第二話 (六)
国境線の中心から北西に二時間歩いた先にあるのは、フィーメア神国の者達が一夜を過ごすために用意された集落。
都市の住居と比べれば簡素で必要最低限の物しか置いてはいない休憩所ではあるが、遠出をする際に利用する事が多いアールグリフからすると別荘に来たようで、不思議と心が落ち着く空間だった。
なぜ過去形なのかといえば、本日はどこか落ち着かないからだ。
床へと敷かれた動物の毛皮を用いた絨毯も、木製独特の安らぎも変わっていない。だというのに、アールグリフの心は休まらない。
その理由を説明するには、床へと落としている視線を上げればすぐに分かる。試しに他者を落ち着かせる事が多いらしい茶色の瞳を上げて見ると。
「――何かあるかな?」
絨毯の上で正座を組んでいるカイトが声を掛けてきた。その両拳は胸元で握られており、やる気に満ち満ちている。どうやらアールグリフの左腕を切断した事を気にしているようで、何か恩返しがしたいらしい。
あえて言っておくが、それはアールグリフが望んだ事ではない。カイトが何か出来ないかと考えた上での行動である。
だが、意外と言うべきか。片手でも何とか日常生活は送れるようで特に頼む事はない。少々不便だと思う事は確かにあるのだが。
例えば衣服を着替える時、または好んで吸う葉巻に火を付ける時などだ。他にも例を挙げればきりがないだろう。それらは一人でやるよりも手伝ってもらった方が時間を短縮出来る事は確かだ。しかし、いくら善意で手伝ってくれるとしても、負い目を感じてしまう事もある。ならば自分でやった方がいいというのが、アールグリフの本音だった。
しかし、それを眼前で背筋を伸ばしている人物には通用しない。それ所か何かやる度に手伝おうとするものだから、今はこうしてヴォルドの部隊と合流するか、それとも吹雪が収まるまで片膝を立ててじっと座り込んでいるのだった。
当然、何を問われても答えない。答えてしまえば、カイトは「待ってました」と言わんばかりに動き出してしまうだろうから。
このまま放置して、諦めるのを待つのが正解だろう。
(あれから……どれだけ経った?)
と言っても、ただじっとしているだけというのは、時間の流れがゆっくりと感じられて。
正確な時間が知りたくなったアールグリフは、胸元にある金色の懐中時計を右手で開く。
その瞬間。
自身の口元は自然と引きつった。それもその筈で、先ほど時刻を確認してから三十分しか経っていなかったのだ。あまりにも時間の流れが遅すぎる。
この無言の圧力にあと何時間耐えればいいというのだろうか。他に仲間がいるならばまだ救いはあったのだが、他の者は我先にと「見張りをする」と言って外へと飛び出してしまったのだ。
こんな面倒な状況に巻き込まれたくないのは理解出来るが、団長を見捨てるとは何たる事か。内心で悪態をついたアールグリフは、本日何回目かの溜息を吐き出した。それはきっかり二歩の距離を置いて座っているカイトには当然届いて。
「……僕は邪魔かな」
落ち込んだように頼りない肩を落とした。
アールグリフの生命を感じさせない左腕に包帯を巻いて応急処置をしてからは、ずっと放置されているカイト。さすがに思う所もあるらしい。
ここで何も声を掛けなければ、落ち込みはするだろうが見張りの交代として外へと出る事だろう。つまりは、あともう一押しなのだ。
だが、目に見えて落ち込んでいるカイトを見ていると、なぜか良心が痛んで自然と何かしてあげたいと思ってしまう。声を掛ける事で、自身が苦労するとしても開いた口を閉じる事は出来なくて。
「俺の事はいい。一人で何でも出来る」
ついに声を掛けてしまった。
すると、カイトは弾かれたように顔を上げて。胸元で握った拳を再び強く握り締めると。
「僕の責任なんだから何でも手伝うよ。何かしてないと……気が狂いそうになるから」
内にある想いを隠しもせずに吐き出したようだった。
確かにアールグリフがどれだけ「気にするな」と言っても、気にしてしまうものなのだろう。結果的にはアールグリフの命を救ったのだとしても。
