第二話 (四)
フロスト雪原に存在する国境線から西の方角に三十分歩いた先で。
総数六千の騎士を横三列に分けて、陣を敷いているのは老将ヴォルド。
なぜ横に並べるだけの単純な陣を選んだのかと言えば、それはただの寄せ集めに過ぎない狂信者共を駆逐するのに策など不要だと思ったからだ。ただ正面から激突して、順に駆逐していく。
それが、ヴォルドの戦い方なのである。それならば、突撃の陣を組めばいいと言われるかもしれないが、彼の陣は側面からの奇襲に脆い部分がある。その危機を未然に防ぐためにも横へと広がって、単純な剣の腕だけで優劣を競おうという事だ。
世界は広いが、これほど分かりやすい理由でこの陣を選択するのはヴォルドくらいだろう。
そんなどこまでも愚直な将軍は――
「遅い。遅すぎる」
一言で言うならば焦れていた。
教皇の指示を順守するならば、敵が現れるまでこの場で待機せねばならない。
だが、昨日から続く吹雪によって視界は最悪と言ってもいい。こんな状況では双眼鏡を使おうとも、前方で何が起きているのか分からないだろう。もしかすれば気付いた時には敵が眼前にいたとしても何ら不思議ではなかった。
そこまで思考を走らせた時に。
(……視界が悪いと。それはすなわち誤認もありえるという事か)
ヴォルドはなぜこんな簡単な事に今まで気づかなかったのかと、自身の足りない脳に嫌気が差した。冷静に考えれば、こんな所で部下を震えさせながら待っている必要などなかったのだ。
たまたま視界に入ったものが敵に見えて、動いてしまったと報告すれば良いのだから。そこまで考えたヴォルドは、さっそく髭に隠れた口元を歪ませて。
「……眼前に何か動かなかったか?」
わざとらしく左隣に立つ一人の騎士へと質問を投げかける。
「さて……私には。ですが、長きに渡って戦場を眺めてきた将軍には見えるものがあるのやもしれませんな」
すると、自身の片腕と言ってもいい古参の騎士は表情を変えずに淡々と言葉を返した。
さすがに共に戦場を駆けた経験が長いだけあって、こちらが考えている事は全てお見通しのようだった。
ならば、何も隠す必要はなくて。
「この吹雪に紛れて敵が接近している可能性がある。皆、陣を崩さずに――前進せよ!」
もっともな理由を述べると共に、素早く指示を飛ばす。
おそらく八割以上の者は進軍するための適当な理由である事は分かっているだろう。しかし、将軍という騎士の上に立つ者の命令は絶対であり、疑問の声が上がる事はなかった。
その事実に内心で安堵したヴォルドは皆と共に雪原へと足跡を刻み込む。数時間振りに前へと踏み出した両足は思ったよりも重く感じたが、これ以上この極寒の地に立っていなくていいと思うと心は軽かった。
それは周囲を取り囲む騎士達も同じなのか、今までの陰鬱とした雰囲気は感じない。どうやら待機した事で下がった士気を何とか取り戻す事が出来ているようだった。
(前進したのは……正解だったやもしれんな)
正面からぶつかる事を良とするヴォルドからすると、現在の状態は好ましいと言える。後はこの勢いを維持して、いや、さらに高めた状態で交戦状態に突入すれば負ける事はないだろう。
そう確信したヴォルドは自らが模範となるために、雪が覆う地を強く蹴りつけて咆哮を上げる。ただでさえ体力を消費する雪原を駆け抜けるなど前代未聞だが、今はこの勢いを失いたくはなかったのである。
その意図は正確に皆へと伝わって。
大気を震わせる程に強大な騎士達の咆哮が轟いた。彼らは神の僕たる教皇よりも、身近な所で剣を握るヴォルドをいつも信じてくれるのだ。そんな彼らだからこそ、この身が朽ち果てるまで率いていたいと思ってしまう。
(……良い部下を持ったな)
温かいような、安らぐような想いは自然とヴォルドの頬を緩ませていくが、それを何とか引き結んで雪原を走り続ける。
穢れを知らない白と、煌めく銀色の輝きが満たす地をただ真っ直ぐに。
時間にして、どれくらい経っただろうか。正確な時間は分からないが、体感で数十分程度走った所で視認したのは。
灰色のロングコートを身に纏った一団だった。
