第五話 (四)
「狙いは……私一人なのでしょうね」
宗教国家と呼ばれるフィーメア神国の中心地で漏れ出たのは、一つの呟き。
すでに時刻は深夜に近づいており、言葉を紡いだ教皇のしわがれた顔が動く度に白い吐息が漏れ出る。元々、祈りを捧げる場所でしかないのが大聖堂という場所だ。
暖を取れるような気の利いた物は用意されておらず、ざっと視線を左右へと動かした所で、祈りを捧げるために用意された長椅子と、正面に見える教壇くらいしかありはしない。
――軍事に政治。
その二つに加えて、宗教まで掌握した絶対者が居座る場所としては、貧相と言わざるを得ない空間だろう。と言っても、暖のとれない自然な冷たさを感じられるこの地は、身を律する地としては適していると言えなくもない。
だが、眼前に立ち尽くす甲冑姿の老騎士は監獄のように寒々とした空気を気にした様子もなく、しばし教皇の言葉を逡巡するように顎鬚を撫でてから。
「そうだろうな。いろいろと調べさせてもらったが……騎士団に内緒で中々にえげつない事をしていたようだからな、お前は」
どこか罰の悪そうな顔をしながらも、言い切った。
豪胆な将軍という印象が深い彼がここまで言葉に詰まるのは、教皇に黙って調べ物をしたからだろう。彼ほどの権力があるならば、知ろうと思えば容易に調べ上げる事が出来る情報に対して、ここまでの反応を示すヴォルド。
それは彼が小心者だからではなくて、ただ性根が真っ直ぐ過ぎるのだろう。もはや老兵に数えても間違いはないヴォルドではあるが、子供のように無垢な思考を持っているのが長所でもあり、短所でもあるのだ。幼い頃から彼をよく知っている教皇は、彼が何を思っているのか手に取るように分かってしまう。
だが、友の考えが分かった所で教皇が述べる言葉は変わらない。
「ようやく知りましたか。ですが、ここで一つ訂正させていただきましょう。ヴォルド……あなたは『えげつない』という言葉を使いましたが、私が行為の全てはフィーメア神国のためです」
今まで教皇が成した選択は全てフィーメア神国のため。
それ以上でも、それ以下でもない。ただ淡々と被害が少なくなる道を選び続けたに過ぎないのだ。ゆえに、そこに正義も悪もありはしないと思っている。
「少年、少女を戦場に送る事は……えげつない事とならないと?」
だが、どこまでも真っ直ぐな男は、教皇が述べた言葉が理解出来ないらしく。
肩を震わせて、反論した。ヴォルドはただ言い返しただけなのだが、その返しはまるで刃物を思わせるような鋭さがある。
(……どうやら本気のようですね)
全てを切り裂くような鋭さを全身で受け止めた教皇は、一度心中で言葉を紡ぐ。
何か心に刺激を与えなければ、ヴォルドの勢いに飲まれてしまうと思ったのだ。しかし、この程度で揺らぐならば、そもそも最初から人の上に立つ道を選びはしない。
そして、揺らがないと言うのであれば、選ぶ道は一つのみだ。
「考え方を変えてみて下さい。確かに少年、少女の命というのは脆く、それでいて儚い存在です。言うならば、戦場に咲き誇る一輪の花のようなものです。成人した大人であれば、楽に摘み取る事が可能です」
教皇が選んだ道はヴォルドの意見を無視して、自身の意見をぶつける事。
だが、言葉は途中で遮られてしまう。
「それが分かっているならば――どうして!」
当然、言葉を遮ったのはヴォルド。彼はやはり儚い命が摘み取られてしまう事が許せないのだろう。しかし、教皇からすれば彼は何も見えていないのだと思う。
「楽に摘み取れる命だからこそ……意味があるのです。先に結果から述べましょう。千にも満たない少年、少女の部隊が散った事で、グシオン連合国は二度侵攻の機会を逃しています。理由は至極簡単。幼子を斬った罪に囚われた騎士達が動けなくなったからです。人の心はこうも脆いものなのですよ、ヴォルド?」
