第三話 (三)
カルティシオン大陸の南側に位置し、雪が舞う事が多いこの大陸において、比較的その害から逃れている国の名は聖王国ルスト。
数多の国が乱立する中で唯一汚染者の青年――シュバルツ・ストレインが国を治めているという一風変わった国である。受け入れられるよりも拒絶される事が多い汚染者が王を務める事が出来るのは、隣国である聖王国ストレインの女王イリフィリア・ストレインが国中に汚染者への差別撤廃を宣言した事が大きい。
その宣言が無ければ、聖王国ルストは今でも老王オーギュストが治めていた事だろう。それで国が安定すればいいのだが、自力で歩く事すら叶わない王では限界がある事は明らかであり、世代交代は必須だったとも言える。
そして、戦争が開始されるまで。つまりは、カルティシオン歴百八十四年まで投獄生活を続けていた青年にとっては外の空気は格別だった。
王という責務は煩わしいとは思うが、再び湿気に満ちた部屋に戻る事を考えれば幾分かましだろう。臣下が聞いたならば顔を真っ赤にして怒鳴りそうな事ではあるが、そんな些細な事は聖王国ルストの王シュバルツ・ストレインは気にもしない。
そして、現在は王の横柄な態度について父親のように口うるさく言う者はすでにいないのだ。どんな者にでも負けないと、そう信じていた最強の騎士は先の戦争で天命を全うしてしまったのだから。叶うならばもっと彼の側で人として多くを学びたかったと思うが、それは今となっては叶わない。
しかし、シュバルツは彼の死を惜しいとは思うが、悲しいと思わないようにしている。それは実の父ではないからという訳ではなくて、国の誉れと言っても過言ではないアルフレッド・オーディルの生き様を深く、深く心に刻み込んで、自分らしく生きたいと思ったからだ。
選んだ道が正しいのかどうかは分からない。今でも素直に泣けば良かったと思う時があるくらいであるのだから、人という存在は脆く弱いものだと思えてならない。
しかし、玉座に座る王が泣いていては国が成り立たないのも事実。だからこそ、シュバルツは不敵な笑みを張り付けて前方を見つめる。謁見の間と呼ばれる、見慣れた色鮮やかな真紅の絨毯が敷かれた床を、その絨毯を挟むように立ち尽くす騎士達をずっと。
だが、張り付けていた笑みは数秒の間を置いて、自然と深くなっていく。なぜかと言えば、ただ玉座に座っているという退屈で仕方がない「王の責務」に変化が訪れたからだ。
その変化とは――
「これは……女王様と我が『嫁』ではないか」
シュバルツの口から漏れ出た二人の人物と、その護衛だった。
他にも数百の護衛が城下の外で待機しているのだろうが、今はこの三名が左右に並ぶ騎士達に臆する事もなく悠然と進んでくる。金を贅沢に使った玉座に座る王の前で、ひれ伏しもせずに進めるのは彼女達が勝者だからだ。
もっと言うならば、敗者たるシュバルツは本来であれば自身が温めている玉座を退いて、勝者である女王に譲らねばならない立場にある。
しかし、なぜかそれを嫌うのが女王イリフィリア・ストレインだった。
出会った時から変わった姫だと思っていたが、王になってもそれは変わらないらしい。ついでに嫁と呼んだのは、淡い緑色の法衣を身に纏う女王の左隣りに控えている少女だ。
理由を付けては豪奢なドレスを送りつけているにも関わらず、毎日飽きもせずに漆黒のローブを身に纏う汚染者の少女――カナデである。
そのカナデは確かな意志を込めた漆黒の瞳を細めると――
「お前の嫁になった覚えはない」
腕を組んで、ばっさりとシュバルツの言葉を否定した。
敗者だとしても、仮にも王である相手に向けてこの言い様。世界各地を探しても、ここまで意志の強い女性はいないだろう。それは彼女の揺らがない双眸と張り詰めた雰囲気がよく説明している。
だが、彼女の魅力は騎士としての鋭さだけでない事をシュバルツはよく知っている。
先の戦争では代償である渇きに従って暴れるシュバルツへと、カナデは心を洗うような言葉と想いを懸命に伝えてくれたのだから。シュバルツは自身を救ってくれた彼女の穢れを知らない温かな手を生涯忘れる事はないだろう。
彼女の包むような温かさは直に心へと届いて、人として前を向く事が出来たのだから。そんな恩人を想わない人間がいるとするならば、それは余程の変わり者だろう。
――しかし。
