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氷結の歌姫  作者: 粉雪草
第一部 たとえ失ったとしても
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第一話 (六)

 視界を埋め尽くすのは、穢れという言葉とは無縁の純白。

 粉雪のように細かく、それでいて周囲を包み込む霧のような何か。

「イリス、下がって――ううん、走って!」

 前方に見える何かの正体を氷雪種と断定したアリシアは、背に守る少女へと声を張り上げる。向かう場所として指定したのはカナデが向かった場所だ。その場が安全かどうかは分からないが、この場所よりかははるかに安全だろう。

(なんで……急に)

 今の今まで現れる兆候などなかったというのに、なぜ今になって急に現れるのだろうか。元々、正体も目的も不明な相手ではあるが、今回はどこか狙ったようなタイミングである。まるで戦いの音色に惹かれて現れたかのように思えてしまう。

 しかし、アリシアの思考はここで中断される。

 理由は一つ。

 背で守るイリスがまるで動かないからだ。

 それだけならまだしも――

「いや。なに……これ?」

 イリスは聞き取る事も難しい声で囁き、蹲るようにして両肩を抱きしめていた。そして、次に挙げたのは鼓膜が破れるのではないかと思う程の甲高い悲鳴だった。

「イリス!」

 何が起きたのかはまるで理解できないが、イリスの様子も見る限りでは尋常ならざる事が起きたに違いない。

(やるしか……ないか)

 アリシアはイリスが逃げたら自身も逃げるつもりだったが、護衛対象が動けないというのであれば戦うのみである。それが近衛騎士たるアリシアの役目なのだから。

 この場から退くという選択肢を脳裏から消し去ったアリシアは手にした金属槍を握り直し、鋭い殺気を含んだ蒼い瞳を前方へと向けると。

 氷雪種は舞う霧を蠢かせて集まり、一つの形として顕現する。

 姿形も能力もまるで統一性のない未知なる敵が選んだ姿は、全身に氷鱗を纏った四足の化け物。どこか両生類に似た氷雪種の高さはアリシアの胸辺りにまで達し、丸太の如く太い四肢を重そうに持ち上げて、地に咲く氷結花を踏み抜きながら前へと進む。

 しかし、氷雪種の前進には敵意は見られず、ただ一点のみを見ているように思えた。

(私を……イリスを見ている?)

 氷雪種の動きを注意深く見つめたアリシアは内心で首を傾げる。

 動けない者を守っているのだ。知性のある生き物であれば、その巨大な体をぶつけるようにして突撃してくる事だろう。護衛対象がいるアリシアは、避ける事が出来ずに受けるしかないのだから。

 だが、眼前に迫る敵はただのそのそと進むだけだった。

(刺激していいの? それとも待つ?)

 イリスの上げた悲鳴はおそらくカナデとゼイガンにも届いている筈だ。ならば時間を稼げば救援はくる。特にカナデが来てくれれば氷雪種といえども対応は可能だ。他人任せというのはいささか問題があるかと思うが、触れれば即死という化け物に対してはどれだけ警戒してもいいように思える。

(どうすれば……)

 迷う心は徐々に心拍数を上げ、アリシアの呼吸を荒くさせる。その間にも未知なる獣は重そうな四肢を上げて進んでくる。そして、何かを感じ取っているイリスは動けない。

 アリシアは無限とも思える緊迫した時間を、ただ一人金属槍を手にして耐え忍ぶ。無計画に飛び出そうとする自身を何度も、何度も諌めながら。

 どれだけ時間が経っただろうか。もはや耐える事に限界を感じた時。

「無事か!」

 アリシアの背に届いたのは鋭い声だった。声を上げた人物は確認せずとも待ち望んでいたカナデだと分かる。そして、背に届く足音は二つ。ゼイガンもどうやら救援に駆けつけてくれたようだ。