ゆえに、教皇は彼へと答えを投げる。
おそらく友は、教皇が出した答えを受け取ってはくれないと分かっていても。
「そいつらを犠牲にして……フィーメア神国を救ったつもりか!」
やはりと言うべきか。
顔を真っ赤に染めたヴォルドは一歩、二歩と真紅の絨毯を踏みしめて進む。
目的は言うまでもなく、教皇だ。
「――答えろ!」
ふと気づいた時には、鼓膜が破壊されるのではないかと危惧するような耳にうるさい声が届くと同時に、教皇の体は宙に浮いていた。どうやらヴォルドが衣服の胸倉を掴んで、持ち上げたらしい。今にも天命が訪れても不思議ではない歳だというのに、どこからそんな力が出て来るのか不思議で仕方がないが、今は気にするべきではないだろう。
「答えが必要であれば……答えましょう」
今は答えを求める友に応じるべきだと思うから。
いや、違う。教皇はただ応じるだけでなく、彼へと伝えなければならないのだ。他の誰でもない教皇が成さねばならない事を。
ずっと独りで考え続けた末に導き出した答えを、彼へと伝えなければならないのだ。
「なんだ?」
ようやく答える気になった教皇をヴォルドは血走った眼で睨みながらも、胸倉をきつく絞め上げていた力を緩めていく。だが、完全に緩めた訳ではなく、教皇の体は今でも浮いたままだった。
「私は……まだこの国を救えてなどいません。クエリア神国にグシオン連合国と周囲は敵ばかりなのですからね。ただクエリア神国という異端の国は、私が作ってしまったようなもの。彼の国については私が責任を取りましょう。ですから、どうかグシオン連合国だけは追い返して下さい。その後は……皆が生き残れる道を」
幾分か呼吸もしやすくなった教皇は、誰にも語っていない胸の内を明らかにした。
――これで万事解決。
仮にそうであるならば、教皇は一人で悩む事などなかったのだと思う。
しかし、現実はやはり甘くはなくて。教皇一人の命を狂信者達に捧げただけで怒りと憎しみに支配された者達の心は静まるのか、また収まったのだとしてもフィーメア神国は圧倒的な兵力を保有する軍事国家を追い返せるのか。その疑問に答えてくれる者はいない。
全ての答えを知っているような絶対者など、神の他に存在しないのだから。
普段は都市に住む住民から神の僕と呼ばれている、教皇。
フィーメア神国内では、信仰する神の次に高次なる存在の筈だ。だが、そんな彼でさえこの先どうなるのかは分からない。いや、正確に言うならば分かる訳がないのだ。それもその筈で、今の今まで神の声など聞いた事がないのだから。
それでも人は神へと祈りを捧げる。
神など存在しない。信じる者は頭がおかしい。そう言い切れる者がいるならば、その者達は平穏の中で生きている者達だと教皇は思っている。明日死ぬかもしれない、またはあと数秒後に死ぬかもしれない。そんな極限の絶望に身を晒した事がある者は、人ではない何か、未来や運命さえ変えられるかもしれない存在に頼らざるを得ないのだ。
もし頼らなければ、人間の脆い心などものの数秒で壊れてしまうのだから。心が壊れた者も、宗教にすがって生きる者も、等しく見てきた教皇は自身の考えに絶対の自信を持っている。しかし、世界には例外もあって、ヴォルドのように戦場に身を置き続けても己を貫ける者も存在するのだが。
そんな鋼を思わせるように頑丈な男は、固く閉ざされた口を開くと。
「――断る。お前はこの国で、その命が燃え尽きるまで尽くしてもらわなければならない。勝手に死んで……逃げる事は許さん」
国全体の事など全く考えた様子もなく、ただ己の内に浮かんだ言葉を返したようだった。そう判断出来たのは、ヴォルドの瞳があまりに真っ直ぐで、それでいて必死だったからだ。
