第一話 (七)
フィーメア神国とクエリア神国との国境付近に広がるのは、白銀色の世界。
陽の光を吸って煌めき続ける雪が遥か彼方まで広がる雪原地帯だ。仮に地面を覆う雪が溶ける事があるならば草花が覆う平原となるのかもしれない。だが、それはこの極寒の大陸では無理な話だろう。
そんな生命とは無縁の地に蠢くのは穢れを知らない純白の霧。
世界から「氷結の歌姫」または「真っ白な少女」と呼ばれている、膝まで伸びた髪も、肌も、身に纏う薄手のワンピースですら真っ白な穢れ無き者を形作る霧だった。
(……ここに来るのは一年と一ヶ月ぶり。ソフィ、懐かしい?)
微かな風に乗って流れる霧は内に眠る少女へと声を掛ける。
しかし、少女からの返答はない。おそらく言葉では表現出来ないような感情が心を埋め尽くしており、返す言葉が見つからないのだろう。
故郷というものをもたない歌姫には、その感情はよく分からない。しかし、感覚と想いの一部を共有しているためなのか、おぼろげながら輪郭だけは分かるような気がした。
出来ればもっと人について知りたいと思う。だが、今はその望みは叶わない。歌姫とソフィがこの場に来た理由は戦いを止めるためなのだから。
もうこの世界には血も涙も必要ない。それは一ヶ月前に漆黒のローブを纏った少女と、ソフィと同じ考えを持っている姫君が教えてくれた事だった。人は戦ってしまう事はあるけれど、分かり合う事も出来るのだと。
そう教えてくれたのだから。
だからこそ、無意味に戦果を広げる者を黙って見過ごす訳にはいかなくて。
雪原に少女の姿を顕現させた歌姫は――
「あなたの目的は何? そもそも私と同じ存在なの?」
雪が疎らに舞う寒空へと、幼いようで大人びた不思議な声を届ける。
そんな歌姫が穢れ無き白であるならば、対する声を受け取った者は――
「私の目的は――生き延びる事。人という存在が私達を容赦なく殺すというのなら、私はその前に人を抹消する。私は私達の輪から外れ……あなたと同じように代表として歩く者」
眩しさすら感じさせる真紅だった。
瞳も腰まで届く髪さえも新鮮な血のように紅く、身に纏う衣類もそれに合わせたのか同色。だが、歌姫とは違い、赤き少女「血染めの舞姫」の姿はどこか不釣り合いに見えてしまう。
何が不釣り合いかと言えば、幼さが抜けない童顔な少女であるにも関わらず両手を、胸を、腰を甲冑で包み込んでいるからだ。しかも、それだけに留まらず華奢な両手には二メートルを有に超える突撃用のランスを握っている。その出で立ちはまさに騎士そのもの。今から戦争に赴くような姿だった。
見る者が見れば悪い冗談に見えてしまうかもしれないが、彼女の女性にしては低めな声は殺気すら含んでおり真剣そのもの。
言葉通りに放って置けば人と言う存在を根絶やしにするために、手にした突撃槍を振り回す事だろう。実際にフィーメア神国が放った偵察部隊は彼女によって一人残らず氷の結晶へと変えられている。どこまで強いのかは歌姫には分からないが、おそらく同等の力を保有しているのは想像に難くない。真っ向からぶつかれば最悪は相討ちとなってしまうだろうか。いや、彼女の仲間が他にいるのであれば歌姫が窮地に陥る事もあるだろう。
だとしても――
「人と私達は絶対に分かり合える。だから……信じて」
歌姫は一歩も引かない。
それどころか彼女の心に届く様に言葉をぶつけていく。数多の想いを繋げれば、きっと分かり合えると信じているのだから。
「そうしている間に固体は失われていく。私はあなたを通して……固体である事の意味を知り、そして、とある少女から世界の冷たさを教えてもらった。世界は決して……私達を受け入れない」
だが、舞姫は自身の胸に手を置いて、背筋が凍るような冷たい声を返すだけだった。
彼女も人という存在と交わった存在だが、根本的な目的も想いも別の所にあるらしい。おそらくその想いに触れない限りは、会話は平行線を辿る事だろう。
しかし、どう言葉を掛けるべきなのか。
今は同類という事でその刃が向く事はないが、これ以上刺激しても大丈夫だとはとても思えない。最悪は霧となってこの場を逃れる方法もあるが、それでは根本的な解決には程遠いだろう。
「逆に問う。あなたは何のために私の前にいる? これ以上邪魔をして欲しくはない」
