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氷結の歌姫  作者: 粉雪草
第一部 たとえ失ったとしても
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第一話 (五)

 巻き起こったのは剣風。

 まるで全てを吹き飛ばすかのように荒々しく、それでいて突き刺すように鋭い風は、周囲に咲く氷結花を尽く舞わせる。

 舞い散る花弁は、頭上を覆う木々の間から漏れる微かな光を吸って煌めき、世界を彩っていく。

 輝く花びらに彩られた世界。それは見る者の心を奪ってしまうほどに幻想的だった。夢の世界、そう言ってもいいくらいに。そんな輝かしい世界で剣を振るい続けるのは黒い影。

 肩まで伸ばされた黒曜石を思わせる漆黒の髪に、全身を包むのは漆黒のローブ。唯一見えそうな両手でさえ黒い革の手袋で覆うという徹底ぶりだった。

 まるで世界から隠れるように、暗闇へと溶け込むように、全身を漆黒で包んでいる少女の名は、カナデ。まるで逃避しているように見える彼女ではあるが、決して無気力に日々を過ごしている訳ではない。日々剣を振るい、そして考え続けているのだ。

 自身の事を、ずっと。心を埋め尽くす闇に抗うかのように。

(なぜ? なぜ……私は剣を振るう?)

 カナデは剣閃を走らせながら、毎日浮かぶ問いを自身へと掛ける。

 もう守るべき国も、守るべき人もいないというのに、なぜ自身は技を磨くのかと。

 全てを失ったあの日から変わらず、雨が降ろうが、雪が舞おうが欠かさず毎日。

 銀の森と呼ばれる人里離れた、この場所で。

 銀の森と呼ばれているのは周囲を見れば誰もが納得してしまう。地に咲く花は氷結花、そして立ち並ぶ木々はまるで氷で形成されているかのような水晶色なのだから。おまけに生茂る葉まで透き通っているという徹底ぶりだ。原因はもはや言うまでもない。

 この地は氷雪種が荒らした場所なのだ。当然、まっとうな人間が近づく訳もなく、カナデのような世界から追放された者がひっそりと住む場所でもある。しかし、汚染者の数自体が少ないのか、今は誰が作ったのかも分からない、丸太を組んだだけの簡素な家にはカナデしか住んではいない。

 一体誰が、そしてどれだけの者がここで一人悲しく朽ち果てたのか。彼らは何を思い、何を求めたのか。

「――私と同じだろうか?」

 浮かんだ疑問がぽつりと口から零れる。意図して言葉を発したつもりはない。ただ心で処理できないものが外へと漏れただけだ。

 カナデが求めているものは心を覆う闇を追い払う光。再び心を震わせてくれるものだった。そんなものはどこを探しても見つからないのだと、ずっとそう思っていた。

 まるで暗示にでもかけられたかのように。

 しかし、変化は唐突に訪れた。今のように淡々と日課である鍛錬を続けていた時に。何の前触れもなく。

 世界を変えたのは一人の少女との出会いだった。確かな意志を感じさせる深緑の瞳を輝かせる、聖王国の姫イリフィリアとの出会いだったのだ。

(私は……どうすればいい?)

 カナデは心中で問うて、剣を横薙ぎに走らせる。

 深い闇に落ちた心に再び光を燈すために。再び歩き出すために。

 しかし、動き出そうとする心を、絶望へと叩き落とすのは忘れえない瞳。カナデに向けられた、まるで氷雪種を見るかのような、あの怯えきった騎士の瞳だった。

 助けたかった。自身の体に宿った未知なる力を使ってでも。しかし、結果は彼を追い詰めるだけだった。この穢れた手はもう誰も助けられない。

 ただ殺すだけしか出来ない者が、今さら騎士を名乗るなどいい笑い種だ。それでも花が咲いたような笑顔を浮かべる彼女はカナデを必要としてくれる。一人の人として扱おうとしてくれるのだ。

(また会えるだろうか?)