生きて、償う事で進んでいく。当然、その隣には彼がいるのだろう。それが彼の歩みたい道だ。そんな夢物語みたいな道は用意されていないと、そう述べても彼は首を縦に振る事はないだろう。
(……本当に困った人ですね)
すでに教皇の中では答えは出ているというのに、彼は道を開けてはくれない。
最後くらいは共に言葉を交わす事で、分かり合いたかったというのに。と言っても、考え方がこうも違っていれば、歩み寄る事など不可能なのかもしれないのだが。
それでも共に十代半ばの少年だった頃は性格が真逆であっても、一緒に笑い合えたのだ。そんな教皇とヴォルドは自他共に認める親友で、分かり合えていたのだと思う。
いや、そう信じたい。
あの明るい日々を信じられなければ、悪行の全てを背負ったこの身はあまりにも虚し過ぎる。そう思えてならないのだ。
だが、何も知らない少年から老いて皺枯れた老人へと姿を変えた者が、これ以上夢を追ってはならないのだ。そう心中で決意した教皇は――
「私は逃げたい訳ではありません。これが私の成せる最善。阻むと言うのであれば、教皇の権威を持って……あなたを裁きます」
明確な拒絶を彼へと無造作に投げつける。
先日も、教皇の権威に頼って言葉をぶつけてしまった事を思うと、どうやら自身は何か他のものに頼らなければ彼を言い負かす事が出来ないらしい。国の統治者となっても、この様なのだ。他国の者が知ったならば、腹を抱えて笑う事だろう。
そんな教皇の心情を知っているのか、知らないのか。
「勝手にしろ! この堅物野郎!」
ヴォルドは、もう何度聞いたかも分からない悪態を吐き出した。
これはお互いに権威に縛られる前。些細な理由で喧嘩した時に彼がよく述べた言葉だ。
(懐かしいですね)
口に出してしまえば、情に流されると思った教皇は内から溢れる言葉を飲みこむ。
だが、飲みこむ事が出来なかった想いは瞳を濡らして、自身の渇いた頬は力を失ってしまったかのようにだらしなく緩む。
教皇が感じたのは、悲しみと喜び。
ずっと友でいてくれたヴォルドを置いて逝く事を嘆く気持ちと、最後まで友でいようとしてくれる事が嬉しくて堪らなかった。人は喜びと悲しみを同時に抱える事は出来ないというが、どうやら壊れた人間というものは二つの相反する感情を表現出来てしまうらしい。これから自身を終わらせに行く教皇が今さら、そんな些細な事を知っても仕方がないのだが。どこか投げやりな気持ちとなった教皇は、友の力を衣服越しに感じながら――
「堅物で結構です。ですが、あなたは最後まで……あなたを貫いて下さい。先に地獄で待っていますよ、親友」
最後の言葉を送る。
そして、言葉を送った瞬間に気づいた。もしかすれば、分かり合う事を拒んでいたのは教皇自身であったのではないのかと。分かって欲しいのならば、彼の事も分かろうとしなければならなかったのだ。
だが、今さら分かった所で全ては遅かったように思う。
「言われなくても、俺は俺らしく生きる。また地獄で会おう」
それを証明するかのように、二人の唯一の絆であった衣服は離されてしまった。
以後は自由を得た教皇は全ての決着をつけに一歩を進み、ヴォルドはその背を見送る他にないだろう。大人と呼ばれるものは一度依怙地になると、中々後には引き返せない生き物なのだ。若い者がこの心情を知れば愚かしいと思うのかもしれないのだが。
「――それでは」
それら全ての感情を、短い別れの言葉で振り切った教皇は一歩を刻み込む。
足に優しい絨毯の柔らかな感触は自然と教皇の歩みを助ける。これが固い床であれば、鋭い痛みが頭を冷やしてくれたのかもしれない。だが、それは所詮、仮定の話で。
「――馬鹿野郎が」
決して振り返らない教皇の背に届いたのは、怒りを含んだ震えた声だった。




