第二話 (二)
どこまでも澄んだ音色を耳にしたアールグリフは、溜まった息をようやく吐き出す事が出来た。
それは一言で言えば安堵の溜息で。ようやく全身にまとわりついていた重りを降ろす事が出来たのかもしれない。しかし、それはようやく自身の目的に向かって突き進んだカイトのせいではなくて、アールグリフが勝手に担いだ重り。
言うならば勝手に心配して、勝手に安心しているのだ。カイトが知れば、いい迷惑だと思うのだろうか。
それは当人にしか分からないのだが――
(……カイトは放って置いても大丈夫。問題は時間と私自身が生き残れるか……だな)
ようやく団長としての仕事に集中出来るようになったアールグリフは、素早く鋭い瞳を周囲へと向ける。
とりあえず注目すべき「血染めの舞姫」は、カイトによって穿たれた箇所から大量の霧を放出しており、積極的に攻めてくる事はない。もしかしたら、弱みを見せて誘っているのかもしれないが、これは守りの態勢に入ったと見るのが妥当だろう。
余裕があるならば追撃して、息の根を止める事も考えるべき状況だ。
だが、それが出来ない理由が二つある。
一つは彼女の赤き突撃槍に触れてしまった事で左腕を失ってしまった事。正直な事を言うならば、現在意識がある事は奇跡に近いように思う。
しかし、心清らかな善人ならいざ知らず、傭兵団などを作ってしまう人間に都合のいい奇跡が舞い降りてくる事はないだろう。
ならば、なぜ立っていられるのかと言えば。
それは、切断された左腕がすでに死んでいるからだ。もっと正確に言うならば、そこに生命が宿っていないという感覚に近いのかもしれない。
それを説明するには、自身の左腕を見るのが一番早い。
カイトによって左上肢を綺麗に切断されたというのに、流れ出る血は五センチ程度の切り傷程度のものだ。本来であれば、蛇口を捻った際に流れ出る水を思わせる程の量が流れ出てもおかしくないというのに。確かに切断された瞬間は今までに体験した事のない程の血が溢れた。だが、以後はまるで本当に斬られたのかと疑いたくなる程の量しか流れていないのだ。この現状を誰かに説明しろと言われれば「氷雪種が関係している」としか答えられないのが悲しい所だが、今は命がある事を素直に喜びたい。
そして、眼前に立ち尽くす脅威が去ったと言っても過言ではない現在において、最も注目するべき事は残るもう一つの理由だ。
もう一つの理由。
それは彼女を攻撃するという事は、彼女を神として崇めている者達を刺激してしまう事であって。当然、クエリア神国の狂信者がこの場に現れる事は想像に難くない。
元はフィーメア神国の住民であった彼らではあるが、内に溜まった教皇への恨みを晴らすために、そして自分達が信じる光を守るために情け無用で攻撃してくる事だろう。
アールグリフが所有する、せいぜい二百名の傭兵団など数分で駆逐されてしまうのは明らかだ。だからこそ、しつこいくらいに「時間がない」と言っていたのだから。
ただの一人も欠ける事なく、皆でフィーメア神国に帰るためには一秒でも速く「血染めの舞姫」を退かせて、この場を去る他に道はない。こうして言葉にすれば単純だが、それは解けない難題を突き付けられたようなものだった。
それでも、アールグリフは普段は温かな茶色の瞳を鋭く細めて、眼前の相手を睨みつける。退く事も諦める事もないのだと、神として崇められている舞姫に知らせるために。
何かに絶望して、こんな姿となってしまったのだろう一人の少女へと揺らがない想いをぶつけ続けるアールグリフ。すでに刃を交える戦いは終わっており、残りは気迫が勝敗を決する時であるのだから。
しかし、それはアールグリフが勝手に判断した事で。
(……なおも、刃で語るのか)
舞姫はアールグリフの鋭い眼光を受け止めても、なお雪原を蹴りつけた。
まだ、戦えるのだと。そして、負けてなどいないのだと言外に語っているような気がしてならない。
「――受けて立とう」
ならば、アールグリフは疾走する赤き少女へと言葉を届ける事にした。
そして、次の瞬間。
血を失った事で霞む視界の中で視認したのは、突き出された一つの突撃槍。舞姫が右手で握っていた一本だった。
だが、さすがにカイトの弾丸は効果があったらしく、突き出された槍は見るからに遅い。と言っても、こちらも瀕死である事には違いなく、右に体を捻るようにして避ける事がやっとだった。
(……次は左か)
右を避けて終わりであるならば、避けるついでに胴を切り裂く事も可能だった。
だが、それは舞姫の左手に握られた槍が、彼女から見て右から左に薙ぎ払われる事で防がれてしまう。その刃を右手で握った長剣で受け止めるアールグリフは、対する相手から見たら防戦一方に見える事だろう。
しかし、それは一対一の戦いをしている時であって。
「――一斉射!」
他に仲間がいるアールグリフは無理に斬り込む必要はないのである。
ただ指示を出すだけで、自身が率いている傭兵達が攻勢に出てくれるのだから。その期待に応えた傭兵達は、両翼から総数百の矢を左右から舞姫を挟むようにして放つ。
しかし、彼女を覆う霧は矢の尽くを氷の結晶へと変貌させて、宙で破砕させる。結果として届いたのは片手で数えられる程の数だったが、さすがは戦いを生業としているだけはあって狙いは正確で。舞姫の両足は寒空を切り裂いた矢によって貫かれていた。
この程度の攻撃であれば致命傷にならない事は分かっているが、舞姫の動きがさらに鈍っている事はすぐに判断出来る。しかし、アールグリフは駆け出しそうになる両足を懸命に止める。彼女は霧に姿を変える力を持っているために、迂闊に飛び込むのは危険だと判断したのだ。
少々消極的は行動に見えるかもしれないが、この冷静さがさらに舞姫を追い詰めたようで。彼女は一度霧になって、目視で三歩の距離を開けて再び姿を現した。
(……まだ戦うというのか?)
