第五話 (三)
聖王国ストレインの城塞都市シェリティア郊外。
南門を潜って、そのまま南へと徒歩で五分程進んだ先にあるのは戦場で命を失った者達が眠る集団墓地だった。集団墓地という言葉から大よその想像が出来るのかもしれないが、この場には各個人の墓は建てられていない。
代わりに建てられている物は、高さ五メートルはある石碑だ。しかし、石碑と言っても鍛冶師セドリックが縦に長い長方形へと切り出し、形を整えた物であるために見栄えは悪くはない。むしろ黒光りすらする石碑は、騎士の誇りと気高き魂が眠るに相応しい場所に思えるのかもしれない。
騎士の聖地、まさにそう呼ぶに相応しい地で。
「ラディウス王……アイザック殿。次の相手はグシオン連合国です」
石碑に刻まれた名をなぞりながら独語したのは、ゼイガンだった。
普段通りの黒を基調とした礼服を身に纏う彼は、どこか疲れたような顔をしていて、ここ数日で老いはさらに加速しているように見えた。
それもその筈で。聖王国間の戦争によって王と友を失っただけでなく、若き女王の参謀という大役を任されているのだから。その負担は言葉では言い表せない程に大きく、心身共に限界なのは言うまでもない。
しかし、そんなゼイガンに対して、さらに追い打ちをかけるのがグシオン連合国という存在だった。今の今まで降り続く雪と、人ならざる存在のおかげで表立って動く事がなかった強国が、ついに重い腰を上げたのである。
五倍強を誇る軍事国家を退けた英雄王も古参の将軍もいない、この状況で。つまりは誰にも頼る事が出来ないのである。それは言い換えれば、参謀たるゼイガンが判断を間違えれば全てが終わってしまうという事だ。
そんな重大な責を背負った人物が、戦の準備が大詰めを迎えている段階で、なぜ人里離れた辺鄙な場所にいるのか。その理由は単純だった。ただ信頼を置いていた二人から力を分けて欲しいと思ったのである。
しかし、当然ではあるが言葉は返ってはこない。
石碑の他に遮る物が何もない平原を、凍てついた風が容赦なく吹き付けるだけだった。
「このゼイガン……老い先短いですが、何としても聖王国を勝利へと導きましょう。おそらく、これが私の最後の戦。もう少し粘りたい所ですが……天は許してくれないようです」
それでもゼイガンは言葉を届けていく。
内から湧き出て止まらない決意を二人に聞き届けて欲しいと思ったのだ。もしかすれば、弱音を吐く参謀を二人は叱咤するのかもしれない。
しかし、それは彼らの元へと昇った時にでも聞こうと思う。
ゼイガンが天命を全うして。女王と新たな将軍が国を支えられるようになってから、ゆっくりと聞こうと思うのだ。そして、ずっと天から見届けていきたいと思う。
老い先短い中で信じてみたいと願った姫君が王となってどこまで進んでいけるのかを。そして、王を支えるために「代行者」を名乗るカナデが、どこまで進めるのかを見届けたいと思うのだ。
しかし、そこまで思考を進めた所で。
「ゼイガン殿とここで会うのは初めてですね」
突然、柔らかい声が背へと届いた。
声だけで、この国の将来を否応なく背負っていかなければならない若き将軍である事に気づいたゼイガンは、ゆっくりと振り向く。
「そうですな。王とアイザック殿に報告をしておりました。と言うのは建前で……少々沈んでおりました。年老いた者の時間は貴重なのですがね」
それと共に、ここを訪れた目的を隠しもせずに伝えた。
参謀が弱音など吐いてはいけないのだが、兵を預かる立場にある者には全てを知っていて欲しいと思ったのだ。アルフレッド・オーディルとアイザック。それだけでなく、朽ちていく参謀の想いまで背負うのは酷だと思うが、それでもシオンには全てを背負って進んでもらわなければならない。はっきりと己の考えを伝えた訳ではないが、彼ならば言葉の端々に含まれた意味を正確に受け取ってくれる事だろう。元は聖王国ルストの将であったシオンをここまで信用出来てしまうのは、同じロスティアの出身であるためなのか。それとも女王の影響が大きいのか。それはゼイガンには分からなかった。
「冷静沈着でなければならない参謀も人の子です。当然、弱音を吐く事もあるでしょう。まあ、そう言う私自身も……アイザック殿に会いに来たのですがね」
ともあれ、言葉を受け取ったシオンは、身に纏う軍法衣を揺らしながらも落ち着いた足取りで石碑へと歩を進めていく。そんな彼が発した言葉は、前半は疲労が溜まった参謀のためで、後半は彼自身のためであるように聞こえた。
自らを守るための言葉であるならば、気にする必要はないような気がしたが――
「お言葉……痛み入ります」
誰しもが自分の事だけで手一杯の状況で、配慮してくれた事に素直に感謝したゼイガンは、石碑へと視線を戻すと共に礼を述べた。
「いえ……当然の事をしたまでです」
すると、いつの間にか左隣に立ったシオンが石碑を見上げながら、何事も無かったかのように呟いた。どこか淡々とした物言いにも聞こえるが、これが彼らしさだとゼイガンは思う。参謀だろうと、ただの一般人だろうと等しく気に掛ける事が出来る。それがシオン・アルトールという人物なのだ。
「そうですか。あなたらしい物言いですね。そんなあなたであれば……彼らも祝福してくれる事でしょう」