何かカイトが納得するような事をさせてあげられればいいのだが、それを考えるのも大層な労力を要する気がする。これはカイトの良心の問題であって、明確な答えをアールグリフは持っていないからだ。
ならば、どうすればいいのか。考えた挙句に出てきたのは――
「そう焦る必要なない。お前が成長して……俺が困った時に手伝ってくれればいい」
問題を先送りにする事だった。
今この場で腕一本分の対価など払える訳はないのだ。ならば、いつかカイトが納得する方法で返してくれればいいと思う。
アールグリフの中では名案に近いものであったのだが、カイトは納得していないようで。拗ねたように頬を膨らませてから。
「……僕が成長する間にアールグリフはもっと立派になっていく。それでは返せないよ」
意見を返してきた。
大人と子供と言ってもいい二人の年齢差を考えると難しいのか、それともカイト自身に自信が足りないのか。
前者であればまだ救いはあるが、後者であるとするならば考えを改めて欲しいと思う。カイトにはアールグリフを超えて、もっと人として遥か高みまで進んで欲しいと思っているからだ。
だからこそ、アールグリフは――
「ふむ。ならばお前には俺を超えてもらおう。そして、俺が納得するものを返してくれ。そんな事は無理などと弱音は吐くなよ?」
あえて厳しい条件を叩きつける。
これで立ち上がらなければアールグリフの見込み違いだろう。と言っても、そう簡単に超えられるつもりはないのだが。
「厳しいね。でも、そうだね。身の回りの世話をしたくらいでは償えないから。なら……いつかあなたを超えて、返して見せるよ」
しかし、カイトには想いは伝わったようで、まるで花が咲いたような笑顔を浮かべて頷いてくれた。その笑顔には、すでに罪を背負った陰りはなくて。前へと突き進む事が出来る者だけが浮かべる、絶対の自信があるような気がした。
おそらく意図的に浮かべたものではないのだろうが、もう心配する必要はないだろう。本当に手間のかかる奴だと思うが、そこが可愛らしくもあるのでアールグリフは黙って一つ頷くだけに留めた。
これでとりあえずは一件落着。問題はないと胸を撫で下ろした瞬間。
「団長! それはないだろう!」
ドアを強く開け放つと共に、傭兵の一人が声を張り上げた。
それだけでなく、彼らの背後には七人くらい隠れている気がする。その顔を一人ずつ確認していくと、見張りをすると言って飛び出した者達だった。どうやら外の見張りだけでなく、こちらの会話も逐一確認されていたらしい。カイトに意識を集中し過ぎて、気づく事が出来なかった自身を恨めしく思いながらも、アールグリフは団員達を鋭く睨んで。
「――何がないのだ?」
彼らの主張を一応は聞く事にする。
アールグリフからすると何ら問題なく事態は収まったような気がするのだが、何か問題や意見があるというのならば聞き入れたいと思う。さすがに内容によっては拒否するのだが。しかし、常に真剣なアールグリフとは違って、傭兵達が期待していたのは別の事だったようで。
「こんな一途で可愛らしい子なんて他にいない。一生独身でいるつもりか!」
なぜか色恋沙汰の話を振られてしまった。
一体こいつらは何を期待しているのだろうか。正直訳が分からなくて首を傾げるアールグリフ。
だが、カイトは彼らが語った言葉の意味が分かるらしく耳まで真っ赤にして俯いていた。付き合いが長いとまでは言わないが、少なくともカイトの人となりを知っているアールグリフからするとこの反応は初めて見るだろうか。
出来れば自身の頭でこの謎を解き明かしたい気もするが、分からない事をいつまでも考えているのは時間の無駄だと判断して。
「何が言いたい?」
アールグリフは端的に質問を投げ返した。
これで相手が説明してくれないというならば話は終わりだ。どこか取りつく島もないような問いを返してしまった気もするが、言葉を受け取った傭兵達は唖然とした顔をしていた。当然、言葉は返ってこない。
(これではどうにも出来んな)
相手が語る気がないならば、これで会話は終わりかと思っていると。