「ゼイガン! 姫を」

 ようやく動けるようになったアリシアは背に届く足音を聞きながら、弾かれるように氷雪種の右側に回り込むようにして走る。

 狙う相手はただのっそりと進むだけの相手。氷雪種である事は恐ろしいが対応出来ない事はない。

「目を潰すわ。止めはお願い!」

 連携できるかどうかは分からないが、アリシアは氷雪種に向けて真っ直ぐに突き進むカナデへと言葉を掛ける。

「分かった」

 カナデの了承の声と、アリシアが手にした金属槍を投擲したのは同時だった。さすがのアリシアも触れれば即死してしまう相手に接近しようとは思わない。それはカナデも理解しているのか投擲された槍と動きを合わせて駆ける。

 次の瞬間。

 鳴り響いたのは地を震わせるかのような獣の雄叫びだった。アリシアの槍が氷雪種の赤き瞳を貫いたのである。氷鱗でいかに覆ったとしても瞳までは固くはない。これはどんな硬質な鱗を纏った化け物でも共通の弱点である。

 狙い違わず瞳を潰した事に安堵したアリシアはカナデの動きを注視する。ただ瞳を潰しただけでは勝負は決まらないのだから。

 カナデは雄叫びを上げる獣に怯む事なく突き進み、接近すると同時に脇に抱えていた騎士剣を氷雪種の脳天目掛けて突き出す。

 騎士剣が突き刺さった氷雪種の頭部から溢れ出たのは、鮮血ではなく、身を形成している純白の霧。汚染者たる彼女だからこそ無事でいられるが、アリシアなどの一般の者が浴びれば、たちまち氷の結晶へとその身を変質させてしまう死の霧だった。

「終わったの?」

 アリシアは純白の霧を見つめながらカナデへと問う。

 氷雪種という存在との戦闘経験が少ないアリシアでは判断ができないのである。しかし、脳天を貫かれて生きている生物がいるとは到底思えなかった。

 しかし、そんな考えを吹き飛ばしたのはカナデの鋭い声。

「まだだ!」

 声を張り上げた彼女は手にした剣をさらに深く、深く突き刺していく。よく見るとカナデが手にした騎士剣は徐々に氷の結晶へと変質していた。それでも彼女は剣を離さずに深く突き刺していく。

 その度に溢れるのは先ほどと同じ純白の霧である。

「ボウガンを構えて――!」

 訳が分からず呆然と立ち尽くす他にないアリシアに向けて、カナデは指示を出す。

「分かった!」

 アリシアは何が起こるのかは予想出来はしないが、とりあえずは言われた通りに腰に固定してあるボウガンを引き抜く。

 刹那、事態は一変する。

 カナデが剣を突き立てていた氷雪種は一度全身を霧へと霧散させ、蠢き、そして再び形となって現れたのだ。

 姿形は同じ。だが、大きさは霧を消費したからなのか見るからに小さい。以前の三分の一程度の大きさだろうか。

 しかし、小さくなれば弱くなるという訳ではなく、新たな長所を得て氷雪種は動き出す。

「速い!」

 前もってボウガンを構えていたアリシアではあるが、氷雪種のあまりの速さに狙いをつける事は不可能だった。その間にも未知なる化け物は、アリシアの瞳を見つめて地を駆ける。自身を殺す、恐怖の対象でしかない化け物の瞳。

 しかし、その赤き瞳からアリシアは目を離す事はできなかった。

(なんなの? この化け物は?)

 向かってくるのに戦意は感じない。それがただただ疑問だった。

 しかし、その疑問はすぐに霧散する。

 地を駆ける氷雪種の首をボウガンの矢が貫いたからだ。大きさが小さくなった事で氷鱗自体の強度も低下したのだろう。一般的な化け物であれば、これで脅威は去る。

 だが、氷雪種という名の化け物の恐怖はここからだ。まるで吹き出る血のように溢れる死の霧が最後の抵抗をするのである。

 周囲を包み込むような霧をアリシアは避ける事はできない。下がるよりも早く霧が包み込んでしまうからだ。

(もう無理なの!)

