第三話 (五)
大陸の北東に位置しているのは、狂信者が集まると噂されているクエリア神国。
統治者すらおらず、力ある一人の少女を神として崇める事で国としてまとまっている異端の小国である。
しかし、異端であるのは国の態勢だけではなくて。
一つの低山の頂上に建てられているのは岩造りの神殿で。その神殿へと登る階段の左右に建てられている住居も神殿同様に骨を思わせる程に白い岩で形作られている。
当然ではあるが、頂上にて体を休めているのは神として祀られている一人の少女だ。世界から「血染めの舞姫」と呼ばれている少女である。
そして、二つの宗教国家の戦争を長期化させている当人と言っても過言ではない舞姫へと会いに来たのも、また一人の少女だった。
「――戦いを止めて」
その少女――氷結の歌姫は頬を冷やす容赦のない風に凛とした声を乗せる。
さすがに、歌姫はこの一言で舞姫の憎しみが晴れるとは思っていない。むしろ、再び刃を向けられる可能性の方が高いだろう。だが、少しでもいいから彼女の心へと近づきたいと思ったのだ。
届けた言葉も、触れ合った想いも決して無駄ではないと信じたいのである。
しかし、それは歌姫の理想であって――
「なぜ今になって姿を現した? 私を討ちたいのであれば――早々に来るべきだろう?」
胸を埋め尽くしている想いが異なる舞姫は、両手に自身の身の丈よりも長い真紅の突撃槍を形成すると共に問うた。
神殿に存在するのは舞姫が腰を落ち着かせるために用意された、横に長い長方形の台座と、彼女の背後にある高さ四メートル程はある石碑のみ。他に障害物らしい物が存在しないこの場所は、戦いという蛮行を執り行うには適した場所だろう。
自然とそう思ってしまうのは、舞姫の発した言葉はどこまでも力強くて、それでいて迷いなど微塵も感じさせなかったからだ。その様子はカイトが放った氷弾によって多量の霧を失い弱っているようには見えなかった。
彼女の言葉に肯定するのは問題だとは思うけれど、早々にこの場を訪れた方が説得しやすかったのかもしれない。しかし、歌姫はこれでいいと思っている。
強引にこちらの考えを押し付けるのでなくて、対等な立場で言葉を交わして理解を深めた方がいいと思うのだ。もし利口な第三者が聞いたならば鼻で笑うのかもしれないけれど、真に分かり合うには必要な事だと思うのである。
(……ソフィ。方法は変えないから)
だからこそ、歌姫は自身の内で眠る少女へと胸中で言葉を送ってから、まるで天へと祈るように胸の前で両手を重ね合わせると。
「数多の想いを繋いで、ただ分かり合えますように」
もう幾度目になるのか分からない、祈りの言葉を紡ぐ。
当然ではあるが、奏でるのは内に眠る少女が好む歌。まだ一人で何も出来なかった幼いソフィを慰めるために、カイトが歌ってくれたという一つの歌だ。
内から外へと解き放たれた歌声は銀色の粒子となって、一度世界を煌めかせる。二人が立ち尽くしている石畳と円形の柱だけの殺風景な景色を彩る輝きは、まるで心を闇に落とした舞姫に光を届けているように見えるのかもしれない。
しかし、その輝きを氷色の瞳に映す事が出来たのは刹那にも満たない時間だった。
その理由は以前のように突撃槍が腹部を貫いたからではない。歌姫が常に考えている、戦いを止めたいという想いを伝えた代わりに、歌姫へと流れ込んできた「何か」が視界を塞いだのだ。
その「何か」とは、とある少女が経験した過去の出来事だった。
*
雪原を駆け抜ける汚染者たる少女の口から漏れ出たのは、真っ白な吐息だった。
それもその筈で。ふと周囲を見渡せば、視界を埋め尽くす程に雪が舞っているのだから。
(……でも、寒くない)
しかし、雪が滑らかな頬へと触れても、または雪が深く降り積もった場所を踏み抜いたとしても寒さを感じる事はなかった。
どうやら少女は自身が思っているよりも多くの代償を払ってしまったのだろう。生命あるものを凍らせるという人外の力を用いる対価として、この冷たき世界が選んだ代償は「感覚」。
――痛覚、視覚、味覚。
フィーメア神国の代表たる教皇に戦いを命じられてから、最初に鈍った事に気づいたのはその三つだった。特に視覚が衰えた事は致命的で、日常生活だけでなく戦う際にも支障が出ているような気がする。
しかも、それだけでなく。眼前に迫る敵を氷の結晶へと変えた瞬間に少女から消え失せたのは「冷覚」だった。温覚よりも敏感だとされる冷たさを感じる感覚が薄れたという事は、もう何を触れても特に感じる事はないのだろう。
命を失うよりかは幾分か良い様に思うが、徐々に感覚を失いながら生き長らえるのは苦痛以外の何ものでもないと思う。それは言うならば、地獄で暮らすようなものだろう。
それでも少女は両手に握った氷槍を煌めかせる。
ただ命じられたままに、瞳に映った者から生命を奪い続ける。そうしなければ、少女は家族も想いを寄せる人も全て失ってしまうのだから。そして、役に立たなくなった少女自身も異端の者として処罰されてしまうだろう。
(……もう嫌だ。逃げたい!)