 カナデは冷えた心を温めてくれる彼女に会える事を期待してしまう。同時に再び心が折れる事を恐れながらも。

 揺れる心は、もはや数える事も不可能なほどの鍛錬によって成り立つ剣技を鈍らせていく。走る剣閃はすでに技ではなかった。ただ剣を振り回している、いや剣に振られていると言ってもいいほどに乱れている。

 自身は本当に何をしているのだろうか。自分で自分が分からなくなった、まさにその時。

「今日もやっているのですね」

 届いたのは忘れえない、待ち望んだ声だった。

(まさか!)

 漆黒の瞳を見開いて声へと視線を向けると。水晶色をした木々の間から姿を現したのは、会いたい、そう思っていた女性だった。

 いつものように眩しい笑顔を浮かべ、瞳には変わらぬ意志の光を宿す少女、聖王国の姫イリフィリアだった。そんな彼女の左右には従者である、軽装を纏う少女と、今は失われた祖国ロスティアの騎士だった男、ゼイガンが付き従うように立っていた。

 カナデと同じように祖国を失い絶望に沈んだこの男も、眼前で優雅に立つ姫に説得されて前へと進んだのだろう。戦争とは決して呼べない獣によって人が狩られるだけの、誇りも正義もない戦いを乗り越えて。今を進もうと強く願う姫のために。

(眩しいな)

 光を失ったカナデの心に浮かんだのは、そんな言葉だった。

 二人はただただ眩しかったのだ。彼らを見ていると、こんな所で腐っている自身が恥ずかしくて仕方がない。もう一度自身の誇りのために駆け出したい、そう思ってしまうほどに。

 だから、カナデは――

「あなたはなぜ……そんなにも眩しい?」

 浮かんだ想いを言葉に変えて問う。

 伝わらないかもしれない。それでも問わずにはいられなかったのだ。

「私が眩しいのは……アリシアとゼイガンがいるからよ。それに眩しいのは私だけではないわ。努力するあなたも眩しい。カナデ……あなたの剣技は私には一生をかけても追いつけないもの」

 問いを受けた姫は浮かべた表情はそのままに言葉を紡ぐ。どこか嬉しそうに、弾んだ声で。話せた事が嬉しい、そう述べるかのように。

「あなたは変わらないな、ずっと……。私は今の今まで言葉を発する事もなかったというのに」

 一度話してしまえば自身でも驚く程に言葉は溢れてきた。正直、止められる自信はない。

 おそらくようやく心の歯車が動きだしてくれたのだろう。あの日から一年。止まり続けていた心が動いてくれたのだ。彼女の想いに応えるために。

「カナデ殿。私もあなたと同じ国を失った身です。ですが……今は姫のおかげで前を向けています。あなたはまだ若い。再び歩まれたらいかがです?」

 心が動き出した事が分かったのか、姫の右側に控えるゼイガンが穏やかな声で言った。

(歩んでいいのだろうか? 光と共に。こんな私が?)

 浮かんだ言葉をカナデは口の中で転がして、結局は飲み込んだ。歩みたい、そう言えば彼らは受け入れてくれるだろうから。背を押されて一歩でも進んでしまえば、カナデは走り出してしまうだろう。この冷たい世界で、心を照らす彼女の隣でずっと。

 許されない事だと分かっていても。あの戦場で生き残ってしまった者が、救われるなどあってはならないのだ。生き残ってしまった事がすでに罪で、この穢れた力はおそらく神が与えた罰なのだから。

 進みたいけれど、進めない。相反する想いはカナデの内で暴れて、徐々に着実に心を破壊していく。

 生きる事、考える事。それらを放棄できるならばどれだけ楽か。そう思える程に鋭利な痛みが体を、心を追い詰めていく。照らされた道はすでに見えず、再び動き出した歯車が止まりかけたその時。

 救ってくれたのは、やはり心を照らす彼女だった。

「行こう、カナデ」

 掛けられたのは救いの言葉。そして、言葉と共に差し出されたのは穢れ無き白き手。繋ぐ事を求めるのは自身の汚れきった手だった。多くの者はカナデに、汚染者に触れる事を躊躇うというのに、彼女は何も恐れずに手を差し出す。

