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氷結の歌姫  作者: 粉雪草
第二部 もう一度あなたを抱きしめたくて
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第三話 (四)

 もう二度と抱きしめる事は叶わない、そう思っていた温もりを感じながらの一夜を過ごしたカイトの目覚めはいつもとは違っていた。

 普段は起きるのが億劫で下手をしたら二度寝をしてしまいそうになるのだが、本日は自然と瞳が開いて、上体を起こすにも労力を使う事はなかったのだ。

 おそらく人生において一度、二度経験出来るかどうか。そう言わざるを得ないような完璧な目覚めだった。

(……ソフィのおかげかな)

 どんな夢を見たのかは覚えていないが、よく見る「過去を溯る夢」は見ていない気がする。もっと別な、言うならば至福の時を過ごしていたような気がするのだ。

 それを証明するかのように、カイトの頬はだらしなく緩んでしまう。約束通りに眠るまで側にいてくれた想い人はすでにいないというのに。それでも彼女を抱きしめる事が出来たのは、カイトにとっては言いようのない程に幸せだったのだ。

「団長の所にいかないと」

 しかし、いつまでも夢心地な気分を満喫している訳にもいかずに。

 カイトはあえて目的を口にしてから、ベッドから抜け出る。早朝のひんやりとした空気が足元を冷やしていくが、それを無視して就寝着の上着のボタンに手をかけた。

 手早く着替えて、団長の館へと向かうためだ。以前にも触れたが団長は傭兵団を作ってはいるが貴族である。メイン通りによって隔てられた都市サーランドの南東に位置する区画に住む彼らは富裕層と呼ばれ、各個人が例外なくカイトが住まう家の三倍はあるのではないかと思う程の館に住んでいる。

 豪奢な館に出向くのは少々気後れするけれど、会いに行く相手が団長ならば緊張はしない。と言っても、カイトが彼にしてしまった事を思うと心は沈んでいくのだが。

 人によっては「もういいだろう」と、そう言うのかもしれない。だが、片腕を斬ってしまった事を易々と忘れられる神経は持ち合わせていないのだ。

 せっかくいい気分だったというのに、すでに心は曇り空のように暗い。内へと溜まった鬱々とした感情は自然と溜息として漏れ出てしまったが、考え事をしながらも手は動いていたようで。

 すでに就寝着を脱ぎ捨てたカイトは普段着へと袖を通していた。

 普段着と言っても、先日のような有り合わせの服ではなくて。肌に合った薄手のセーターに、砂色のズボンという他人に見せても恥ずかしくはない格好だ。真っ白なウェアからセーターに変えただけなのだが、寒空を歩く事を考えれば自然に見える事だろう。

 年頃の少女であれば豪奢なドレスを着たり、ロングスカートを履いたりしたいと思うのだろうけど、戦いを身近に感じているカイトからすると、そんな動くにくい服装は論外だ。

(……まあ、若干女を捨ててるよね)

 そうは言ってみても、結局は「男」として生きようと決めた時に女性らしさは捨ててしまったように思う。完全に捨てきれていない部分もあるような気がするけれど、それは気にしないでおきたい。

(……行こう)

