っ直ぐなセドリック。だが、そんな彼へと送る事が出来たのは――
「戦いが終わったら……発表するわ。だから、待っていて」
恥ずかしながら、形式的な言葉だった。
正直な事を言うならば、これ意外に言葉が見つからなかったのだ。それでも彼は頬へと触れていた手を離して、優しく抱きしめてくれた。孤独な王が前へ、前へと突き進めるように。人と汚染者が触れ合える機会は少ない事はお互いに理解している。
一年の内で三回程度、触れたものを凍らせてしまう汚染者の力が弱まった時にしか肌と肌を触れ合わせる事が出来ないと分かっているというのに彼らの想いは確かに重なって、鼓動を伝え合う。
しかし、そんな二人がゆっくり出来たのは僅か数分の間だった。謁見の間に駆け込んだ騎士の報告が否応なく二人を現実へと引き戻したからだ。
報告の内容は、シュバルツ王率いる兵数一万の部隊が北上を開始したという事。国の命運が決める戦いが刻一刻と近付きつつある事を知らせる警鐘だった。