他人に優しくする事はあっても、なかなか優しさを受け取る事はないゼイガンは、一度表情を和らげて、彼が見上げた石碑を見つめる。
――すると。
不思議な事に、ただの無機質な石碑は差し込む光を吸って、輝きを増したように見えた。おそらくただの気のせいなのだと思う。沈んでいた心がようやく晴れて、気持ちが前向きになったために見る目が変わったのだろう。
こういう場面で石碑に名を刻まれた二人が「応えてくれた」と思う事が出来ない、そんな残念な感性を持っている事は悲しいと思う。だが、ゼイガンはこれでいいのだと思う。
常に冷静で、時に残酷な判断を下さなければならないのが参謀だ。そんな自身が奇跡の類を信じて、判断を誤ってはいけないのである。
そういう意味では、この場にいる事事態が矛盾しているような気もする。
だが、そもそも矛盾しているのが人間だ。この場所にいるべきではないと、死者が力を貸してくれる訳がないと、そう頭では理解していても頼りたくなってしまう時があるという事だ。
それは将軍という重荷を背負っている彼も同じようで。
「そうだといいのですがね。ですが、例え力を借りる事が叶わなくても守ってみせます。私はアイザック殿の意志を継いで……この国を守り抜かねばならないのですから。例え相手が……手に負えないような強国でも。彼らはこちらが本命なのでしょう?」
ゼイガンの言葉を気休め程度に受け取ったシオンは、瞳を細めて輝きを増した石碑を見上げ続けていた。そんな彼の横顔は、全てを悟っているようで。
もう何を言っても揺るぎはしないと判断したゼイガンは――
「おそらくグシオン連合国は本気で潰しに来ます。これは私の予想ですが……総勢二万を超えた兵が押し寄せてくるでしょう。フィーメア神国にも兵は派遣されるでしょうが、ご指摘通り……あちらはおまけのようなものです」
今まで話さずにいた参謀としての考えを吐き出した。
下手な憶測で兵を恐慌状態に導かないために黙っていたのだが、そろそろ口を割らなければ不審に思う者もいると思ったのだ。
「やはりそうですか。相手の兵数は二万。仮に私達の奇襲が失敗した時は――」
「ほぼ間違いなくルストの部隊は壊滅します。最悪はシュバルツ王も討ち死にするでしょう。我らストレインも無傷では済まないでしょう。ですが、そうならないために……私がいます」
だが、その不審も不満もゼイガンは振り払って見せる。
どんな相手であろうと自身の策で撃退出来るのだと、揺らがない言葉と自信で全ての者を奮い立たせ、騎士の誇りたる剣の柄を握らせなければならない。そうでもなければ、過去にグシオン連合国を追い返した二人に合わせる顔はないのだから。少々依怙地になっているような気もするが、この際は気にしてなどいられないだろう。
だが、我を通したいのはゼイガンだけではなくて――
「では、私は騎士達の不安を受け止めましょう。そして、我が剣で道を切り開いて見せます。アルフレッド殿のような最強の騎士にはなれませんが……私にも意地というものがあります」
シオンもまた今回の戦争に思う所があるらしい。
世界は広いのは確かであるが、一人で百人を斬れる技量を誇る者は現在ではシオンのみであり、今では最強の騎士という言葉は自然と彼を指し示す。だが、当の本人の中で「最強の騎士」と言えば、先の戦争で命を落としたアルフレッド・オーディルであろう。
まだ何も成せていないシオンが最強を名乗るなど、とてもではないが許せないという事だ。おそらく謙虚な彼の事だから、人としても騎士としも、まだまだ未熟だと思っているのではないだろうか。
「意地ですか。お気持ちは分かりますが……自身を見失わないように」
そんな若き将軍に送ったのは、当たり障りのない言葉。
当然ではあるが、依怙地になっているゼイガン自身に向けての言葉でもある。
「ええ。分かっています。共に兵を率いる立場でなければ……もう少し自身の想いを大切に出来るのですがね」
さすがに言葉に含めた意味を正確に理解したらしいシオンは、薄っすらと微笑んだ。剣の腕だけでなく、人並み以上に頭が回る彼と話すのは気が楽でいい。
大柄な体つきの割には、純粋な心を持ち合わせていた友との会話も心躍るように楽しかったが、表面的な言葉だけでなく、その裏にある想いを探り合うというのもまた一興だとゼイガンは思った。
「そうですね。ですが……ここでは少しは己を曝け出してもいいのではないですか? そうは言っても、あと数十分もすればどちらかが呼び戻されるでしょうが」
だからこそ、ゼイガンは若き将軍へと向けていた瞳を、再び石碑へと戻した後に言葉を届ける。自身が語ったように残り数十分だけ皆の命を預かる立場から、一人の人間として語らいを楽しむために。
「そうですね。普段は外へと出たがる女王様が大人しく玉座に座っているとしても……将軍と参謀の両名が都市を離れている訳にはいきませんから」
その提案に柔らかい物腰のまま乗ったシオンは、ゼイガンが見つめている場所に視線を重ねているようだった。
――将軍と参謀。
立場は違えど、同じように聖王国ストレインと女王イリフィリアを想っている忠臣は、時が許す限り言葉を交わす。その中で、ゼイガンは自身が笑う事が出来る機会は最後になるだろうと密かに思うのだった。