 これ以上考えていると、思考が悪い方向に流れると悟ったカイトは、床を軋ませながら自室の外を目指していく。

 そんなカイトがきっかり二歩進んだ時。

「起きていますか?」

 くたびれた木製のドアの奥から背筋が凍るような冷たい声が届いた。

 一瞬、アールグリフが来たのかと思ったが、彼はこんな冷たい声は出さない。では、誰なのかと疑問に思いながらもドアを開け放つ。

 しかし、正面にある円形テーブルと椅子の付近には誰もおらず、青い瞳を彷徨わせていると。

「あなたが『白犬』ですか?」

 再び冷たい声を放つ人物は問いを投げてきた。

 その声に導かれるようにして、視線を左側へ。つまりは家の玄関とも言うべき入口のドアへと向けるカイト。

 だが、視線を向けた瞬間にカイトは飛び上がりそうになった。その理由は問いを投げてきた人物の服装を見ればすぐに分かる。

 ロングコートのように長い衣類キャソックを豪奢な帯で締めた人物。それだけで教会の者だと分かるのだが、さらに驚く事に彼が身に纏う衣類は白だったのだ。

「教皇……様? でも、どうして?」

 実際に話した事はないが、服装のみで教皇だと判断したカイトは震えた声で確認する事で精一杯だった。しかし、教皇はカイトの反応を気にも止めていないらしく。

 皺が目立つ表情を動かしもせずに――

「どうして……ですか。ならば、答えましょう。あなたには今から聖王国ルストに向かってもらいます」

 淡々とここを訪れた理由を述べた。

 当然、拒否権などはない。フィーメア神国において「汚染者」は奴隷のようなものだからだ。そもそも彼は汚染者を差別する政策を取っている組織の代表。他の者よりも露骨で分かりやすい反応を示す事だろう。

 それはカイトの勝手な推測ではなくて、ほんの僅かな時間の後に証明される。おそらく時間にして一秒も経っていないにも関わらず、教皇はカイトへと背を向けたのだ。

 向かう目的も承諾の返事すら聞かずに彼は対話を打ち切ったのである。人外の力を持っているカイト達を恐怖する気持ちは、分かりたくはないけれど理解は出来る。

 だが、道具のように扱われて、人として扱おうともしない理由は分からない。

 だからこそ、言葉は自然と口から漏れ出ていた。

「あなたはどうして汚染者を差別するの? 僕達だって……人間だよ」

 絶対者に向けて反抗するなど、賢い者ならばまず選択する事はないだろう。

 しかし、カイトは拳を強く握り締めて言葉を届ける。この言葉がフィーメア神国における汚染者の人権確保の第一歩となる事を祈って。

「従順な『犬』だと聞いてきたのですが。まあ、時には犬も主に牙を向けますか。理由が必要ならば――再び答えましょう。人という存在は自身よりも下に『何か』があると落ち着くのです。別に汚染者を差別したい訳ではありません。あなた方の力は有効に使えば切り札に成り得ますからね。と言っても、たかだ一人で戦争に勝てる訳でもありませんが。すみません、話が逸れました。結局はこの国に貧民街でもあるならば……それで良かったのです。ただ市民の怒り、妬み、恐怖――それらの汚らわしい負の感情を受け止める器が必要だったのですよ」

 しかし、珍しく雪雲が少ない寒空を見上げながら語る教皇の言葉は、対話など不可能だと思えるものだった。

 そう。

 あまりにも遠くて対話の糸口すら見つけられなかったのだ。

 そして、同時に浮かんできたのは怒りだった。彼は自身の政治を都合よく進めるためだけに汚染者を差別していたのだ。確かに彼が言いたい事は分かる。カイトのような小数を犠牲にして、国がまとまるならばそれでいいと考えた結果なのだから。

 それでも、差別される側が納得出来る訳はないのだ。その想いをぶつけるために、青い瞳に確かな意志を宿らせていく。

「納得いきませんか。まあ、当然でしょうね。その結果として、クエリア神国などという異端の国が出来上がってしまったのですから。彼の国を滅ぼすのは私が成すべき事なのでしょうね」

 すると、教皇はまるで独り言を述べるかのように呟いた。

 おそらくカイトが言葉を真摯に受け取りはしないと勝手に判断したのだろう。実際に受け取った言葉の半分は理解する事が出来なかった。ただの一般人が一つの国が誕生した経緯まで知っている訳はないのだから当然だ。

 それでもカイトは対話を止める事はしたくないと思った。ここで話を終えてしまえば、ずっとすれ違ったままになってしまうと思ったからだ。

「滅ぼして……無かった事にして。それで本当に終わるの?」

 だからこそ、カイトは一人で世界と対話しようとするソフィのように言葉を届ける。一つの言葉が数多の想いを繋いで、分かり合えるように。そんな祈りを込めて。仮にも聖職者を名乗るならば、天へと届く事を願う祈りは届くのだと信じたいと思ったのだ。

「終わらないでしょうね。ゆえに、人は延々と争っているのですから。もしこの世界から争いが無くなる時が訪れるとするならば……それは人という種が絶滅した時ではないでしょうか?」

