第三話 (六)
時間にして僅か数秒の間。
歌姫の脳内を駆け巡ったのは、少女の記憶と想いだった。
少女は過去を嘆き悲しみ、そして自身に戦いを強要した教皇に対して燃え滾るような怒りを心に抱いている。教皇をその手で殺した所で少女は救われる事はなく、再び家族の笑顔を見る事は叶わないというのに。
むしろ歩むべく理由を失った少女は壊れてしまうのではないだろうか。
(……それは悲し過ぎるよね)
舞姫の中で眠る少女の一端を理解した歌姫は心中で呟く。
それと共に氷色の瞳に決意の光を燈らせて、両手に透き通った刀身を形成する。目的は身に迫る刃を弾き飛ばすためだ。
僅か数秒の間意識を手放していただけなのだが、歌姫の腹部を狙っていた突撃槍は、すでに成人男性の両拳を重ねた程度の距離まで接近しており、避けるのは困難に思えた。
だが、迫る真紅の刃は見るからに鈍い。
まるで何か言いようのない感情に囚われて、眼前に迫る者を貫いていいのか迷っているかのようだった。その迷いは奏でた歌によって、この世界へと顕現した銀色の輝きが歌姫へと確かに伝えてくれた。
迷う気持ちがあるのなら、必ず伝わる。
そう確信した歌姫は右手に握った氷剣を振り上げて、迫る凶刃を上空へと弾き飛ばす。
――その瞬間。
絡み合ったのは二つの瞳。一つは未知なる感覚に戸惑う真紅の瞳で、もう一つはただ成すべき事を成すために強くあろうとする氷色の瞳だった。お互いに左手に握ったもう一振りの刃ではなくて、瞳で語り合うを選んだ二人。
しかし、それは唐突に終わりを告げる。
「どうして……あなたは人を信じられるの?」
手持ちの武器を掲げたままの姿勢で、舞姫が一つの問いを投げてきたからだ。
今の今まで刃のみで全てを語っていた彼女が発した問いは、ただの興味から漏れ出た問いに過ぎない。そう言われればそれまでなのだが、歌姫は確かな一歩を踏み出せた気がする。
だからこそ、歌姫は一切の迷いを抱く事もなく。
「私とソフィは……それしか方法を知らないの。それに聖王国の人達は分かってくれたから」
世界の冷たさを、そして残酷さを小さな体で受け止め続けた少女へと、言葉を届ける事が出来たのだと思う。
しかし、言葉を受け取った舞姫は――
「あなたの心はどこまでも真っ直ぐで、湖面の底さえも見渡せる出来る程に澄んでいる。私達とはまるで違う。そう……あまりにも違い過ぎる」
一度頭を振って、受け取った言葉を拒絶しようとしているようだった。
おそらくこのままでは歌姫によって、心を侵食されるとでも思ったのではないだろうか。決してそんなつもりはないのだと、そう言っても彼女は信じてくれないだろう。
全ての気持ちを生命あるものから感じる事が出来る歌姫ではあるが、知り得る知識は十代半ばの少女と対して変わらない。そんな拙い頭では彼女へと返す言葉として、何が適しているのかは分からなかった。
「違うなら……いろいろと話そう。そうしたら分かるよ」
分からないからこそ、心へと浮かんだ言葉をそのまま伝えていく。
自身でも言葉足らずだとは思うけれど、それでも伝えないと何も変わらないからだ。
――一秒、二秒。
歌姫は発した言葉の返答を待つ。
しかし、言葉はいつまで経っても返ってくる気配はない。それは薄っすらと真紅の瞳を湿らせた舞姫が、固く口を閉ざしている事で分かる。
瞳から感情を零しそうになっているのは舞姫なのか、それとも内に眠る少女なのか。それは知りたい気がしたけれど、心を再び閉ざしてしまった彼女からは何も感じ取る事は出来なかった。
それでも歌姫は諦めずに言葉を紡ごうとした瞬間に――
「御無事ですか!」
背から階段を駆け上がる慌ただしい音に混じって、若い少年の声が届いた。
確認するように背後を振り返ると。
藍色のローブを身に纏った者達がボウガンを握り締めていた。ざっと見た所だと二十名程度だが、現在も後続が階段を登っている事だろう。
(……囲まれるね)
人外の力を保有している歌姫からすれば、ボウガンの矢など恐れる程の物ではない。
だが、さすがに数千という規模にまで膨れ上がると無視は出来ないだろう。舞姫とはもう少し話していたいと思うけれど、ここが退くべき時だろう。
それに下手をして彼らを傷つけてしまえば、近づいた心はすぐさま離れてしまうに違いない。素早く判断を下した歌姫は、一度舞姫へと瞳を向けて。
「――また話そうね」
柔らかい微笑みを浮かべて、言葉を残す。
それは歌姫から舞姫へと送った一方的な約束。それでも霧へと身を霧散していく中で、舞姫は一度頷いてくれたような気がしたのだった。