「えっと……一応は皆が言いたい事は考えたよ。団長は分かっていないみたいだから言うけれど……僕の一生を捧げようかと」
カイトが皆を代表として消え入りそうな声で囁いた。
その瞬間。
なぜ色恋の話が出たのか、そしてカイトが火傷しそうな程に頬を赤らめていたのかを遅れて理解する。これは伴侶がいないアールグリフには、一生を要したとしても答えには辿り着けなかっただろう。
この手の話題にあまりにも疎いからこそ、この年になっても独身を貫いているのだから。仮に鋭いならばとっくに明るい家庭を築いている事だろう。
だが、彼らの展開している話題には気になる点が幾つかある。それを確認するためにアールグリフはゆっくりと口を開く。
「俺の歳を考えているのか? それにカイトが想いを寄せている者は俺ではないだろう?」
一つは大人と子供と言ってもいい程の年齢差。そして、もう一つはカイトが取り戻したと願う少女についてだ。その二つを考えれば、アールグリフとカイトの恋愛など有り得ない気がしたのだ。
しかし、傭兵の中には「年齢なんて関係あるか!」と叫んでいる者もいる。だが、そこはあえて無視する。それよりもカイトの口から聞きたいのは取り戻したい少女についてだった。だからこそ、アールグリフは返答が欲しいと思う相手に真摯な視線を向ける。
すると。
「そうだね。僕はソフィの温もりが大好きかな。だから、他の人を好きになんてなれないと思う。今はソフィの事で頭が一杯だからね。そして、取り戻した後は……もっと一杯になってしまうと思う。でも、もし団長が望んで……それで償えるなら。僕は……」
カイトは一瞬躊躇したが、青い瞳を濡らしながらも心の内を語ってくれた。
大よそは想像した通りの回答であった事に満足しつつも。一部訂正する必要がある事を悟ったアールグリフは瞳を鋭くさせて。
「俺は偽りの想いなどで満足はしない。ゆえに、それは償いとはならない。それに、もし今後このような事があったとしても……その道を選ぶ事は問題があると思うがな。俺が思うには自身の心に嘘をつく事は……相手にも自分自身にも失礼な事だと考えている」
腕を組むと共に淡々と言葉を浴びせる。
何だか説教をしているような気分だが、道を踏み外しそうになっているカイトを正せるならばそれもいいのかと思う。場合によっては傭兵達に唆されて、誤った道に進んでしまう危うさを感じるからだ。
その想いを知ってか、知らずか。
「自分の心に嘘をつく事。僕の心は……一年前からずっと変わっていないよ。ずっとソフィが大切で……この胸で抱きしめたい」
カイトは自身の想いを確かめるように、噛み締めるように言葉を紡いだ。
これならばもう道を違える事はないだろう。と言っても、道を違えた場合は如何なる手段を用いてでも修正してあげるつもりなのだが。
ここまで来ると親馬鹿に思われるかもしれないが、それだけアールグリフにとってカイトは心配で仕方がないのだ。実の親ではないが、心配なのだから仕方がない。
そう内心で納得して一度頷くアールグリフ。そんな団長に呆れたのは傭兵達で、口々に勿体無いとか何だとか言っていた。それらの耳障りな声を、もう一度無視したアールグリフは一度左手側に見える窓を見やる。
一時間前は窓が割れるのではないかと思う程の耳にうるさい音を鳴らしていたが、その音も若干弱まっている気がする。夜道を進む事になってしまうが、これならば明日の夕刻にはフィーメア神国に帰還出来るだろうか。
「――動くの?」
どうやらカイトもアールグリフの視線を追っていたようで、立ち上がると共に確認の問いを投げた。
その問いに頷くだけで返したアールグリフは――
「皆を集めてくれ。出来ればヴォルドの部隊と合流したかったが……先に戻らせてもらおう」
入口である木製のドア前で固まっている傭兵達へと指示を飛ばす。
指示を受け取った傭兵達は今までの冗談を言っていた時とは違って、表情を引き締めると共に我先にと休憩場所として設置された家を飛び出していく。
その後を追ったのはアールグリフとカイト。日を追うごとに絆を強くさせている二人だった。