どれだけ想おうとも、言葉として伝えようとも。彼女はシュバルツの「もの」となる気はないらしい。彼女が言うには「先約」がいるのだとか。
「カナデは私のだよ」
その先約である護衛が後ろからシュバルツの嫁を抱きしめる。
護衛という言葉を先ほどから使っているが、彼女は兵を率いる立場にいる隊長だ。
一目見ただけでは十代前半に見えてしまう程の童顔の彼女だが、槍の腕前はストレインに敵う者がいない程らしく人は見かけによらないという事だ。
「アリシアの『もの』でもないけどな」
しかし、その隊長の言葉ですらカナデは否定する。
それでも、カナデの表情が若干緩んでいる所を見ると、嫌がっていない事が一目で分かる。やはり彼女が述べた「先約」というのはアリシアと名乗る隊長なのだろう。
(……忌々しい。だが、まあいい)
あの隊長よりも早く出会っていれば、シュバルツにも好機があったかもしれないというのに。そんな王というよりも、ただの一般人に近い事を考えていると。
「そろそろ……いいかしら?」
吹雪を思わせるような凍てついた声が、この場にいる全ての者へと届いた。
どうやら痺れを切らした女王が、ついに感情を露わにしたのだ。この女王は普段はほんわかしているが、時には冷徹な王を思わせる時がある。
こうなってしまったら黙って従うのが鉄則だ。それを誰よりもよく知っている臣下二人は背筋を伸ばして女王の左右へと控える。
そんな二人を凍てついた瞳で一瞥したイリフィリアは――
「フィーメア神国の状況は把握していますか?」
一度咳払いをしてから、本題を切り出した。
どうやらリシェス共和国を手中に収めた女王が次に目を付けたのは、東のフィーメア神国らしい。シュバルツからすれば、北の侵攻に備えるとばかりに思っていたのだが。
「無論だ。クエリア神国と再び一戦交えたらしいな。結果は痛み分け……と言った所か」
しかし、とりあえずは女王の機嫌取りも含めて。
玉座に右肘を置いて、なおかつ頬を握った拳の上へとのせたシュバルツは問いへと答えていく。その様は傍目から見れば横柄に見えるだろうが、そんな些細な事をイリフィリアは気にもしないだろう。
それを説明するように、シュバルツの言葉に頷いた女王は――
「フィーメア神国はクエリア神国と分裂した事で兵を率いる将軍が手薄だと聞きます。今回も古参の将軍が率いたのだとか」
思案顔を浮かべながら、淡々と語るだけだった。
一切の乱れを感じさせない言葉を受け取ったシュバルツは、自身が保有する情報と食い違いがない事に安堵の息を吐いて思考を走らせていく。
何を考えているのかと言えば。
それは女王の考えが読めないのだ。他国へと進行する気があるのか、それとも何か別の事を考えているのか。
「まさか……援軍を派遣するのか?」
しばし考えていたシュバルツは、この女王ならやりかねない事を問うてみた。
ただの可能性の一つだと心に言い聞かせながら。
しかし、どこか常人から逸脱しているイリフィリアは――
「そのまさかです。シュバルツ王はフィーメア神国の使者との謁見後に……一万の兵を率いて北に向けて進軍。グシオン連合国を誘い出して下さい」
柔らかい笑みを浮かべると共に、とんでもない命令を下した。
相手の方が国力は上であるため、グシオン連合国を誘き出す事は容易い。
一万程度の手勢。つまりは、五倍強の戦力を有する強国からすれば難なく殲滅出来る数でやってきてくれるのは、むしろ好都合だという事だ。この好機を逃すとは到底思えない。
だからこそ、容易いと述べたのだ。
しかし、問題は誘き寄せた後である。同盟すら結んでいない、むしろ敵国として認識しているフィーメア神国のために一万の兵を無駄にする訳にはいかない。つまり、シュバルツが成すべき事は最小限の犠牲で、五倍強の国力を誇る軍勢を撃退せねばならないという事だ。
(捉えようによっては……死ねと言われたようなものだな)
ほぼ実現不可能な命令は時には臣下の裏切りを招く。
それが分からない女王ではないのだとしたら、まだ何か考えがあるのだろうか。
そんな事を考えていると。
「安心して下さい。王が誘い出した部隊は……私とゼイガンで奇襲をかけます。その後に反転して追撃して下さい。戦力が足りないのであればカナデも預けるわ」
黙して語らないシュバルツに向けて、イリフィリアは表情を変えないで語った。