 だから信じたくなる。絆を繋ぎたくなるのだ。

「私は……私は」

 言葉を絞り出した時は視界が歪んでいた。頬に熱い雫が流れるまでカナデは自身が泣いているという事に気づく事はできなかった。なぜ涙が溢れるのか分からなかったから。

 冷え切った心を埋め尽くしているのは、心が躍り出しそうなほどの喜びなのだから。どうして悲しい時に涙が流れるのか。その理由が分からなかった。

 しかし、分からなくてもいい。そう思う事ができた。涙は止まらないけれど、不快ではなかったから。

 イリフィリアは、そしてゼイガンは言葉を待ってくれた。いきなり泣き出した自身を怪訝な目で見る事なく、ただ温かく見守ってくれた。カナデ自身が答えを見つけて、前へと進むために。

「再び歩んでもいいだろうか?」

 カナデはそんな二人の想いに応えるために、一度飲み込んだ言葉を外へと解き放つ。

「ええ」

 イリフィリアは多くは語らず一つ頷くだけだった。それでも向けられた手と、浮かべる柔らかな笑顔は全てを伝えてくれる。歩んでいい、そう言ってくれているのだ。

 迷う心はすでになかった。浮かぶ心に従ってカナデはゆっくりと握る剣を鞘へと戻し、右手を彼女へと差し伸ばす。決して切れない絆を結ぶために。

 時間にして一秒にも満たない僅かな間、想いが重なる刹那の直前。

 カナデは光を取り戻した漆黒の瞳を見開く。

 突如、眼前から殺気を感じたからである。当然、手を差し伸べてくれたイリフィリアから感じるものではない。さらにその奥。

 水晶色の木々を縫うように走る何かが殺気を放っているのだ。

(隠しもしないか)

 カナデは差し伸べた手を繋ぐ事なく、再び鞘へと戻す。そして、向けられた殺気に応えるべく騎士剣を抜き放つ。抜き放たれた騎士剣に宿るのは、一年の長きに渡って閉ざされていた闘志だった。

「カナデ?」

 突然、張り詰めた表情を浮かべたカナデに戸惑った姫は表情を曇らせる。殺気に気づいてもいない所を見ると、どうやら戦闘に関してはまるで素人らしい。

「来るよ。姫は守るから……お願い」

「分かっております」

 さすがに姫の護衛として仕える二人は殺気に気づいたようで、素早く動き出す。軽装を纏う少女は殺気へと素早く向き直り背で姫を守り、ゼイガンは二人を庇うように一歩を踏み出す。

 しかし、姫を守る事を最優先とする彼らはすぐには動かない。その間にも木々を縫うように進むのは鋭利なる殺気。

 このままの動けないのであれば、姫を守りながらの戦いとなり、不利である事は明白。

 ならば――

「私が行こう」

 カナデは進む事を選ぶ。姫と話す事も、道を選ぶ事も生き残ってからすればいいのだから。一瞬だけ待ったが静止する声はなかった。沈黙を肯定と受け取ったカナデは一つ深呼吸をして心を落ち着かせると、即座に地面を蹴りつける。

「私が回り込みます」

 動き出したカナデを見て、ようやく動き出したのはゼイガン。

 ちらりと視線を背後へと向けると、真っ直ぐに殺気へと向けて進むカナデとは違い、ゼイガンは殺気から逸れるように左側へと、殺気も音も極力抑えて、迂回していく。

(上手く連携できればいいが)

 視線を再び前方に向けたカナデは、最悪は一人で片づけるつもりで進んでいく。動きを合わせた事もない相手と連携する事は、時には仲間を殺す事がある事を長きに渡る訓練の中で身に沁みているからだ。

 歩数にして十歩。

 二度、進路を塞ぐ木々を右、左と避けた瞬間に、カナデは殺気を放つ存在へと遭遇する。

(暗殺者か。狙いは姫だろうな)

