第一話 (八)
氷色の瞳を埋め尽くすのは色鮮やかな真紅の輝き。
まるで世界は赤く塗られてしまったのではないか、そう思う程に紅く煌めいていた。だが、実際は真紅の光が瞬いている訳では決してない。
ただ眼前で振るわれる二振りの突撃槍が人の瞳で捉えるには難しい、刹那の速さで振るわれているだけに過ぎないのだ。
「――私の刃を止めるのか」
人の身では決して防ぎきれない刃を防がれた舞姫は視認する事が叶わない壁に吹き飛ばされながらも言葉を吐き出した。
だが、彼女はその程度で止まる事はなく目標目掛けて、鋭く地を蹴って疾走する。その動きに合わせて舞うのは鮮血色の霧。彼女の身を形成せしめる霧だった。
(……本当に同じ存在なの?)
おぞましさすら感じる霧を視界に収めた歌姫は、両手を胸の前で祈る様にして握り締める。数分前までは何とか押し返せると思っていた。
だが、すでに十回以上は弾き返しているにも関わらず表情一つ変えずに、いや、むしろさらに勢いを増して突っ込んで来る彼女は異常だと言う他にない。
(……どうすればいいの?)
その不安は一瞬だけ歌姫の眼前に展開する壁の強度を落とす。ただの人と対峙しているならば何の問題もない微かな綻び。しかし、神の領域に足を踏み入れつつある者にとっては致命的とも言える一瞬の危機だった。
当然、その好機を「血染めの舞姫」は見逃さない。
周囲に舞う霧を一つ瞬きするよりも速く突撃槍へと変えて、軽々と振ってみせたのだ。
壁にて受け止めた歌姫はもはや叫び声すら上げる暇はなかった。幾重にも駆け抜ける絶望の瞬きが視界を埋め尽くしたからだ。舞姫は与えられた名前の通りに、まるで舞いでも踊っているかのような正確さを持って、見えざる壁を確実に削っていく。
だが、歌姫とてやられてばかりという訳ではない。
舞姫が霧にて槍を形成出来るように、舞姫にも出来る事があるからだ。
――一度、二度。
振るわれる赤き刃を受け止めた歌姫は視線を舞姫へと、正確には彼女の背後へと向ける。
戦場にて舞う彼女の背後。
その場に漂っているのは白き霧。歌姫の合図を受け取った霧は一点に収束して、一つの姿を顕現させる。その姿は舞姫に懐いて、一緒について来た一匹の氷雪種。
一ヶ月前は胸に抱けるくらいの大きさだったが、今では歌姫の霧を吸い込んですっかりと成体に近い雄々しい姿となった子だ。当然、雄々しいのは姿だけではなくて。丸太のように肥大化した腕は、舞姫の頭部を砕くために勢いよく振り下ろされていく。
基本的には刃を振るわない歌姫にとっては、彼らだけが唯一の刃だと言える。先ほど「彼ら」という言葉を使ったが、呼べるのは懐いてくれた子だけではなくて、同一個体であれば五千ほどは呼べる力を保有している。
正直な事を言うならば、この世界において歌姫に敵うものなどはいないのだ。
ならば、なぜその力を使わないかと言えば。
その理由は二つある。一つは最も大きな理由で、歌姫とその中で眠る少女の意思が関わっている。戦う事ではなくて、話し合う事で刃を収めたい二人にとっては、圧倒的な武力で相手を圧倒したくはないのだ。武力で人をねじ伏せれば一時は平穏をもたらすが、時が経てば必ず新たな刃が自身と同胞たる氷雪種に向いてしまうからである。
そして、もう一つは新たな氷雪種をこの場に形作るには、自身の身を形成していると言っても過言ではない霧を消費してしまうからだ。つまりは仲間を呼ぶ事で自身の首を絞めてしまうのである。
ゆえに易々と使う訳にはいかない力だと言う事が出来るだろう。
しかし、対する舞姫は力を振るう事に迷いなどはない。むしろ力を使い果たしたいとでも言うかのように、保有する力の全てを歌姫にぶつけてくるのだ。
それを証明するかのように。
舞姫は背後から迫る氷雪種を見る事もなく、赤き瞳を氷色の瞳に重ねるのみ。もはや背後など見る気配すらない。そんな舞姫に迫るのは、氷の鱗に覆われた太い腕。
見た目は華奢な容姿をしている舞姫の細い首では、あの重量を防ぐ事は出来ないだろう。最悪は致命傷になればいい、そう思っていると。
なぜか舞姫は口元を吊り上げた。
まるで展開される喜劇を冷めた瞳で見つめ、冷笑を浮かべるかのように笑っていたのだ。
(……なに?)