 だが、カイトの想いは教皇の心には届かなかったようで。

 どこか世界に対して絶望したかのような言葉が返ってきた。これが人を統べる者の言葉で、そして彼が言う様に人の辿り着く末路だとするならばあまりにも悲しい。

 それでもカイトの心は折れる事はなかった。理由は至極簡単で、カイトが大切に想う人は別の道を歩んでいるからだ。そして、その道は光に満ちているのだと信じられる。

「ソフィなら……いや、氷結の歌姫なら終わらせる事が出来るよ。そう信じているから……僕は進む。彼女の言葉を届ける『代弁者』として。聖王国ルストに行くのは命令されたからではなくて、僕の意志だ」

 そう強く、強く信じられるからこそ、揺るがない言葉を絶対者に届ける事が出来るのだ。結果として、心に響かないとしても。発した言葉が、いつか世界を変えるのだと信じて。

「氷結の歌姫……ですか。なるほど、それがあなたを変えた理由という訳ですね。彼女の言葉は若者には心地良いでしょうから」

 やはりと言うべきか。

 教皇は溜息交じりに言葉を吐き出した。その言葉は凍てついた外気を含んだように冷たくて、これがカイトと教皇の距離であるように思えた。

(……ソフィ達なら諦めないのかな?)

 地平線すら見えそうな両者の距離に心を両断されたような感覚を味わったカイトは、一度話題に上がっている人物を思い浮かべる。常にカイトの心を埋め尽くしてくれる人はすぐさま内なる力を湧き起こしてくれたが、無謀と勇気は別物なのだと冷静な自分が口を固く閉ざす。

 これ以上無意味な言葉を吐き出すよりも、機を見て必要な言葉を届けるべきだと言うのだ。それはある意味では正しい。正し過ぎて吐き気がする程だ。

 なぜ吐き気を覚えるかと言えば、この正しさは教皇が述べた正しさに似ているからだ。カイトは教皇を否定しながらも、教皇と同じ考えを内に持っているのである。

 しかし、これは恥ずべき事ではない。人間誰しもが持っている感情の一つなのだから。

(……嫌だ)

 それでも、カイトは己の保身のために引き下がる勇気ではなくて、大切な人の歩む道を信じるために無謀な道を歩もうと思う。

 説得出来ない事はすでに分かっている。それでいて、自身が不利になる事は百も承知だ。

 全てが分かっているというのに、カイトの青い瞳は開け放たれたドアの頼りない光を吸って煌めいていた。それは意志の煌めき。汚染者という奴隷ではなくて、カイト・ラーバスティンという一人の人間が放つ生命の煌めきだった。

 カイトは内に溜まった全ての想いを言葉に載せて吐き出すのだと。冷え冷えとした空気を肺へと収めて、口を開いた瞬間まではそう思っていた。

 だが、言葉が外へと飛び出す刹那の直前に届いた――

「あなたが立ち話とは……明日は雲一つない快晴ですかな?」

 落ち着き払った声によって、全てが霧散してしまった。

 声を上げたのは、口調と同じようにゆったりとした歩調で歩いて来る一人の男。カイトが説得を手伝ってくれるよう頼みに行く予定でいた団長アールグリフだった。

 仮に彼の事をよく知らない者がこの場面に居合わせたのならば、言葉を吐き出す直前にたまたま声を上げたと思うだろう。しかし、団長は漏れ聞こえる会話を聞いて、情報を整理し、カイトを止めてくれたのだろう。そうだと思う絶対的な理由はないけれど、彼ならばそれくらいの機転を利かせる事が出来るように思う。

 それは――

「危うく立ち話所では済まなくなる所でした。さすがですね、アールグリフ」

 何事もなかったかのように語る教皇の言葉が全てを説明している。

 どうやら吐き出さずに飲み込んだ言葉はなかった事にしてくれるらしい。背中越しでもカイトの決意ある瞳は痛いくらいに感じていただろうに。

(……こういう所は大人なんだね)

 感情ではなくて、己の利を考えて動ける。

 それが大人という存在だというならば、彼らは完成していると言っても過言ではない。そういう意味では、カイトは見るに堪えない子供だろう。言い換えれば、駄々をこねている子供なのだ。

 これでは言葉も想いも届く訳はないと思う。どんな形でもいいから、何か認められる結果を出さねば何も成す事は出来ないのだ。そう思うと、アールグリフが止めてくれたのは救いであったのではないだろうか。