 漆黒の衣類を身に纏う男を一目で暗殺者と断定したカナデは、左手にはめた革の手袋を口で噛んで外す。

 穢れた力を使う事には抵抗を感じるが、闇に生きる者に対して手加減をしようなどとは思えないのだ。そして、自身の心を照らす光を奪う者がいるというのなら、今後は迷う事なく力を使う事だろう。

 決意を新たにしたカナデは噛んだ手袋を離すと、鋭い視線を前方へと向ける。

 まず視界に収まったのは微かな光。

 注視していなければ、決して捉える事は不可能と思える、二本の投針だった。おそらく左右の手で投擲されたであろう投針が狙うのは、カナデの右手首と、左足。

 まずは身動きを鈍らせ、そして利き手を塞ぐつもりなのだろう。

 狙いはまさに完璧。だが、見えてしまえば反応する事は容易い。

 カナデは振り上げる一閃で、手首を狙う投針を弾き飛ばし、左足を狙う投針は右へと半歩体を移す事で回避する。

 面で表情を隠した暗殺者は、投針が防がれた事に感情を示す事なく、素早く腰からナイフを引き抜くと逆手に握り地を駆けた。背を屈めて走る暗殺者の姿は、まるで戦場を貫く矢のように鋭く、両者の間合いはすぐさま縮まる。

 ――距離にして三歩。

 一歩退くか、進むかで勝敗が決まってしまうと言っても過言ではない距離。その距離をカナデは一歩進むと共に、強気にも銀閃を横薙ぎに走らせる。

 一度、甲高い金属音が鳴り響く。

 横薙ぎに走った騎士剣と、振り上げたナイフが重なった音色だ。騎士剣であれば力押しできるかと思ったが、さすがは殺す事を生業とした眼前の男は、一歩も引かずに剣を受け止め続ける。

 しばらくはお互いに様子見か。そう思った瞬間。

 先に動いたのは暗殺者。振り上げたナイフを軸にし、素早く右足を回し蹴りの要領でカナデの腹部に向けて放ったのだ。

 当然その程度の事は予測していたカナデは、ナイフへと押し付けていた騎士剣を強引に押す事で半歩下がり、空を駆ける回し蹴りをやり過ごす。蹴りを外した暗殺者は一瞬の間無防備となる。

 しかし、追撃する事はしない。

 明らかに誘っている事が分かるからだ。一歩でも踏み出せば、暗殺者の用意した策に飛び込むようなものである。

「ほう。こないか」

 今まで無口だった暗殺者は、冷静なカナデの様子を見て短く呟く。

 届いた声はどこか戦いを楽しんでいるかのように思える。常に何事にも動じず淡々と仕事をこなす暗殺者もいるが、中にはこのような戦闘狂の暗殺者も少なくはない。おそらく彼は後者だろう。

 決して出会いたくはない部類ではあるが、彼のような暗殺者は行動が、そして思考が読みやすい。そのため戦う上ではやりやすい相手であると言えるだろうか。今回で言えば、隙をついて踏み込まなかった事を評価しているように聞こえる。すなわちそれは踏み込めば何かが起こったという事である。

(何がある?)

 カナデは警戒して左右へと視線を走らせる。

 すると。

 視界を埋めたのは幾重にも渡る輝き。

 輝きの正体は騎士が扱う標準的なボウガンの矢だった。放たれた矢はカナデの一歩手前の地面を正確に抉り取る。追撃の一歩を踏み込んでいれば、今頃は貫かれていた事だろう。

「さて、化け物。この数にどこまで戦える!」

 戦闘狂の暗殺者は心底楽しそうな声を漏らして、地に刺さった矢を一飛びで飛び越えると、手にしたナイフを力任せに振り下ろす。宙に飛び上がる、そんな無防備な動きが取れるのは周囲に味方がいるからに他ならない。いや、有利な自身をあえて危機へと陥れて楽しんでいるというのが正解だろうか。

 だが、暗殺者の動きはまるで無駄という訳では決してない。

(受ければ……矢で貫かれるか)

