第五話 (二)
瞼へと差し込む淡い光を受けて、幼げな表情を歪めたのはカイトだった。
一日、一日成長しているつもりだけど、朝が苦手な事だけはどうしても治らない。そんな自身に苦笑したカイトはそっと瞼を開く。
どうやら後方に位置する高さ一メートル程の横に長方形の窓から光が差し込んでいるようだった。さすがに昨夜はカナデも一緒だったために、純白のカーテンを閉め忘れたという事はない。
だが、カーテンの合わせ目を完全に消す事は出来なかったようで、その微かな隙間から睡眠の邪魔をする光が差し込んだらしい。しかも、まるで計ったかのような正確さを持って、カイトのみを妨害しているのだから恐れ入る。
(でも……僕で良かったかな)
ふとカーテンから右隣のベッドで眠るカナデに視線を移したカイトは、上体を起こしながらも心中で囁く。そう思ったのは、今日か、明日には国の命運を決める大規模な戦争が始まるからだ。つまりは、今だけは健やかに眠って欲しいと思ったのである。
その祈りが天に届いたのかは分からないが、ベッドの上で毛布に包まれているカナデは定期的な寝息を立てているようだった。さすがに寝顔を見つめるのは礼儀知らずと言われるのかもしれないけれど、普段は鋭利な刃を思わせる少女の無防備な寝顔には自然と興味を惹かれてしまう。
しかし、あどけなさすら感じさせる寝顔を、穏やかな表情で見つめる事が出来たのは僅か数秒の間だけだった。その理由としては、カナデが閉ざしていた瞼を開いたからではない。
「違う。私は……助けたかっただけなんだ」
突如として、カナデが荒い呼吸を繰り返し、寝言と片づけるには難しい言葉を発したからだ。一目でうなされていると分かる彼女は言葉だけではなくて、雪のように白い手を天井へと伸ばしていく。
その手は何かを掴みたいのか、誰かに救いを求めているのか。それとも他に何か意味があるのか、それはカイトに分からなかった。
だが、先ほど見つめた時は浮かんでもいなかった汗が額に浮かんでいる事を思うと、あまりいい夢を見ている訳ではない事は確かだろう。
悪夢から解放してあげるか、様子を見るか。
二つの選択肢を与えられたカイトは、正直な事を言うならば対応に困ってしまう。もしかすれば、うなされるのは一瞬の事で、すぐに平常通りに戻る可能性も捨てきれないからだ。仮にそうであるならば、カナデを起こす事は余計なお世話なのかもしれない。
(……それでも放ってはおけないよね)
カイトもソフィを失った日を夢に見る事がある。
二度と経験したくない事を再び見た結果としては、嫌な汗を多分にかいている事が多く、身に纏う衣服は当然ではあるが湿っている。それだけでなく、自身の髪は頬へと張りついて気分が悪い。
一言で言うならば、最悪の目覚めだ。最近はソフィと出会う事もあって、うなされる事は少ないけれど、とてもではないが他人事だとは思えなかった。
それに、こういう時はどうすればいいのかをカイトはよく知っているのだ。
まだソフィが幼かった時。親に捨てられた時を思い出しているようで、頻繁に「捨てないで」という言葉を寝言として呟いていた事があったのだ。当然、小さな体を抱きしめて眠っていたカイトは、ソフィが恐怖で震える度に目を起こしてしまっていた。
毎晩、夜に起こされれば迷惑ではないのか。そう思う者も確かにいるのかもしれない。だが、カイトは特に気にした様子もなく、むしろソフィの体が震える度に、そっと手の平に収まってしまう程に小さな手を握ってあげた。
たったこれだけの何気ない行動で、ソフィは不思議と大人しくなって、温もりにすがる様に体を預けてくれるのが嬉しくて仕方が無かったのだ。そんなソフィが愛おしくて、彼女を抱きしめる腕を強めた事を今でも鮮明に覚えている程である。