 いや、正確に言うならば、もう一度教皇に挑戦する機会を与えてくれたのかもしれない。

 そんな当たっているのか、間違っているのか分からない事を考えていると。

「名を気安く呼ばないでいただきたい。私はあなたが用意した『英雄』を演じる舞台から降りたのだからな。それはともかく……今朝届いた手紙は読ませていただいた。この国に生きる一人の貴族として……この国の民が生き残る道を選ばせてもらおう」

 教皇の右手側に立った団長は、ロングコートから手紙を出すと共に述べた。

 どうやらカイトだけではなくて、団長にも話がいっているらしい。ならば、わざわざ頼みに行く必要はなかったという事だろう。それくらいは会話の内容で理解したカイトは、人の家の前で鋭い視線を交わす両者を見守る。

 正直な事を言うならば、声を掛ける事が出来なかった。理由は簡単で、言葉を発した瞬間に瞳だけで人を殺せそうな両者の殺気がカイトに注がれるからだ。それだけは何としても避けたい所である。

 しかし、硬質な岩造りの道で立ち尽くしていた二人は唐突に動き出す。

「やる事をやっていただけるならば……何も文句はありませんよ、クレイスター卿」

 一人は正規の居場所である大聖堂へと向かうために一歩を進み。もう一人はカイトへと表情を感じさせない瞳を向けると共に、住居へと一歩を踏み出す。

 教皇を追うために入口付近に立っていたカイトは、頭二つ分は高いアールグリフに見下ろされるような恰好で立ち尽くす事になってしまった。まるで蛇に睨まれた蛙のようになっている自身を情けないと思いつつも、動く事は叶わない。そう長い付き合いではないけれど、彼が怒っているのが分かってしまったのだ。

 一体どんな言葉を浴びせられるのか。まるで叱られる子供のように、きつく瞳を閉ざしたカイトは親同然である彼の言葉を待っていると。

「――勇気と無謀は別物だ」

 溜息交じりにアールグリフは言葉を吐き出した。

 それはカイトも考えた事だった。今思うと無計画過ぎたとは思う。

「……止められなかった」

 それでも胸を埋め尽くす気持ちを止められなかった事も事実で。

 何を言われるかは予想も出来なかったけれども、浮かんだ言葉をそのまま口に出した。

 すると、アールグリフは――

「若い内はそれもいいか。しかし、その面倒を見る者の事は考えて欲しいものだな。さて、これで話は終わりだ。出掛ける準備は出来ているか?」

 一人納得したような顔をして、胸ポケットから硬質な手の平程度の大きさの箱を取り出した。木製で出来たその箱は幾度か見た事がある。確か彼が好んで吸う葉巻が収納されていた筈だ。どうやら準備が出来ていないのならば、ここで一服するつもりらしい。

「怒らないの?」

「私はお前の親ではないからな。そう頭ごなしに怒るつもりはない。しかし、必要であれば力になろう。少々甘やかし過ぎていると反省する時もあるがな」

 そんな彼にカイトは上目遣いで問うてみたが、アールグリフは素知らぬ顔をして片手で器用に木箱を空けていた。本当の親ならば怒声の一つは上げていたのだろうが、やはり彼は親の代わりなのだろう。

 近いようで遠い。言葉で表現するには難しい彼の瞳を覗き込む。

「で、どうなのだ?」

 すると、彼は口で葉巻を咥えながらも器用に声を発した。

 自分の事ばかりでアールグリフの問いに答えていない事に、ようやく気が付いたカイトは慌てて背を向けると。

「団長を呼んでからにしようと思ってから――まだだよ!」

 小走りに狭い家を駆ける。

 と言っても、三歩で開け放った自室のドアが見えてくるのだけど。

「ふむ、そうか。そう焦らなくてもいい。十分程度なら、これで暇を潰せるからな」

 早朝から驚かされてばかりのカイトの背中に届いたのは、余裕に満ちた言葉だった。今頃は器用に片手でマッチを擦って、葉巻に火でも燈しているのだろう。

(……十分で準備出来るかな)

 仮にも異国に行くのだ。たかが十分で終わるとは思えない。

 それに忘れているかもしれないが、一応カイトは女性なのだ。しかも、自身で述べるのは恥ずかしいけれど、うら若き乙女なのである。その乙女の準備が如何に長いのかを彼は知らないのだろうか。