おそらく団長の趣味も入っている渋さを感じさせる出で立ちをしている彼らを一目で傭兵団「シュトゥルム・ステイト」だと断定したヴォルドは、声を上げるために一つ息を吸って。
「敵は……近いぞ。相手が臆している間に駆逐せよ!」
吹き荒れる吹雪を凌駕する程の、熱をこめた叫び声を外へと解き放つ。
二歩程の距離を開けて疾走する側近の騎士達には、耳を塞ぎたくなる程にうるさい大声だったに違いないが、そんな事はいちいち気にはしない。
今は目視で五十メートルを開けた先にいる者達へと視線を向けるべきなのだ。吹雪のためにはっきりと視認は出来ないが、彼らの特徴と言っても過言ではない藍色のローブを身に纏った狂信者達を。
もし騎士を率いる将軍がヴォルドではなくて他の人物であれば、一人も欠ける事なく退く事が出来た傭兵団を気にするのかもしれない。だが、ヴォルドからすればアールグリフ達は対峙する敵にとっての防壁に見えて仕方がなかった。
それもその筈で。ちょうど二十メートルを開けて、こちらに合流するように走る彼らが邪魔でボウガンが使用出来ないのだ。さすがに味方が前方にいる中で一斉射の指示を飛ばす事は出来ない。放物線を描く事が出来る遠距離武器があれば迷わず使用したが、無い物ねだりをしても仕方がないだろう。
対する相手は迷わず腰に固定していたボウガンを引き抜いて、走りながらも射撃体勢を整えていく。現在の距離は四十メートル。
技術レベルが同等であるならば有効射程は三十メートルであり、現在は矢が届く事はない。しかし、これ以上前進する事があれば敵に先手を打たれてしまうのは明らかだ。
と言っても、今から迂回する時間的な余裕はない。ならば、敵が先手を打てた事で油断した所に食い込むのが最善の策だろうか。
むしろそれ以外に道はないだろう。そうヴォルドが確信した時に上がったのは。
「――白犬! 背後に氷壁を!」
追われる形となってしまった傭兵団団長の声だった。
その声に導かれるようにして、視線を前方へと向けると。
最後尾を走る、雪に溶け込むような白いロングコートを身に纏った人物は、背後へと手にした透き通った武器を向けると共に迷わず氷の塊を解き放つ。
大きさにして人の頭部程はある凍てついた塊は数秒の後に地へと突き刺さって。一つ瞬きをする間には高さ五メートル、横幅十メートル程の壁を形成していた。
しかし、一言で壁と言っても、その効果は目を疑う程のものだった。見た目はただの透き通った壁なのだが、ざっと千を超える矢を平然と受け止めて見せたのだ。
しかも、それだけでなく。
壁へと触れたボウガンの矢は氷の結晶へと姿を変えて、裁縫をする際の針山の如くに壁と一体化していた。まさに人外を超えた奇跡。いや、ここまでくると恐怖すら覚える光景だった。
しかし、それを成し得た人物は自身が成した事を気にした様子もなく、ただ懸命にその両足を前へと押し進めていた。
(――今は敵の事を考えねば)
迂闊にも呆気に取られてしまったヴォルドは、一度頭を振って思考を振り払う。
冷静に見るならば、あの壁を盾にして突撃すれば敵の懐へと飛び込める。そして、これは絶好の機会とも言えるだろう。それは、今でもボウガンを握っている相手など勢いがついた騎士達の敵ではないからだ。
素早く判断したヴォルドは静かに片手を上げてから、鋭く振り下ろす。
これは予め定めている突撃の合図。正面から戦う事を好む自身が最も多く使用する合図である。だが、ヴォルドが率いている騎士達の反応はいつもとは違う。
何が違うのかといえば、普段は突撃の指示を送った際は内なる恐怖を振り払うために雄叫びを上げるのが常だ。しかし、今回は触れた瞬間に身が凍てついてしまう壁が眼前にある事もあってか、両足が思う様に進まないらしい。言うならば「気迫」が足りないのだろう。どれだけ鍛錬を積んだとしても、未知なる恐怖に対する耐性までは身に付く事はないという事だ。
(味方ではあるが……あんなものを見せられればな)
敵に恐怖したのであれば怒声の一つも上げたくはなる。
だが、ヴォルド自身も眼前に展開された光景に呆気に取られてしまった手前、怒鳴るに怒鳴れなかった。