と言っても、これはまだ幼さが抜け切れていないソフィの場合だ。カイトと同い年くらいだと思われるカナデに効果があるのかどうか。さすがにそれは予想出来なかったけれど、試してみるくらいならばいいだろう。
そう内心で結論付けたカイトは、ベッドから抜け出て。
全身の体温を早朝の冷気が落としていく事も構わずに、カナデが眠るベッドの左側に立ち尽くす。
(……どうか安らかに眠れますように)
すると、心の中で祈りを捧げると共に、両手でカナデが天井へと差し伸ばしている手を包み込んだ。手袋越しに感じた彼女の手はすでに冷え切っていて、この冷たさが彼女の心を蝕んでいる原因であるかのように思えた。確信はないけれど、そう思ったカイトは両目を閉じて、包み込んだ両手に自身の額を押し当てる。額を触れさせる事に意味はないのだが、ただ先ほど紡いだ祈りを届けたいと思ったのだ。
どれだけそうしていただろうか。
お互いの発する熱によって、繋がれた両手が汗ばみ始めた時に。
「カイト……?」
眼下から掠れた声が届いた。さすがに両手を握られたままでは違和感がしたようで、カナデは目覚めたようだ。これで何も効果がなかったのだとしたならば、カイトは睡眠を妨害してしまったようなものだろう。一応はカナデを想ってやった事ではあるけれど、受け取り方は人それぞれだ。
そう思うと、徐々に心配になってきたカイトは――
「起こして……しまったかな?」
とりあえずは、当たり障りのない言葉を送る事にした。彼女が発した言葉によって対応を考えようという事だ。しかし、彼女はまだ完全に目覚めていないようで、いつもの鋭い視線ではなくて、どこかまどろんだ視線を向けるだけだった。
――一秒、二秒。
カナデが覚醒するまで待つカイト。
繋いだ両手はどうするべきか悩んだけれど、これ以上安眠を妨害するのも気が引けたので態勢を維持する事にした。
「あまり思い出したくない夢を見た。まだ私がロスティアの騎士だった頃なんだが……一人の騎士を私の力で死なせてしまったんだ。どうやら忘れさせてはくれないようで……時折見るんだ。でも、夢の途中で温かい光が差し込んできて……気が付いたら起きていたよ。夢が変わったのはカイトの手が温かいからだろうな」
すると、眼下からはっきりとした言葉が届いた。
どうやら夢の世界から現実の世界へと戻ってきたカナデが、現状を言葉に変えてくれたらしい。その声音には寝起き特有のまだるっこさは無くて、固さすら感じさせる程にしっかりとしたものだった。
もうすっかり普段の彼女へと戻ったらしい。
「ボクの手は……温かいかな? でも、カナデを救えたのなら良かったよ」
友の力になれた。その事実に安堵したカイトは両手に触れていた額を放して、ゆっくりと瞳を開く。
――その瞬間。
真っ先に飛び込んで来たのは、柔らかい笑顔。まるで全身を包み込んで、受け止めてくれるかのような。そんな身も心も預けたくなるような温かな微笑みが眼前に広がっていた。
平静な状態で見たならば「綺麗な笑顔」だと、そう思った事だろう。だが、瞳を開いた瞬間に。つまりは、不意打ちに近い状態で見つめたカイトは自然と鼓動が高鳴った。
同性であるカイトでさえ、ここまでの反応をするのだ。おそらく異性が見てしまったならば彼女に魅入られてしまう事だろう。
しかし、瞳に焼き付けたいと、そう思えるような魅惑的な笑顔は長くは続かなくて。
「今も温かい。この温もりは……誰かを救えるのだと私は思う。一人の騎士を死なせてしまった……こんな私の手でも想いを伝える事が出来たのだからな」
カナデは言葉の途中で悲しげに表情を曇らせてしまった。
彼女が語った内容な曖昧ではあるけれど、誰かを穢れた力で死なせてしまった過去があるのだろう。確認する事はさすがに出来ないが、カイトはそれでもいいのだと思う。
「カナデが救ったのは……シュバルツ王?」