如何なる理由があるとしても、これ以上自身の命を考えないで戦うのは異常だ。
そう思うアールグリフも戦ってはいるが、それは相手が戦う手を止めないからに他ならない。相手が退くならば、それ以上戦う気はないのだ。当然、相手もそれくらいは気づいている筈なのだが。
――一秒、二秒。
経過した時間は僅か数秒だが、アールグリフが感じた時間は無限にも思える程に長く感じられた。
しかし、それは唐突に終わりを告げる。
それは舞姫が突撃してきた訳では決してない。今の今まで人を凌駕した圧倒的な力で攻勢に出ていた彼女が、まるで幻でも見ていたかのように唐突にその姿を消したのだ。
だが、幻ではなかった事は今も眼前に蠢く赤き霧と、失った左腕を見ればすぐに分かる。
「ようやく退いたか。あともう少し……動いてくれよ」
アールグリフは安堵した事で意識が飛びそうになるのを、何とか踏み止まる。
それと共によろめきながらも一歩を進む。こんな所で一番の年長者である自分が無様に倒れる訳にはいかないのだ。
そこまで必死になる理由は、彼らとは金で雇ったという関係だけで終わらせたくはないからだ。きっかけはアールグリフの私財であったのかもしれないが、真に心を通わせて共に進んでいきたいと願っている。
そのためにも、例え虚勢を張っていると分かってしまったとしても倒れる訳にはいかないのだ。それに、ここで倒れてしまったならば、責任を感じてしまう者が一人いる。あの小さな体と優しい心では、おそらくこの重さを受け止めきれないだろう。
ならば、カイトが心配しないように自身は立っていなければいけないのだ。そして、何事もなかったように微笑むくらいの余裕は見せてあげたい。
それだけで傷ついた心を救えるとは思えないが、少しでも負担を和らげてあげたいと思う。だからこそ、アールグリフは方角としては西側に向けて、カイトに背を向けるようにして歩いていく。そんな自分を迎えてくれたのは、青ざめた表情を浮かべている傭兵達だった。
(……なんて顔をしているのだかな)
仮にも屈強な戦士として名を轟かせている傭兵団の一員が浮かべる表情ではないだろうに。そんな彼らに人らしさを感じながらも、アールグリフは団長として指示を飛ばす。
「ここは危険だ。カイトが戻ったら……撤退する。決して止まるなよ、いいな」
言外に自身が足でまといとなったら捨てる様に、という意味を含ませながら。
だが、彼らの受け止め方は違ったようで。
「――止血する。団長が止まってろ」
傭兵の一人がアールグリフの右肩に己の腕を背後から絡ませて、即座に固定。
しかも、それだけでなく。別の団員が腰のポーチから取り出した幅三センチはあろう布で、アールグリフの切断部位よりも上方をきつく縛った。きつくという表現をしたが、屈強な男が全ての力を込めて縛ったのだから、痛いというよりも引き千切られるようだった。まさに加減を知らない男の荒療治に思える。
だが、応急処置をする機会は幾重にもあるためか、神経は破壊しないように気をつけてはくれているようだ。これならば一時間に一度くらい緩めれば何とかなるだろう。
と言っても、無事に一夜を共にした集落に戻る事が出来たらの話だが。
しかし、こんな所で悪い想像を働かせている暇はないアールグリフは――
「すまない。今度こそ……戻るぞ」
団員達に拒否された指示をもう一度飛ばす。
今度は拒否される理由はないだろう。その判断はやはり正しかったようで、団員達は一度カイトを気にしてから指示通りに西へ向けて駆け出した。