これは女王が考えた策ではなくて、ゼイガンと呼ばれた参謀が用意したシナリオだろう。
先の戦争では自身の率いた部隊を瓦解させた策士の案ならば従ってもいいのだが、まだシュバルツの表情は冴えない。どうやら負けを経験して、少々臆病になってしまったようだ。以前であれば五倍強の戦力程度ならば恐れる事もなかっただろうに。
(ここまで聞いたのだ。全てを聞いておくか)
胸に不安を抱えたままでは戦いに集中出来ないだろう。
そうして強引に心を納得させたシュバルツは――
「国の守りはどうする? ストレインとルスト。総勢二万の軍勢を動かして……負けたならば後はないぞ? いや、むしろ俺がグシオンの王ならばフィーメア神国など無視して潰しにかかる」
最大の懸念事項を口に出した。
だが、言葉を受け取った女王の深緑を思わせる瞳は揺らがない。当然、左右を固める二人の瞳も変化がなかった。皆、自身の勝利のみを信じて疑っていないようだ。
その様子はどこか危なげな気もするが、ここまで自信に満ちた瞳を見ていると不安も消えていくから不思議だ。
(……魔女イリフィリア・ストレインか)
隣国であるフィーメア神国の者達が畏怖の念を込めて、女王をそう呼んでいる事は知っている。だが、それはあながち間違ってはいないのだと思う。
それだけ彼女の瞳には力がある。瞳を合わせたが最後、魔法にかかった者は彼女を信じて剣を取る。そして、彼女の理想と共に全力で駆け抜けてしまうのだ。それは生まれながらにして「王」であるシュバルツも例外ではない。
そんな奇跡にも似た魅力を秘めた女王は――
「守りはリシェス共和国に一任します」
数日前まで敵だった者すら信じるようだった。
第三者が聞けば正気の沙汰ではないと思うのかもしれないが、女王の言葉を否定する事はシュバルツには出来ない。なぜかと言えば、聖王国の滅びはリシェス共和国の滅びにも直結しているからだ。ならば協力するのは至極当然であり、しかも、ただ後ろで待機しているだけで平和が約束されるのだから願ってもない事だろう。
(まあ、こうも真っ直ぐに信じてもらえるならば……悪い気はしないのかもな)
いろいろと理由を並べてみたが、結局はイリフィリアが味方だと思って背中を任せてくれたからこそリシェス共和国も動くのだろう。
ただ信じる。
たったこれだけの事で、こうも人を動かせる女王を見ていると自身の器の小ささに嫌気が差してくる。しかし、シュバルツとて王なのだ。
ならば、聖王国ルストのために今は動くべきだろう。
その想いを密かに胸に刻んだシュバルツは――
「いいだろう。そこまで言うならば私が前線に出よう。カナデ……私のために剣を振るってくれるか?」
玉座から立ち上がると共に、そっと一人の女性に手を差し伸べる。
近頃のように「嫁」と呼んで茶化す事なく、王として偉ぶる事もなく。一人の騎士として、彼女の力を借りるために手を差し伸べたのだ。
その想いを受け取ってくれるかどうかはシュバルツには分からなかったが――
「私で構わないのであれば」
真紅の絨毯を一歩、二歩と進んだカナデは、差し伸べた手をしっかりと握ってくれた。と言っても、お互いに他者との接触を避けるために手袋越しではあったのだが。
それでも自身が付けている革の手袋を伝って、彼女の真っ直ぐな気持ちが伝わってきた。代償である命を捧げてでも、世界に光という名の希望を届けたいと願う少女の気持ち。
穢れという言葉とは程遠い、澄んだ気持ちを感じたシュバルツの心にはすでに不安はなかった。さすがは「浄化の花」と同じ名前を持っているだけはあって、どこまでも心地の良い少女だと思えてならない。
もはや自身にとっては切り離せない存在となった少女の手を強く握り返したシュバルツは、似合わないと分かっているが薄っすらと笑みを浮かべて。
「――感謝する」
最大限の気持ちを伝える。
すると、カナデは漆黒の瞳を一度見開いた。どうやら何を言われたのか理解出来ていないらしい。それほどまでにシュバルツが礼を述べた事が意外だったのだろうか。
しかし、こんな恥ずかしい言葉をもう一度述べる訳にもいかず。
「二度は言わん」
シュバルツは澄んだ瞳から逃げるように、握った手を解放して背を向ける。
その背中に届いたのは状況を正しく理解している、女王と隊長の温かい眼差しだった。