先日の話が本当であるならば、カナデは氷雪種によって汚されたその手で、一つの国を取りまとめる王を救ったというのだから、何も恥じる事はないのだと思うのだ。
「……王は余計な事を話したようだな」
だが、カナデは雪のように白い頬をほんのりと赤く染めて、囁くような小さな声で呟いた。この反応はシュバルツ王を想っているというよりも、賞賛される事に慣れておらず恥ずかしがっているのだろう。凛とした彼女にも、こんな可愛らしい一面がある事にカイトは内心では驚いたが、自身と同い年くらいだと思えば自然なのかもしれない。
そう思ったカイトは、彼女に対する興味が自然と湧き出てきた。
「カナデはロスティアにいた時は……どうだったの?」
「どうだった? 中々に曖昧な質問だな。まあ……あえて答えるなら、今よりももっと固かったと思う。元々ロスティアは礼節に重きを置いていた国だ。とりわけ、その模範となる騎士団は人としてあるべき姿を求めていたように思う」
興味を抑えられなかったカイトは何気なく質問してみたが、カナデは特に気にした様子もなく律儀に答えてくれた。
今思えば心へと土足で踏み込むような行為のため、無視されても仕方がないような事なのだが、それでも答えてくれる彼女はやはり生真面目な人物なのだろう。
――人としてあるべき姿を求める。
それがロスティアの騎士団が進む道であるというのであれば、カナデはその高貴なる道の終着点まで進んでいるのではないだろうか。騎士というものをよく知らないカイトが判断した所で意味などないのは分かっているけれど、そう思わずにはいられなかったのだ。
だが、一つだけ分かる事があって――
「ロスティアがあって……今のカナデがいるんだね」
カイトは心に浮かんだ言葉を、そのままカナデへと届ける。
すると、彼女は曇っていた表情を緩めた。カイトが失われた祖国に対して理解を深めてくれた事を喜んでいるのだろう。それだけカナデにとって、ロスティアは誇れる国であるようだ。
今は失われた友の祖国。
叶うならば行ってみたいと思うが、その望みが叶わない事が悲しかった。その気持ちは自然と表情に出てしまったようで。
「悲しむ事はない。我が祖国の精神は私の胸に眠っている。それに今は……光を失った私を照らしてくれる女王がいる。それだけでなく、弱い私を支えてくれる友もいる。だから、私は命を掛けて進んで行けるのだ。たとえこの命が失われたとしても。その者の中にカイト……あなたも入っているという事を忘れないで欲しい」
カナデは柔らかい笑みを浮かべたまま、カイトを励ましてくれた。
友の言葉は自然と心へと沁みていって、不思議と内側から力が湧き出てくる。氾濫した川の如くに収まる事を知らない力。この力が背中を押してくれるならば、どこまでも突き進んでいけるような気がするのは、さすがに誇張し過ぎだろうか。
だが、やはり間違っていないような気がしたカイトは――
「ありがとう、カナデ。戦争が終わったら……また会おう。話したい事……たくさんあるんだ」
異国の友に一つの約束を送る。
共に結ばれた約束があるのならば、再び会えるのだと思うから。二人が踏み込むのは、いつ命を落としてもおかしくはない戦場。その中で確かな約束を胸に抱いて、突き進めば生きて帰れると思うのだ。
「そうだな。私はまだ死ぬ訳にはいかない。だから……また会おう、カイト」
カイトの想いと約束を受け取ってくれたカナデは一つ頷いてくれた。
彼女が形だけで述べていない事は、光が燈った漆黒の瞳を見ればよく分かる。
カナデの意志が込められた瞳は嘘を言う事はない。短い付き合いだけど、そう確信したカイトは応える代わりに一つ頷く。
――フィーメア神国へと帰って、成すべき事を成すために。
その想いだけを強く、強く胸に刻んだカイトは、繋がれていた友の手をそっと放したのだった。