 勢いを増したナイフを受け止めればカナデの動きは止まり、無防備な姿を晒す事となってしまう。そんな隙を木々に身を隠す騎士が見逃してくれるとは到底思えない。

 取れる手段は後方へと、守るべき対象に向けて下がる事。それが一般的な者の判断だろう。しかし、汚染者たるカナデは下がらない。

 自身の身に宿る力を使えば切り抜けられる。そう思えるからだ。

 ただ人を殺める事しかできない力を振るうカナデ。もしかすれば目の前にいる暗殺者と同類と言われるかもしれない。しかし、そう言われようとも止まるつもりはない。

 この穢れた力を使って、今度こそは守るのだ。手を差し伸ばしてくれた人を。

 ――光を。

 迷いを断ち切ったカナデは、常人には理解し難い、鋭い一歩を踏み込む。

 踏み出した決意の一歩を、面から覗く瞳で捉えた暗殺者は一瞬驚愕に瞳を見開く。下がるとばかりに思っていたのだろう。しかし、今さら驚いているようでは遅い。彼にはすでに逃げ場などないのだから。

「凍れ!」

 空気を切り裂くような鋭利な叫び声を上げたカナデは、予定通り騎士剣で振り下ろされたナイフを受け止め、すかさず左手を暗殺者の腹部へと突き出す。解放したのは普段は抑えている、穢れた力だった。

 鳴り響いたのは軽い音。物体が凍る際に鳴り響く音である。

 しかし、音はすぐにかき消される。暗殺者の耳をつんざく様な轟音に近い叫び声によって。力の発動を確かめるように暗殺者に漆黒の瞳を向けると、腕、足、腹部から槍のように鋭い氷の結晶が飛び出ていた。叫び声を上げることは至極当然だと言えるだろう。

 これが汚染者の身に宿る力。普段は衣類越しなら発動しない力も、殺めるつもりで使えば触れただけで殺せてしまう。こんなにも簡単に、人を人ならざる物へと変える事ができてしまう。

 カナデは込み上げる吐き気を抑えながらも、暗殺者の瞳を見つめる。いや、見つめざるを得なかった。暗殺者の血走った瞳は、一年前に誤って殺してしまった彼と同じ瞳をしていたのだから。

 瞳に宿るのは恐怖。まるで化け物を見るかのような恐怖に満ちた瞳だった。だが、暗殺者の瞳を見つめられたのはそこまで。氷の結晶が異形を見つめる瞳を例外なく突き破り、そして次の瞬間には負荷のかかった全身が砕け散ったからである。

 砕け散った結晶からは、一滴の鮮血すら見られない。まさに人の形をした氷が砕けただけなのだ。訪れた死は、戦いにおける汚らわしい死とは程遠い。あまりにも綺麗すぎる死に様だった。

 訪れたのは一瞬の静寂。場を満たすのは恐怖と戦慄。

 このまま恐怖で震えて逃げ出してくれればいいと、カナデは思う。

 しかし、戦いの恐怖に慣れた騎士は――

「この――化け物が!」

 声を張り上げて沈黙を、場の空気を破壊する。

 外へと放たれた気迫は矢へと変わり、空気を切り裂いていく。もちろん狙いは化け物と呼んで恐れた存在である。

「化け物か……確かにな」

 カナデは届いた言葉を囁くように独語する。

 化け物、悪魔、穢れし者。幾重にも聞いた汚染者に対する差別の言葉。

 だが、不思議と心は痛まなかった。むしろ人という存在を、あんな無残な殺し方をした己には適した言葉なのかもしれないと思ったのだ。

 以前であれば深く沈む様な言葉であっただろう。しかし、今は違う。

 再び戦う意味を、生きる意味を見つけられるかもしれないのだから。

 だからカナデは希望へと左手を差し伸ばす。五本の指と指の間で掴んだ物は、腰に固定されているホルダーに収まっている銀色のナイフ。

 伝えるのは、忌み嫌われる存在と同じ力。力を受けたナイフは一瞬で凍りつき、全てを凍らせる絶対の刃へと、その姿を変える。

 力の発動を音で捉えたカナデは、素早く一度、二度と手にした刃を投擲する。

 一回目は狙いの甘い牽制の投擲、二回目は二歩手前の地面へと向けた投擲だった。

 牽制の刃は騎士の動きを鈍らせ、本命の地へと突き刺さりし刃は抉った地面を瞬く間に凍らせ、高さ二メートル、厚さ五センチはあろう氷壁を形成せしめる。

 展開された氷壁は放たれた矢を受け止め、それと同時に即座に同一の物質へと変質させていく。透き通った水晶色の氷壁は、まるで裁縫をする際の針山の如く、無数の矢を受けても、なお揺らがずその形を維持し続ける。