そんな数多の迷いを含んだ突撃は明らかに鋭さが足りない。一瞬、氷の壁を迂回しようかと思ったが、これだけ動きが重い状態で迂回したならば敵のいい的となってしまうのは目に見えていた。
よもや味方に勢いを殺されるとは思ってもいなかったが、兵を率いる者としては残った数秒で必勝の策を考えねばならないだろう。
しかし、そんなヴォルドを救ってくれたのは穏やかな茶色の瞳を有する男。傭兵団の団長アールグリフだった。
「白犬! 壁をきっかり二秒後に砕け!」
彼はすれ違い様にヴォルドと視線を合わせると、素早く一人の汚染者に指示を飛ばした。そんな彼はもはや後方を見てはおらず、ただ戦いの邪魔にならないように傭兵団を退かせる事だけを考えているらしい。
(……二秒か)
ヴォルドは自身に与えられた時間をしっかりと胸へと刻んで。
「俺を信じて――全力疾走!」
一秒の間に指示を飛ばして、自身が手本となるように最前線を駆け抜ける。
一歩、二歩と両足を進ませる度に迫るのは味方すら絶命させる透き通った壁。ただ見つめるだけならば美しいという一言で語れる、芸術作品にも似た防御壁との距離はすでに五歩。
その先で待ち構えているのは、ようやくボウガンを腰へと戻しているクエリア神国の狂信者達だった。敵はこうも無謀に突撃してくるとは思ってもいなかったのだろう。
ヴォルド自身も壁に向けて突撃するなど、正気の沙汰ではないと思えてならない。
だが、眼前に広がる壁は一度心を洗うかのような澄んだ音色を響かせると。
――刹那の速さで砕け散る。
ここまでに要した時間は三秒。若干の誤差はあるものの突撃を補助する盾は、役目を終えて戦場からその姿を消す。アールグリフが用意した策を使用するのはいささか癪に障るが、戦いにおいては不思議と呼吸が合う彼を信じてみるのもいいだろう。
そう判断したヴォルドは獣のような雄叫びを上げて敵陣へと、降り注ぐ氷の欠片を切り裂きながらも進んでいく。敵が応戦可能な態勢を整えるよりも速く、それでいて何か策を思いつくよりも速く。指揮官である自身の手で道を切り開くために、眼前に迫る者を容赦なく斬り捨てていく。
その中には子供も女性もいたが、ヴォルドの剣は迷わない。今さら善人ぶって「殺せない」などと言うつもりはないのだ。ならば、徹底的にフィーメア神国のために、信じる友のために剣を振るおうと思うのである。その想いに応えるように続くのは、自身の部下である騎士達。
強引に突撃した事もあって陣の形は維持出来なかったが、それは勢いに押されて陣を破壊されたクエリア神国も同じだ。天から見下ろす事が出来るのであれば、開戦して数分で乱戦状態へと突入している事が分かるだろう。
だが、知略で劣るヴォルドからすると、部隊の強さだけで勝敗が決定する乱戦状態は得意とする領分だ。他の将軍であれば兵をいたずらに消費する乱戦を嫌うのだろうが。
しかし、今回は将軍である自身の性格が事態を悪い方向へと導いてしまう。クエリア神国の狂信者達が何か策を用いた訳ではない。むしろ、一度乱戦状態に突入したならば、策は何の意味を成さない。
では、何が起きたのかと言えば。
それを説明するには、敵である狂信者達の瞳を見ればすぐにでも分かる。自らの死が間近に迫っているにも関わらず、彼らはフードから覗く瞳に狂気の色を漂わせているのだ。
――それだけでなく。
まるで架空の物語の中に出てくる死霊の類であるかのように、身を裂かれても、剣で貫かれようとも突撃してくるその姿は、異常の一言で片づけられるだろう。
これでは如何に個々の技量が騎士達の方が勝っていても、被害は免れない。
(お前なら……どうしたのだろうな)
ふと脳裏に浮かんだのは、教皇を疑う前は騎士団にいた一人の男。
今回も策だけを押し付けて、去っていた傭兵団の団長だった。彼ならばもっと効果的に進軍して、少数の被害で目に見えた戦果を上げる事が出来たのかもしれないと思ったのだ。
しかし、彼はもう騎士ではなくて貴族。今さら言っても仕方がない事だろう。
(……今はこいつらを追い返す事を)
余計な雑念を長剣の柄を強く握り締める事で霧散させたヴォルドは、横薙ぎの銀閃を煌めかせて。ただ淡々と瞳に映る者だけを斬り続けた。