 そう思った瞬間に感じたのは衝撃だった。

 遅れて吹き飛ばされたと理解したアリシアの視界に収まったのは、漆黒のローブを纏ったカナデ。当然、彼女の背にはアリシアを包む筈であった霧が浴びせられている。

 カナデが取った行動は、汚染者だからとしてもあまりにも無謀と思える行動。しかし、彼女は表情一つ変えずに、ただアリシアを守るためだけに危険へと飛び込んでくれたのだ。

 そんなカナデの姿を倒れつつある視界に収めたアリシアは、一度胸が締め付けられるような想いを感じた。これは絶対なる忠誠を誓っているイリスに向けている想いと同等のものではないかとアリシアは思う。そんな事をおぼろげに考えていると。

「皆、無事!」

 ようやく動けるようになったイリスの声が皆へと掛けられる。

「ああ。さすがに慣れないがな」

 まず声を出したのは、全身に氷雪種の霧を浴びたカナデ。

 アリシアは見上げた視線で彼女を見つめると、カナデはどこか凍っていないか全身を確認しているようだった。

「大丈夫か?」

 しばらく見つめていると、カナデは視線に気づいたらしくアリシアへと声を掛ける。

「だ――大丈夫だよ」

 突然声を掛けられたため、どこか焦ったような言葉しか返す事が出来ないアリシア。だが、これ以上はカナデに、そしてイリスを心配させまいと素早く立ち上がる。

 本来であれば感謝の言葉くらいは掛けるべきだっただろうに。

「――ありがとうございました」

 そんなアリシアの考えを感じたのかどうかは分からないが、イリスは皆を代表してカナデへとぺこりと小さな頭を下げる。

「な……に?」

 カナデはその様子を見つめて、漆黒の瞳を大きく見開く。

 姫が、一般の者に頭を下げたのだ。驚くのは同然だろう。

「最初は驚くよね。私も力を貸してと頭を下げられた時は開いた口が塞がらなかったもん」

 混乱するカナデを見つめて、アリシアはイリスに頭を下げられた時を思い出して表情を緩ませる。

「姫様はどれだけ注意してもほいほいと下げてしまいますからね。ですが、カナデ殿……これこそが我らの姫君です」

 それでも落ち着かないカナデに補足説明をしたのはゼイガンだ。

「なんですか二人とも。助けてくれたのです、頭を下げるのは当然です! それにこれから一緒に歩むのですから……どれだけ感謝しても足りないです」

 頭を上げたイリスは一度頬を膨らませてから、さも当然という顔で言い切った。

「面白い方だな、姫は」

 王族とはとても思えないイリスの姿を漆黒の瞳に収めたカナデは、笑いを堪える事は出来なかったらしく笑い声を漏らす。説得五回目にして、初めてみた彼女の人間らしい表情だった。

「うっ……カナデまで笑うの。もう!」

 笑われたイリスは両手を頭上に掲げて声を張り上げる。もはや完全に子供にしか見えない。しかし、そんなイリスの姿が皆の心を照らしてくれるのである。

 汚染者とか、居場所がないとか、そんな事は些細な事だと思えてしまうのだ。ずっとイリスの隣にいれば歩んで行ける。そう思えるのである。

 それはカナデも同じなのか――

「すまない。でも、そのままの姿で成長された方がいい」

 自然体とも思える姿で言葉を発した。

「そうですな」

「うん!」

 だからゼイガンも、そしてアリシアも当然とばかりに言葉を返す事が出来るのである。何の違和感もなく。そして言外にカナデへと伝える事ができるのだ。ここにいてもいいのだと。そして、イリスの背を押す事もできるのである。

「もう知らない。帰るわ。目的も果たした事だから……ね」

 掲げた両腕を降ろしたイリスは、上目づかいでカナデへと最後の確認を行う。もはや決定事項のようになっているような気もするが、カナデは一度頷く事でイリスへと応えた。

「ありがとう」

 頷いた事を肯定と受け取ったイリスは、花が咲いたような笑顔を浮かべて一歩を踏み出す。そんな彼女の背に寄り添うようにアリシアは続く。その背にはゼイガンと、そして、新しく加わったカナデが続いた。


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