 触れたものを氷の結晶へと変える力、そして地を凍らせ望んだ形へと変貌、展開させる力。この二つの力があるがゆえにカナデは、恐れず一歩を踏み出せたのである。

 当然、そんな事は一切知らない騎士達が混乱して、恐慌状態へと堕ちていくのは時間の問題だった。狙う矢は正確性に欠け氷壁以外の場所へと飛び、時折意味を成さない叫び声が聞こえてくるほどの乱れようだった。ここまで混乱すれば、もはや戦いになりはしない。

 そんな彼らにもっとも効果的なのは正面からの攻撃ではなくて、側面または背後からの奇襲である。

(頃合いか)

 カナデは揺らがない氷壁を見つめて心中で呟く。

 敵の眼前で能力を展開しての囮役は、十分に果たせたと判断したのである。

 その考えを証明するかのように、カナデに届いたのは騎士達の苦渋の叫びだった。それはこの戦いの終わりを知らせる叫び声でもある。

 左手側に迂回したゼイガンが騎士の背後へと回り、騎士に奇襲をかけたのだ。複数聞こえた所をみるとナイフかボウガンか、遠距離から攻撃できる物を用いたらしい。

 答えは分からないが、戦いの終わりを悟ったカナデは展開した力を閉ざす。

 すると眼前に高くそびえ立つ氷壁はまるで粉雪が舞うように霧散して、微かな風に乗って流れていく。しかし、カナデが確認すべきは、そのさらに奥である。

「どうやらご無事のようで」

 視線を受けたゼイガンは右手に刀身の細い騎士剣を握り、左手にはボウガンを持って佇んでいた。周囲には彼が倒した騎士の一人が苦渋の表情を浮かべて蹲っている。

 他の騎士は確認するまでもなく絶命していた。

(仲間ではない……ようだな?)

 聖王国ストレインに所属する騎士であるゼイガンが、こうもあっさりと殺すという事は国内の内輪揉めが端を発する問題ではないらしい。では、他国が放った刺客であると考えるのが自然だろが、ならばこうもあっさりと領内に侵入されているのは不自然と思える。

 何者かが手引きしたという事も考えられるが、わざわざ権力もない姫を暗殺する必要性がカナデには分からなかった。もっと他に消す必要がある者は幾らでもいると思ったからだ。例えば王ラディウス、将軍アイザックなどである。他にも優秀な貴族などが狙われてもおかしくはないだろう。

「誰の差し金です? そして、なぜ姫を」

 ゼイガンも同じ疑問を持ったらしく、蹲る騎士の首筋に剣を当てて問う。

 カナデは内なる疑問を解決させるために痛む右胸を押さえて様子を窺う。人外を超えた汚染者の力であるが、当然その発動には代償を要する。何の対価を払わずして、これだけの力が使えるなど夢物語か何かだろう。世界はそれほど都合よく出来てはいない。

 そんな冷たき世界が、カナデの代償として選んだのは、命だった。能力を使えば使う程に命を削っていくのである。徐々に体が弱っていくという訳ではなく、ただ寿命が短くなるだけ。他は至って正常である。

 カナデが知り得る知識では他に、記憶、感覚、または使う程に身が凍っていくという者もいるらしい。どれが良くて、どれが悪いなどという当たり外れはおそらくない。使う度に失っていくという条件は同じなのだから。

 しかし、今は戦いを身近に感じる戦乱の世。望むと望まざると言え力を使う機会はある事だろう。それでも国が汚染者を求めないのは、味方すら殺してしまう力だからだ。そんなものに頼るくらいであれば自国の力のみで解決させたいのだろう。