そんな事を考えていると、舞姫は右手に握った刃を歌姫へと向けた。
悪い予想というものはよく当たるというのは、どうやら本当らしい。もはや一刻の猶予も許さない張り詰めた空気は、それをよく説明している。
ならば、歌姫に出来る事は一つだけで。
「――数多の想いを繋いで、ただ分かり合えますように」
どんな時でも、ただ一つの想いを胸に抱いて歌ってきたのだ。
今さら方法を変える事は出来ない。歌が心を揺らして、伝わる想いが刃を止める事をただ静かに祈って、「氷結の歌姫」は一つの歌を届ける。
「それが答えか……。だが、私は止まらない」
しかし、心を閉ざした少女には言葉も歌も届きはしない。それ所か伝わる想いを嘲笑うかのように、地を蹴った。
フィーメア神国とクエリア神国。
神国という名を冠する両国の国境に位置するフロスト雪原に現在いるのは、氷雪種に近い少女二人のみ。止める者も、加担する者もいない。
つまりは歌を奏でる歌姫は無防備なのだ。それでも伝える想いを止める事はしない。伝える事を諦めてしまえば、二度と気持ちが伝わる事はないのだから。どんな想いであっても、すれ違ってしまう事は悲しいと思う。そっと手を伸ばせば、閉ざされた心に光を届ける事が出来るのならば諦めたくはない。
だからこそ、少女は歌い続ける。これが自身の戦いだと述べるかのように。
刹那、歌に込められた想いは白銀色の粒子となって、雪原全体を煌めかせる。
しかし、光は生命を奪う事はない。それ所か歌姫の清浄なる心に触れた花々は、地を覆う柔らかな雪を易々と貫いて美しく咲き誇る。
まさに光と生命に満ちた幻想歌。
もし誰かがこの奇跡に巡り合ったのならば、そう表現するだろう。
だが、奏でられた奇跡は唐突に終わりを向かえる。全てを拒絶する凶刃が歌姫の腹部を貫いたからだ。
「あなたは甘すぎる。想いだけでは……向けられた刃を止める事は叶わない。絶対に」
「それでも、私はソフィと一緒に歌うよ。だって……あの人たちは分かってくれたから」
刃で全てを語る者と、言葉と想いで全てを語る者。
同じ氷雪種から生まれたにも関わらず考えが真逆の二人は、赤と氷色の瞳をしばし重ね合わせる。
だが、先に瞳を歪めたのは歌姫の方だった。突撃槍が深々と突き刺さった腹部から、身を形成する霧が予想以上に多く漏れ出てしまったのだ。
「――朽ちろ」
しかし、それでも手を緩めない舞姫は突撃槍を抉るように食い込ませていく。
その様は内に溜めた憎しみを発散しているようで、どこか狂気を帯びているようにも見える。このまま貫かれたままでは、残り数秒で歌姫は消滅してしまうのは目に見えていた。
それでも想いを伝えるべきか、抗うか。
「悪いけど……ここで消える訳にはいかない」
迷った挙句に歌姫が選んだ道は今を生きる事だった。自身が導き出した答えを彼女へと明確に示すために、歌姫は一度霧となって、その姿を霧散させる。
――一秒、二秒。
目標を失った赤き瞳は、周囲へと忙しなく動く。
完全に臨戦態勢に移行した舞姫を警戒した歌姫は、自身の歩幅できっかり三歩の距離を開けて、雪原に姿を再び顕現させる。
その瞬間。
舞姫は弾かれたように、地を覆う雪を踏み固めながら駆け抜けた。
一度瞬きをする間に開いた距離を埋めてしまう鋭い疾走を、氷色の瞳に収めた歌姫はそっと右手を胸の高さまで掲げて。
「――弾いて」
歌う様に言葉を紡ぐ。
雪原に響き渡った涼やかな声は一度大気を震わせて、高さ二メートルの見えざる壁を形成。目的は言うまでもなく、眼前に迫る真紅の刃を吹き飛ばすためだ。
他に力を割いていないのであれば、この壁が破壊される事はないだろう。同じ力を有していると仮定した場合に限っての話なのだが。
――刹那。
向けられた凶刃は歌姫の予想通りに、まるで馬車にでも衝突したかのように弾き飛ばされる。その吹き飛びようは、もしかすれば歌姫の力の方が勝っていると見る事も出来るのかもしれない。
これならば追い返せる。
そう判断した歌姫は、声を張り上げるために凍てついた空気を肺へと収めて。
「あなたを――追い返します!」
鋭い叫び声として解き放つ。
解き放たれた想いは眼前に形成された見えざる壁を一時強化して、真紅の突撃槍に込められた殺気を拒むように弾き飛ばした。