当然、その理由が分からない歌姫は心中で問う。
だが、答えは刹那にも満たない時間で明かされる。舞姫の背後に霧が蠢いて、突撃槍が五本形成されたからだ。突如、この地に顕現した刃は所持者によって扱われる事無く、まるで意思を持っているかのように、今まさに太い腕を振り下ろしている氷雪種の腕、足、胴を貫いて、生きた標本を作るかのように地へと縫い付ける。
貫かれた氷雪種の体からは純白の霧が空高くへと立ち上っていく。その様を視認した歌姫は心臓を握りつぶされたかのような痛みを感じたが、今は眼前に迫る危機に意識を向けなければならないだろう。固体としての強さだけならば、明らかに歌姫を凌駕している「血染めの舞姫」を。
すでに両者の間は距離にして三歩の間合い。当然、今から氷雪種を作り出しても間に合いはしないだろう。ならば、壁にて受け止めて、あまりやりたくはないが剣での接近戦をしなければならないだろう。
そんな歌姫の考えを知ってか、知らずか。
「後方の守りはいいのか?」
どこか余裕に満ちた問いを漏らす舞姫。
しかし、後方には何もありはしない。赤き霧が蠢いているのであれば、彼女の得物が死角から飛来する可能性もあるのだが、現状では雪と白い霧くらいしか見当たらないのだ。
それでも歌姫は全ての可能性を考慮に入れて、胸の前で握り合わせていた手を解放する。それと時を同じにして歌姫の手に形成されたのは氷色の刀身を有した二振りの剣。人と戦う時は刀身を霧で隠して奇襲をするが、その程度の小細工は効かないと判断したのだ。ならば、保有する力の全てを相手にぶつけるのみ。それが歌姫の出した結論だった。
対する「血染めの舞姫」が選んだ手段は、歌姫の想像を越えていく。
真っ直ぐに突っ込んで来るとばかりに思っていた彼女は、突如としてその姿を赤き霧へと霧散させたのだ。当然、目標を失った歌姫は形成した長剣の柄を握り締めながら周囲を警戒する他に成せる事はない。こちらも霧となって距離を取るという手段もあるが、後出しで同じ事をするのはあまりにも危険だ。
(どこから? さっきのは……こちらを混乱させるため?)
全周囲を警戒したい所だが、先ほど舞姫が述べた「後方」という言葉が気になって仕方がない。それは展開している壁の効果範囲が前方と左右のみだからだ。頭上と後方は全くの無防備。それを知っているとは思えないが、一つの可能性として鎌をかけてみたのかもしれない。だが、舞姫の意図が分からない以上は考えても仕方がないだろう。
それにどうやら思考を進められるのもここまでらしい。歌姫に向けて、赤き突撃槍が迫ったからだ。舞姫が選んだのは、歌姫の左側。
そして、後方へ移動しつつあるのは赤き霧だった。どうやら左右と後方の防御を確認する気らしい。
どこまでも用意のいい敵に恐怖を感じるが、ここで消える訳にはいかない歌姫は左側から迫る一撃を壁にて受け止めて、振り向くと共に氷色の刀身を煌めかせる。
歌姫が弾き飛ばしたのは、後方に顕現し、攻城兵器に似た速度で射出された突撃槍だ。その速度と強度は人外を超えている身でも確かな効果を発揮する。それを説明するかのように一本、二本と槍を弾いた所で歌姫の両手は痛みに震えていた。もはや柄を握り締めるのも困難な程に腕から力が抜けていく。
だが、五歩程度の距離から射出された高速の槍を避ける事など到底不可能なのは明白であり、弾き飛ばす他に道はないだろう。それも自身へと触れる、刹那の直前という紙一重の一線を守りながらも。
(……これ以上は)
しかし、紙一重の一線を守り続ける事は到底不可能であり、痺れた両手では弾ききれなかった一本が歌姫の腹部を貫いて、その身を地へと縫い付ける。咄嗟に霧になって逃れようと試みたが、今までの槍とは種類が違うようで。
歌姫は指一つ動かす事も叶わなかった。
そんな身動きを取る事すら叶わない状況の中で、再び空へと形成されたのは赤き突撃槍。それを弾く方法など、今の歌姫には思いつかなかった。いや、むしろ弾いたとしても深手を負った今の状況では舞姫に勝つ事は出来ないだろう。
「ここまで……なの?」
考えれば考える程に絶望が脳内を侵食していく。
その絶望に屈して、氷色の瞳を閉じかけた時に届いたのは――
「――ソフィ!」
歌姫の内で眠っている少女の名前だった。
届いた声はどこまでも必死で、それでいて温かさを感じさせる声。その想いの正体を歌姫はまだ知らない。という事はソフィが持っている気持ちなのだろう。
ならば、今は眠るべきだと思う。届いた温かい言葉を受け取るのも、返すのも自身ではなくてソフィが成すべき事なのだから。そう決断した歌姫は眠るように、そっと瞳を閉ざした。