氷の槍を人が視認できない速さで振るう少女は、心の中で叫び続ける。悲痛な叫びは心を引き裂いて、裂かれた心から漏れ出た悲しみは左右の瞳から漏れ出て止まらない。
――しかし。
それでも少女は戦場に留まってしまう。どうしても優しい笑顔を向けてくれる家族の事が頭から離れないのだ。彼らを見殺しにして、逃げ続けて。その先に一体何があるというのだろうか。嫌ならば逃げればいい、そんな事を易々と言える者はただ現状を知らないだけ。痛みも苦痛も何も知らない者がいう戯言なのだ。
それをよく分かっている少女は零れた涙が頬を汚しても槍を振るい続ける。その先に光など存在しない事を知っていても、ただ今を生きるために。
それでも世界は少女にさらに厳しい現実を叩きつけてくる。と言っても、これは初めから分かりきっている事であったために、さして驚く事はなかった。
五倍強を誇るグシオン連合国と正面から戦えば敗退する事など、物心付いた者であれば誰でも分かる事だからだ。つまりは、今この場にいる者は捨て駒なのである。
少女共々何らかの退けない理由がある者達の寄せ集め。しかも、成人した大人ではなくて十代に届くか届かないかの子供達ばかりだった。
おそらく今回だけでなく、幾度もこんな事を繰り返しているのだろう。それはグシオン連合国の騎士達を見ればすぐに分かる。表情を蒼白にして剣を振り下ろす彼らの瞳には光など宿っていないのだから。年端もいかない子供を虐殺するのだ。もう彼らは人として全うな道を進む事は叶わないだろう。
そして、この戦場から生き延びた子供達が隣国であるクエリア神国へと集まって、教皇への復讐の機会を窺っているという事か。
(どうでも……いいよね、そんな事)
クエリア神国の成り立ちについて理解を深めた所で、この場で死んでしまえば何の意味も成さない。それに知った所で、少女に教皇を討つ力はないのだ。
人外の力を持っているとしても、たった一人で万を超える軍勢へと命令出来る教皇と戦える訳はないのだから。結局は何も出来ないのである。
しかし、そんな少女を見てくれた存在がいて。
『生きる事を諦めるならば……力を貸して欲しい』
その存在は女性にしては低めの声で、少女へと語り掛けてくれた。
そして、次の瞬間。
まだ了承していないというのに、その未知なる存在は動き出していた。まるで少女を守るように鮮血色の霧を蠢かせ、振り下ろされる刃を、放たれるボウガンの矢の尽くを氷の結晶へと変貌させたのだ。
全てを防ぎ、氷の結晶として無かった事にする。
その力はまさに神にも匹敵する力だと少女は思った。自身も氷装具を用いれば同じ事が可能だが、規模があまりにも違い過ぎる。この力さえあれば、こんな愚かな行いをする教皇を討てるとさえ思えたのだ。
そんな少女の想いが伝わったのだろうか。
『共に行こう。私はお前の求める力を渡そう』
蠢く霧は少女を包み込んで。
一秒も経たない内に少女を人であって、人ではない何かへと変質させていく。何か未知なる者へと変わっていく事は怖かったけれど、少女は意識が薄れる中で数多の苦痛から解き放たれる喜びを噛み締めていたのだった。