(でも、待たせるのは悪いよね)

 出来れば三十分くらいは使って、ゆっくり持ち物を吟味したい。

 しかし、待たせるのは気が引けるカイトは手早く自室のドアを潜って、左手側に掛けられている肩幅よりも少し大きい革製のバックを引っ張る。

 それと共に、その下に鎮座している箪笥たんすから目についた衣服を収納していく。衣服の上下を合わせるなどという事をしている時間はない。それに、そもそも白か砂色の衣服が大半なのだから、どれを選んでも同じだろう。

(男性の名を名乗っているのが……裏目に出てるね)

 男性のつもりでいるから衣服にも年々無頓着になっていくカイト。

 これでは駄目だと思いつつも、見せる相手がいないとやる気が起きないのも事実だった。いつかはソフィと二人で新しい衣服を買うために都市を回りたいと思うのだけれど。

 そんな淡い希望を胸に抱いたカイトは、昨日脱ぎ捨てた真っ白なコートを拾って綺麗に畳む。数日間はこのコートともお別れだからだ。さすがに皺がついたコートを着る事は出来ない。昨日、寝る前に畳んでおけば着る事が出来たような気もするけれど。

 だが、それは今言っても仕方がない事だろう。着なれたコートを諦めたカイトは、以前団長が仕立ててくれた灰色のロングコートを箪笥から引っ張り出して羽織る。

 傭兵団の皆を仲間と認識していなかったカイトは、受け取ったのはいいけれど着る事を拒んでいた一着である。しかし、昨日の一件によって少なからず打ち解けた今ならば抵抗なく着る事が出来るような気がしたのだ。

(……ちょっと渋すぎるかな)

 まだ成長途中の幼い体には、灰色のロングコートは似合わない気がする。

 それでも服装を同じにする事で仲間となれるなら、それもいいのかもしれないと思ってしまう。数日前とは考え方が違っているような気がするけれど、これはカイトの中で眠っていた感情が目覚めたに過ぎない。

 ようやく人らしくなれた気がして薄っすらと微笑んだカイトはバックを肩に引っかけて、次は背後にある机を目指す。その上に置かれている手鏡や櫛などの必需品を詰め込めば準備は終了だ。ここまで要した時間は体感で十分。

 さすがに適当過ぎるかと思うけれど、戦地に赴いて荷物を落とした時を思えば幾分かましだろう。むしろポーチ一つで旅をする者もいる事を思えば多すぎるくらいだ。

 そうやって強引に自身を納得させたカイトは早足に自室を飛び出す。

「どうした? 少々早くないか?」

 すると、葉巻を吸い終えて、居間に用意された椅子に座っていたアールグリフが声を掛けてきた。もはや自身の家であるかのようにくつろいでいるが、その辺りは気にしない。

 もっと重要なのは、十分という時間を設定しておきながらも「早い」などと言った事だ。しかし、それはもう少し時間を使っても良かったという事でもあるので、彼に対して怒る事は出来なくて。

「気にしないで。それよりも行こうよ……少し荷物が多くなってしまったけれどね」

 どこか誤魔化す様な物言いに終始してしまう。

 おそらくカイトをよく知らない者でも不審に思うのかもしれないが、アールグリフはあえて突っ込む事はせずにゆっくりと立ち上がった。

「皆とは外で合流だ。私達も行くとしよう」

 そして、いつの間にか団長の顔になった彼は灰色のコートを翻しながらも一歩を進んだ。その背中に置いていかれないように。カイトはバックを肩へと再び担ぎ直して追いかけていく。ソフィから話を聞いた時はどうなるかと思ったけれど、どうやら先日と同じように皆で一つの目的に向けて歩いていけるらしい。

 以前は迷いがあったけれど、今回は彼らを頼もしいと思う事が出来るのはカイトの心境が変化したからだろう。どんな些細な事でも変わってしまう事は怖いと思ってしまうけれど、この変化は不快ではない。むしろ、心地良いとさえ思えるから不思議だ。

「そうだね。行こう……僕達が成せる事を成すために」

 その気持ちを言葉に含ませたカイトの瞳には、すでに不安も怒りもなくて。透き通った水を思わせる程に清らかな瞳が青く輝いていた。


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