 当然、それは各国によって考え方が異なる。強制的に戦わせる国もあれば、相互で手を取り合う国もある。

 正直、今の今まで全く興味がなかったが、これからはずっと自身が汚染者である事を考え続けなければならないとカナデは思う。姫と共に進むとするならば。

「……」

 ここまで思考を進められたのは蹲る騎士が無言を貫いているからである。簡単に口を割らない所を見ると、よほどに複雑な問題が背後にあるのだろうか。

「言いなさい。言えば捕虜としての扱いをすると約束します」

 言葉を発しない騎士へと向けてゼイガンが低い声で言った。

 無断で敵国に入ったのだ、正式な捕虜として扱わずに、この場で処理されても何の文句を言う事は出来ないだろう。それでも捕虜として扱うというのだ、条件としては悪くないように思う。

 だが――

「悪いが話せない」

 騎士はその条件を受け入れる事はなかった。それだけでなく次の瞬間に騎士が取った行動は、理解の範疇を超えていた。騎士の男はあろう事か、首筋に当てられている剣を自身の首へと食い込ませたのである。

「待って!」

 カナデは叫んで一歩を踏み込む。

 しかし、声は彼に届く事はなかった。ゼイガンが握る剣は一度瞬きをする間に赤く塗られていたのだから。

 彼が死を選んだ理由は国のためか、家族のためか、それとも騎士としての誇りのためなのか。その理由は分からない。

 しかし、生きる事はできた筈なのである。戻る場所へと帰り、変わらず暮らす事も、笑う事もできた筈なのだ。彼はカナデとは違い、世界に居場所があるのだから。

「戻りたい場所にも帰れないんだな」

 カナデは鮮血によって赤く染まった短い草を見つめ、自らに言い聞かせるように言葉を漏らす。

「悲しいですが……今は戦争中です。彼のように追い詰められる事で死を選ぶ者も多くいます。こんな愚かしい事は即刻止めるべきだとは思いますが、それは許されません」

 答えなどは期待していなかったが、老齢な騎士はカナデへと真摯な瞳を向けて言った。

「そうだな。皆……必死なだけなんだ。ただ自国の発展を望み進んでいるだけ。そこに正義も悪もありはしない」

 カナデは、ゼイガンが伝えたい事を代わりに述べる。

 言葉を生み出す心は、完全に今は滅びた祖国ロスティアにいた時と変わりはしなかった。騎士として日々己の技と心を鍛えていた時と何も変わってはいなかったのだ。

「そうですね。しかし、誰かが終わらせねばなりません。それを成せる方は――ただ一人」

 カナデが述べた言葉に一つ頷いて肯定の意を伝えたゼイガンは、張り詰めた表情を緩めて柔らかい声音で言った。彼が思い浮かべる人物はわざわざ確認せずとも分かる。

 彼はすでにカナデを見てはおらず、カナデの背後を越えた、さらに奥を見つめているのだから。

「――姫様か」

 カナデは独語して、彼の視線を追うように振り返る。

 しかし、視線を向けた先には求める人物の姿はない。ただ水晶色の木々が立ち並ぶだけだった。

(彼女は……手を差し伸ばしてくれた)

 姿は見えずとも向けられた想いはカナデの心にしっかりと沁みている。薄れる事なく、しっかりと刻み込まれているのだ。決して離れる事なく。

 内から溢れる姫に対する想いを確かに感じたカナデは、一歩を踏み出す。今度は自身の想いを伝えるために。

 そう思った瞬間。

 もう何も起こりはしないと気持ちが緩んだその時。

 心を騒がせたのは一つの甲高い悲鳴だった。その声を上げた人物は、今まさに心を埋め尽くしているその人だった。

「くそっ――!」

 一度舌打ちしたカナデは、冷静にならなければならないと思いつつも地を蹴る。一瞬でも、刹那の時間でも速く彼女の元へと向かうために。

 ただ一途に、一つの想いを抱えたカナデは、ただひたすらに走り続けた。


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